よもやまバナシ集   よもやま=四方山。『さまざまな話』という意味デス。私が「へえ〜」と思った事を
                               とくに脈略も無く書いていこうと思います。今後も、ちまちまと増える予定です。


★倒幕の引き金  ★徳川家茂というひと  ★龍馬を暗殺したのは誰だ  沖田総司についての勝手な想像  ★土方歳三の写真 

★だんだら羽織の元手は


倒幕の引き金

 「1853年、浦賀沖にアメリカのペリー提督が率いる4隻の蒸気船が来航し、日本に開国を迫った」

いわゆる黒船事件です。
突然現れた巨大な4隻の戦艦を、最初に見つけたのは浦賀湾の漁民でした。
知らせを聞き、駆け付けた浦賀の海岸警備の役人達も、こんなモノがやって来るとは、
全く知らされていません。当然、民衆もだれひとり知りません。現場は大混乱です。
船は艦砲の全てを陸地に向け、アメリカ大統領の親書を将軍に渡すまで帰らない、聞き入れないなら
攻撃するぞ、と脅してきます。

 しかし、幕府にとっては本当に『突然』という訳ではありませんでした。
「アメリカの艦隊がエド湾を目指し、強行して来るであろう。」
との情報を、幕府はペリー来航の一年ほど前に、オランダから知らされ、知っていました。
しかし、この情報は公表されることも、活かされることもなく、ほとんど無策のまま1年後の大混乱を
迎えることになったのです。なぜでしょうか?

 それは250年続いた徳川幕府の世の中で、多くの官僚達は平和ボケし、利己的になり、
問題が起こると秘密にし、それが発覚すると責任のなすりあいをするような、どーしょーもない
状況になっていた事にありました。
そんな中、ひとり危機感をつのらせ、あれこれと悩む官僚がいました。時の老中首座、阿部正弘です。
若い阿部の頭の中には、ヨーロッパ諸国の武力によって植民地化された、インドや清の悲劇的な末路が
ありました。もし、日本もああなったら・・・・。
阿部はあれこれと対策を立案し、官僚閣議にかけますが、幕府官僚の意見は、
「オランダの情報はあてにならない。来るか来ないかも分からないのに、対策など無用。」
というものでした。
実際、オランダの情報であてにならないものも、今まで確かにあり、今度の米艦隊来航も、信憑性が無い、
ということになったのです。阿部は官僚という名の厚い壁にぶちあたりました。

 思い余った阿部は、最後の手段として、いままで幕政に全く参加する事のできない、しかし、諸外国の情報に
通じている、薩摩・島津、福岡・黒田、佐賀・鍋島の西南雄藩に、この情報を与え、信憑性を計るとともに
意見を求め、その力を借りて堅牢な幕臣を動かそうとしたのです。西南雄藩は、
「ペリーは来るであろう。海岸の防備を急ぎ強化すべきだ。」
と結論をつけました。阿部はこれらの意見をまとめ、幕府に提出します。
しかし、それでも幕府高官達は阿部の危機感を分かろうとはせず、無視しつづけました。
そして翌年、ペリーはついにやってきました。

 その後の歴史はこのページ内、『幕末、その時代の流れ』に書いておきますが、結果的に阿部の行動は、
西南雄藩に「自分達の意見が正しかった」と確認させると同時に、「幕府、恐るるに足らず」と、つけいる隙を
与えてしまう事になった訳です。
これが、倒幕への最初のキッカケになった、といっても過言ではないように思います。
徳川幕府を外国から守ろうとした阿部の行動が、倒幕への引き金になったとは、皮肉なものです。

徳川家茂というひと

 幕末の将軍というと、15代徳川慶喜のイメージが強いですが、私は14代将軍、家茂(いえもち)に
けっこう好意的です。
 彼は13歳のときに、大老伊井直弼によって将軍候補に担ぎあげられ、将軍に就任しました。
伊井大老はその後、『日米修好通商条約』を外国と結んだ事、また、その件に対して反発した者を弾圧する
『安政の大獄』を強行した事により、黒船以来の幕府への不信感を、さらに煽ることになりました。
そしてその結果、伊井大老自身は『桜田門外の変』で横死を遂げる事になります。
この事件で、その存在の良し悪しはともかく、伊井という大黒柱を失ってしまった幕府は、
存続を賭けた、ギリギリの局面を迎える事になりました。。
 しかし、ここからが将軍家茂のふんばりどころ、彼は幕府の立て直しを図ろうと、必死の努力をするのです。

 もはや朝廷の力を借りなければ、人心を集められなくなっていた幕府は、『公武合体政策』という、
朝廷と幕府とが互いに力を合わせて日本国を治めて行くのが良い、という方針をたてました。
その方針の一環として、将軍家茂は孝明天皇の妹宮、和宮と政略結婚します。
家茂17歳、和宮18歳のことです。政略結婚とういうと、心の無い、とても冷たく暗い感じですが、
家茂は、心から和宮を愛する事こそが『公武一和』を実現する事であると考え、和宮を本当に、
とても大切にしたそうです。なんかまず、私はこういうのに弱い・・・。良い人だなぁ・・・。

さらに政策面でも、遣米使節をアメリカに派遣したり、勝海舟からの諸外国の情報や、海軍が必要であるという
教えを素直に聞き、神戸に海軍操練所の設置を定めたりと、いろいろなものを積極的に吸収しようとする意欲が
見られます。(ちなみにこの海軍操練所には坂本龍馬も入りました。もしこの操練所が無ければ、
のちの龍馬の活躍はあったかなあ、という気もします。)
朝廷との関係にも気を使い、200年間も無かった将軍上洛を実行し、孝明天皇の信頼を得ることにも成功
したと言えるでしょう。家茂びいきになった孝明天皇は、倒幕のために朝廷内部で暗躍していた
長州藩系の勢力を一掃することにし、(818の政変)一時的に幕府の勢力は盛り返したように見えました。
スゲー、がんばってるなあ〜、という感じですが・・・・・・・・。
 しかし、残念ながらここまででした。
諸藩の反対のある中、第二次長州征伐のため、大阪城へ入った家茂は、なんとそこで急死してしまうのです。
あくまで想像ですが、今で言うストレスからくる『過労死』だったのではという気がします。享年21歳という若さでした。
 
 家茂の遺体は、大阪城から江戸城へと戻されます。遺品の中に、出発の前に和宮が頼んだ西陣織の
色鮮やかな袈裟がありました。これを見た和宮は、以下のような句を読んだといいます。
      「空蝉(うつせみ)の唐織(からおり)ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」
残された和宮も32歳という若さで没し、本人の希望により、芝・増上寺の家茂の墓の隣に埋葬されました。

 後年、勝海舟は、家茂の話となると、その年老いた目から涙が溢れて止まらなかったと言います。
子供のころから権力に翻弄され、若くして将軍となり、幕末というかつてない重い時代の責任を一身に背負って
耐えて耐えて、ついに耐えきれずに倒れてしまった青年、家茂。もしも彼がもっと長く生きていたとしたら、
維新史はもう少し違った顛末を迎えていたかもしれませんね。

龍馬を暗殺したのは誰だ

 事件があった当初、現場に落ちていた遺留品から、主犯は新撰組隊士の原田左之助であると
言われていました。しかし原田を主犯とするには腑に落ちないところがあります。
残された証拠品を見て、「これはおそらく、新撰組の原田のものだ」と証言したのが、
そのころ新撰組・近藤一派と衝突、分離し、尊攘派として活躍し始めた伊東一派の者だったからです。

実は事がおこる2日前に、伊東甲子太郎本人が、わざわざ坂本の元に出向き、「両者(陸援隊・中岡も
同席していた)を狙っている者がある。こんな所におらずに、早く土州屋敷に帰るように」と、忠告をした、
という話が残っています。その際、中岡は素直に礼を述べたそうですが、坂本は「なんじゃコイツ」と、
うさんくさげな態度だったらしく、そんな坂本の態度に、伊東は憤慨していたといいます。
まさかその腹いせに『暗殺』はないでしょうが、なーんか妙ですよね?その情報はどっから手に入れたんだ?
みたいな・・・。
坂本暗殺の件で、幕府の取調べを受けた近藤勇も、これをやったとは認めていません。
(ちなみに坂本龍馬暗殺から3日後、伊東は近藤一派によって暗殺されています。)

 しかし結局この事件は真相がハッキリしないまま、原田の仕業であると決めつけられ、土佐藩士たちに
とっては新撰組に対する憎悪をさらに深いものとさせる要因となりました。
のちに流山で捕まった近藤勇を、存命させようと提案した薩摩藩に対し、断固としてそれを許さず、
斬首の上、さらし首という屈辱的な刑を決めたのは、土佐藩士達であると言われています。
近藤にしてみれば、最初から命はあきらめていたとは言え、いい迷惑だったのではないでしょうか。

が、その後、幕末の混乱期が過ぎ、明治時代になってから真相が明らかになってきます。
もと『見廻組』の今井信郎という人が、明治に「俺が龍馬を斬った」と雑誌に発表したのがきっかけでした。
しかし当時、これはただの売名行為だという反論が多く、依然として犯人は新撰組説がずっと有勢でした。
その後、昭和になった時に、今井信郎の孫である、今井氏が『龍馬を斬った男』という祖父の話しをまとめた
本を出版しました。これにより、龍馬を斬ったのが今井であることは、ほぼ間違いないだろうという事で、
真犯人捜しは一応の決着をみせます。
しかしながら・・・・・
伊東甲子太郎が掴んだ情報は、一体どこから出たものなのか?
仲間しか知らないはずの龍馬の潜伏先が、なぜやすやすと刺客に分かったのか?
あの時期、誰が一番龍馬を邪魔だと思っていたのか?

坂本龍馬という人を思うとき、『誰にも束縛されない自由で斬新な発想を持った人』というイメージがあります。
しかし、束縛されないということは、裏を返せば、どこにいても浮いた存在であったと言えるでしょうし、
斬新な発想というものは、徒党を組む人間の中では、受け入れられない事が多いものです。
本当の龍馬殺しの黒幕は、もう今となっては分かりません。でも、せっかくの面白い人物を、早くに無くして
しまったことは、平成に生きている私にとって、とても残念な事に思えます。長生きしていたら、もっと何か、
面白い歴史を作ってくれたかもしれないのになあ・・・。

沖田総司についての勝手な想像

 永遠のナゾですねー、この方は・・・。とにかく資料がほとんど無いのです。いろんな本を読んでみても、
「これはもう前に読んだなぁ」という感じで、目新しいものはほとんど無いです。
沖田総司情報、その1、背が高く、色は浅黒く、いつも冗談を言っていて、まじめな時が無かった。
          その2、剣術は天才的で、本気になったら師匠の近藤より強かった、と言われる。
          その3、ただ、剣術指南をすると、教え方が乱暴で厳しいため、門弟達は沖田を恐がっていた。
          その4、しかし暇を見つけては、よく近所の子供達と、かくれんぼや鬼ごっこをして遊んでいた。
          その5、酒は飲むが、女遊びはしなかったようだ。
・・・・とまあ、だいたいこんな感じのものが多いでしょうか。

『まじめな時が無いほど、いつも冗談を言って人を笑わせ』たり、『近所の子供たちと、よく遊んでいた』のに、
一方で彼は、京の都を震えあがらせる程の剣客、人斬りだったわけです。こういう二面性がまた、
好奇心をそそります。本質としては、どうなのでしょう。
お笑い芸人さんはプライベートは意外と真面目で、暗い人が多いといいますよね。
学生時代に飲み会などの笑わせ役だった友人も、
実はすごい暗い性格で、影ではすんごい細かい事で、いつまでもいつまでも、クヨクヨ悩んでいたのを
思い出します。(ちなみにA型。円形脱毛症になってました)
勝手な想像ですが、もしかしたら沖田も、こういう感じだったのではないでしょうかね〜。

『剣術指南をすると恐い』というのは、年齢的に沖田が若くて、教え方がよく分からなかった、というのと、
彼は天才なので、「なんでお前はこんな簡単な事が出来ないんだ・・・?」と、他人がそれを出来ない理由が
分からなかった、ということだったのではないかと、私は想像しますが、いかがなものでしょう。

『酒は飲んだが女遊びはしなかった』・・・・どうなのでしょう。沖田は最期、結核で亡くなってしまいますが、
結核患者というのは性欲が強くなる、という話しを聞いたことがありますが・・・。
昭和ヒトケタ産まれの、私の父が若い頃結核をやっているので、その症状についてはいろいろ
聞いたのですが、性欲の話しはちょっと勇気がなくて聞けませんでした。(笑)今度、頑張って聞いてみます。

ちなみに、父いわく、『吐血する』という症状(ゲロ吐く感じに近いらしい)は、もうかなり病気が進んで、
末期に近い状態だそうです。
結核というのは、潜伏期間が非常に長く、もしかしたら試衛館にいた頃から、なんとなく体がだるく
熱っぽい、といった風邪に似た症状はずっとあったのかもしれません。

池田屋事件がドラマになるとき、必ずと言って良いほど、沖田の喀血・昏倒のシーンが出てきますが、
一緒に斬り込んでいた永倉新八は、その著書において、『昏倒』とあるだけで喀血したとは書いていません。
想像の域を出ないので申し訳ないのですが、おそらく、本格的にヤバくなりだしたのは、伊東甲子太郎らが
離脱した頃だったのでは?と私は思います。
のち、京都を離脱し、江戸行きの船に乗る頃の沖田は、もはや寝たきりで完璧な病人です。
末期の結核患者は、一度血を吐き始めると、洗面器いっぱいぐらいには、なるそうです。
それはもう、やっぱり・・・死んじゃいますよね・・・。

最後に、沖田総司という人は、資料が無いからこそ人気があるのではないかなあという気がしています。
理解しにくい、ミステリアスなもの、というのはかなり魅力的です。かくいう私もちょっとハマってます。

土方歳三の写真

 司馬遼太郎さんの有名な小説、『燃えよ剣』のなかで、函館で撮った土方歳三の写真を「現存する唯一の」
と書かれていたのが妙に頭に残ってしまいました。「そっかー、もっとあれば良かったのになあ」と思ったせいだと思います。
 ところが先日、『土方歳三資料館』にうかがった際、室内に2種類の写真が飾ってあるのに気付きました。
まじっすか、と思い、つい資料館の方に話しかけてしまいました。以下、その時の模様です。
私:「あの、これ、写真って2種類あるんですねぇ。」
資料館の方:(以下、資)「ああ、ハイ、そうなんです。こちらの全身写っているものは、土方の生家宛で、
   胸から上の写真は、佐藤彦五郎家(歳三の姉の、おのぶの嫁ぎ先)宛てに届けられたんですよ。」
私:「へぇ〜、あー、そうなんですか〜。」

雑誌や本に載っている時は、だいたい顔のアップが多い。今まで私は全身のが一枚しか無くて、それの顔の
部分を拡大して載せていると思っていたのですが、良く見ると、確かに角度が違〜う。(もっと早く気付けって)
ふぅーん、と一人納得していると、さらに驚愕の事実が!←ちょっと大げさ。

資:「でも実際はこの2枚だけじゃなくて、5〜6枚撮ったらしいですよ。まだどこかにあるかも
   知れないですね。」
ナヌ!?5〜6枚!?ま、まじっすか!?とは言え、かれこれ130年以上昔・…。
発見される可能性はゼロに等しいですよね…。五稜郭の土の中に、榎本武揚や大鳥圭介とタイムカプセルを
埋めてくれていたら、見つかるかもしれないですけど。

だんだら羽織の元手は

 新撰組といえば、『誠』の一字を染め抜いた隊旗、そしてやはり浅葱色のだんだら模様の派手な
羽織を思い出します。あのだんだら模様は『忠臣蔵』の舞台衣装からヒントを得たそうです。
そして浅葱色(ほぼ薄い水色と思って下さい)は、武士が切腹する際の死装束の色です。
『死を賭けて、(将軍家への)忠義の為に働く』という悲愴感すら漂う決意のこの羽織、実は元手は
商家からの借金によって作られました。まだ新撰組がキチンとした形をしていなかった頃、季節は初夏に
なろうかというのに、隊士達は江戸を出発した時のままの、もう擦り切れてボロボロになった綿入れを
身につけていました。おかげで隊士達が屯所とした壬生村では、壬生浪、みぶろ、と呼ばれもの笑いの
タネとなる始末。いい加減耐えられなくなったのでしょう、ついに夏物の揃いの羽織を注文すべく、
金銭の調達に、局長芹沢鴨以下8名が大阪の両替商、鴻池家(三和銀行の前身。現在は東海銀行と
合併しUFJ銀行となっています。)へ出かけました。

当時の身分証である、手札をわたし、「われらは会津侯おあずかりの京都、壬生浪士である。月末には
返済するから200両を用意してくれ」と言います。
ところが身なりは例の如くです。鴻池ではチンピラどもが来たってなもんで、金5両を差し出し、これで
ご勘弁を、と追い払おうとします。ふざけるな、と大喝したのはやはり芹沢局長あたりだったでしょうか。
驚いた鴻池は町方に捕まえて貰おうと、通報したところ、町方からは「事実であるから丁重に扱え」との指示。
びっくりした鴻池では、今までの非礼を詫び、200両を用立てし、その金でだんだら羽織を作った・・・・という
のはよく知られた話ですが、実際はちょっと違ったようです。以下、『新撰組顛末記』解説を参考にします。
 確かに鴻池で200両を借りた、という証文は残っていたそうですが、日付が「文久三亥歳七月日」と
なっています。新撰組隊士達がだんだら羽織を着ていた、という目撃情報は4月21日にすでにあり、
鴻池での借金では時期があいません。その前に作った借金という事で調べていくと、「文久三年亥四月」に
大阪・(これまた両替商)平野屋五兵衛から100両を借りたとする証文が筆写されていました。
だんだら羽織は平野屋からの借金で作られた、というのが本当のようです。
(ちなみに仕立ては京都の大丸呉服店。そんな頃からあったのか〜!)

 こんな苦労の羽織ですが、池田屋騒動以後、蛤御門の戦いあたりから着用されなくなったようです。
すでに、確固たる地位を築いていた新撰組。派手な衣装を着て新撰組の名前を売る必要が無くなったせいか、
それとも羽織を目印に標的にされて、斬りかかられたり、狙撃されたりしたのでしょうか。

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