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走る娘
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その日は朝からツイていなかった。足をタンスの角に思いきりぶつけたし、穿こうと思った靴下には穴があいていた。おまけに、長年使っていたウォークマンが壊れてしまった。
春休みで家でごろごろしている中3の娘に八つ当たりをして、家を出た。こんな日は、天気だって雨である。

電車に乗って、さて次が降りる駅だ、という時になって、携帯電話を忘れてきたことに気がついた。

家に戻らなくてはならない。駅で会社に電話をして、遅刻することを留守番電話に吹き込む。
下り電車の座席に身を投げ出してから、先に家に電話をすればよかったことに気がついた。娘に駅まで携帯電話を持って来てもらう事が出来たのだ。何もかもがうまくいかなかった。

駅に着くなり家に電話をして、駅から家に向かう途中で受け渡しができるように、今すぐ携帯電話を持って家を出ろ、と娘に指示を出す。
そして、家に向かって歩き始めた。せっかく携帯電話を持ってきてくれる娘に、ブッキラボウな態度で接する自分が想像できた。ほんとうは、そんな態度で接してはいけないのだが。

やがていつもの曲がり角が見えてきた。そろそろあの角を曲がって、こちらに来る娘の姿が見えるはずだ。と思った途端、彼女の姿が現れた。

娘は走っていた。片手に携帯電話を持ち、片手に傘をさして、走っている。

携帯電話を忘れたのは、娘のせいではなかった。彼女は何も悪いことをしていない。
それなのに「途中まで携帯電話を持ってこい」というブッキラボウな電話を突然かけてきた父親に忘れ物を届けるために、娘は走っていた。
彼女は、今や父親の姿を見つけて、私めがけて走ってくる。

私は、娘がまだごく小さい頃、遠くから私を見つけると、走ってきて私に飛びついていた頃の感触を思い出した。
中3の娘がそんなことをする筈もないが、私の体は、飛びついてくる娘を待ち構えてしまった。

待ち構えているあいだのこの幸福感を、どう表現したらよいのだろう。
娘を持つ父親でなければ味わえない幸福感かもしれない。
小さい頃は散々世話をかけたくせに、すっかり一人前のような顔をしている中3の娘。
その娘が垣間見せた、父親に対する愛情のようなもの。

娘は、携帯電話を父親に渡すと、「じゃね」と言って帰っていった。さっぱりしたものである。
もしかすると、こういうのがほんとうの親孝行というものなのかもしれない。私はその日一日、幸福感をかみしめていることができた。
全然ツイていない一日ではなかったのであった。
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