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国立病院産婦人科医
**************************** 桃戸 千
最近の平均出産年齢というものは、ずいぶん高くなっているようだ。
キャリアウーマンという言葉が死語になるくらい、バリバリ仕事をする女があたりまえになった。
バリバリ仕事をして給料もあがると、そう簡単には結婚できなくなるのもあたりまえで、
結婚年齢も高くなってきているから、おのずと出産年齢も高くなる。
医療技術もどんどん進んでいるから、多少高齢でも安心して出産できるのも要因の一つかもしれない。
私の場合は、29歳で結婚し30歳で長男を出産しているから、
いまどきの出産事情からするとそんなに遅い方ではないようだ。
息子の同級生達の母親に、年齢の近い人が何人もいるのが十分な証拠だ。
とはいえ、30歳の出産は高齢ぎみであることに間違いはない。
高齢の初産はただでもいろいろあるものだ。
わたしも塩分のとりすぎと太りすぎによる妊娠中毒症になりかけていた。
嫁ぎ先は右も左も分からぬ始めての土地だったので、
結婚してすぐ妊娠した私のために、主人の姉が実家の近所の産婦人科を決めておいてくれた。
ところがその産婦人科の医師が、とんでもない奴だったのだ。
最初は、最新の設備と、入院中の食事がとても豪華な病院だと聞かされ、大喜びだった私だが、
だんだんと担当医師の正体が見えてきた。
まず第一に、彼は自分が産婦人科医でありながら、
「産婦人科医になんかなるもんじゃない」と思っていた。
それから子供がきらいだった。そして頭の悪い妊婦はもっときらいだった。
おかげで、わたしは出産するまで、塩分制限も、カロリー制限もできない、ばかな妊婦とさげすまれた。
出産すればしたで、3200gで生んだ長男を1ヶ月検診で4500gに増やし、得意げだった私に医師はこう言った。
「1ヶ月検診で1.3kも増やしてどうするんだ。
脂肪が増えたら心臓に負担がかかるんだぞ。そんなこともわからんのか。
くしゃみがでるから、風邪か? 鼻の中にほこりが入ったって、くしゃみするんだ。
くだらん質問してる暇があったら、ちょっとは賢い母親になる勉強でもしたらどうだ。
疲れるんだよ、そういう母親の相手するのは」
これには、日ごろ温厚なわたしも、ちょいときれた。
「なんで、高い通院代と出産費用を払わされてこんなにけちょんけちょんに言われなきゃならんのだ。
こんな病院で二度と産むものかあ」
と心に誓ったのだった。
どうせなら安い病院で産もう。そうすりゃちょっと態度の悪い医者に当たったってがまんできる。
なんとも安直な考え方だけど、怒り心頭に発した女はこんなものだ。
そうして見つけた市内にある某国立病院。通院代はいままでの半分、出産費用は前回の約三分の二だった。
大喜びで二人目の妊娠に励んだ私であった。
が、なんだか、ちいとも、ハラマないのだ。
基礎体温表をつけ、まじめに子作りに取り組んでいるのだが、
1年たっても2年たっても、おなかは反応してくれなかった。
もう駄目かあ、そろそろ病院で不妊治療してもらおうかあ。と思ったころだった。
私はひどい胃炎と腹膜炎を同時に患った。
胃カメラをのみ、鎮痛剤と抗生物質を服用したその矢先、くるものが来なくなったのだ。
「えっ、まさかね。あんだけ出来なかったのに」
半信半疑で、妊娠検査薬で調べてみると、しっかり反応がでた。
「どうしよう。あんなに強い薬いっぱいのんじゃったよお・・・・」
抗生物質はまだしも、痛み止めや、胃カメラを飲む前に胃の動きを止める『ブスコバン』という、
いかにも赤ちゃんに悪そうな名前の薬を飲んだ私は不安になった。
そこで看護婦をしている知人に聞いてみた。
「ねえ、どう思う?」
すると彼女は怖い顔をして、強い口調で言った。
「ぜったい産んじゃだめ。ちょっと無責任過ぎる。子供がなんらかの障害をもったらどうするの!」
それもそのはずだ。
実は、彼女は生まれながらの奇形をもって生まれ、苦労して生きてきた。
その彼女からすれば、少しでも妊娠する可能性があるのならば薬を飲むなど言語道断。
私はやはりばかな母親だったのだ。
反省しきりの中、とにかく病院で診察してもらうことにした。
はじめて行く国立病院の産婦人科は、長男のときの病院とはほんとに正反対の病院だった。
建物は古いし、全体的にものすごく暗い。
診察室のドア横に設けられた小さな窓をあけて診察票を出す。
わたしは自分の犯してしまった過ちに後ろめたさがいっぱいで、おどおどしながら声をかけた。
「すいません。あの、初診なんですが」
「はい、じゃあしばらくお待ちくださいね」
看護婦さんはとても感じの良い人だった。
なんだかそれだけでほっとする。
診察室前の通路には、長イスがならべてあり、
たくさんの妊婦さんやら、年配の女性やらがすわって順番を待っていた。
私は雑誌を持ったまま、ページも開かずに順番を待っていた。
ようやく看護婦さんに呼ばれ診察室に入ると、中の暗い廊下に妊婦さんが一列に並んで立っていた。
まるでどこかの収容所の中のような狭い通路にずらっとならんだ妊婦。
それだけでも驚いたのに、そのあと発せられた看護婦さんの言葉に私はもっと驚いた。
「はい、そのカーテンの向こうの部屋でショーツを取って、ここに並んで下さいね」
な、な、な、なんだってぇ。
という事はこの一列にならんだ皆さんは、ノーパンなのぅ?!!
あまりの衝撃に私はめまいがした。
「安さで選んだ私がばかだった。やっぱり私はバカ母だ。ああ、バカバカ」
バチがあたったのだ。
医者が気に入らないからといって、自分の不勉強を棚にあげ、
安けりゃいいなどと安直に産院を選ぶようなバカさにバチがあたったのだ。
子供はやはり看護婦の友人が言うようにあきらめたほうがいいのだろう。
きっとここの医者もそう言うに違いない。
いや妊娠する可能性があるのに薬などのんだバカな母親をなじるにちがいない。
すぐに中絶をすすめるかも知れない。
そうなったら素直に医者の言う事を聞こう。
もう、私の頭の中は、医者が私をなじるだけなじったあと、中絶を勧告する絵しか浮かんでこなかった。
そうなった時にどうやって平静を保つかだけに神経を集中していた。
自分の番が来て診察台にのる。
看護婦さんたちはとてもやさしい。触診もいやな感じはしなかった。
「先生の診察がありますから、こちらにどうぞ」
診察室に入ると、医者が机につっぷすようにしてカルテを書いている。
私に死刑を宣告するのはこの医者か。
なんて小っこくてみすぼらしそうな医者なんだろう。
きっと微塵の情けもデリカシーも持ち合わせていない医者に決まったいる。
モジャモジャの白髪頭と背中だけしか見えない医者をながめて、私はもうままよ、とうなだれていた。
「あー、妊娠してますよ。赤ちゃんができとるで」
と言いながら振り返った医者を見て、わたしは椅子からコロゲ落ちそうになった。
「な、なんだこの人。なんかに似てる。そ、そーだ。スターウォーズのヨーダだぁ」
物も言えぬ私に医者は言った。
「2ヶ月ちょっとってところだね。12月ごろ赤ちゃん生まれるよ。うん」
「あれ、なんだかとってもやさしいぞ。まえの医者とぜんぜん感じが違うぞ」
ヨーダの容貌と、この優しい物言いに私はすこし体の緊張がとれ、素直にこういった。
「でも、先生わたし沢山お薬飲んでしまったんです」
病状と飲んだ薬の種類を言うと、医者はまたやさしく言った。
「最近の薬は、そんなに強いもの使ってないから大丈夫よ。絶対とは言えないけどね」
「でも、先生・・・わたし」
半分泣き出しそうになったわたしを見て、医者はまた机の方に向きなおった。
そして背中をみせたまま、静かにしかしきっぱりとこう言った。
「わしゃ、堕ろさんよ。堕ろすんだったら、違う病院に行ってな」
絶句した。どんな言葉より今のわたしにとって厳しい言葉だった。
しかし、それ以上に産む事こそが、自分の体に宿ったばかりの命に報いることなのだと教えてくれる言葉だった。
まさか、ヨーダからこんな言葉が出てくるとは思わなかった。
しかし、心のそこから産みたいと思っていた。
ばか母と言われてもいいから、産みたいと思っていた。
「堕ろさんよ」と言うヨーダのようなよぼよぼのじいさん先生に、後光がさしたような気がした。
病院からの帰り道、車のハンドルを握りながらぽろぽろと涙がこぼれた。
そして「この子を産もう」そう心に誓った。
それから、約7ヶ月後、国立病院の母子センターで私は長女を出産した。
娘は軽く黄疸がでたものの、他にはなんの異常もなく、
堕ろせといった看護婦の友人も、お祝いに駆けつけてくれた。
ずっと願っていた女の子の誕生に、私は幸せをかみしめていた。
これも、すべてヨーダのお蔭だと感謝した。
ところでこのヨーダ先生、やはりかなり変わっていた。
出産後一週間程度入院することになるのだが、夜中に異常があると必ずすぐに駆けつける。
その速さが半端じゃない。ものの10分ほどなのだ。
興味をもって看護婦さんに訊くと、なんと病院の敷地内に住んでいるのだそうだ。
毎朝7時の回診では、頭ボサボサでさらに妖気の増したヨーダ先生に会えた。
この先生の診察には間違いなく愛があった。
ほかのベッドのお母さんたちも口々にヨーダを讃える。あんなに愛を感じる先生はいないと。
ヨーダ先生は医学的な助言をしてくれるわけではない。
「心配せんで、ええからね」とか「だいじょぶ、だいじょぶ」とかしか言わない。
けれど、ヨーダ先生にそう言われると、なぜだか大丈夫のように感じるのだ。
元気な妊婦には、「どうする? もう退院したい?」と訊いてくる。
早い人なら3日ほどで退院を促される。
経産婦は上の子供を置いて入院している場合が多く、喜んでこれに従う。
子供を産むということは原始的なものなのだ、という考えが根底にある人だった。
たかが出産、されど出産。
ヨーダ先生と話していると、一人の人間として、母として強くなれるような気がしてくるのだった。
古びた国立病院の、よぼよぼのヨーダのような産婦人科医は、皆に愛を分け与える天使のような先生であった。
まもなく私は退院し、子育てに翻弄されることになり、やがて毎月のヨーダ先生との面会もなくなった。
今娘は7歳。もうすぐ8歳のお誕生日を迎える。
子育て戦争がひと段落した今も、ヨーダ先生のことは時々思い出す。
良い先生であったなと。
いや、良い先生であたりまえなのだ。
彼は産婦人科医になるべくして生まれてきたのだからな、と私はほくそえむ。
某国立病院母子センターには、ヨーダ先生に似せて作ったお人形がちょこんとおかれている。
おそらくヨーダ先生を慕う母親がプレゼントしたものだろう。
その人形の胸につけられた名札には、先生のフルネームが書いてある。
そこに、先生の運命が記されているのだ。
そこに記されている名前は、「○○海雄」。
「う・み・お」なのであった。
終わり