*********************************

 太鼓橋のある町 6

**************************** 桃戸 千




第五章 ミモザのひと




この町に来て十日余りがすぎた。

ちょうど春休みだったので、晶子はその大半を、

八幡様のふもとで五郎と遊んだり、本を読んだりして過ごした。

本を読むのは馬場前(ばばさき)の中に生えている一本の松の木の上に決めていた。

ななめになった松の木は、晶子が寝そべるのにぴったりで、

晶子はそこに寝そべりながら、本を読み、眼が疲れると空を眺めた。

「晶ちゃんは、本が好きやなあ。そんなにおもしろいか?」

五郎があきれていった。

「五郎君は、読まへんの?」

「俺の部屋にある本はたったの一冊だけや。それも読んだことない。

 おとんが読め言うて勝手に買って来たんや」

晶子はくすくす笑い出した。

「その本、気の毒やなあ。誰にも読んでもらえんと」



五郎はしかし、意外と物知りだった。

ツバキの花をもいでお尻から吸うと甘い味がするとか、

タラヨウと呼ばれる木の葉の裏を枝でなぞると黒くなって字や絵がかけるとか、

タンポポの茎をちぎって笛にすると意外と良い音がするとか、色々と晶子に教えてくれた。

それから五郎は動物も好きだった。野良犬も野良猫も不思議と五郎に寄ってくるのだった。

晶子は少し前に読んだ「秘密の花園」に、

植物を育てるのが上手で動物とすぐ友達になれる少年が登場することを思い出した。

「五郎君はそうや、ディコンみたいや」

晶子はディコンのような五郎がうらやましくも、眩しくもあった。

明日はいよいよ始業式だった。

いつまでも、五郎と遊んでいるわけにはいかないと思うと晶子は寂しかった。

だがこの元気な少年に寂しいとは言えなかった。

「晶ちゃん、明日いっしょに帰るか?」

ふいに五郎が尋ねた。

晶子は心を見透かされたようでドキっとした。

「ううん。大丈夫や。一人で帰れる。1年生でもあるまいし」

と言ってしまった。

晶子は後悔した。せめて一緒に帰れたら寂しくなかったのに、と思ったが後の祭りだった。





翌日、初登校の晶子は、転校生として担任から紹介された。

秋田からの転校生。背が高く大人びた雰囲気の晶子は皆に注目された。

緊張の一日が終わり、学校からの帰り道、晶子は少し疲れていた。

五郎と同じクラスにはなれなかった。何しろ、7クラスもあるのだから無理はない。

やっぱり一緒に帰れば良かったと思ったとき、不意に光がさしたような気がして顔を少し上げてみた。

すると目の前に、レモンイエローの美しい花が咲き誇っていた。

気がつくともう家のすぐ近くだった。

今朝、登校する時にここを通った時は緊張していたのだろうか、この春らしい花に晶子は気付かなかった。

レンガ造りの塀からこぼれんばかりに咲く花に晶子はしばらく見とれていた。



「今が満開やねえ、ここのミモザは少し遅咲きやから」

不意にうしろから女の人の声がした。

「杉山さんとこの娘さんでしょう。私、お隣さんなのよ。よろしくねえ」

「あ、はい」

女の人はそのまま、うふふと笑うと晶子を追い抜いて行ってしまった。

美しい人だった。手に持った日傘が、上下に揺れていた。

ベージュのロングスカートからちらちら見える素足にはいた底の厚いサンダルがとても都会的だった。

栗色の髪は肩のところでまっすぐに揃えられ、ほっそりとした手でミモザを触りながら歩いていった。

「ミモザって言うんや、この花」


『ミモザの人』


晶子の頭にそんな言葉が浮かんだ。いつか読んだ本の中にそんな一節があったような気がした。





家に帰ると父がいた。今日はレストランの定休日だった。

普段は夕食の準備を父が朝のうちに済ませ、そのほかの家事は晶子が引き受けて夜遅く帰宅する父を待つ。

父と一緒に暮らすようになって、晶子と父はそうやって日々をやり繰りしていた。



「おかえり。学校はどうだった?」

「別に。女の先生やった」

「おお、女の先生か。美人やったか」

父はいつもこんな冗談めいた会話ばかりする。

晶子と離れて暮らして二年。いつの間にか小さな女の子は多感な少女に成長していた。

父はそんな晶子に対してどう接して良いのか迷っていた。

晶子もそんな父の戸惑いを敏感に感じていた。

「知らへんわ」と言ってから、「さっき会(お)うた人の方が綺麗やった」といった。

「さっき会うた人?」

「うん、家のお隣さんって言ってた」

「ああ、澤井さんか。うん、あの人は美人やなあ。元モデルさんらしいからなあ」

「お父さん知ってるの?」

「そりゃそうや。いっつも回覧板持って行ってるからなあ。ちょうど回覧板来てるわ、晶、持って行ってきて」



澤井さんというお宅は、晶子の家の東側の道を挟んだお隣だった。

6件の家が連なった六件長屋の一番端っこの家だった。

晶子はこんな古いちいさな家にあの人が住んでいるのか、と意外だった。

呼び鈴をならすと、「はーい」と返事があった。

ガラガラと引き戸を開けて出てきたのは、まぎれもない先ほどの「ミモザの人」だった。

「あらあ、今日は娘さんが持ってきてくれたの? 縁がある日やね。

 お近づきのしるしに、あがってお茶でも飲んでいって」



澤井さんは見た目よりもずっと気さくで、晶子もすぐになついた。

一人住まいの澤井さんの家に、晶子は暇さえあれば遊びに行くようになった。

彼女は離婚暦があり、子供を前夫にあずけ、今は一人暮らしをしているらしい。

部屋に子供の写真が飾ってあった。子供と言っても、もう高校生ぐらいだろうか。

そのわりには若々しく美しい澤井さんに、晶子は憧れを抱いていた。





2ヶ月がすぎ、町はすっかり衣替えを済ませ、晶子の学年は臨海学校を控えていた。

ある日の帰り道、晶子は朝からなんとなく調子が悪かった。

腰から下がだるい、頭も痛かった。そのうちに下腹部に痛みを感じるようになった。

なんとか授業を受け家路に着いたが、なんとも気分が悪い。

「家に帰ったら横になろう」

そう自分をなだめながらどうにかこうにか自宅の前まで着いたとき

鈍痛がさらにひどくなり、貧血で立っていることができなくなった。

そのまま玄関の前に座り込んでしまった。

「晶子ちゃん、どうしたの」

振り向くと澤井さんが心配そうに覗き込んでいた。

「おなかが痛くて、気分が悪くなってきたんです」

「そうとう顔色も悪いわねえ、盲腸かしら・・」そこまで言って澤井さんは、はっと思い当たって言った。

「晶ちゃん、生理はもう来た?」



臨海学校の説明会で、女子だけ集められ性教育を受けていたので、晶子も生理に対する知識だけはあった。

「まだです」

「そう、わかった。わたしのうちにいらっしゃい」

案の定晶子は初潮を迎えていた。澤井さんが生理用品と新しいショーツをくれた。

「澤井さん、すみません」

「やあね、そんなこといいのよ。それより、お父さんに報告しないとね」

「お父さんに?! い、言わんといて。お願い。澤井さん、言わんといてね」

父に初潮の事実を打ち明けるのは今の晶子にはきついことだった。

女性への階段を一歩踏み出したばかりの晶子にとって、

二年ぶりに生活を共にするぎこちない父は、紛れもない男性の一人だったからだった。

「どうして? だって・・・」 言いかけて澤井さんはだまった。

それから晶子に

「ちょっとお買い物してくるからお留守番してて」

といって出て行ってしまった。

晶子はまだ貧血でふらふらしていたので、何も考えず横になっていた。

しばらくすると澤井さんが帰ってきた。

「はい、どうぞ。いっしょにお祝いしましょう」

テーブルの上にはお赤飯が乗っていた。

「さっ、一緒に食べよう。私、お赤飯大好きなんや。

 晶子ちゃんのおかげで好物が食べられる。ああ、うれしい」

晶子は赤飯を口に運んだ。なんだか急におかしくなってきて、あははと笑った。

澤井さんも笑った。

小さな秘密を持ち合ったことで二人はよりいっそう近しい関係になっていた。

家庭科の宿題や、料理の作り方を澤井さんに教わることは晶子の楽しみの一つになっていた。



ところがそれからまもなく、突然澤井さんは引っ越してしまった。

晶子が学校から帰ると引越しの車が出たところだった。澤井さんの姿はもうなかった。

晶子にはなんの挨拶もなかった。晶子は裏切られたような気持ちだった。

「澤井さん、私のことなんかすぐ忘れてしまうんやろなあ。」

晶子は松の木にもたれながら五郎にぐちをこぼした。

「うん、大人は忘れっぽいからなあ」

晶子はむくれた。五郎に罪はなかったが、納得はできなかった。

五郎と手を振って別れた後、晶子は太鼓橋を渡っていた。

ウシガエルがモーモーとうるさく鳴いていた。

そのとき、背中で「晶子ちゃーん」と聞き覚えのある声が聞こえた。



「澤井さん」

晶子は振り返った。スポーツタイプの車のドアが開き彼女が降りてきた。

「晶子ちゃん、何も言わないで引っ越してしまってゴメンネ」

「澤井さん、どこに引っ越したの?」

「私ね、ブラジルに行くの。結婚するの。

 ずっと悩んでたんだけどね。私も幸せになってもいいかなって思ったの。」

上気して、自分の身に起こった事を話す「ミモザの人」はいつもよりずっと美しかった。

晶子は大人の女の人の幸せってなんだろうと思った。

「子供たちとももう会えなくなるけど、わたしだんな様に付いて行くことにしたの。

 それが急だったから、晶子ちゃんにも何にもいえなくて。ごめんね」

晶子は車の運転席を見た。彫りの深いはっきりした顔立ちの男の人が晶子を見て会釈をした。

「晶子ちゃん、幸せになってね」

「澤井さんも幸せになってね」

「ありがとう。お父さんとも、もっと色々お話しなくちゃダメよ」

「うん、わかった」



澤井さんを乗せた車が走り出した。

晶子は太鼓橋の一番高いところに走って行き車を見送った。

欄干から身を乗り出して思い切り手を振った。

澤井さんとの別れはとても気持ちのいいものだった。

「幸せ」という言葉が晶子の中に自然に入ってきた。

晶子は自分まで少し幸せになったような気がした。

澤井さんと過ごした時間はほんの短いものだったけれども、晶子にとって忘れがたい人となった。

そして「ミモザの人」は、晶子が太鼓橋から見送った最初の人になった。



つづく






おまけ・・・・ミモザ


みんなで作文トップページへ戻る