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太鼓橋のある町 9(最終回)
**************************** 桃戸 千
第八章 お父さんのハヤシライス
晶子は、太鼓橋の上で五郎を見送って、しばらくぼうっと川をながめていた。
八幡様に隠れていた朝日が晶子の頬にあたった。
「そや、おばちゃんにだまって、自転車を借りてきとったんや。」
晶子はあわてて自転車を起こし、方向転換して走らせた。
「急いで帰らな」
大急ぎで四辻まで戻ると、自転車の持ち主と出会った。
「いやあ、晶子ちゃん。一体どこに行ったはったん。みんなで心配して探しとったんよ」
「ごめんなさい。自転車勝手に借りて」
「ええんよ。それよりお父さんをはよ安心させてあげて。えらい心配してはったんよ」
「すいません。ありがとうおばちゃん」
「ただいま」
玄関をあけ、声を掛けたが返事はなかった。
どうやら父は晶子を捜しに出て、まだ帰宅していないようだった。
家の中はシーンと静まり返っていた。晶子はなぜだか物音を立てないようにそうっと歩いた。
そして、自分の部屋に入って驚いた。
部屋の中の様子が変わっている。
布団がはがされ、箪笥の引き出しがみんな引き出されている。
「おとうさん・・・」
父が狂ったように部屋をかき回す姿が晶子の目に浮んだ。
「あの時と一緒や」
母が始めて家を出た時、父は両親の寝室を引っ掻き回していた。
悲しい記憶だった。頭の奥のほうが冷たくなるのを感じた。
玄関の開く音がし、どすどすと父が家の中に入ってきた。
ふりむくと、はあはあと荒く息をする父が晶子の部屋の入り口に立っていた。
「晶、どこにいってたんや、こんなに朝はように」
「ごめんなさい」
「心配するやろが。となりのおばちゃんの自転車、勝手に乗って行って。
何処に行ってたんや」
晶子は何も言わなかった。五郎とのことを簡単に口に出したくなかった。
「晶!」
しかし父の口調は容赦なかった。
しかたなく晶子は口を開いた。
「いっしょに探してくれたんや」
「なに?」
とがめるような口調だった。
晶子はその口調にむっとした。
いくら父親でも、晶子の大切な思い出を侵害する権利はないはずだ。
「五郎君、お母さんの写真一緒に探してくれたんや。
わたしうれしかった。
写真は出てきいひんかったけど、わたし、おかあさんの顔思い出せたんや。
だから、だから五郎君は大事な友達なんや」
「と、友達に会いに行ってたんか。ほんならなんでそう言わへんのや」
母の名が出て父はあきらかに動揺していた。
一瞬、父が気の毒になったが、晶子の怒りは治まらなかった。
「お父さんになんか言われへん。おかあさんやないから・・・・・・。
おかあさんやったら言えてたのに」
晶子は父の前で母のことを話している自分に興奮していた。
体が熱くなり涙声になった。言葉がぶるぶる震えた。
「おとうさんには言われへんことがあるんや。
五郎君のことだけと違う。いっぱい言われへんことがあるんや。
おかあさんにやったら、言えたのに。お母さんにやったら言えたのに」
「晶・・・」
晶子は、大声で泣き出した。
父に、こんな姿を見せたのは、はじめてだった。
父は、おんおんと小さな子供のように泣く晶子に戸惑っていた、そんなわが子に声が掛けられなかった。
そして何も言わず台所にはいっていった。
晶子はしばらくすると泣きやんだが、部屋から出られなかった。
しばらくすると父の声がした。
「晶、行って来るわな。朝飯作ってあるぞ。ちゃんと食べや」
父の声は、意外にもいつものおだやかな調子に戻っていた。
晶子は父が出かけたことを確認してから台所に行った。
サンドイッチとプリンが作ってあった。
プリンはちゃんとオーブンで焼いてあった。
バニラエッセンスの香りが台所に漂っていた。
作り立てのまだ温かいプリンを口に運ぶと、父の寂しい心が胃の中に落ちていくような気がした。
それから、5ヶ月が過ぎた。
晶子は久しぶりに雪のない冬を過ごしていた。
ある日、晶子が学校から帰ってくると父が家にいた。今日はレストランの定休日なのだった。
コーヒーをすすりながら本を読んでいた父は、本をパタンと閉じると晶子を呼んだ。
そばに行くと封筒をとりだして、卓袱台の上に乗せた。
「読んでみ・・」
封筒にはきれいな字で「杉山晶子様」と書いてあった。住所も切手も無い封筒だった。
封はされていなかった。裏を返すと差出人のところに大塚昌枝(まさえ)と書いてあった。
「誰だっけ・・・」
晶子はしばらく考え、はっとした。
大塚は母の旧姓。昌枝は母の名前だった。
晶子の「晶」は、母の一字をとったものだ。
「おかあさんや」
おもわず声にだし、嬉しそうに手紙を広げて読み出した。
晶子ちゃん、お元気ですか。
大きくなったんでしょうね。
おかあさんは、今、秋田のおばあちゃんの所にいます。
晶子ちゃんをどうしても、連れていけなくて、さぞかし辛い思いをさせたでしょうね。
お母さんもとても辛かった。
晶子ちゃん。
おかあさんと一緒に秋田のおばあちゃんの家で暮らしませんか。
おとうさんは晶子ちゃんさえよければ、好きにしていいと言ってくれています。
みんなで一緒に暮らしましょう。おばあちゃんたちも喜んでくれてます。
お返事待ってます。
母より
晶子は読んでいるうちに嬉しそうな顔を父に見せてしまったことを後悔した。
父の顔を恐る恐る覗いてみた。
父は残りのコーヒーを全部口に流しこむとしばらく口の中にためていたが、
やがてあきらめたように、ごくりと飲み込み、話し出した。
「晶、おとうさんとおかあさんな、正式に離婚したんや。
離婚が決まったらな、子供はお父さんとお母さんの、どっちと暮らすか、決めなあかんのや。
お父さんはちゃんと仕事してるし、おかあさんは秋田のおばあちゃんとこに帰っているから、
どちらと一緒に暮らすかは晶が決めたらええんやで」
そこまで一気に言うと父は小さくため息をついた。
そしてやっと晶子の目を見て言った。
「晶、おかあさんと暮らすか? 晶は女の子やから、おかあさんと暮らしたほうがええやろ」
晶子はしばらく父の顔を見ていた。
父からこんな言葉を聞くとは思っていなかった。
「ええのん? わたし、おかあさんのとこに行ってもええのん?」
「かまへんで」
父はにっこりと笑った。
晶子は急に嬉しさがこみ上げてきた。
おかあさんに会える。おかあさんと暮らせる。晶子の頭の中はもう、そのことでいっぱいだった。
だから、父の気持ちを考える隙間などなかった。
父の精一杯の思いやりと強がりを汲み取る余裕は、その時の晶子にはなかったのだ。
その日はあっという間にやってきた。
父が母と連絡を取り、学校が休みになったら、母が迎えに来ることになっていた。
晶子は朝から何度もかばんの中身を確認していた。
忘れ物はないか、身支度はこれでよいかとそわそわしていた。
父は晶子を見送る為に出勤時間を遅らせていた。
母がやってくる時間が近づくと、台所で何やら作り出した。
「ドミグラスソースの匂いや。お父さん何作ってるの?」
鍋を覗き込むと、おいしそうなブラウンのソースの中に、肉とたまねぎが入っていた。
「わぁ、ハヤシライスや。おいしそう」
「ははは、晶子はあいかわらずハヤシライスて言うてるんやな。
これはなあ、ハッシュドビーフっていうちゃんとした名前があるんやで」
父は、そのハッシュドビーフの鍋を、いとしそうにまぜながら言った。
「晶は小さい頃、ハッシュドビーフのことやっぱりハヤシライスて、言うてな、
よう『おとうさんハヤシライス作って、ハヤシライス作って』言うて、せがまれたんや。
おいしそうに食べてたなあ。
こっちの店に替ってからはな、店に断わってドミグラス持って帰らな、作られへんやろ。
そやから晶がまたせがんだら作ったろうと思うてたんやけど、結局せがまれずじまいやったなあ」
「ハヤシライス・・・。そうや、思い出した。わたし、いつも作ってって言うてた・・・・」
「そうやで、こんな美味しいモン、なかなか食べられへんで」
父はいたずらっ子のように笑った。
この父の笑顔をもう見られなくなる。晶子は急に寂しくなった。
「みんなで一緒に暮らせればいいのに」
そう思った時、玄関で呼び鈴がなった。
「お母さんや」
晶子はドキっとした。
父もすこし固くなっているのが、レードルの握り方で分かった。
「早よ、出てこい」
父に促されて、晶子は玄関に急いだ。
待ちに待った瞬間が訪れようとしていた。
3畳間の引き戸を開けると、玄関戸のガラス越しに母の黒っぽい姿が映っていた。
鍵が開いているのに玄関を開けようとしない母にもどかしさを感じつつ、
晶子は「どうぞ」と声を掛けた。
ガラガラと玄関の戸が開かれた。
黒いコートを着た母が立っていた。
晶子は驚いた。晶子の記憶の中の母は、今にも折れそうなほどやせていて、
どこかさびしそうな感じがしていたのだが、今目の前にいる母は全くの別人だった。
少しふっくらとして、髪はショートにしていた。
パーマをかけているせいか、とても溌剌としている。
「晶子ちゃん、大きくなったねえ」
母がさきに口を開いた。
「京都駅からずいぶん迷ったから、結局タクシーで来ちゃった。
いいところね。」
母の言葉に関西弁のイントネーションはなかった。
もともと秋田生まれで、結婚してからの7〜8年しか関西に居なかったのだし、
今はもう秋田に帰っているのだからあたりまえといえばあたりまえなのだが、
なんだか違う世界の人のように晶子は感じた。
晶子の思い描いていた母は、関西弁だったからだ。
ぼうっとしている晶子に、母は不安を感じたのか、
「晶子ちゃん、お母さん外で待ってたほうがいいの?」
ときいた。
すると、父がすっと晶子の横にやってきた。
「帰れ」
唐突に言った。
「なにを言ってるの、今さら」
驚いた母が、険しい表情で言った。
「うるさい。出て行け」
ピシャンと父が玄関を閉めた。
「あなた、やめて。晶子ちゃんを返して。ここを開けて」
母がガシャンガシャンと玄関戸を叩く。父は両手で玄関が開かないように押さえている。
晶子は、父が恐ろしかった。
父にさからったら自分も叱られるかもしれない。
でも今勇気を出さなければ、母ともう一生会えないかもしれない。
「おとうさん、やめて。お母さんを入れてあげて」
父は唇を噛み締めると、下を向きやがて玄関を押さえる力を緩めた。
母が玄関戸を勢いよく開けた。目の端に涙がにじんでいた。
「晶子ちゃん、ごめんね。びっくりさせて・・・」
父は母の顔を見ないように、さっと自分の部屋に入ったかと思うと、仕事着を袋に詰めて玄関に戻ってきた。
靴を履きながら、母に言った。
「昼飯、作ってあるから食ってから行け。晶の好物や」
それだけ言うと、父は仕事に出かけて行った。
晶子は内心おろおろしていた。
けれども、母にそんな姿を見せてはいけないと思った。
つとめて明るく母に話しかけた。
「お母さん、お茶がええ? それともすぐご飯食べる?
お父さん、ハヤシライス・・あっ違った、ハッシュドビーフ作ってくれたんや。
ほら、なにしてんの、あがって あがって」
母は、靴をそろえコートをキチンとたたんだ。
部屋の隅っこにじゃまにならないように荷物を置くと、「お手伝いするわ」と言った。
晶子には、母のそのひとつひとつが気に入らなかった。
晶子はもっと違う出会い方を期待していたのだ。
なんどもなんども、母との再会を思い描いた。
夢にも見た。
あまりに考えすぎて、どこまでが想像でどこまでが夢かわからないくらいだった。
でも、実際の母の姿は想像していたどのパターンとも違っていた。
「晶子ちゃん。おかあさん何したらいい?」
晶子はすぐに返事が出来なかった。全てを一度、リセットしなければならなかった。
「晶子ちゃん?」
母は不安な顔を晶子に向けた。
「あ、お母さんは座ってて。わたしもうなんでもできるんよ。
はい、お座布団。」
「ありがとう」
晶子は、お茶をだし、皿に料理を盛りつけた。
「お母さん、食べよう」
「そうね。いただきます」
「いただきまあす」
晶子は一生懸命笑顔を作っていた。
晶子の想像していた一番しあわせなパターン、
母が晶子を見たとたん父と仲直りして、この家で、3人一緒に暮らすこと、
それはさっきの父と母のやりとりで絶対に無理だということがわかってしまっていた。
だから、本当は泣き出しそうな気持ちだった。
でも、せっかく迎えに来てくれた母の前では、明るい晶子でいたかった。
「おいしいね。このハヤシライス、本当においしいね」
「そうね、お父さんのドミグラスソースはレストランをしていた当時も、とても評判がよかったもの・・・」
「お父さんて、お料理上手やもんねえ」
母はしばらくうつむくと、口元にだけ笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「お父さん、コックさんの見習いの時、よくヤケドを作ってたのよ。それも、いつも右の手首にね。
ドミグラスやホワイトソースを混ぜるのが見習いの仕事だから・・・・。
こういうソースってね、温まってくるとはねるのよ。それでやけどしちゃうの。
でも、混ぜている手を決して休めてはならないの・・・・。
おとうさんはね、痛かったとか疲れたとか、一度も言ったことがないの。
お父さん、そういうひとだったから・・・・」
「お父さん、辛抱強いもん。いまでも・・・・・そうや」
「お母さんと暮らすか?」
晶子はそう言った時の父の顔を思い出した。
父は無理をしていたのだ。
人が変わったように、母を家に入れまいと、必死で玄関を押さえていた父。
晶子は今なら、父の気持ちが理解できた。
胸が苦しかった。母に何か言わなければ、父の話をしなければ・・・。
そう思ったとき、それをさえぎるように母が話し出した。
「晶子ちゃん、おかあさんね、結婚しようと思っているの。
今すぐと言うわけじゃないのよ。でね、結婚したら東京でくらすのよ」
母は落としていた目線を晶子に合わせて、きっぱり言った。
「お母さんと、新しいお父さんと、3人で東京で暮らそう。ね、晶子ちゃん」
母は先ほどとは別人のようだった。明るい未来を語る母はいきいきと輝いていた。
「おかあさん、きれいだ」と晶子は思った。
頭の中を整理しなければ、と晶子は思ったけれども、今は母のその輝きに圧倒されてなにも考えられなかった。
そして、ただ笑顔を浮かべて、
「うん・・・・」と言うのが、精一杯だった。
食事のあとを片付けると、晶子と母は家をでた。
鍵をかけ、牛乳の箱のなかにしまった。
荷物は父が後から送ってくれることになっていた。
晶子は小さなバッグを一つ下げて、母と駅までの道を歩き出した。
四辻の地蔵様には、いつもどおり千羽鶴や、お供え物がたくさんあった。
道の途中のお地蔵さんたちは、小さく笑って晶子を見ている。
駄菓子屋さんも、薬屋さんもいつものとおりだった。
横断歩道を渡ると、五郎の可愛がっていた白い野良犬が晶子の方にやってきたが、
見慣れない母に警戒して向こうに行ってしまった。
右にカーブした道を行くといつもの場所に土蔵があり、その向こうに太鼓橋があった。
澤井さんと五郎を見送った太鼓橋。
欄干の朱色が、曇った空のせいか色あせて見えた。
「わあ、りっぱな橋があるのねえ」
母は晶子が初めて太鼓橋を渡った時のようにゆっくりと橋の上に足を乗せた。
「あら、思ったよりずっとしっかりしているのね」
母は嬉しそうだった。両手を広げ、子供のようにはしゃいで橋を渡っていた。
晶子はこのとき、母は幸せなのだと思った。
「お母さん」
晶子は太鼓橋の一番高いところで立ち止まって、母を呼び止めた。
「なあに、晶子ちゃん」
母は振り返って晶子を見た。
晶子は、小さな声で言った。
「わたし、やっぱりお父さんといる」
母の目が曇った。
「え、なんて言ったの」
今度ははっきりと大きな声で言った。
「わたし、お父さんとここに居る。お母さんとは行かれへん」
母は晶子に駆け寄り、晶子の両腕を掴んで叫んだ。
「どうして。晶子ちゃん、どうして?」
「おとうさん、かわいそうやもん」
母の濃い眉がへの字にゆがみ、何か言おうとしたが、言葉がみつからないといったふうだった。
晶子は続けた。
「新しいお父さんとお母さんと3人でくらすのも、ええなあと思うけど・・・・・。
おとうさんのハヤシライスを作れるのは、おとうさんだけやもん」
晶子の腕をつかんだ母の手がゆるんだ。
「晶子ちゃん、本当に、ほんとうにそれでいいの?」
母はまっすぐに晶子の目を見て言った。
「うん」
晶子も母の目を見つめ返して言った。
しばらく二人して見つめ合っていた。
晶子は母の言葉を待った。
けれども晶子が望む言葉は母の口からはでなかった。
そうして、母は晶子の手を離すと、
「元気でね。お父さんと仲良くね」
と言った。
そうして「うん」という晶子の返事を聞くと、くるりと回れ右をして歩き出した。
母の後姿は、泣いているようにも怒っているようにも見えた。
「おかあさん」
晶子は思わず声を掛けた。
振り返った母は、一瞬眉間にしわをよせていたがすぐに笑顔を作った。
「おかあさん、元気でね・・・」
「うん、晶子ちゃんもね」
「幸せに・・・・幸せになってね」
「晶子ちゃんもね」
母の声は途中から震えだしていた。こらえきれず向こうをむくと走りだした。
晶子は追いかけたい衝動を一生懸命おさえた。太鼓橋の欄干を握り締めた。
母は、片手で口を押さえながら小走りに駅に向かっていった。
晶子は、いつの間にか嗚咽して、声も出せなかったが、心の中でずっとずっと母に呼びかけ続けた。
おかあさん、おかあさん。
一緒に行けなくてごめんね。
お母さんの事、忘れていてごめんね。
でも、もう大丈夫。わたしはもう絶対お母さんの事忘れへん。
今日のおかあさんをちゃんと覚えとく。
わたしはおとうさんとここにいます。
それから、またハヤシライスを作ってもらいます。
映画にも行きます。
おとうさんとずっとここで暮らしていきます。
太鼓橋のある この町で。
お・わ・り
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