男がいた。
一人の男がいた。
男の人生で“いいこと”と呼ばれることは一つもなかった。
あったとしてもそれは全て毎日のように起こる“悪いこと”によって消されていった。
しかしそんな男にも支えになる人がいた。
その人がいたからこそ男は今までどんな辛いことがあっても生きてこられた。
その人がいなければどうなっていたか。男は多分この世にはいないだろう。
男にとってはその人が全てだった。
周りは全て敵に見え、口から出る言葉は全て虚偽に思えたがその人だけは違った。
男のために泣き、笑い、怒ってくれた。
他人が聞いたら笑うかもしれない。普通のことじゃないかと言うかもしれない。
だが、男にはとても幸せなことだった。生まれて初めて自分の存在を認めてもらえたのだ。
親からは虐待を受け、捨てられ、義務教育と呼ばれる場所では毎日のように暴言と暴行の繰り返し。
教師と呼ばれる人間も己の地位のために何もせずただただ言い訳を繰り返すのみ。
身体にはそれらによる無数のひどい傷と痣。その風貌は呪われているようにも見えた。
男は自分のために心から泣く人など一人もいないと思っていた。笑い方など知らなかった。
その人は男を一人の人間として接してくれた。傷だらけの身体を優しく抱きしめてくれた。
男の身体を見て逃げる人はたくさんいた。誰も触れようとしなかった。
「近寄れば感染する」 周りの男を見る目は人間を見る目ではなかった。
そんな醜い身体も全て受け止めてくれた。涙を流してくれた。抱きしめてくれた。
男が感じた初めての温もりだった。自然と涙がこぼれた。その涙はどこか温かかった。
「もし生きる意味がないというのなら私のために生きてくれ。私はお前のために生きよう。」
生きる意味をくれた。口先だけで生きる意味があるという者はたくさんいた。初めて明確な意味を見つけた。
初めて自分は一人じゃないと思えた。孤独から開放された。
うれしかった。ただうれしかった。
例えどんなことが起ころうともその人さえいれば生きていける。大袈裟かもしれないがそう思えた。
男の漆黒の闇の人生に初めて光が差し込んだ。ずっとこの生活が続けばいいと、それだけを願った。
神様はいるのだろうか?
神様がいるとしたらその男がさぞかし嫌いだったのだろう。
神様は男から唯一の光を奪った。それは非常にあっけなく。まるでゲームのリセットを押すように。
一瞬にしてまた男は漆黒の闇の世界に引きずり落とされた。
いや、昔以上の闇に叩き落された。
男は神を今まで信じていなかった。
だが今男は神の存在を信じている。
神の存在を信じずに誰を恨めばいいかわからない。それだけの理由で彼は神を信じ、呪った。
初めて人を愛した。その人を亡くした。男の精神は今にも崩壊しそうだった。
「お前の命を差し出せばその人は生き返る。だがお前は想像を絶する苦痛と共に死ぬ。」
もし悪魔がいたとして男にこの取引を持ち出したとしよう。
男はすぐにその取引を受けるだろう。迷いもなくすぐに死を選ぶだろう。
全てを失った男は死を覚悟した。
生きる意味を失った。もう自分を必要とする人は一人もいない。
なら生きていても意味がないじゃないか。そう思い男は死を覚悟した。
男には知人がいた。あまり面識もなく数回しか話をしたことがない知人。
その知人だけは男に暴行も暴言も加えなかった。だが助けも遊びもしなかった。
知人は男が大切な人を失ったことを知っていた。
もちろん男がどんなひどい人生を送っていたのかも知っていた。
知っていたというより男の身体、学園生活を見ていればそれは誰の目にも明らかだった。
知人はそれを見ているだけの自分の無力さを悔やんでいた。
そんな知人が男に声をかけた。
「死ぬなよ。生きていればいいことは絶対にあるからさ。生きるのが一番いいことなんだから。」
男は知人の顔を見つめ少し時間をかけてこう答えた。
「生きていればいいこともあるかもしれない。でもその逆もあるだろう?」
知人は何も答えることができなかった。曖昧な励ましなど意味がない。それぐらいわかっているのだ。
さらに男は続けた。
「生きるのが一番いいと僕も思うよ。でも一番を選ばない人間がいるのも事実なんだ。」
男はそう言い終えると少しはにかむように笑いながらその場から去って行った。
知人は何も言えずその場に立ち尽くしたままだった。その時知人は男の笑顔を初めて見た。
次の日になると男は死んでいた。少し笑いながら死んでいった。
その事実を知った知人は泣いた。ただただ泣いた。
昨夜見た男の笑顔を思い出した。涙は止まらなかった。
知人は己の無力さを悔やんだ。あのとき何も出来なかった自分を悔やんだ。
何故手を差し伸ばさなかった?何故身体を抱きしめられなかった?
何も言えないなら他にできることはいくらでもあるだろう?何故?何故?
知人は男を助けたかった。今まで何もできなかったぶん助けてあげたかった。
男は知らないだろう。どんなひどいことをされても強く生きてた男に知人が憧れていたことを。
知人はその日、夜まで心の底から泣いていた。
男にとっては誤算だった。
男は自分が死んでも心から泣いてくれる人などもう一人もいないと思っていたからだ。
実際知人以外で男の死を悲しんだものはいなかった。
それでも一人、たった一人だけれど自分のために泣いてくれる人がいる。
この光景を男が見たらどう思うのだろうか?再び生きる気力がでたか?いや、それはない。
なぜなら皮肉にも男が死なない限りこのことはわからなかったのだから。
男は全てが終わった後にまた一つ小さな幸せを手に入れた。
その日の夜はとてもキレイな夜空が広がっていた。
雲ひとつなく月も星も眩く輝いていた。
そんな夜に知人の頬に一粒の雨が落ちる。
その雨粒は知人の頬を伝って地面に落ちた。
それはまるで男の涙のように見えた。