粉雪のブレイジングランナー
第一走 Sense of the Spirit
「う〜ん、やっぱり焼きたてのたい焼きはおいしいねぇ」
「ったく、毎日毎日、よく飽きずに食えるな」
「うぐぅ、そういう祐一くんだって、結局毎日食べてるじゃない」
「まぁな。お互い様だな」
ボクたちは顔を見合わせて、笑いあった。ありふれた風景。3年前、ボク・・・月宮あゆと祐一
くんが恋人になってから、ずっと続いている幸せな日々。今、祐一くんは大学2年生。結構頑張
ってるみたいで、この間も何だか難しい論文を書いてた。外国の科学雑誌に送るんだとか言って
たけど、何だかよく分らないや。ちなみにボクは、水瀬家住み込みのお手伝いってとこかな。
最近は簡単な料理なら作れるようになったし、そんなに迷惑はかけていない・・・と思う。
「で、これからどうする?まだ映画始まるまでにはかなり時間あるけど」
「祐一くんにお任せするよっ」
「俺に?そうだな・・・久しぶりに俺らの『学校』でも行くか?」
「うん!久しぶりって言っても、まだ四日だけどね」
ボクたち二人の『学校』つまり市街地から少し離れた場所にある一本の切株には、今でも週に三
回以上の割合で通っている。そこで特に何かをするというわけでもない。切株に並んで座って、
おしゃべりをしたり、暖かい日には居眠りすることもある。恋人二人で、二人だけが共有してい
る大切な想いでの場所に二人っきりで居る。ただそれだけの時間が、ボクたちにとっては最高に
幸せなものなんだ。そんなことを考えながら、新芽が萌してきている山道を手を繋いで歩いた。
「ふぅ、着いたな」
祐一くんがどっかり、といった感じで切株に腰を下ろした。ボクもその隣に座る。
「えへ・・」
照れ隠しに少し笑って、祐一くんの肩に身を預けた。すると祐一くんは微笑んで、ボクの肩を軽
く抱き寄せてくれた。互いの温もりがこそばゆい。
「なぁ、あゆ」
「なぁに、祐一くん」
祐一くんの顔が、すぐ目の前にあった。
「・・・・ん」
唇が触れ合う感触。幾度体験しても、決して色褪せることのないモノ。目蓋を降ろして、キスを
続けたまま抱きついた。祐一くんの温かみが全身を包む。祐一くんは左手でボクの髪を優しく撫
でながら、もう片方の腕でボクを抱きしめ返した。
へへ、あったかいなぁ―――
まだまだ、時間はたっぷりとあった。
「う・・っぐぅ・・・・ぐすっ・・・」
「お、おい、悪かったからいい加減に泣きやめよ・・・・大げさだなあゆは」
映画が終わって、映画館に面した大通りに出てから15分歩き、いつもの商店街まで辿りついて
もまだボクは泣きじゃくり続けていた。
「だってぇ・・・ひくっ・・祐一くんが嘘つくからいけないんだよっ・・うぐぅっ」
そう。ボクがこんなに泣いているのは、全部祐一くんのせいなんだ。
祐一くんは「すごく楽しいコメディ映画があるから観にいこう」って言ってたのに、
来てみれば上映されてたのはホラー映画。人殺しの悪役が、炎に包まれて殺されるシーンなんか
すっごく生なましくて、吐き気がした。いくらなんでも、冗談が過ぎる。
「ひぐぅ・・祐一くん、ホントにボクのこと好きなの・・・?」
「あ、あぁ!そりゃもう、大好きだよ!」
「だったら、何でいじわるばっかりするの〜。うぐぅ・・・」
「え、いや、まぁなんだ。好きな子にはかえって意地悪したくなっちゃったりさ。ほら」
「うぐぅ・・」
そう言われると、あまり悪い気はしなかった。我ながら単純だとは思うけど。まぁ、祐一くんに
してみれば軽いジョークのつもりだったんだろうし、あんまり怒るのも可哀相かな。よし、今回
だけは勘弁してあげることにしよう。
「もう二度と、こんなことしないって約束するなら、許してあげる」
「う・・・・・・・・約束する」
「その間がちょっと気になるけど、約束、だよ」
「あぁ」
小指を絡ませ、指切りをした。ボクたちの間では、約束する時の儀式みたいになってる。
「じゃ、そろそろ帰ろっか。もう日が暮れるよ」
「そうだな。秋子さんも待ってるだろうし・・・って、あ」
ポン、と手を叩く祐一くん。
「悪い、俺用事思い出したわ。先に帰っててくれ」
「いきなりだね」
「あぁ。すまんな」
「・・・ボクが一緒だといけないの?」
「んー・・・いけないってこたないけど、退屈だぞ」
「何か買うの?」
「買うというか、取り寄せに行くんだよ。論文だ。ちなみに全文英語で書かれてる」
「そう」
「おう」
「・・・それじゃ、ボクは先に帰って夕飯の準備を手伝ってるよ」
「あぁ、あとでな」
手を振りながら祐一くんは雑踏へと消えていった。その後姿を見送ったのち、ボクは家路につい
た。もはや目を瞑ってでも歩けるほどに慣れた商店街を、一人歩く。そういえば、こうして一人
で道を歩くのは随分と久しぶりだ。普段外出する時は大抵祐一くんと一緒に行くし、名雪さんや
秋子さんの買い物に付き合うことも多い。一人で歩くと、普段気にも留めない様々な事象に目が
ゆく。ふと見下ろせば、アスファルトの隙間から健気にも芽を伸ばす名も知れない雑草。
見上げれば厚い雲がたちこめ、雪の予感を漂わせている。そして視線を前に戻せば、ああ、馴染
みの深すぎるたい焼き屋。そこには『タイムサービス・今だけたい焼き五割引!』とマジックで
書かれた張り紙。その張り紙が視界の後方に流れ去ったところで、ボクの脳はやっと事態を認識
した。
「――――えぇっ!?」
ギャッ、と音を立てるほどに強く踏みとどまり、同時に踵を返して来た道を数歩戻った。
「・・・は、半額・・・」
愕然とするボクに、たい焼き屋のおじさんが声を掛けてきた。
「いやぁ、あゆちゃん。ちょっと焼きすぎちゃってね。日持ちするもんじゃないから、
値段を下げてでも売り切らなきゃならないんだよ」
ボクはおじさんの声に、磁石に吸い付く砂鉄のごとく引き寄せられた。
無意識のうちに口を開き「たい焼き四つください」脊髄反射で言葉を吐き出した。
「四つもかい?さっきも買ってくれたのに」
「うぐぅ・・・名雪さんと、秋子さんと、ぴろと真琴ちゃんの・・・分だよっ」
「そうか。それじゃ、ちょっと待ってておくれ」
たい焼きを袋に詰める、おじさんの手元から漂ってくる芳香。心が揺れる・・これ以上食べたら
太っちゃうし・・・でも、あと一つくらいなら・・・でもでも、そんなこと言ってたらキリが無
くなっちゃうし・・・糖尿病とかも怖いなぁ・・
「ほいお待ち、あゆちゃん。五つで合計二百円だよ」
おじさんの声が、ボクの物思い(かな?)を遮った。ボクは温もりと重みのある紙袋を受け取り、
代金を払うために財布を取り出したところで気が付いた。
「うぐぅ?ボク四つしか頼んでないし、それに五つなら250円じゃないの?」
「お得意様にサービスだよ。持ってってくれ」
うわぁ、いい人っ!
ボクは体重のことも病気の心配も一瞬にして忘れ去った。
「おじさんありがとう!えっと、二百円二百円・・・」
財布から銀色の硬貨を二枚取り出して、おじさんに手渡そうとした、その時。
背筋に電撃が走った。
取り落とした硬貨が地面に落下して金属音を発する前に、ボクは駆け出していた。
呼び止めるおじさんの声も耳に入らない。ボクはただただ、全力で奔り抜けた。驚いて道を空け
る人々が、商店街の風景ともども視界の後方に流れて線となる。突然の全力疾走にボクの肺は悲
鳴をあげ、呼吸音も掠れてきた。それでも足は止まるどころか、更に加速を続ける。商店街を駆
け抜け、川沿いの道をひたすら進む。
「は・・・・は・・ひゅ・・・はぁあ・・・・」
ノドが痛い。肺が苦しい。ふくらはぎと太腿は今にも吊りそうで、足の裏は靴擦れを起こしてい
た。それでも止まらない、止められない。体が思うように動かない。ボクの意思を完全に無視し
て、勝手に動いている。
「あ・・は・・ぁ・・・・・・・・・・ぁ・・ぅ」
だんだんと意識が遠のいてゆく。視界も靄に包まれたかのように、真っ白になった。
「ぅ・・・・ぐ・・ぅっ」
第二走 Where is the fire?
目蓋の間から差し込んでくる薄明かりに、ボクは目を開けた。
「・・・?」
ここは・・・祐一くんの部屋?
気が付けばボクはベッドに寝ていて、服もパジャマに着せ替えられていた。首を捻ると祐一くん
の姿があった。眠っている。両膝は床に、上半身はボクの上に突っ伏すような体勢でだ。
そこでふと時計に目をやると、朝の7時を回っていた。
「祐一くん、祐一くん」
軽く揺さぶりながら名前を呼ぶと、祐一くんは少し唸り、それから、はっと気が付いたように身
を起こした。
「あゆ、起きたのか?」
「うん。ありがと、祐一くん」
頭がはっきりしてくるにつれ、昨日の出来事が思い起こされる。ボクはつまずいて倒れて、その
まま起き上がれなくなっちゃったんだ。準備運動もせずに、長距離走の距離を短距離走のスピー
ドで駆け抜けたんだから当然そうなるに決まってるよね・・・。そして、まだ雪が残る地面の冷
たさに意識を奪われた。
「昨日は驚いたよ。いきなりあゆが倒れてるんだからな」
「心配かけてごめんね」
「あぁ。まったくだ。もし俺が助けなかったら、おまえ凍死してたぞ」
「うぐぅ・・・・ホントにありがとう、祐一くん」
「ま、無事だったんだからいいけどな・・・」
祐一くんはボクの前髪を手で避けて、額にキスをすると、続けた。
「それにしてもあゆ、どうしてあんなところで倒れてたんだ?」
「ボクが聞きたいよ、それ・・・」
ボクがことの顛末を(覚えているところまで)話すと、祐一くんは腕組みをして考え始めた。
眉間に皺を寄せて、難しい顔をしながらボクの瞳をみつめて・・・やがて、口を開いた。
「なぁ、あゆ」
「なぁに」
「・・・・いや。とりあえず今日はゆっくりしてろよ。メシ食えるよな?持ってくるから」
バタン。それだけいうと、祐一くんは部屋の外に出て行ってしまった。
「あ・・・」
うぐぅ、祐一くんには何か心当たりがあるみたいだけど・・・教えて欲しいな。
きっかり十分後、祐一くんは戻ってきた。手にはお盆に載せられた朝食。湯気を上げるご飯に味
噌汁、醤油のかけられた玉子焼き。
「体中ちょこちょこ怪我してるみたいだけど、一人で食えるか?」
「うぐぅ?」
聞かれて初めて、所々痛む箇所があることに気が付いた。両足の筋が張っている。足の裏も皮が
剥けてしまったのか、ひりひりする。また、これは転んだときにぶつけたのだろう、鼻の頭が少
し熱くなっていた。それでも、食事をするのに必要な両手と口は無事だったので
「うん、大丈夫だよっ」
とりあえず元気な返事をしてみた。
「ん・・・そっか。それじゃ、熱いから気をつけて食えな」
祐一くんからお盆を受け取る。味噌汁に口をつけると、何時もとは少し違う味が口中に広がった。
これは―――
「祐一くんが作ったの?今日の朝食」
「おぉ、よく分ったな。さすがは俺の恋人だ」
祐一くんは歯をむき出して笑った。
「で、味の方はどうだ?俺的には割と上手くいったなーって思うんだが」
「うん、おいしいよ。それに・・・とっても嬉しいよっ」
祐一くんは、何時だってボクのことを気にかけてくれるんだもんね。
「そっか」
軽く頭を掻きながら、祐一くんはワン・ショルダータイプの鞄にバインダーやフロッピーディス
クを詰め込み始めた。
「今日も大学?」
「ああ。でも3時限目だけだから・・・あと、寄る所がある」
「寄る所?」
「そうだ・・・・・俺が帰ってくるまで、ぜっったいにこの家から出ないでくれよ?」
祐一くんは、何時になく真剣な顔で念を押した。きっと昨日のボクの行動について、何か心当た
りを当たってくれるんだろう。
「わかった。絶対に出ないよ」
「約束、するな」
「約束、だよ」
小指を絡めて、ゆびきりげんまん。
「・・・それじゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい・・・お世話かけます、祐一くん」
お辞儀をすると、祐一くんはいきなりボクの顎に手を当てて顔を起こした。
「わっ・・」
そして唇が重ねられる。唇を割り、祐一くんの舌が入ってきた。
「んっ・・・・んうぅ・・・・・」
暫らくして祐一くんが顔を離すと、二人の唇の間に細い唾液の橋が伝った。
「馬鹿」
「え・・・」
「いちいち気にするなよ。大した手間じゃないし、それに―――」
こほん、と咳払いを一つして、
「俺は、お前の恋人なんだからな」
それだけ言うと、祐一くんは背を向けて出て行ってしまった。
ドアをくぐる際にちらりと見えた頬は、赤く染まっていた。
「・・・・・・」
ボクは部屋に一人残される。
「・・・・・・・・・・えへ」
口元が、にやけた。
祐一は講義を聞き終えると、荷物をまとめて階段教室から飛び出した。向かう先は、高校来の友
人の所だ。彼女なら、この事態を解決してくれるに違いない。校門を出て、右に曲がる。バス停
に留まっていたバスに飛び乗り、整理券を取る。四つ目の停留所でボタンを押し、料金をもどか
しい思いで支払った。下車した。
「・・・っと」
彼女の家には一度きりしか行ったことがない。しかもその家は住宅街の奥まった場所にあり、道
順の記憶があやふやだった。だが、今は探すしかない。大体の方角は覚えている。祐一は走り始
めた。
「頼むぞ・・・」
大通りから細い道へ、路地を抜けて住宅街へ。似たような建物が立ち並ぶ住宅街の中から、目的
の家ただ一軒を最も早く探し出す方法はなんだろうか、やはり端から順番に回っていくのが間違
いないか?
「あら?相沢さんじゃないですか?」
突然後ろから掛けられた声に振り向く。そこには女神がいた。
「天野!」
祐一は駆け寄り、彼女の両手をがっしと掴んだ。
「な、なんですか?相沢さん」
「助かった。今お前に会いに行こうとしてたんだよ」
「えっ・・・」
「お前、確か詳しかったよな?頼みがあるんだ。大至急」
「・・・何の、ことでしょうか?」
怪訝な顔をする天野。
「とりあえず、歩きながら話させてくれ。今は一刻でも惜しいんだ。これから時間あるか?」
「ええ、構いませんけれど・・・」
俺たちは急ぎ足でバス停へと向かった。
「―――なんだが。何か心当たりあるか?」
バスに揺られながら事情を説明し終えると、天野は簡単に即答してくれた。
「サラマンダー」
「サラマンダー・・・って、あのトカゲみたいな奴のことか?」
昨日見たホラー映画にも出てきた。確か炎の精で、火中に住んで焼けないとか・・・。確か主人
公はそいつの力を借りて、猟奇殺人の犯人を焼き払ったのだ。その精が、あゆに何を?
「・・・の眷属のこわっぱが、あゆさんに何かの拍子で憑依したんだと思います。
それで体が勝手に・・・暴れるのが大好きな、荒々しい性格ですから。あの一族は」
「どうして小物だと判る?もしかしたらサラマンダーかも知れないだろ」
俺の疑問に、しかし天野は首を振った。
「もし、本物のサラマンダーに憑依なんてされたら・・・肉体が蒸発しますよ。
とてもとても、普通の女性が受け止めきれるような精じゃありませんから・・・それに、万が一
受け止めきれたとしても、サラマンダーがその程度で済ませるとは思えません。体力が尽きたか
らって、全然気にしないで動き続けるでしょう。」
「そ、そうか・・・とにかく、除霊を頼んだぞ」
「はい。相沢さんの頼みですから。頑張ります」
「サンキュな」
それにしても、我ながらなんてうさんくさい会話をしてるんだ。3年前の俺なら、霊の存在なん
て鼻で笑って信じなかっただろう。でも、今は違う。俺がこの街に帰って来たとき、病院で寝て
いたはずのあゆは実体として俺の前に現れ、二人で手を繋いだり、抱きしめあったりしたのだ。
そして彼女は一度は消えてしまったものの、再び俺の許に帰ってきてくれた。あの時以来、俺は
『魔法』とか『聖霊』『精霊』の類について、真剣に考えるようになった。天野が、霊、特に霊
憑依について詳しいことを知ったのもそれからだ。図書館で調べ物をしている天野を発見し、ち
らと手元の書物をみたら『魔法の歴史』と皮の背表紙に書かれていたのだ。そこで話しかけた俺
は、彼女の豊富な知識、霊体験について知ることとなる。どうやら、彼女は一時期一匹の精霊と
共に生活をしたことがあるらしい。だがその精霊は、天野が思いを深めたと同時、消えてしまっ
た。その時「もうこんな思いは二度としたくないし、誰にもさせたくない」と考えた天野は書物
の海に身を投じることになる。古今東西の様々な資料をかき集め、必死で勉強した。それから、
時は経ち。今では彼女は、俺の知る限り最も有能な霊の大家となった。除霊術、交霊術、さらに
は降霊術さえも使うことができる。俺はその天野から、以前霊憑依についてのレクチャーを受け
た事がある。それによると、霊憑依によって起る事象のうちで最もポピュラーなのが
「自分の体が意思に反して動く」ことだそうだ。走りたくも無いのに、足が棒のようになっても
止まれなかったというあゆの話を聞いて、俺はそのことを思い出したというわけだ。
「・・・ところで、念のために聞きますが」
「なんだ?天野」
「もしかして、今・・・月宮さんはお一人でいますか」
「・・・名雪に留守を頼んでおいたけど?」
「女性一人だけですか」
「あ、あぁ」
マズかったのか?やはり、多少無理をしてでも一緒に連れてくるべきだったのか。
「・・・急ぎましょう。何時また月宮さんに憑依した霊が暴れ出すかもわかりませんから。
その時、水瀬さん一人で止められるとは思いません」
「お、応。そうだな」
丁度その時、バスは商店街前の停留所に到着した。俺は天野の代金も含めた千円札を支払い、「釣
りはいらないから!」と運転手に告げてバスから飛び降りた。
「・・・少し、遅かったようですよ」
「くっ」
人ごみの向こうから、名雪のものらしき叫び声が聞こえて来る。
「待ってよ〜〜〜!!」
どうやらあゆに取り付いたサラマンダーの眷属が、再び活動を始めたらしい。
「こちらも全速力です、相沢さん。これ以上はあゆさんの体が持ちません」
「判ってる!」
返事をするやいなや、俺たちは声が聞こえる方向に駆け出した。ちらと横を見ると、天野の足は、
俺の全力疾走に負けずに付いてきていた。頼もしい。
待ってろよ、あゆ。今行くからな!
第三走 Brazing runner
ボクの体・・・どうしちゃったんだろ・・・・・ボクの言うこと聞かなくなっちゃった・・・
祐一くんが帰ってくるまで、絶対に家にいるって約束したのに・・・名雪さんにも迷惑かけて・・・
うぐぅ・・・・嫌だよ・・・もう疲れたよぉ・・・止まりたいよう・・・・・休みたいよう・・・
助けて、祐一くん・・・・
あゆを追いかけてゆくと、すぐに名雪と合流できた。
「あ、祐一〜。大変だよ、あゆちゃんが・・・」
「わかってる。早く捕まえないとな」
「うん・・・あれ、そっちの子は?」
「天野美汐と申します。真琴の親友ですよ・・・
今回は月宮さんのことで、助っ人を頼まれてきたのですが」
走りながらする会話は、声が後ろに流れてひどく聞き取りづらい。天野の低い声ではなおさらだ。
それでも名雪はなんとか大筋を理解したらしく
「助っ人?」
と怪訝な顔で聞き返した。だが、何も知らない名雪に真相を話しても、信じてもらえるとは到底
思えない。
「名雪、済まないが説明はあとだ。今はあゆを止めることに集中してくれっ・・
くそ、それにしたって異常だぞあの速さは!?」
こうしている間にもあゆはどんどん遠ざかり、視界から消え失せようとしていた。
もし見失ったら、再発見は困難を極めるだろう。
「くっ・・・天野、何かいい手はないか?」
「誰か、お知り合いに100メートルを7秒程度で走れる方が居ましたら、大至急来るように言
ってください」
「わかった!名雪、頼むぞ!」
「無茶だよ〜。あれは冗談だよ〜〜」
あゆの姿は米粒ほどに小さくなり、次の瞬間、見えなくなった。
その頃、喫茶店「百花屋」の窓際席では、二人の少女―――川澄舞と倉田佐祐理が、仲睦まじく
午後のティータイムと洒落込んでいた。
「あはは、たまにはイチゴサンデーもおいしいね、舞」
「・・・相当に嫌いじゃない」
「こうして、舞と二人でお茶してる時間が、佐祐理は大好き」
「・・・・・・私も」
大親友二人は、顔を見合わせて微笑みあった。そして何気なく外に目をやると、粉雪が舞い始め
ていた。
「綺麗だね、舞」
「はちみつく・・・・・」
突如二人の視界を、およそ人間の常識から外れた速度で駆け抜けてゆく者があった。
可愛らしい童顔に、凄絶な表情を貼り付けた少女。彼女は一瞬で現れ、そして一瞬にして消えた。
「はえ〜〜」
「・・・・・・」
佐祐理は驚きの声を上げたが、舞は沈黙を保ったままだった。
「凄い速さだったね、舞」
声を掛けても、舞から返事は無い。鋭い視線を少女が消えて行った方向に注いでいる。
「・・・舞?」
「・・・・・・・・・・・・魔物・・・・・・・・・・?」
「え?」
「佐祐理は、先に帰ってて」
「ど、どうしたの舞?」
「魔物ッ!」
短く叫ぶと、舞は椅子から迅速な動作で立ち上がり、店の外に飛び出していった。一人取り残さ
れた佐祐理は、ただただ呆然とするばかりだった。
体が、燃えるように熱い。まるで限界まで回転数を上げたエンジンのように、焼け付く心臓。
人体の冷却ファンたる汗腺はもはや機能しない。噴出す汗は片端から蒸発し、皮膚の表面に白い
粉を残すばかりだった。限界が、近づいていた。
「祐一・・・・・・・・・く・・・・・・・・・・ん」
第四走 Ghost busters
がつっっっっ!!!!
「うぐぅっ!??」
意識が飛ぶ寸前、強烈にみぞおちが圧迫された。一気に目が覚める。
「ごほっ、げほっっ・・・・」
「あ」
呼吸が出来ず、地面をのた打ち回るあゆ。
「・・・・ごめん」
高速で奔るあゆに後ろからタックルを掛けた張本人、舞は申し訳なさそうに俯いていた。照準を
あやまり、腰を掴むつもりがうっかりみぞおちに手を回してしまったのだ。
「大丈夫?」
舞はとりあえず、あゆを抱きかかえ、背中を優しくさすった。暫らくそうしていると、後ろから
祐一らが追いついてきた。
「あゆ・・・って、舞?」
「あ、川澄さん・・・」
「祐一・・・この子、どうしたの?」
「いや、大変だったんだよ・・・舞、大手柄だぞ」
舞の腕の中で苦しげに呻くあゆ。祐一と天野がその許にしゃがみ込んだ。頬を軽く叩くと、あゆ
はぼんやりとした目を祐一に向けた。
「・・・ん・・・・祐一・・・・・・くん?」
「あゆ、大丈夫か?舞が助けてくれたんだぞ」
「う・・・ぐぅ」
あゆは弱弱しくうなずいた。とても「大丈夫」そうには見えない。早急な治療が必要な事は、素
人目にも明らかだった。
「よし、今俺が病院に連れてってやるから・・・」
「待ってください」
あゆを背負おうとした祐一を、天野が手で遮った。
「その前に除霊です。まだ月宮さんには、サラマンダーの眷属が憑依しているんですよ」
「そ、そうだったな・・・天野、任せた」
「はい。・・・・・・ぅぅぅ」
天野は目を閉じ、静かに息を吸い始めた。除霊には細心の注意が必要なのだ。うっかり集中を途
切れさせると、霊の苦しみの想念が被霊憑依者の体に現れ、地獄の苦しみを味わう事となる。体
力の弱まったあゆには、致命的なほどの苦しみを。
「ぅぅぅ・・・・・おや?」
きょとん、と天野は目を丸くした。
「どうした?」
「いえ、その・・・精霊が居なくなってます。月宮さんの体から」
「何ぃ!?」
「・・・うぐぅ?精霊・・・・?」
「あゆには一度、説明した方がいいか・・・名雪と舞も信じてくれ」
祐一はサラマンダーの眷属の精霊があゆに憑依したことや、あゆが体の自由を失ったのはそれが
原因であることなどを出来る限り完結に説明した。所々、天野が注釈を入れた。説明を終えると、
舞が口を開いた。
「・・・あの時かもしれない」
「それは?」
「・・・魔物の気配を感じたから。追いかけて、後ろから捕まえようとした」
「それで」
祐一が続きを促す。
「・・・・・・失敗して、みぞおちを強打してしまった」
「その拍子に、あゆの体から精霊が飛び出した・・・ってことか?」
天野の反応を伺うと、天野は珍しく微笑んで、言った。
「・・・有り得なくはない、と思いますよ。たまにはそんなことも。
いいじゃないですか。月宮さんが助かったんだから」
「ん・・・ま、そうだな。舞、助かったよ」
「・・・うん」
「うぐぅ・・・助かってない・・・お腹痛いよう・・・」
タッタッタッタッ・・・・
と、後ろから響いてきた足音に、皆が振り返った。
「はぁ、はぁ、はぁ・・・・・・舞、いきなりどうしたの〜〜〜」
慣れない運動にへとへとになった、佐祐理であった。
競技終了 Cause of the accident
あゆは数日の入院の後、元気に退院した。退院祝いは、秋子さんの手作りたい焼きパーティーで
あった。天野、舞、佐祐理も招いて盛大に行った。秋子さん新作ジャム入りたい焼きが披露され、
舞、天野の両名がひどく気に入ってしまうなどのハプニングもあったものの、パーティは朗らか
な雰囲気のままに終わりを迎えようとしていた。
「いや〜、舞と天野には世話になったよ。名雪もサンキュな〜」
「いいよいいよ、イチゴサンデー2杯で・・・でも、なんであゆちゃんに
炎の精霊なんかがとりついたんだろうね」
「うぐぅ、知らないよ。天野さん、どうしてだと思う?」
「そうですね・・・精霊、特にそこらじゅうをウロウロしている小物は心の弱みに
付け込んで憑依するのがほとんどです。サラマンダー級の大精霊ともなれば別ですけど、
普通の精霊は正常な人の心にいきなり入り込むほどの力を持ち合わせていませんから・・・
月宮さん、最近、何か火に関することで怖がったり、おびえたりはしませんでしたか?」
祐一は気づかれないよう、こっそりと部屋を抜け出すためドアへ向かって歩み始めた。
「何処へ行くの」
舞に首根っこを掴まれた。
「うーん・・・あ!この間祐一君と一緒に映画を見に行ったんだけど」
「うぁぁあ」
「悪役の殺し屋さんが、炎に包まれて悲鳴をあげながら死んでいくシーンがあって・・・
怖くて泣いちゃったよ」
「ああその時ですね。きっと。小さな精霊は何処にでもいますから・・・」
「ふ〜ん・・・祐一くんのせいかぁ」
「うあぁああっ!許してくれあゆぅぅっ!!」
祐一は土下座して、額を床に擦り付けた。あゆは天使の笑みを浮かべて、優しく語りかけた。
「許すも許さないも、ボクは最初っから怒ってなんかいないよ。
祐一くんだって、まさか精霊がボクにとりつくなんて思わなかっただろうし」
「あゆ・・・」
「だから」
あゆは、ピッ、と指を一本立てた。
「これから一年間、ボクにたい焼きをおごり続けるだけで許してあげるよっ!」
「やっぱりぃいいいっ!!」
水瀬家に、祐一の絶叫が響き渡った。
完