Fish&Tips〜霞ヶ浦編〜
試験終了を告げるチャイムの音とともに、少年は静かにシャープペンシルを置いた。
答案を裏返し、手を膝の上に置いて試験管の指示を待つ。
程なくして答案を後ろの人から前に回すようにとの指示があった。
その後、模試会場となっていた予備校の宣伝小冊子やCD-ROMが配られ、解散。
少年は左手首の腕時計を確認しつつ、急ぎ足で校外に出た。
「もう三時半か・・・急がないと日が暮れちゃうよ」
ひとりごちながらも足は止めない。数分のち、駅に到着した。
常磐線の高い切符を買い、列車に乗り込んで開いている席に座って、やっと一息つけた。
彼は紙パックの緑茶にストローを突き刺し、一口飲んだ。
そして背のリュックザックを床に下ろし、チャックを開けると、中には
参考書や模試の答案の他に混じって、何やら細長い、黄色い布袋が入れられていた。
模擬試験とは関係ないものであることは明らかだった。
端をマジックテープで固定されている布袋の表面には、レタリングされた英数字が並んでいた。
文字の色は、灰色だった。黄色と灰色。一見ミスマッチに思える配色だが、不思議と違和感を感じさせない。
電車は走る。常磐線下り列車高萩行きが牛久駅に停車したあたりで、少年は布袋を留めているマジックテープを外した。
中は四つに仕切られており、それぞれに長さ五十センチメートル弱の黄色い棒が入っていた。
少年は四つの棒を抜き出し、そのうちのひとつ、コルクのグリップが付いている一本を手に持ち、残り三本を膝の上に並べた。
右手にコルクグリップを保持したまま、左手でザックの中を探り、黒いネオプレン製の袋を探し当てた。
百円ショップなどで購入できる、ごく一般的なものだ。
本来はCDウォークマンなどを入れる為に使用されるその袋から取り出されたのは、一台のスピニングリールだった。
リールフットをグリップにあてがい、ネジで固定した。そして残りの三本と一緒に伸縮ベルトで束ねた。
黄色い棒は、四本継ぎのロッドであった。少年は模試が終わったあとの短い時間を利用して、霞ヶ浦で釣りを愉しむつもりなのだ。
彼は受験生である。半年と二ヶ月後にセンター試験を控えている身なので、そうそう趣味に時間を割くことはできない。
模擬試験が終わった後の数時間は、そんな彼にとって有用で、貴重なものだった。
「ふぅ、残りはポイントに着いてからだな」
少年の準備が終わるのとほぼ同時に、電車は土浦駅に到着した。ザックを背負い、ロッドを握り締めて下車する。
駅の改札口を出てから五分も歩けば土浦旧港だ。
今日は日曜日とあって釣り人も多い。へら師、バサー、フライマン。
対象魚もアプローチ法も違う別々の釣りを、同じ湖を共有して行っていた。
その光景を眺めながら少年は港を素通りし、岸伝いに歩を進めた。
・・・本当に、たくさんの釣り人がいる。
霞ヶ浦という、一つの湖。ここには百種類以上もの魚が生息しているそうだ。
僕ら釣り人は、彼ら、彼女らに逢いたくて霞ヶ浦に訪れる。
鯉の逞しさに魅せられ、長い長い竿の先端に鈴を付けた状態で置き竿をする者がいる。
ボラの素晴らしいファイトが忘れられず、ギャング釣りに勤しむ者がいる。
好奇心旺盛なブラックバスを求めて、ひたすらキャスティングを繰り返す者がいる。
小物たちの宝石のごとき美しさに心打たれ、タナゴ竿を組み上げる者がいる。
全員が、霞ヶ浦という湖を愛している。
コーヒー色の水に、護岸された岸辺。捨て網に不法投棄された家電製品。
閉じられた、水門。
魚だって年を追うごとに減り続けている。外来魚も在来魚も、その区別無く一様に。
もう昔とは違う。かつての美しい霞ヶ浦は、もう、無い。
それでも、誰も霞ヶ浦を諦めきれない。
どうしてだろう。他のもっと綺麗な湖や川でだって、魚釣りはできるじゃないか。
何故わざわざ汚い霞ヶ浦に来るのか。
過去の思い出にしがみついて離れられない、というわけでもあるまい。
事実湖畔には、十代と思われる釣り人も多数居る。
彼らは昔の、澄んだ水の霞ヶ浦を知らない。
僕だってそうだ。
でも何故か、ここで、「霞ヶ浦で」釣るということに意味があるような気がするんだ・・・
物思いに耽っているうちに、目的地のポイントを通り過ぎそうになっていた。
苦笑して背の荷物を降ろし、ロッドを継ぎ合わせてガイドに糸を通した。
さて、次はリグ(仕掛け)を組まなければならない。少年はザックの中をごそごそ漁った。
ザックから取り上げた小さな布袋の中には、数パックのワームと、シンカー、フック、さらに幾つかのハードルアーが収められていた。
その中からGARY YAMAMOTOと印字されたワームパックを選び出し、中のワームを一本、取り出した。
スイカのような濃緑色をした、小さなワームだった。
彼は、それを軽量ガン玉とマス針を使ったダウンショット・リグに仕立てあげた。
これで準備は整った。
開始だ。
人差し指の腹で糸を押さえる。スピニングリールのベイルを返し、糸を放出できる状態にする。
肘と手首の関節だけを使ってロッドを振りかぶり、コンパクトに軽く振り下ろした。
10時の位置で人差し指を離し、糸を開放すると、リグはおもりを先頭にして真っ直ぐ飛んでいった。
全てのキャスティングの基本、オーバーヘッド・キャスト。
そしてすぐに着水する。飛距離数メートルのショートキャストだ。
ルアーが着水したら、すぐにロッドを立てて針が水底に引っ掛かる前にワームを浮かせてやる。
そのままの状態でしばらく静止させ、アタリを待つ。
一分以上経ってもアタリが来ないので、少年は早々にリールを巻き上げると、今度は違う方向に投げた。
アタリが無ければ、すぐに場所を変えるのが彼のスタイルだった。
変に粘るより、魚の居場所を見つけるためには数多くのキャスティングを繰り返したほうがいい、という理論だ。
今回は、その理論が正解だったようだ。
着水してすぐ、ひったくるようなアタリがあった。魚がワームをくわえて反転したのだ。
「ッ!」
突然の事態に面食らいながらも、何とかロッドをあおり、フッキングした。
ウルトラライトアクションの柔らかなロッドは、黄色い円弧を描いて踊る。
魚が跳ねた。ロッドを下げ、針が外れることを防ぐ。
見えた魚体は大して大きくも無かったが、久しぶりの魚の感触に少年の心ははちきれんばかりだった。
「よ・・・し」
何とか岸まで魚を寄せることができた。後は取り込みだ。
この取り込みは、釣りの中で最大の難関と言われている。最もバレ易い瞬間なのだ。
そして手元でバラした魚は、思い出の中でどんどん肥大してゆくことになる。
しかし今回の場合は魚が小さいので、ロッドの根元に手を添えて抜きあげればよかった。
難無く成功した。
さて、少年は、草の上に横たわった魚体を独特の満足感をもって見つめた。
緑色の側面に、芸術的な黒い線状の模様。鯉のぼりのような、大きい口。
小型ではあるが紛れも無い、霞ヶ浦のブラックバスである。
およそ半年振りとなる出会い・・・
彼は手を水に付けて湿らせ、そっと下あごを掴んだ。
そのまま水中に入れ、胴体を支えてやると間も無く元気に尾を振って、逃げ出していった。
少年はバスが逃げていった方向をしばらくの間ぼうっと眺めていたが、やがて、再びロッドを手に取った。
キャスティングしながら、胸のうちにある疑問が薄れていくのを感じた。
何故霞ヶ浦なんだろう?という、正答の無い疑問が。
まだまだ時間はたっぷりある。
今日という日が終わっても、また次の機会がある。それが終わっても、また次の釣行がある。
更なる出会いを求めて―――Keep Casting!

Fish&Tips〜霞ヶ浦編〜 完