―――ある夏、片田舎。 今年もまた、暑い季節がやってきた。 じりじりと、照りつける陽射し。 ニイニイと、響く蝉の歌。 夏の日。 白い雲、青い空。 じりじりと、道は焼かれる。 茶色い路、土のみち。 透き通るような、夏の日差し。 突き刺さるような、蝉の歌声。 じりじりじりと、照りつける太陽。 うだるような、真夏の熱気。 その中をゆく、黒い影法師。 とことこ、とことこ、茶色い地面を踏みしめる。 今日はこんなに暑いのに。 なんだってそんな、真っ黒な服を―――
一 二人の人間が、歩いていた。 前を行くのは、白い半袖のTシャツに、短パンという組み合わせの少年。 胸を張って、真っ直ぐに前方を見据えていた。 その後ろを少し離れて付いてゆくのは、ちょうど同年代と思われる少女。 膝下まである、真っ黒なワンピースを着ていた。 前を歩く少年とは対照的な格好だ。 よく見れば、対照的なのは各々の衣服だけではなかった。 少女は俯き、己の作り出す影を見つめながら歩いていた。 肌白な額に浮かんだ汗に、前髪をぴたりと張り付かせて。 堂々とした少年とは正反対の様子だ。 端から見た二人は、あたかも警官と泥棒のようだった。 捕り物を終えて得意げな警官と、手錠で繋がれ、落ち込んで引っ張られてゆく泥棒。 違うのは、両者を結ぶ戒めが無いという点のみだ。 何から何まで、二人はあべこべだった。 ともあれ。ふたりは、歩いてゆく。 二 この道はどこまで続いているのだろうか。 あと一キロか。あと一〇キロか。それ以上なのか。 わたしは今まで、どれだけ歩いてきたのだろうか。 一里か。一〇里か。それとも、もっとか。 わからない。何も、わからない。 唯一つだけ痛いほど理解できるのは、現在のわたしが非常に理不尽な状況に置かれているという、この事実。 あぁ、お天道様、どうしてわたしにこのような責め苦を――― 「うるさいなや。何をぶつぶついってる」 どうやら、心中の不満が声に出てしまっていたようだ。 わたしは軽く舌打ちして、言い返した。 「あんたこそ、何が『バス停から歩いてちょっと』よ。 もう二時間は歩いてるのに、全然見えてこないじゃない、あんたの村。 『ちょっと』って言葉の意味知ってるの?」 「知ってらあ!大体二時間も歩いてねぇよ。多く見積もったって、せいぜい一時間半ってとこだべ」 その言葉に、わたしの精神は粉々に打ち砕かれた。 なるほど。彼にとって、炎天下で運動する一時間半は『ちょっと』で片付けられてしまう程度のものなのか。 わたしは思わず溜息を漏らしてしまった。 すると、彼はそれを耳ざとく聞きつけたらしく、再び怒鳴り声を響かせた。 「たるんでんじゃねぇ!とっとと歩けっ!」 レディに対してその言葉遣いはあんまりだと思ったが、だからといって、反論する気力も無い。 わたしは観念して、またとぼとぼと歩きはじめた。 ふと、風を感じて顔を上げれば、進行方向には山と見紛うばかりの巨大な丘がそびえ立っていた。 丘に対して『そびえる』という言い方は少し変かもしれないけれど、 自然とそんな言葉が思い浮かんでしまうくらい、その丘は大きく見えた。 「ねぇ、これ……登るの?」 当たり前だ。そもそも道が一本しか無いのだから、登るに決まっている。 でも、そうと分かっていても、聞かずにはいられなかった。 「あぁ。ここを越えたら、オラたちの村だべ」 彼は満面の笑顔を浮かべて、言った。 「あとちょっとだなや」 ―――もうたくさんだ。 三 「ただいまぁ!」 元気いっぱいの挨拶。軒先に姿を現した女性が、それを迎えた。 「お帰りなさい、留吉。ランちゃんはどうしたの?」 留吉と呼ばれた少年は、無言のまま背後を親指で指した。 指の先では、黒いワンピースを着た少女が、膝をついてぜぇぜぇと息を荒げていた。 女性―――菅原留吉(すがわら とめきち)の母親があわてて駆け寄ると、彼女は気丈に顔をあげた。 「どう…も……こん、にちは…お世話に……なり、ま」 どさり。体力の限界を迎え、言葉を最後まで紡げぬままに『ランちゃん』こと貫井蘭(ぬくい らん)はあえなく崩れ落ちた。 四 蘭の家庭は、いわゆる母子家庭であった。 彼女が産まれてから数年の間に、母方、父方両方の祖父母が相次いで他界。 その後さらに一年して、父親も病死した。 それ以来、蘭は母親と二人きりで暮らしてきた。 蘭を養うため、専業主婦だった母は内職を始めた。 配られた大量の紙を糊付けし、紙袋にして加工賃を得る、というものだ。 だが、それだけでは到底親子二人の生活費を稼ぐことなどできず、彼女はさらにパートタイムのレジ係に就いた。 それにより、やっと収入は安定した。 蘭は小学校に入学し、すくすくと育っていった。 快活な人柄から、男女を問わずたくさんの友人もできた。 「お母さん、あのね、今日ね」 興奮して頬を赤らめながら、蘭は学校での出来事を語った。 毎晩の恒例行事である。 誰々くんと遊んだ。何々ちゃんとケンカした。でもすぐに仲直りして、また一緒に遊びまわった……母は話を聞きながらも手は休めない。 紙を折り、指定された箇所に糊を塗り、押し付け、均す。 紙袋作りという地味な仕事。 正直言って嫌気がさす。しかし――― 「ねぇ、お母さんちゃんと聞いてる?さっきから生返事ばっかりだよ」 蘭。十年前、お腹を痛めて産んだ我が子。 「はいはい。ちゃんと聞いてるから落ち着きなさいな」 そう言って鷹揚に微笑み、頭を撫でた。 手のひらの中でくすぐったそうに笑う娘。 ―――なんて、笑顔。私はこの笑顔を護るためなら、悪魔にだって魂を売り渡せるだろう。 ちょっとばかり退屈なだけの仕事が、どうしたというのだ。 蘭の実母である貫井百合子は、まったくの本心からそう思った。 その日から、ちょうど一ヶ月後。 百合子は勤務中に突如倒れた。 病院に運ばれたが、救急車の中で息を引き取った。 医師の診断では、長期間に渡っての過剰な労働による疲労蓄積が原因とされた。 貫井蘭、一〇歳。この日をもって、天涯孤独の身となった。 五 「はぁぁ、生き返るぅ……」 氷の浮かべられた麦茶を飲み干し、蘭は目を細めた。 軒先で倒れてから一時間。 彼女は順調に回復しつつあった。 ここは、菅原家の隅に位置する四畳半。 部屋の中央に敷かれている布団は、つい先ほどまで蘭が寝かされていたものだ。 「ったく、世話の焼けるオナゴだなや。これだから東京モンはいけねェ」 留吉の無礼な発言を軽く聞き流し、うーん、と思い切り伸びをした。 気分は良好だ。 介抱してくれたおばさんに感謝。 「さて、と」 蘭は立ち上がった。 そして、そのまま部屋を出て行ってしまう。 留吉は慌てて後を追った。 「おい、どこさ行くんだ」 「どこって、おばさんに会いに行くのよ。まだ挨拶も済ませてないし、お礼も言ってない」 返事をしている最中、自分がこの家の間取りを知らないことに気がついた。 そういえば、おばさんが何処にいるのかも聞いていない。 蘭は立ち止まって、回れ右、とばかりに振り返った。 すぐ後ろを歩いていた留吉は、顔面から正面衝突しそうになった。 「い、いきなり止まるんじゃねぇよ!」 「あらまぁ、ごめんなさいね」 ケラケラと笑う蘭。その様子に、憮然とする留吉。 「それで、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……おばさんは今どこにいるの?」 「母ちゃんなら、今頃は台所で晩飯作ってる頃だ」 そう言われても、台所への行き方が分からないのだから仕方無い。 菅原家は田舎の農家ならではの大きな平屋で、かなりの面積と部屋数があるのだ。 「へぇ、そうなの。じゃあそこまで案内なさい」 「『案内なさい』って、何様のつもりだテメェ……」 ぶつぶつと不満を漏らしながらも、留吉は蘭の先に立って歩きはじめた。 彼が足を踏み出すたびに、板張りの床はキィキィと音を立てた。 「ほら、ここだべ」 程なくして台所に到着すると、無心に大根をおろしている留吉の母の姿があった。 蘭の存在に気づくと、彼女はオロシガネから視線を上げて、くすり、と微笑んだ。 「あら、ランちゃんはもう大丈夫なの?」 「はい、お陰さまで助かりました」 蘭はぺこりと頭を下げた。 「気にしないでいいわよ。あなたはこれからウチの子になるんだから、このくらい当然」 と、言い終えて。留吉の母は自らの失言に気づき、口元に手をやった。 「……はい。お世話になります」 沈んだ声音。 何気ない一言で、簡単に蘭の心は傷ついてしまう。 周りの人間を心配させないため。己の心を鼓舞するため。 母を亡くしてから、彼女は常に明るく振舞うように努めてきた。 しかし、どんなに外面を繕おうとも、心の中まで変えることはできない。 一〇歳の少女たる蘭は、やはりその年相応の脆さを備えているのだ。 「…………」 蘭は、おばさんに悪気がなかったことは理解している。 それでも、彼女の発言によって、改めて実感された母の死という事実は、どうしようもなく蘭の心を苛んだ。 留吉の母も、蘭にかける言葉を持たなかった。 ふたりの間に、重苦しい沈黙が流れた。 その空気を打ち破ったのは、他ならぬ留吉であった。 「あぁもう、辛気臭ぇなや!特に蘭、甘ったれてんじゃねぇよこのアマ!」 「なっ……」 蘭の頬が朱色に染まった。 「何よ、わたしのコトなんて一つも知らないくせに!」 ヒステリックに叫んで、留吉の頬に思い切り平手を張った。 ぱあん、という音が鳴り響いた。 「痛っ……」 鳴ったのは留吉の頬ではない。 彼は蘭の平手打ちを首を捻ってかわし、逆に彼女の頬にビンタを打ちこんだのだ。 してやったり、とばかりに笑う留吉。 「こ、この暴力男っ!」 「うおっ」 だが、蘭も負けてはいない。 涙目になりながらも、思い切り留吉の股間を蹴飛ばした。 留吉はそれで呆気なくうずくまってしまう。 すかさず追い討ちのゲンコツを振り下ろそうとする蘭を、留吉の母が抑えた。 「はいはい、喧嘩はそこまで」 「で、でも先に手を出したのは留吉くんの方……」 あれ。確かに、先に殴られたのはわたしだけど。 「……じゃ、ないですね」 「ええ」 自らを一人前のレディと自認する蘭は、今まで怒りに染まっていた頬に、恥かしさで再度朱を差した。 失敗した。 居候に来た初日にこれじゃあ、わたしのイメージがおてんば娘で固まってしまう。 それは絶対に避けたい事態。 なんとか言い訳をしなきゃいけないけれど、こんな時は何て言ったらいいんだろう? 大体原因を作ったのは留吉だし…… 「あ、あのう、えっと……」 留吉は未だに股間を押さえて膝を付き、苦痛を訴え続けていた。 蘭が口篭っている間に、おばさんはそんな息子の腕を掴んで引き起こした。 「ほら、男のくせにいつまで痛がってるのよ。とっとと起きなさい」 「うぅぅ……」 よろよろと立ち上がる留吉の姿を見ていると、流石の蘭にも罪悪感と同情心が湧きあがって来た。 留吉の顔を下から覗き込みながら、声をかけた。 「あの……大丈夫?」 「大丈夫なワケねぇべこの……」 即座に返された言葉は、予想通り刺々しいものだった。だが、 「留吉」 「……いや、大丈夫だ。殴って悪かったな」 鶴の一声。 母親が名を呼んだだけで、留吉の抗議は打ち切られた。 留吉は憮然としつつも謝罪し、そして、蘭に向かって無造作に右手を差し出した。 「あ……」 思わず留吉の顔を見る。 すると、照れくさいのか、彼はそっぽを向いてしまった。 その幼げな仕草が、なんだかとても可愛らしくて。 蘭はふうわりと笑って、留吉の手を握り返した。 貫井蘭。菅原留吉。 ―――ふたりは、ここから始まった。