無名氏に寄す−秦帝国余話
六幕:戴冠
物騒極まりない呟きに、足が竦んだ。高欄に縋った秦王は何一つ否定する材料を持たない。それどころか、まさに自分は渦中の当事者だ。
「そなた、何者だ。」
政の低い声は夜に響く。すらりとした長身の優雅な姿が、滑らかな身ごなしで振り向いた。
その場に立ち尽くす二つの影。
「…貴方こそ何者です。」
漆黒の闇色の髪と瞳の男が、誰何を返した。弁冠爵弁服の男が、無礼者を睨み付けた。背子姿の軽装に冠を着けただけの相手は、佩刀に手をかける青年を黙視している。
「今一度問う。何者だ。」
答は、秦王政の度肝を抜いた。
「人であるのに人に非ざる者、とでもお答えしましょうか。」
「異形の者か?」
彗星にとどまらず、怪異まで現われるか、と政はやけくそになる。何が出ようと今更秦王の位を放棄するつもりは微塵もない。
既に、慶賀されるべき冠礼が母親に端を発する反乱と化している。目の前の害意がなさそうな自称怪異の方が余程安全だ。
「そなた、何を申していた。」
「何を…とは?」
怪異はゆっくりと言葉を切りながら返す。佩刀から手を放した政は、闇色の瞳に引き寄せられるように近付いた。
「…戯言ですよ。」
と怪異は呟く。背にした欄干の向こう、暗がりに沈んだ建物の連なりを見る。
母太后趙妃の閉じ込められている、その方角を。
そして政が、二人の赤子を投げ落とした、まさにその方角を。
「そなたもまた、私を断罪しに現われたのか。」
目を見張ったのは怪異の方だ。
「断罪?何故。」
ゆっくりと、疑問が返され、秦王は安堵する。
「…異形のそなたの方が、人間などより親身だな。」
「私は貴方を知らない。であれば、有罪か否かもしれぬ者をどのように断罪するのです。」
突き放す男に、政はぶちまけた。
「ならば問う。母を監視下に置き、その所生を殺した私は有罪なのか!それが社稷のためであっても!」
「…孝と忠、どちらが重いと?」
鼻で笑った。政は茫然と、得体のしれない怪異を見つめた。嘲笑を収めた男は、ただ一言を投げ付ける。
「法は、何と?」
「法?」
「秦にも、国法は、あるでしょう。」
ゆっくりと言葉を切って語られる内容は、秦王の意表を突いた。
何と言っても母上なのですから。
何と言ってもまだ幼い者達なのですから。
御寛恕を、殿下!
群臣の哀訴を切って捨てるかの如き一言だった。
「…叛逆は族滅……。」
「ならば何が問題なのです。」
漆黒の瞳が政を見据える。
「小人の孝をもって国法を曲げると?腐儒でもあるまいし!」
「私は正しいのか!」
畳みかける秦王を、面白そうに見た。
「人君の患は人を信ずるより始まる。」
闇から沸いたような怪異は、静かに、しかし声の底に凄味すら潜ませている。
「信ずれば、則ち人に制せられる。骨肉であったとしても、それによって自己が利を得ることがかなうなら鴆毒絞殺すら辞さないのが人間です。貴方が賞罰の二柄を握っているなら、孝などという他人の思惑に左右される必要が、どこにある?」
ただ粛々と法を施行するだけではないかと。
「私は…間違っていないのだな。」
否定も、肯定も、返らない。政を凝視する漆黒の瞳は、畏怖も賛嘆も嫌悪もなく、ただ静かだ。
「正誤の問題ではありません。誅罰の軽重は時流に合わせ、非常時に備えて整備しておくべきもの。危急の際の拠所とすべきもの。君臣共に従うべきものです。先王とて仁の涙より法を勝たしめた。」
怪異は淡々と恐ろしい言葉を紡ぐ。昔蔡沢が、凍え死ぬほどと話してくれた燕の冬のように。けれども、政の耳にその冷酷は快かった。
血縁も正嫡もない。『寛容』もない。存在するのは法の峻厳のみ。
正当な血を継ぎ、仁君であること以上に、国君として必要な資格があったのだ。それこそが聖王として名高い伝説の偉人に比肩する資格なのだと、美しい怪異は告げる。
「怪異よ、私は国君たるにふさわしいか。」
政の口から、ありうべからざる問がこぼれ落ちる。
ひた、と漆黒の瞳がしばし無言で政を見た。政は知らず、支えを求めて手を動かした。触れるのは空ばかりだった。
「法を施行し賞罰の柄を握り、富国強兵を為すなら、その君は天下にふさわしい。」
怪異は断じる。冠礼を終えたばかりの若い秦王は身震いした。
「怪異よ、そなたに名はないのか。」
「…人にして、人に非ざる者と。」
冷笑するように、瞳を細めた。
「無名の怪異よ、無名の君がそなたに謝する。」
悠然としていた漆黒の瞳が、驚きに見開かれた。目の前の若い青年は、それを見てはいない。
大袖を合わせて頭を垂れ、揖礼を捧げていた。
−陛下はお前に似過ぎている−
『人の性は悪なり。その善なるは偽なり。』
私は、人の善性が信じられませんから。
蘭陵の大儒は、哀れむように肯定した。
政が顔を上げると、怪異の姿は既になかった。途端、どっと力が抜けた。秦王は石の床に座り込むと、人影が存在していたはずの空間を呆然と凝視した。全身に震えが走る。
私は、間違ってはいない。
自分を呼ぶ声が聞こえる。複数の足音が驚いたように近付く。
王というのは、天の子なのですよ。
遠い昔に聞いた蔡沢の声がけざやかに蘇る。
天命を受けた王として、私は貴方を見こんだ!
李斯。私の元に、法術の徒であるそなたが送られてきたのは、やはり天の差配であったのだ。
「殿下!大事ございませんか!」
駆けてきたのは蒙恬と麾下の兵だ。その中から、ひょっこりと蒙毅の心配そうな顔が現れた。
「案ずるな。」
高欄へと伸ばした政の手をしっかりと取ったのは、無骨な蒙恬の手だった。
「案じます。貴方は秦の正統を継ぐ国君であらせられるのですから。」
秦の正統。それの何に、意味があると?政は引きつったような薄い笑いを浮かべた。蒙恬は秦王の神経質な表情が気になったのか、冷たい手と腕をごしごしと乱暴にこすった。兄の傍らに現れた蒙毅が、控え目ながら心配そうに声をかける。
そなたにはわからない。勇敢で鈍感な蒙恬。
そなたにはわからない。人の良い誠実な蒙毅。
わかる必要は、ないのだ。
「恬。勇敢なそなたに命ずる。太后の元へ、賊子二人が国法に則り死を賜ったこと、言上せよ。太后の御意向により、刑余者の子としてではなく、貴人に対する礼をもって血を流さずに処刑が行われたことも、併せてお伝えするが良い。文信侯の鼠が恐らく既に伝えていようが。」
蒙恬の顔が引きつった。敵陣に突撃するならともかく、とかく噂があり、昨日の壮絶な言い合いを見たばかりの太后に使者を命ぜられるのは勝手が違う。
「兄上、ここは私にお任せ下さい。毅が殿下におつきしております。」
弟の声で腹をくくった。きびきびと武人の礼を取り、颯爽と兵を従えて蒙恬はその場を去る。蒙毅は幼馴染みでもある秦王の顔色が相変わらず悪いのを案じ、共に夏無且の元へ行こうと懇願した。
頑固に医師を拒絶した秦王は、李斯を呼べと命ずる。
「長史にご用でしたら、毅がお使いに参りますよ。」
「李斯に会わねばならないのだ、早く!」
法を施行し賞罰の柄を握れ。それこそが天下を統べる国君の条件である。人にして人に非ざると名乗った怪異の言葉こそ、戴冠した自分への本当の祝福だ。
釈然としない様子の蒙毅を押し出すようにして呼びにやり、政は怪異の消えた空間を再び見つめる。
人に非ざる怪異は、秦に非ざるかもしれない自分だからこそ現れてくれたのだ。