惻隠の心無きは、人にあらざるなり
     −『孟子』公孫丑上より


Compassion
-惻隠−


 何を仕出かしたのか、記憶にない。しっかし、とんでもないことを仕出かしたような気がする。俺の勘は大抵当たるんだ、間違いない。それも嫌な予感に限って当たったりする。
 宴会でしこたま飲んだしなあ…近頃酒量が我ながら増えてるぞ。その他大勢が弾劾するのはどうでもいいんだが、記憶が飛んでちゃ世話はない。飲んでも飲まれないのが主義なんだ。
 あの人が冷たいからって酒に逃げるのが間違いだってのはわかるんだけど。わかってるんだけど。はっきりしない頭で、自棄酒兼用の迎え酒に手を伸ばす。
 ばしん☆とその手を払われた。
「飲み過ぎだ。」
 呆然とした目が捉えたのは、じろりとこちらを見据える寝起きの不機嫌の塊。
「子房…どうして?」
「どうしてだと!この慮外者が!」
 ばこん、と鉄拳が飛んできたところを見ると、本物である。短気だし、相変わらず手は早いし、おまけに痛いの何の。解き流した髪の毛を振り乱して、あの整った美人顔で睨み付けてくるんだから、怖さも倍増である。
「お前が引きずり込んだんだろうが、この馬鹿者が!」
 あ、朝から二日酔いの頭にお構いなく怒鳴られてる……。いくら子房殿の声だからって、頭に響くのなんの。うう。
「俺、そんなことした?」
 げ。完全に逆鱗に触れた……。ぐいっと耳を引っ張られ、もはや鬼気迫る美貌をぎりぎりまで近づけて、
「私がのこのこ、こんな所に来ると思っているのか?」
と凄みを利かせた声でのたまった。ひゃああ……。
「も、物の弾みであるかもしんないと……。」
「このっ、大馬鹿者がーっ!」
 しこたま横面を張られる。子房…年々手荒になってるぞ。鉄面皮の微笑の軍師殿が、ここまで手が早い上に気が荒いとは、知る人ぞ知る漢軍のトップシークレット。まあ、元を正せば家産はたいて始皇帝暗殺に走った人だし、博浪沙から鉄槌で馬車毎潰してやろうと目論んだ人なんで、気が荒くても不思議はないか。どっかで侠客の親玉張ってたっていうしなあ。…うーむ、しぼちゃんの子分ならなりたいかもしれない☆
「お前、頭のねじが飛んだだろう。」
 こ、言葉の暴力反対……。
「何を朝からへらへらと笑っている。いいか、遊びに来ているわけではないからな、代の征討に来ているのだからな、理解しているのか?」
「あー…そーいえばそうでした……。」
 この台詞で再び殴られたのだが、まあ安いものだと思っておこう。
 この短気なお姫様とやっとこ再会できたのを、ようやく思い出したのだから。
 やっとこ再会して、やっとこ一緒にいさせてくれたのだから。殴られたって、笑いが止まらない。
 軍師殿は呆れ果てた冷たい一瞥を投げてから、するりと隣から抜け出した。慌てて裾を掴むと、ばしん、と手を払われた。
「放せ。軍議だ。」
「なしにしよう、ねーったらあ。どーせ皇帝もやる気ないんだし。」
 あ、あの目は何か投げられそうな物を物色している……。そら見ろっ、枕が飛んできたっ!よけ損ねると悲惨な目にあうのだが、そこはそれ。付き合いが長くなったので無事によけられる。
「陳豨と韓信殿に手を組まれると厄介だ。」
 あの人は言い捨てて、久し振りに聞いたその名前に俺は声を失った。
「だから、代は完全に叩いておく必要がある。」

 淮陰侯韓信を王位から引きずり落としたのには俺にも責任の一端がある。そもそも蕭何に発掘されて大将軍にまで上った淮陰の書生が韓信だ。そんな奴を抜擢した漢王もいい度胸だが、その後の戦闘からすると皇帝陛下の眼力に頭を下げなければならない。漢軍の肝心要な戦争はほとんど韓信に勝ってもらったようなものだ。大体漢王本人の本陣が負け続けだというのに、別働隊の韓信が連戦連勝というのが何か間違っている。ひどい時なんか本陣より大きな別動部隊を率いていたこともあるしな。
 韓信が独立しなかったのは僥倖だったが、別の観点からすると奇跡に近い。俺が韓信の幕僚だったとしたら、お前は阿呆かと蹴飛ばしたくなるところだ。漢王と項王がいいだけ戦闘に疲れた隙を突いて独立し、項王と一緒に漢王を叩いてから楚軍を壊滅させようとだって、やればできたはずなのだ。あの韓信は。そうしたら今頃覇権を握っていたのは韓信で、俺は奴を皇帝陛下なんて呼んだりしたのかもしれない。自分でもなまず親父と心中する可能性は限りなく低いことはわかってる。あいつが勝つなら、とっとと逃げたと思う。
 ただし、留侯張子房という厄介な存在が漢軍にいた。負けっぱなしの漢軍だが、壊滅するどころか、不気味に何度も復活したのは、何処と手を結ぶべきか、中立諸侯に何をするべきか、負けたら何をするべきなのか、を的確に指示する帷幄の軍師殿がいたためだ。おまけに当人は戦力外ですと言って回っているかのような柳腰の美人で才子多病、いや佳人多病を地で行っていたから−だからこの人の気が荒いというと大抵は仰天する−誰もがどこかで気を許していた節がある。仙人修行に凝っていたりもする上に官職に興味がないのもあずかって大きかったのだろう。まさか敵さんもこの人が漢軍の骨組を組んでいたとは信じていなかったろうと思う。あえていたとすれば、あの韓信と、項王の叔父上だ。
 まあ、二人とも子房殿とは仲良しだしな。ただし、項王の叔父御が子房の崇拝者に近いのと引き換え、韓信はあくまでも対等な立場で子房に接した。いずれ漢から引き抜いてやろうとも考えていたのではないかと、俺は今でも疑っている。片方は不世出の将軍だし、片や知る人ぞ知る帷幄の軍師だ。話も合ったのか、あの二人はやけに仲が良かったような記憶が、俺にはある。やっかみかもしれないが。
 それでも韓信は大きな決断を下す時には子房と反対の立場にいることが多かった。別段子房はそれを止めない。むしろ韓信の動きを読んで、それを封ずる策だの牽制する策だのを平気で実行に移す。
 そして楚王に封じられた韓信を俺が詐欺のような手口で捕え、漢王が淮陰侯に格下げしたときも黙視したのだ。だから俺は張子房が本当は韓信をどう思っているのか、いまだに掴めないままでいる。
 韓信と通じていた陳豨を討つ軍に、平気で顔を出しに来ているしな。

 相変わらず手早い身支度を終え、あの人はさっさと出て行こうとした。あくまでも抵抗できないからここに引きずりこまれたのであり、動けるなら一刻でも早くいなくなりたいらしい。いつもあの人の幕舎に押しかけるので、たまには来てもらってもいいかと思ったのが完全に裏目に出たようだ。
「…聞きたかったんだけど、貴方は韓信を討っても平気なの?」
 そんな疑問をぶつけてみた。
「何故私が淮陰侯に容赦せねばならない?」
 あの人は微笑みすら浮べて問い返す。
「私には淮陰侯の身柄よりも漢が大事だ。」
「…それ、韓信が聞いたら、泣くよ?」
「お前でもあるまいし。」
 そこまで言いますか。くすくすと笑い出した。
「お前こそ、いやに淮陰侯を気にするのだな。韓信殿とそれほど親しいとは意外だが。」
「気になるじゃん。あいつは貴方のことを多分愛してるのに。それを平気な顔してやっつけに行くなんて、貴方は辛くないんですか。韓信のこと、好きでしょうが。」
「…何を言い出すかと思えば、そんなこと戦局に何の関わりもないではないか。」
 これだ。この鉄面皮のお姫様は、にっこり笑ってこういう残酷な言葉を平気で口にする。それでも席を蹴って帰られなかっただけ、まだましだ。その昔なら、人の話なんか全く聞きもしなかった。
 私の知ったことではない。それが軍略と何の関係がある。
 子房はいつも、そう言って自分の生活から私的な部分を排除してきた。
「韓信殿は味方につければ頼りになる。敵になれば抹殺する必要がある。項籍がいない以上、彼にできることも限定はされてくるが、その辺りはお前にもわかっているはずだ。」
「俺が聞きたいのは建前じゃありません。」
「私と韓信殿の間に何があるのだ。何もないだろうが。」
 心底不思議そうな顔をして、お姫様は真意を図りかねると付け加えた。ここまで言われたら立つ瀬がないぞ……。
「何かあるとかないとかじゃなく……。」
「私は彼の戯言に付き合うほど暇でも夢想家でもない。お前ともあろう者が淮陰侯の世辞を真に受けているのか。私にだとてその程度の表裏はわかるが。」
 男女の機微に表裏だの何だのはつきものだという理屈は無駄のようである。大体韓信はこの人に軍師などやめてほしいのだ。俺だってできることなら、うちの奥深くに閉じこめて、大事にしてやりたい。
 残念ながらこの人に他人の傅きなど不必要だ。漢軍全部の面倒を見ていた人に貴方の面倒を見てやるといっても侮辱にしかならないのだし、兵法の天才を閉じこめたりしたら、それはただの嫉妬だ。俺は別段天才に嫉妬する男じゃない。
 軍議だぞ、と軽く小突いてくれる方がいい。仕方ないのでのろのろと支度をしている最中だった。
 通されてきたのは子房の従卒で、諜者の報告を息急き切って持ってきた。
「護軍中尉殿のことは気にせずとも良い。至急報なら却って聞いて頂いた方が都合が良かろう。」
 情報だけは惜しみなく配分してくれるのが軍師殿だ。
 本当に分けて欲しいのは、情報などではない。

「淮陰侯が長楽宮で誅殺されました。」
 子房は軽く頷いただけだった。

 韓信が死んだとなったら、今度の征討は楽になる。陳豨と呼応する可能性がある最大の危険がなくなったわけだ。呂后の指示だと聞いた。後ろで動いたのは今回誰なのだろう。
 俺が消してやるつもりだったんだがな。ちらりと軍師を見る。陳豨が討たれたという偽の情報で単身おびき出された韓信は、そのまま斬られたそうだ。俺がやりそうなことだが、今回は俺じゃないぞ。
 続報を、と命じて子房は諜者を去らせる。緘口令を敷くまでもなく、子房の従者は他人に口を割らない。
 軍議の席に向かう途中、
「楽になるな。」
と話し掛けた。俯いて考え事をしていた子房は、
「何が?」
と顔を上げ、やや遅れてから、
「…そうだな。」
と微笑んだ。
 言わなきゃ良かった。

 軍議の席では韓信のことに触れなかった。諸将がいなくなってから、俺を残して子房は漢王に伝えた。なまず親父は目を丸くした。
「あいつ、死んだのかね?」
 それから、わし何もしとらんよ、と続いた。子房は例の微笑で頷いた。なまず親父としては、自分の潔白を信用してもらえて安心したらしい。お前じゃないだろうね、ととんでもない矛先を向けてきた。護軍中尉も無関係です、と子房がびしゃりと遮った。
「いい奴だったのになあ。」
 はあ?そいつをとっ捕まえろと俺に命令したのはどこの誰ですか?
「あいつ面白い奴だったんだよ。わしのこと、千人程度の将だなんて言いやがってさあ。お前はどうよって言ってやったら、多いけりゃ多いほどいいんだとさ。平気な顔して言いおったよ。なら、なんでわしなんかに捕まりやがったって聞いたらさ。」
 俺のせいだとでも言いやがったか?
「わしは兵の頭になるならからきし駄目だが、将の頭になる玉なんだとさ。わし、嬉しかったのね。」
 ここで素直に喜んでしまえるのがなまず親父の陽気な部分だ。追従と思わないのがいいところだ。まあ、あの韓信も追従なんか言えるほど器用な玉じゃなかったが。
「韓信にしてみりゃあ、あんたの頭の一つや二つかち割ってやりたかったかもしれませんよ。」
「お前みたいな悪党じゃあるまいし。」
 そいつはどーもありがとう。どーせ俺は悪党だよ。
「あのくそばばあ、多分蕭何の奴を脅しやがったな。」
 ぽつりとなまず親父が呟いた。子房が黙って頷いた。その上に、
「いずれ淮陰侯は処分なさるおつもりだったのでしょう。漢にはその必要がある。」
とまで付け加えた。もじもじと皇帝が、
「じゃけど、あいつ、悪い奴でもないし……。」
と口篭った。
 なまず親父も薄情だが、本人と会っている間は人懐こい。あれだけひどいことばかり言い捨てる軍師に比べれば数段愛嬌があるといっていい。その代わり、わけのわからない理由で人をやっつけようとするもんだから、危ないといえば危ない。
「悪くなくても誅殺する必要はあるのでしょう。」
 ほら、こんなことを微笑みながら言う。
「それでなければ漢の屋台骨が揺らぐ。淮陰侯がいなくなれば趙相国など取るに足りない、違いますか。恐らくは先方にもこの報せは伝わっている。それだけで勝手に向こうは動揺します。我が軍はただ押せばよい。その気がおありなら全員に知らせても構いませんが。」
「それをせんと勝てんのかね。」
「せずとも勝ったようなものですよ。」
「ならいいよ。可哀想な韓信のことはまだ知らないことにしておくさあね。」
「では、私もそれが必要になる時まで聞かなかったことにいたしましょう。」
 そして軍師は地形図をはらりと広げた。全然関係のない代の土地の話を始め、なまず親父と盛り上がってしまった。
 邪魔そうだったので一足先に失礼した。本当は子房も一緒に連れ出したかったのだけど。

 連れ出せばよかった。帰ってこない。
 夜更けになっても戻ってこないので、相談がある、などと相も変わらず押し掛けていた俺もいい加減に痺れを切らした。新顔の衛士は気にならないのか、ひたすら誰もいない幕舎を守っている。
 いつも不思議なのだ。あの人に絶対の忠誠はいいだろう。が、あの強情者のためにならないとわかっていても、命令を馬鹿律儀に守り続けて、気にならないのだろうか。そのせいであの人は何度も死にかけている。自殺しそこなっているようなものだ。
 例えば過労で。例えば断食で。
 いい加減に、誰か止める奴はいないのか。俺が会ったときからそうだったが、いまだに誰も止めないんだな。
 本営には、軍師殿が一人、山のような巻物だの簡牘だのに埋もれていた。俺が入っていっても気付かなかったらしい。
「…仕事に逃げるの、よしたらどうですか。」
 声を掛けると、筆を置いた。
「手伝いに来たのでないなら邪魔はしないで貰いたい。」
「ねえ、俺の頭じゃ仕事の代わりになりませんか?」
 本当は、俺じゃ仕事の代わりになりませんか、と言いたかったけれど、言下に、ならん、と拒絶されそうで怖かった。
 あんなことばかり言ったくせに、相当こたえているらしい。韓信の存在はやっぱりこの人にとって大きかったんだろう。
 俺が死んだら、この人は少しくらい仕事に逃げ込もうとしてくれるかな。…するわけないか。最悪、嬉々として病人が回復しかねないな。
 韓信の幸せ者!
「…貴方にそこまで想われるなんて、羨ましいですね。」
「私も淮陰侯は羨ましい。」
 そうして子房はうっとりと頭を木簡の山にもたせかけた。
「淮陰侯の背中にあった翼が、羨ましい。」

 この疑心暗鬼の世界から飛んでいってしまわれたのだな。韓信殿は。あの碩学の公子と同じ世界に飛んでいってしまった。
 私はな。下邳では子羽と名乗っていたんだ。韓非子のように、俗世から背き去る翼が欲しくて、せめてあの方にあやかりたくて。でも、韓信殿の方が先だったな。少なくとももう、あの方は悩まなくてすむ。
 私は何も要らないのに。地位も名誉も富貴も要らないのに。韓信殿のような執着はないのに、どうして私はどこへも行けないのだろうな。
 私の背中に翼があったなら、もっと早く飛んでいけたのに。

「そんなの、だめ……!」
 まただ。どうしてこの人は、いつもいつもいなくなることばかり考えて喜ぶのだろう。
「悩まなくてすむかもしれないけど、韓信はそんなの嬉しくない筈だぞ!そんなに仙境っていいところかよ!ここだって捨てたもんじゃないぞ!俺が嫌いなのはわかるさ、貴方が色々と傷ついてるのもわかる。でも、周勃とか樊噲はどうだよ!あいつらは貴方を慕ってるぞ!蕭何さんはどうだよ!丞相だって貴方を頼りにしてるだろうさ!そりゃあ星はいいもんだろうよ、貴方が憧れてきたのも知ってるさ、でも下界だって花は咲くし実はなるし、満更捨てたもんじゃないってことを少し考えたらどうだ!」
 でも、叫んでいる俺が一番良く知っている。
 この綺麗な人は本当は別世界に羽ばたく白い大きな羽を持っていて、星の高みにまで行ってしまえるということを。俺はその羽をへし折ろうとしているのかもしれない。天才という大きな翼を、漢への義理としがらみでがんじがらめにしようとしているのかもしれない。
 だって、置いていって欲しくなかったから。あーそーだよ、俺はどーせ勝手だよ!しぼちゃんの幸せより、自分の幸せが先さ!
 一息ついて、毒気を抜かれた。昼間の鉄面皮ではなく、困ったような苦笑を浮かべている可愛い人が座っていた。
「お前がうるさい間はどこにも行けない。私も下邳の侠客だ。約束は守る。別段怒鳴っていただかなくとも結構だ。」
「す、すみません……。」
「それで?お前の頭で手伝う気があるのなら、半分持って付いてこい。私はもう引き上げるつもりだ。」
 それは重畳。いそいそと手伝って、子房の幕舎に引き返す。
 途中で子房が呟いた。
「…護軍中尉、私が会わないと言った意味が、わかったか。」
「…俺は勝てない喧嘩はしない主義ですし、なまず殿ともちーちゃんとも仲良しのつもりなんですけどね。」
「…なら、いい。」
 よくない。
 そーやって貴方は、俺を翼の陰に隠してくれようとする。俺のこと、そんなに信用できないんですか。俺の面子なんて、この人の天才の前にはまるで役に立たない。俺だってそれなり自分の頭には自負心があるけれど。
「…貴方がこんな風になってくれるんなら、韓信みたいな運命も悪くないかもね。」
「お前は、私の計の邪魔をするつもりか?!」
 この人にとって、俺は歯車。漢の礎を磐石にするため組み込んだ、かけがえのない部品。
 だから、貴方は守ってくれるのですね。
 でも、俺は人間なんですよ。
「邪魔したら、始皇帝みたいに一生恨んでくれる?」
 そうして、決して忘れずにいてくれる?
 ぼかっと拳で殴られた。その辺りに簡牘をばら撒いて、ばしばしと叩きに来た。
 怒らせたけど。でも。
 貴方に忘れられて、他の連中と一緒くたにされるくらいなら、いっそ始皇帝並みに嫌われて一生俺を付け狙って欲しい。韓信みたいに悼んでくれるはずはないのだから。
 殴ってもいい。嫌ってもいい。でも、お願い、私を貴方の視野に入れて。
「お前なんか、大嫌いだ!」
 そう、叫んでもいいから。叫んで、ようやく。
 抱きとめた腕の中で、多分韓信のために泣いていた。
 感謝しやがれ、韓信!何で俺がお前なんかのために子房を泣かせてやらなきゃならないんだ!泣きたいのはこっちだ!
「許さない…私の計の邪魔立てをしたら、絶対に許さない……。」
 その一言一言が、忘れない、に聞こえる。それでも俺は邪魔できない。俺だって死にたくないもんな。別段ここも気に入ってるし。
 だから囁くしかない。
「どこにも行かせない。俺の悪知恵の全てを使ってでも。」

 強情者の軍師殿を心配したが、案外けろりと立ち直ったようで安心した。意外ではあったのだが。
 泣いたのが良かったのかな。
 陣中では居座っても見逃してやるという恩恵をとことんまで活用している俺は、首をひねっている。子房が悶々としたりぶっ倒れたりしないのは嬉しいけど。こうして始終近くで観察していても、薄情なほど平然としている。
「護軍中尉。」
「はい?」
「…その簡は削り直しだ。墨溜りを作るな。」
 変なところ目ざといし!うー、と唸りつつもう一度削る。
「へたくそ。」
「ひどい!」
 ぽか。綺麗に削ったのを投げて寄越した。というより、ぶつけて寄越した。いじめっ子。にや、と笑っている。あの微笑みは邪笑だ……。
 笑えるだけ、まだましか。
「ねーしぼちゃん、もうお仕事やめて寝ちゃわない?」
「私は寝るが、お前はその残りを片付けるのが先決だな。」
 訂正。
 あの天才が持っているのは、真っ黒けのおっきな羽だーっ!




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一年間未完成のまま放置していたような代物。で…お題に合うのがないんだ!強引に当てたのが『別れ』。お別れは無論韓信殿。ってーより、何で韓信の話になったんだ?これ。おまけに陳平がやきもちを焼きまくっているという(笑)。ギャグだった筈なのにえらく暗ーくなってしまったし。一人称なので、最後の辺り陳平の思い込みを暴走させるのが楽しかったです。しぼちゃんの本音は他のお題を読んでいただければそこはかとなくお分かりになるはず。(笑)全然通じてないわ素直じゃないわ陳平は勘違いしまくってるわで一人称の醍醐味を満喫しました。君も案外鈍いな、陳平君。しかし、これが韓信殿の話のB面だとは、ねえ……。その内シリアスな韓信殿を書いてみたいのだが、元々どたばたのほうが好きなのでネタが出ないんだ…あんなにエピソード満載のキャラクターだというのに。ちなみに期せずして薔薇の名前シリーズ第二弾。とゆーのはいつぞや韓非にタイトル掻っ攫われた話というのがこれで、穴を埋めるためにタイトル付けの嫌いな高松がバラ図鑑をひっくり返したという。コンパッションはつるバラでサーモンピンク。意味はサブタイトルのとおりです。


いんでっくすへ