「貴方は私を殺すためにあの時恩を掛けたのか!」
その男の断末魔と引き換えに、私は人臣の最高位に上った。


Funeral March
-葬送行進曲


「お悔やみ申し上げましょう。」
と、その人は言った。畑の中、茂った葉を掻き分け、時には間引きしながら、瓜の育ち具合を見る手を休めて私を見た。
 秦の侯爵だった人だった。
「やはり、そうですか。」
−ま、おめでとうとは言っておきますよ−
 気軽というよりは軽薄に、そして濃厚に皮肉を焚きしめた祝辞を思い出した。彼は礼式通り祝辞を言いに来たはずだが、あれほど祝いに聞こえない祝辞もない。近くにいた周勃が手加減なしに一発お見舞いしたのもむべなるかなだ。もっとも、その始めあれだけ嫌がっていた年下の策士とずっと行動を共にする間、あの二人はそれなりに打ち解けたものらしい。
 そして彼は、他人の功績を妬んで皮肉るような程度の低い男ではなかった。
「やはり、ときましたか。さすがに万世の功をあげるほどの方はよくわかっておられる。」
 目の前の男の声が、私を現実に引き戻す。いるのは息子ほどの年頃の策士ではなく、私と年頃の近い、笠をかぶり野良着を着た白髪交じりの男だ。彼は再びしゃがんで、瓜の様子を調べ始めた。私もまた彼の傍らにしゃがみこむ。
「お召物が汚れますよ、相国。」
と彼は気遣った。
 この人が、かつて誰を『丞相』と呼んでいたのか、私もまた良く知っていた。いや、数年前であれば私は彼の足元にも寄れはしなかっただろう。
「私は相国に見えますか、東陵殿。」
 嘆息と共に転げ出た言葉は、私の本心だ。かつての秦の東陵侯は、雑草を抜きながら首を振った。
「私にお聞きになるのは間違っておられますよ、蕭相国。敗者にお尋ねになる質問ではありません。」
「いえ、秦に仕えた貴方だからお尋ねしたいのです。貴方はあの人を、丞相であった李斯を御存知だ。碩学として知られたかの忠臣は、丞相としてどうあったのか私は知らない。」
 彼は再び首を振る。大振りの瓜を一つもぐと、手渡した。
「出来が良さそうですから、お口に合えば。」
「東陵殿の瓜と言えば、長安垂涎の的ではありませんか。喜んでいただきましょう。」
 それでも、私は瓜が目当てでここに来たわけではないのだ。
 しばらく黙々と雑草を抜いていた彼は、途中から私が手伝い始めるのを見て根負けしたらしい。相国ともあろうお方が手を汚すものではありません、と言われた。
 元々秦の治世でも刀筆の吏として勤めていた私は、自宅の菜園程度しか知らない。陛下に従って挙兵してからは土いじりなどする間がなかったし、何故か功労第一等を受けて長安に来てからは、身分柄土など触らなくなった。だから陛下や陳平が野良仕事の退屈さを延々と愚痴る理由はよくわからない。
 秦の東陵侯は野良仕事がお嫌いではないようだ。
「あの人は何と申しますか…すごい人でしたよ。」
と、今は庶民となっている東陵侯は呟いた。
「始皇帝もえらいものでしたが、皇帝の思いつきを形にしたのはあの人ですな。とにかく何でもよく知っている。六芸経典に通じるとはあのような人を指すのでしょう。秦律を事としておられましたが、他の事でも下問されれば必ず何かの答えはお持ちでしたよ。私風情は遠目に見ているばかりでしたが、大学者の風格がおありだった。」
「学者…ですか。」
 始皇帝は学問を欲していたのか?そうとは思えない。世間の学者を埋め、様々な書を焚いた男だ。知識や文化に造詣が深いかと問われれば、答えは否だろう。
 それでも秦の治世に影のようにつき従い、覇業を支えたのは一人の大学者だったという。刀筆の吏、小役人などではなく。
 当然か。笑うしかない。
 始皇帝在世時の秦軍は無敵だった。人員補填のために壮丁を駆り集める必要などなかったのだし、糧抹の調達に悩む必要もなかったのだから、勢い有能な将だけを必要とし、その采配に応えた戦果を上げたのだ。
 有能な将。数ヶ月前、私が手を下したに等しい男の声が脳裏を過る。
『貴方は私を殺すためにあの時恩を掛けたのか!』
「私は学者なんか、なれませんがね。」
 学者になればよいのか?上は私に学問など求めているのか?あの大の儒者嫌いの劉邦さんが。
 あの人が何故私を祭り上げたのか、私にはよくわからない。戦功第一と満座が認めた曹参を差し置いてまで、種々の特権を何故私に与えたのか。
 確かに私は後方支援を確実に果たした。けれど、それが長安に残った私の仕事だったのだし、その意味では誰もが自分の仕事をきちんと果たしていたのではなかったか。曹参の納得が行かないのも、もっともだ。沛の役所で親しくしていた同僚の彼と疎遠になってしまったのは私にも辛い。
 何故これほどの恩典を?
 かつて尋ねた私に、上はにやりと笑ってこう答えたものだ。
『二百銭、二百銭さあね。借りは返すよ、蕭何。』
『二百銭?』
『お前、わしが徭役に出る時、一人だけ餞別弾んでくれたじゃあないかね。』
 覚えていてくれたのかと。
 嬉しかったが、それで人事を配置するのは滅茶苦茶だとも思う。私ならこの漢という組織の頂点に据えるには……。
 誰を?誰が据えられるのだ?
「親切にしてくださるのは結構ですが、私には社稷の何のという重責など負えないのですがね。」
 再びため息が口を吐いた。東陵殿は手を止めた。
「貴方は寵幸されているとお思いなのですか?」

 七年ほど前であっただろうか。漢王が滎陽に囲まれて糧食もなく、最悪の危機に陥った頃の話だ。私は長安にいて、催促されるままに物資や壮丁を前線へ送り続けた。上は悪律儀なほどまめに慰労の使者を送ってきたものだ。
 それどころではなかろうに。軍師殿の書簡からも、陳護軍の報告からも、項王に囲まれて手も足も出ない現況がうかがえる。一々労う必要はないのに、と眉を顰めた私に、鮑先生が釘を刺したのだ。
『貴方をお疑いだからですよ。』
と。
 身内で兵役に耐える者を全て前線に送って疑いを逃れ、信任を得るべきなのですよ、と。
 それが『一族を上げて漢王を支援した』という勲功に変わったとは、皮肉な話だ。

「…上は私をお嫌いなのでしょうかね。」
 ため息が出た。あの人は皇帝という至尊の位に、かつて自分が憧れていた始皇帝にとって代わったというのに、まだ落ち着かないのだろうか。同じ街に住んで、お互いにいい暮らしをしている。あの時の、食べ物に事欠き、一歩間違えば項王に殺される切羽詰まった日々は、既に遠い。
 沛でのように、落ち着いた暮らしが戻ってくると思ったのは私の錯覚だったのだろうか。
「淮陰侯が反したでしょう。まして貴方は主上につき従って転戦なさったわけではない。ずっと長安を守っておられた。加封と護衛にかこつけて、監視されているようにしか思えませんよ。」
と、草取りを続けながら東陵殿は淡々と語った。
「…秦の丞相も、そんな気苦労をお持ちだったのでしょうね。」
 彼はくぐもった笑い声を立てた。戸惑う私に、更に意外な事実を告げた。
「始皇帝は李丞相を監視などなさいませんよ。皇帝が苦言を呈したとまた聞きしただけで、飛び上がって改めるようなお方でしたからね。何と申しますか、陛下のあるところ李丞相ありです。皇帝は絶対に丞相を離さなかった。丞相も始皇帝が崩じてから人が変わりましたね。」
 まさか、そんなことが。
 始皇帝は、誰も信じてなど、いなかったのではないのか?
 加封を辞退し、家財を投げうって軍費を助けるようにという、東陵殿の助言が耳の横を通り抜けた。

「おや、お疲れ。」
 ひょい、と顔を覗き込んできたのは、無礼と自堕落で知られた護軍中尉だ。元々私は彼と親しくない上に、先方も煙たいのかあまり寄ってはこなかった。沛以来の古馴染み周勃が、弾劾までした彼と皮肉にも終始組にされて転戦していたので、半泣きで愚痴りに来たため知っているようなものだ。あの軍師殿までを憔悴させたというのだから、彼の不品行も並ではない。もっとも、優雅である一面、誰にも行動に容喙させない軍師殿の歯止めとなれるのも彼だけではある。
「やつれてますよ、相国。偉くなったんだから、もう少し景気のいい顔してくださいよ。」
「あんな皮肉な祝辞をくれた人に言われたくはありませんね……。」
 いやあ、と着崩した朝服でけらけらと笑う。もう老いの声を聞いている我々と違い、彼は男盛りのただ中で、華やかな空気を振りまいていた。周勃が『顔だけは冠玉、中身は最悪』と言った通りの美男も健在だ。
「つーより、まさか貴方が淮陰侯を殺すと思いませんでしたよ、俺は。」
 笑いを収めて彼は言う。じっと見つめる大きな瞳に、私は知らずたじろいだ。
「あんたが見つけたんでしょう。あの大将。」
「…彼は、漢に弓を引こうとした。」
「追い込んだのは誰なんです?」
 彼はさらりとほのめかす。私は一瞬首を傾げ、次には絶句した。年下の策士はわざとらしいため息をついた。
「浮かばれねーな、韓信も…韓信でさえ殺された、それも手を下したのはあんただ。なのに自分は例外、主上に好かれてるなんてめでたい発想はどっから出てくんの?漢に逆らう者は容赦しないのは結構ですがね。韓信は追い詰められて爆発したってことを覚えといた方がいいんじゃありませんかね。奴は大きな勢力を持っていた、だから皇帝は恐怖した、それで俺に奴の勢力を削れと言った、だから俺はあいつを罠にはめた。恨まれて当然ですよ。悪人で知られる俺ならまだしもだ。恩人にはめられた上に斬られるなんて、奴としちゃ死んでも死にきれなかったでしょーが、あんたはそれで相国になったんでしょ。そりゃ幸せになる義務がありますよね。皇帝に疑われても、奴の血にまみれつつ相国を背負って幸せになる義務がね!」
 ぞくりとした。一見浮薄に見える陳護軍が笑いを消して私を見据えた。
 韓信の最後の表情がだぶって見えた。
「貴方はそれほど淮陰侯と親しかったのですか?」
 私の声は震えてでもいただろうか。意外だった。本人も言った通り、楚王だった韓信に罠を張って引きずり出し、捕縛して淮陰侯へと降格させたのは彼の詐略だ。韓信も陳護軍と行来はなかったはずだ。むしろ誰とも疎遠である者同士、軍師殿とはそれなりに親しくしていた気がする。
「親しくなんかありませんよ、あんな奴。」
 投げやりに嘯いた彼は、続けて吐き捨てる。
「でもあれはないでしょうが。奴は漢に見切りをつけてても、あんたのことは信用してたんだ。俺は、よりにもよってあんたが奴を説得もせずに、いきなり斬ったって聞いて後味悪かったですよ。あのくそなまずだって仰天したくらいだからね。しぼちゃんは陰で泣いてたし。そこまでやって『大功』立てたってことは、韓信が今までかぶってたものをひっかぶる覚悟があるってことですよね?」
 彼の口の悪い同情に少し驚いていた私は、ここで息を飲む。
 韓信が今までかぶっていたもの。それは上の強烈な疑いだ。
「相国?」
 背後から聞こえた声に救われた。
「軍師殿。おいででしたか。」
と振り向けば、相変らず端正な様子で張子房殿が立っていた。普段は病身を理由に参内しないこの方が現れるのは、上が招待する時だけだ。
 かつて楚と戦った功臣の中で、曲がりなりにも上が猜疑の目を向けていない、稀な例外だった。
「しぼちゃん!…すみません、軍師殿…。」
 優渥な笑顔で私に挨拶しながら、一方でしたたかに陳護軍の足を踏み付けたらしい。涙目で見つめる陳護軍を無視して、穏やかに私の近況を尋ねた。特筆すべき近況はない。私の暮しはよくご存知でしょう、と答えると、微苦笑を浮かべた。
「相変らず数字と木簡と刀筆に埋もれておりますよ。」
「それはまたお忙しいことだ。さぞかし御心労も多いでしょう。護軍中尉、あまり相国に噛み付くものではない。相国は既に十分苦労なさっておられる。余計な口を差し挟まれるのは如何なものか。」
 にっこりと、しかし、しっかりと陳平殿に釘を刺す。不肖不精といった体で陳護軍は口を閉じ、物言いたげに子房殿を見た。上に陸大夫がご用とかで、辞去してきたのだそうだ。上の不機嫌な顔がすぐに浮かんだ。あーあ、と苦笑した陳護軍の顔を見るからに、似たようなものを想像したらしい。
「じゃ、しぼちゃん…すみません軍師殿、お茶でもしません?」
 童顔に屈託ない笑顔を浮かべて、いそいそと誘う。が、軍師殿は私に向き直った。
「ゆっくりお話するのも久し振りです。相国がよろしければ、いささかなりと不肖にお時間を割いていただきたいのですが。」
「勿論です、軍師殿。よろしければ陳護軍も……。」
 彼の軍師殿に対する執着は、知っている人間は知っている。あのろくでもない札付きがわかりやすくなるのは子房殿が絡んだ時だけだ、とは、これも周勃の愚痴だ。果たして彼はにっこりと微笑んだが、一言でそれを引きつらせたのは軍師殿の面目躍如ではあった。
「いえ、折角の機会です。久し振りに差しで如何ですか。護軍中尉とは先日、代の征討で数々の卓見をお聞かせいただいた。いい加減私の顔など見飽きておられましょう。」
 彼が抗議の声を寸前で止めたのは、どう見ても軍師殿の笑顔が『絶対についてくるな』と恫喝していたせいだろう。気の毒ではあったが、私にしてやれそうなことはなかった。取り成すべき子房殿は、既に踵を返して先に歩き出していた。

「少し可哀想ではありませんか。」
 他愛のない世間話を少し、酒が少し。雰囲気がくだけてきた頃合いを見計らって、私は彼のために口添えをした。軍師殿は艶やかにきらめく瞳を細めて、
「相国はご親切に過ぎます。」
と優雅に、けれどもばっさりと切り捨てた。
「案ずべきは彼ではなく御自身の身では?」
「面目ない。軍師殿がご覧になっても、私は上に嫌われておりますか。」
「誰か貴方にそのようなことを申しましたか。」
「ええ、折に触れて、何人もの方が。私は誠実に尽くしてきたつもりですし、それ以外のことはできません。貴方のように軍略を提示することも、韓信のように大軍を率いることもできない。いや、樊噲や周勃にも劣るでしょう。私にできるのは街と住民を保護することだけですし、上のために真面目にやってきたつもりなのですが、わかってはいただけないのですね。」
 この年下の友人と向かい合うと、何故か愚痴がこぼれてしまう。私の愚痴の中身を理解してくれるのがこの人だけだからかもしれない。沛からの仲間たちは、気のいい連中で私を気遣ってもくれるのだが、そんなに大変なら書類なんか捨ててしまえと言って燃やしかねない連中でもある。ただ静かに聞いてくれる、そもそも育ちの違うこの人が、今の私には救いでもあった。
 子房殿は音を立てて杯を置き、じっと私を見つめた。そして意外すぎるほどの言葉を告げた。
「上はわかっていますよ、誰よりも。」
「え?」
「貴方のしてきたことがいかに大事か、陛下以上にお分かりの方は恐らくいません。貴方のお仕事の大変さや細かい内容なら、恐らく曹参殿の方がよく御存知でしょうし、上は知る気もおありにはならないでしょう。ただし、それが死命を制するほどの大事だと認識しておられるのは他でもない、上だ。だからこそあの方は、第三者が忠告せねばと思うほどしばしば貴方をお疑いになるのでは?」
「何故です?漢のために尽くしてきたことの、私の何が間違っていたと?」
「…貴方は間違ってなどおられませんよ、蕭何殿。」
と、玲瓏の声は私を呼んだ。
「わかっているからって…どうして?」
「貴方は人心を掌握する恐ろしさをご存知でしょうに。」
「ですから、上に信望が集まるよう、私は…!」
 長安を治め、未央宮を反対覚悟で建築し、貴方たちを支援し続けたのではありませんか!
 呑み込んだ抗議は軍師殿の元へ届いたのだろう。困ったような表情を浮かべ、
「貴方は誠実で良い方だ。その誠実さがある者に脅威となる程に。」
と呟いた。蓮葉な仕草で杯を弄び、中身を一息に呷る。旧六国の相家に生まれながら、この人には大胆な行儀の悪さがあり、だからこそ上はこの人を気にいったのかもしれない。
「脅威とは?」
 矛盾するような軍師殿の発言を問いただしたが、子房殿はただ首を振った。
「愛されているのは皇帝ではない。貴方だということは覚えていてください、蕭何殿。それがあなたの防壁となることを、私は願っています。」
「子房殿、貴方は、韓信を謀殺した私を軽蔑しておられますか。」
 ふとこぼれた疑問を、軍師殿は黙殺しなかった。いつもの優渥な笑顔を浮かべたまま、
「私でも同じことをしたでしょう。」
と、さらりと言ってのけた。
「護軍中尉は時々私を買いかぶっている。漢を保つためなら誰であろうと仇なす者は排除しますよ。私自身、かつて淮陰侯に言った。敵対した時には容赦しない、とね。貴方と、或いは私と道を違える決定をしたのは彼だ。止めはしないが、私が定め、貴方が築き上げた長久の計に刃向かうのなら、全力で潰すだけです。」
 淡淡と子房殿は語り、しかし私の方は見なかった。空の杯の底を、淡い微笑で見つめながら、続けた。
「だから、私は呵責を覚えている人間らしい貴方が好きですよ、蕭何殿。そして、最後まで貴方に愛情を持っていた韓信殿も好きでした。貴方たちは良い方だ。」
「それは貴方もでしょう、子房殿。」
軍師殿は再び首を振る。
「私は没義道ですよ。上と同じように。」

 上が没義道、という軍師殿の言葉は、私の頭から離れなかった。韓信の最後の言葉と同じく、ふとした折に浮上しては、相国府での仕事の手を止めた。
 かつて下僚だった曹参は、疎遠になっただけではなく、代の相国として文字通り遠い人となっていた。樊噲や周勃は連年の遠征で会うことも少なく、気がつけば、朝廷は知らない顔ばかりになっていた。上と同じ程、稀に現れる軍師殿を待つようになった。気兼ねせずに愚痴を言えるのは、軍師殿だけだった。恐らくは上からも散々不平不満を聞かされているのだろう子房殿だが、何一つ口に出さず、穏やかに耳を傾けてくれた。
 折々に触れて、人は主上の疑いを解くように勧めた。加増された封地、与えられた資金、全てを漢へと還元することで、あの人は満足するのだ。ならばそれでいい。私はそんなもの、元から欲しかったわけではないのだ。
 韓信の次に彭越、彭越の次に黥布。上は天下を取った後、功績の大きさに王として封じた者たちを次々と追い詰め、決起させ、確実につぶした。あるいは親征し、あるいは軍を派遣して、相手を倒した。私はかつて彼が項王と戦っていた時のように兵員を送り、補給を監督し続けた。それが相国という役の仕事でないのを薄々と感じながら。
 私は学者にはなれない。私は役人でしかない。
 それでも大学者の風格を持っていた李斯は丞相と呼ばれるにとどまり、私はその上の相国として担ぎ上げられている。どうして。東陵殿は答えを持たない。より多くの権限を付与してくれたはずの劉邦さんは私を絶え間なく疑い、臣下の全てを統御していたという始皇帝は李斯に監視をつけたりはしなかった、そのわけを教えてはくれない。
 沛の役所で酒壷片手に無駄話をしに来ていた劉邦さんの面影は、もうどこにもない。あの時役所にいた曹参の姿も、外で陽気に騒いでいた樊噲や周勃、嬰さんや灌の若いのの姿も、どこにもない。ある者は封地へ、ある者は征旅へ、ある者は屋敷の奥へ、散り散りになってしまった。そして韓信。私が追いかけてまで大将軍にし、漢を救ってくれたあの男は最早この世にいないのだ。
 私は韓信を思い出す。謀殺してまで取り除こうとした脅威を、懐かしく思い出す。それを『人らしい』と言ってくれた軍師殿の言葉に縋るようにして思い出す。
 回想の中の韓信は、治粟都尉として私の部下だった下積み時代の退屈さを押し殺した微妙な表情だったり、項王から手を差し伸べられるほどの勢力だった絶頂の得意の表情だったり、色々と変わった。もう表情など動かそうともしない、仮面のような『恭謙』を顔に張り付けた儒者が存在を増す朝廷で、私は最後まで生々しい表情を見せた彼を、あの天才を繰り返し思い出す。
 私が呼んだのだからと、疑いもせずに来てくれた彼を思い出す。
 そして、私もまた油断していたのかもしれない。

「蕭何さんが逮捕された?!」
「そーですよっ、あんた何とかしてくれませんか!私じゃどうもなりませんよ!」
「ちょっとー、周勃、何でそういう曲芸を俺に持ち込むわけ!何とかって、どーもできないよ、それは!お前ね、俺に死んでこいってーの?!」
「あんたより蕭何さんがいなくなる方が世間の損失でしょーが!!」
「周勃ひでえ!大体何であの人逮捕されたんだよ…ここんとこあちこちで土地買い叩いては支払い焦げ付かせてるってんじゃんよ。今更んなことで目くじら立てるなまずじゃないだろ。つーよりあいつは賭けで負けた代金さっさと俺に支払えよっ、くそ親父!ったく皇帝になったんなら、けちるのやめろってんだ!」
「あんたの賭けの代金なんかどーでもいいんですよっ!蕭何さんを助けてくださいってば!」
「あんだけ下手な悪党芝居に精出してて、どこでこけたんだよ、蕭何さんは…俺は聞いてないぞ。」
「焦げ付き話では機嫌良かったんですよ、劉邦さんも…その後で意味不明に怒らせたらしいんですけど、私わかんないんです。あんたわかるでしょ!」
「はい落ち着く、周勃ちゃん。何やったのさ、あの人馬鹿じゃないだろ……。」
「上林苑の空き地を、市民農園に開放したらいいんじゃないかって頼んだだけなんですよ…陳平さん?」
「げっ!…やっちまったか蕭何さんよ…最悪だ…それ、俺が出てっても役に立たない…つーより間違いなく悪化させる……。」
「えええええええ!!!じゃ、じゃあ私が行った方がいいですか?」
「やめろっ、周勃、本気でやめろ!共倒れになる!俺たちが出てっちゃ悪化するよ、間違いなく。少なくとも功臣だ列侯だっていう人間が出てったら、結託してるんじゃないかってなまず親父はますます疑うぞ!蕭何殿の立場悪くするわけにいかんだろうが。辛いかもしれないけど…第三者が調停するまで待つしかないよ。」
「誰が!そんな人、いるんですか!」
「あの人の仁徳を信じろ、周勃!それ以外にあの人が助かる道はないんだ!」

 暗い。湿っぽい。節々が痛い。
 手枷足枷をはめられて、動くこともままならない。用すら一人で足せない。不便や屈辱や苦痛を感じるのは当然だ。自分が入ると知っていれば、未央宮を建設する際、獄の設えにももう少し気を配ったものを。
 怨嗟の声も出なかった。
 どうして。どうしてなのです、劉邦さん。私が貴方に何をしたというのですか。
『ですから上林苑の空き地を民が耕作できるよう、許可していただきたいのです。勿論収穫には課税して、しかるべく官に納めさせ……。』
『お前、商人と結託しやがって、わしの財産分捕るつもりじゃろーが!んなのお見通しだわ!その頭、牢屋でとっくり冷やしやがれってんだ!』
 私の、何が貴方はそれ程気に入らないのですか!
「大丈夫ですかい、相国……。」
 腐りかけた粟粥を持ってきた見張りが、それでも心配そうに話しかける。少しでも食いなせえ、という辺り、これは好意の差し入れに近いのだろう。腹を下しそうな粥に、それでも私は口をつけ、顔を出した典獄と見張りは、少しばかり顔をほころばせた。
「何であんたみたいないい人がこんな目に会うんでしょうな、相国。」
 わけがわからない、と典獄が首を振る。手伝いましょうか、と手が不自由な私の代わりに、見張りが匙を持って口に食べ物を入れてくれる。
『愛されているのは皇帝ではない、貴方だ。それが防壁となる。』
 親切な典獄、親切な見張り番。けれども、彼らが皇帝という権力にいつまで太刀打ちできるというのです、軍師殿。今更ながら思い知る。私には、この沢山の人が行き来する朝廷で一人の友もいなかったのだ。
 体のあちこちが痛い。けれども、それよりもずっと、性質の悪い絶望が毒のようにじわじわと沁み込んできた。
 何故なのです、劉邦さん。

 何故なのです、蕭何殿。
 貴方だけは信じていたのに。
 蜀の桟道を形振り構わず走って追いかけてきた、貴方だけは信じていたのに!

 昼夜の区別もつかない牢獄のまどろみの中で、記憶の中の韓信はそう叫んだ。あの時、長楽宮で私を振り返った時の韓信の顔を私は忘れていない。呂后や衛士に向けていた憎しみや憤慨、それらが私に気付いた瞬間、全てを払い落とす絶望に変わったのを忘れることなどできない。
 韓信、韓信。けれど、私は劉邦さんを殺して漢を倒すという君を放置することはできなかったのだ。君を憎んでいたわけでも、殺したかったわけでもなかったのだ。
 今は何を言っても言い訳にしかならないのだけれども。
 私は自分に情を残してくれた韓信を殺して、もう私など用済みと思っている劉邦さんにいまだ縛られ続けるのか。そして殺されたとしても、私に怨訴する権利はないのだ。韓信に同じことをした私には。
−韓信にかけられた猜疑を背負って『幸せ』になる義務がありますよね!そこまでして『大功』を立てたというのなら!−
 自他共に不道徳をもって任じる陳護軍に、私は反論する術を持たない。湿気が多く、手足を拘束されて明日の知れない状態に置かれ、何も知らない家族に心中謝した。
 韓信は三族に至るまで誅殺されていた。

 四日の後、牢獄の扉が開いた。赦免が下った、と教えてくれた獄吏は嬉しそうだった。
 空の青さが眩しい。風が爽やかだ。
 上はやはり、私を信用してくれたのだ。沛での絆は健在だったのだ。
 早く上に会わねば。まずは、宥免への感謝を。そして、不興をかったことへの謝罪を。
 二百銭の余慶ですか、と戯れてもよいだろうか。
 履などいらない。殿上でそんなもの履かされているのは私だけだ。着替などいらない。それより早く上に会わねば。沛で仕事をしていた時より、これでも数段ましな格好だ。
 駆け込んだ私に驚きながら、上の侍臣は来訪を取り次いでくれた。小走りに進み出た私はまず頭を下げ、劉邦さんの顔を見た。

 不機嫌を隠そうともせずに、だらしない格好でこちらを睨み据えていた。
 間違いない。彼は私を許してはいない。

 私は力なく、端的に謝罪を述べる。諧謔も笑いもなく、会話が続く。飽きたのか、上は手振りで私の口を閉ざさせる。
「お前さんは賢相じゃよ、相国。んでもって、わしはろくでなしの桀王紂王ってわけじゃ。天下もようわかったじゃろうよ。」
 弾まない会話、いたたまれない沈黙。
『蕭何!差し入れに来てやったがね!仕事なんかやめじゃ、休め休め!樊噲、肉持って来たな!今嬰が周勃んちから肴積んでくるぜ!』
『劉邦さん、役所は酒場じゃありません!それと、また嬰に役所の馬車を私用させて!あれ、この間問題になって、庇うの大変だったんですよ!』
『酒場にしちまえ、そんなもん!蕭何、お前はお固いよ。酒が入れば知恵も浮かぶし愉快になるぜ!』
『私が首になったら、誰があなた方札付きの愚連隊を県令から庇うんですか!』
『なら感謝祭じゃ、感謝祭。日頃から世話になっとる蕭大人に献杯と洒落込もうじゃあないかね!』
 あの騒々しい沛の会話が、幻のようだ。
「休みでも取るこったな、相国。」
 同じ声が紡いだ同じ台詞の筈なのに、私はあの時のような軽口を叩くことができなかった。ただ恐躯して平伏し、儀礼に似た退出の辞を口にした。

 どこに行ってしまったのだろう。沛の仲間達は。昼間から酒を飲み、一杯気分で言いたいことを言い散らし、傍迷惑な大声で笑っていた人達は。日銭に事欠いたとしても、あっけらかんと人にたかって悪びれもしなかった友人は。人の仕事を平気で邪魔して遊びに誘い、けれど、大事になれば結束して助けてくれた、気兼ねのない隣人たちは!
 もう誰も役所の馬車を失敬したりはせず、仕事中に与太話をしに現れもせず、何も頼みに来なかった。
 私は沛の仲間と作り上げたものの『中枢』にいたはずで、それなのに知らない顔に取り囲まれて一人だった。
 みんな、どこへ行ってしまったのだろう。もう怒らないから、たまには役所に遊びにおいで。

「相国!お危のうございます!」
 女の声で我に返った。足下がふらついた。段を踏み外しかけたらしい。見兼ねたらしく、二人がかりで駆け寄って両側から腕を掴んでくれなければ、二段しかないような段差で転げ落ちただろう。
 何故か外朝に現れた、場違いな美人達に当惑しながら礼を言う。彼女達ははしゃぎながら振り返った。左の腕に別の美人をぶら下げた陳護軍が苦笑していた。
「相国じいさま。足元危ないんじゃありませんか?」
 失礼な。
 言いかけて、けれども声が出なかった。彼は美人を放して私を助けた礼を言い、用を思い出した、とこちらへ寄って来た。太后に仕える宮女が見送りついでについて来ていたらしい。さざめきながら、また、と戻って行く。笑顔で手を振りながら見送っていた彼は、女達がいなくなると、心配そうな顔で私を見た。
「ほんとに足元大丈夫?」
「そこまで老けてません……!」
 いや。私は彼を見直す。陳護軍は黙って頷いた。
 彼は、あの軍師殿が一目置いた謀士でもあったのだ。そして。
「貴方は韓信の友達で、私を恨んでいたのでは?」
 その貴方が、どうして私の進退を気遣ってくれるのですか。
 憮然として顎を突き出し、
「俺はあいつを友達だなんて思ったことは一度だってありませんよ、おじーさま。」
と不貞腐れる。
「大体、俺、恨むほど貴方のことよく知りませんし。と、いうより顔色悪いんですよ、貴方が。今にも死にそう、大司命から首に縄つけて引きずられてるって青い顔でふらふらして、挙句の果てに階段踏み外しかけるんだから。今度ちーちゃんとこに行ったら、彼女たちにお礼忘れないでくださいよ。その年で足の骨折りたくないでしょう。取りあえず顔色直しのために一杯ひっかけなさい。」
 名うての札付き策士は、さあさあさあ、と私の背を押した。あちこちから同情の視線が注がれる。相国府で知った顔もあり、知らない若い官人の顔もある。叔孫太傅は目をむいていたし、陸大夫は頭を抱えていた。けれど、一緒にどうだと誘える顔は誰一人なく、陳護軍も私に他愛のない話ばかり持ちかけて周囲を黙殺していた。
 彼に与えられた居室だったのだろう。相国府の私の居室ほど広くはないが、十分な面積のあるはずの部屋に、簡束の山があちこちに出来ている。事務処理の遅滞ではと眉を顰める私に頓着せず、明らかに仕事で使うべき棚に並んでいる壷の中から一つ選んで、雑多な物に埋まっている机上に載せた。どこからか、それなりにきれいげな敷物を取り出して座を設え、勧めてくれる。
 奇術のように次々と色々なところから食べ物が現れる。私の前の床に並べて勧め、一段落してから部屋の主は床にどかりと足を組んで座り込んだ。
「陳護軍…お行儀の悪い。」
「楽なんですよ、これが。大体こんな肩の凝る官服なんて着てられませんって。裳なんてかったるいもん穿かされて、いい所ったら足組んでも股ぐら見えないってことだけじゃないですか。」
「陳護軍!…すみません。」
 私の性格も一朝一夕では治らない。どうやら気にしてくれたらしい油断ならない才子にまで小言を垂れてどうするのだ。もっとも彼は頓着しなかったらしく、それどころか、
「説教するのが貴方でしょ。説教してぶん殴るのが周勃で、問答無用に凶器投げてくるのがしぼちゃん。てーか、貴方はその方が自然ですよ。」
と、並々杯に満たして寄越した。久し振りに一息に呷る。むせた。あー、と呻いてから、
「何でまた、しぼちゃんといい貴方といい…やめた方がいい人に限って強いのを一気飲みしますかね。」
と慨嘆する。本人は手酌で、杯ではなく椀に注いでいた。
「貴方が酒と女を欠かさないというのは聞いていましたが…そんなに飲んでは臓腑を壊しますよ。」
「このくらい飲んだ内に入りませんって。貴方も少しくらい飲んだくれに片足突っ込んだら、もう少し足場が良かったんでしょうが。」
「初耳ですね。」
「時と場合に応じた足取りってものがあるでしょう。役所なら堂々と歩けばよくても、ぬかるみで行進なんて仕出かしたら泥まみれになるだけだ。飛び越すなり、慎重に進むなりしないと、泥をかぶるのは自分ですよ。俺はまだしも、しぼちゃんやら周勃は泣きますからね。少し周りのことも考えるものです。」
「陳護軍。貴方には、そこまで悪路を歩いているように見えますか?」
 椀に手酌で注ぎ足しかけていた彼の動きが停止した。
「見えますか、って…貴方には自覚ないんですか?!」
 椀を置いて、信じられない、と呻いた。
「蕭何さんともあろうお方が、気付いてないわけ、ありませんよね?!」
「私の、何が間違っているんです?!」
 彼には明白な悪路。私はまだ、そこに足を踏み入れてはいない。いないはずだ。上は、劉邦さんは、昔からの気心知れた仲だ。
 陳護軍は額に手を当てた。
「私は上と漢のことだけを考えて……!」
「あんたは相手の価値を考えなさい、蕭何さん!」
 私の言葉を遮って、叫んだ。
 劉邦さんの価値?
「あんたが尽くしてやってる奴は、あんたの信頼に値しない、違いますか?!見てて歯がゆいにも程がある。誰も信用してない人よりましですが、それで自分が死んだら話にならないでしょう!あのなまずに、どれだけ手放しの信頼寄せてるんです!」
 声が出なかった。

 韓信、韓信。君は最後まで私を信じてくれたのだね。その君を裏切った私には、劉邦さんを信頼し続けることすら許されないようだよ。
 君を裏切った罰なのかもしれないね。

「泣かないで、蕭何さん。」
 霞んだ視界に、縁まで注ぎ足された杯が映る。
「どうして……。」
 疑問だけがぐるぐると頭を回る。
 どうして取るに足りない私などを疑おうと思うのか、全然わからない。私は韓信のような能力を持たないから、反旗など翻しようがないことなど明らかだろうに。
「飲みなさい、泣き上戸の蕭何さん。」
 彼は杯を押しやった。つられるように、私の手が伸びた。
「飲んで忘れておしまいなさい。」
 勧められるままに杯を重ねる。
「酔って絡んで出しておしまいなさい。」
 どうして、どうして、どうして。答えのない疑問を繰言のように垂れ流し、酔漢の醜態をさらす。彼は笑わなかった。吐き出しなさい、と、飲ませ続けた。
「ねえ、蕭何さん…貴方には千鳥足で歩く練習が必要ですよ。」
 優しい声が聞こえる。

 何もかも投げうって貴方を支えた。それなのに、私達の間には、僅かな信頼すら存在しなかったのですか、劉邦さん。
 東陵殿は、始皇帝はもう少し李丞相を当てにしていたと言っていましたよ。
 私は学者でも、韓信みたいな将軍でもありませんが、沛からの付き合いじゃありませんか。そんな他人行儀にしなくたっていいでしょう?!

 若い男の柔かい声が、上掛けのように私を包む。私は素直に目を閉じる。
 もう休もう。劉邦さんの言う通り。
「さあ、相国、眠んなさい。私がそう望んでいる。」




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初めてあいほん使って書いた話です。そして、evernoteがあまり使いこなせていない。便利ですけどね。同期するのはほんとに楽。ばけらったが減れば最高なんだがなあ。上書きじゃなく片端から追加されていくんで、長いものを書いたり読んだりするのが不便なときがあるんだ。スクロール連続。
で、お題の蕭何さんでした。蕭何さん好きなんだが、本人も言うようにこの人長安にい続けなので、しぼ話本編やらお題には登場回数少ないのです。しぼ現代版ではお固い総務部長(笑)としてしばしば出現しているのですが。優秀な総務部長を疑っちゃいかんよ、なまずさん。地味な人ですが、漢初三傑の中では一番まともな人なんじゃないですかね、蕭何さん。最後の陳平の台詞はパクリです。何をぱくったかわかった方は笑ってください。堀口訳いいなあ。ちなみにお題は「ちりぢりに」。


いんでっくすへ