愛することも
憐れむことも知らないが
嘲笑することや
厭味を言うことは知っている
     −ミール


Mon jeune ami
-待ち受けた鎮魂曲−


「樊噲が?」
 絶句した。大丈夫か、のーみそ。…大丈夫じゃないよなあ、どう考えても……。
「そうじゃ、あいつ絶対わしが死ぬのを待ってやがる!そうは行くもんかい、誰が死んでやるかだ。その前に奴を殺してやるさあね!」
と病床で喚くなまず親父の目が据わっていた。危ない奴は刺激しないに限る。刺激すると大抵ろくなことをしない。しないですめばいいが、飛んだとばっちりでこっちに火の粉が振りかかってきちゃ嫌だ。それにしても…何故樊噲。あまりのボケっぷりに怒る気も失せる。
 樊噲ったら、このなまずが田舎のごろつきだった頃からの仲間だっていうじゃないか。子房殿は樊噲をあれでかなり買っていて、実際鴻門の会で奴はなまず親父を救うのに奔走したのだ。樊噲が盾で人をふっ飛ばしながら項王の陣を暴走し、あまつさえ直談判に及んで気に入られたのは俺も見て知っている。あの時は楚軍の都尉だった。
「取りあえず酒でも飲んだらどうですか。かりかりしちゃあ、ろくな知恵は出ませんよ。傷養生にだっていいわけがない。」
 酒が効くわけもないのだが、そこは飲み仲間の呼吸だ。ぶつぶつと愚痴りつつも籍孺を呼びつけたなまず、おっと皇帝陛下は、どぶろくを持って来させた。…出世したんだからいい酒出してくれよな、けち。どっか足りなさそうな美貌で小ずるい顔つきの籍孺が、いい年のなまずひげに色目を使いながらしゃなりしゃなりと出て行った。
「…陳平、お前相変わらず図々しいよ。何でわしのおとっときをそうばかすか飲むんだね。」
「けち臭いこと言いなさんな。あんたが勝てたのは鷹揚だったからじゃないんですかね、へ・い・か?」
 そら、笑った。他愛ない。んま、と濃厚な米の酒をすする。
 …昔飲んでたのは、悪くなったのってより、酢だったからな……。健康にはいいのか?嫂さんはいっつも渋い顔してたけどな。ってーか、怒鳴られてたよな……。
 嫂さん、元気かな。
「まあ、お前に任せるよ。ったく、盧綰といい樊噲といい、どいつもこいつもろくでなしばっかりさあね!人の死ぬことばっかり願いやがって!」
 杯片手にくだをまくなまず親父である。ったく。
「はいはい任せときなさい任せときなさい。俺に何らの主義主張がないのはあんたもよく知ってることでしょう。」
 あんたにもないけどな、という一言は飲みこんだ。
「俺は酒が好きなだけ飲めてやりたいことをやらせてもらって、ついでに飯と肉が好きなだけ食えて女に不自由しないならそれでいいんですよ。」
「あんたも大概図々しいよ、陳平。少しは子房さんを見習って品行方性を目指しちゃあどうだね。あの人、また食養生してぶっ倒れかかったっちゅーじゃないか。うちのくそばばあがそんな話を仕入れてきたぞ。」
 そりゃあちーちゃんにしてみれば、子房殿が味方に回るかどうかは死活問題でしょうよ。敵に回ったら物騒極まりない。けれども、別な意味でちーちゃんも物騒だから、子房殿も迂闊なことはしないだろうが。
「あんたの権限ってのは何のためにあるんですか。子房殿宴席に呼びつけて食わせればいいでしょうが。でなきゃ、あの人は絶対食べませんよ。避穀の修行だか何だか知りませんけどね、仙人修行もあそこまで行けば気違い沙汰ですよ。ったく、止めてくださいよ。あんたも子房殿に倒れられちゃ困る口でしょ。」
「お前なあ、人に言う前に自分で止めちゃどーだね。」
「俺はあの人の口に食べ物ねじ込んだことがありますよ。その結果どれだけ嫌われてるか、あんたも見てるでしょうが。俺、あの強情軍師には勝てません。」
 両手を上げる。しょうがないなあ、あんたもそういうところは若造じゃね、とまんざらでもない顔をしたなまず親父だった。
 ろくに物を考えたこともなく。これからも恐らく考えないだろう『皇帝陛下』は嫌いじゃない。なのに、何がどこで食い違ったのか、帷幄の軍師の不吉な予言は着々と現実になりつつある。
 知ってるさ。用が終われば功臣なんか邪魔なだけだって。けどさ。しぼちゃん。このなまずは、貴方のことがやっぱり好きで、与太話を聞いて欲しくて、死にたくないと喚きながら貴方をずっと待っている。
 ねえ、教えて。何が狂ってしまったの?
「樊噲のことは俺が責任持って引き受けます。だから、あんたはしぼちゃん見張っててくださいよ。あの人寝ついたら、俺の俸給三倍増ですからね。」
「何でお前が加増になるんじゃ、この悪党!」
「…元気にしててくださいよ。僻地の地酒でも持って帰りますからね。」
「おうし、酒のためなら頑張ってみるよ。先生、頼んだよ。」
 じゃあね、と別れても、退出する俺には分かっていた。
 これが最後の別れなのだと。

 樊噲誅殺のためと聞いて、遠征の相棒に指名された周勃が喜ぶはずがない。むしろ葬式のような顔をして俺を恨めしそうに一瞥し、黙々とついてきた。運悪く総大将にされたのは、俺の進言のせいだって知ったら爆発するぞ。何たって奴と樊噲も沛以来の仲良しだもんな。
 長安を出ても、俺は必要以外周勃と顔は合わせなかった。周勃ってのがまた馬鹿正直な男で、腹が立ったとなったらそれを隠そうともしないから、事務連絡以外は一切なしの行軍だ。それが吉と出て、猜疑心の固まりと化しているはずの我らがなまずの皇帝陛下は、あまり喧嘩するんじゃあないぞ、と機嫌よく送り出してくれたのだった。
 長安から北上する。七日の行程をこなしたところで、俺は酒壷片手に周勃の幕舎を急襲した。そろそろ種明かししておかないと、正直者の周勃ちゃんが全てぶち壊しにする危険がある。
 このたびの遠征について皇帝からの指示を大将軍にお伝えしたい、というはったりで、渋々ながら俺を入れた周勃は手にある酒壷を見るなり顔中口にして喚いた。
「あんた結局遊びに来たんでしょっ!今んとこあんたの顔見たくないんですから放っといてくださいよっ!」
「ひどっ。あのさあ、大将軍なんて拝命して災難だな、お疲れの先輩を労わってあげよーかなってけなげな俺にいう台詞?」
「その人を食った台詞自体を反省しなさいっ!この人事があんたの差し金以外の何だってんですか!」
 あら、そこまではわかってた。
「そこまでわかってんなら、もうすこしわかってほしかったよなあ。まあ、この傍若無人には定評のある陳平さんが何で七日も周勃からかうのを我慢してたのか、少し考えてよ。」
 軽い口調を続けるが、笑いは消す。さすがに周勃が人払いをかけた。誰もいないよな、と俺がチェックする。まだ近くでうろうろしてるのがいたので、
「周勃ちゃんと飲み会するから、君たちも遊びに行っていいよ。」
と幾らか握らせると、見事なまでにかき消えた。ふん、こんなのは基本中の基本。ついでに、酒場であやしい噂なんかあったら後で教えてね、って付け足したから一石二鳥。
 戻って幕舎の入口を後ろ手に閉じた。そして、立ったまま。
「んじゃ、樊噲救出計画の記念すべき第一回会議を開きますか、周勃ちゃん。」

 そもそも周勃を推薦したのは、奴ならあちこちから聞こえる讒言に迷って日和見を決めこむような奴じゃないとよくわかっているせいだ。こんな物騒な計画には俺と連携できる将が必要で、ついでに遊び人の監視役ときたらずっと組んで仕事をした周勃以上の奴はないと言ったら、一も二もなく賛成したのがなまず親父だ。裏の計画を同時進行させながら、俺はちっとも悪いとは思っていなかった。むしろ、感謝しろくらいな勢いだ。
 樊噲救出計画なんて、皇帝の命令を無視以外の何でもない。日和見男なら、これを先途とご注進に走って、樊噲ばかりかこっちの首まで飛ばしてくれかねない。だから俺は周勃に何も知らせず連れてきた。もし長安を出る段階から周勃がこっちの計画を知っていたら、俺の人非人な策に一言の異議も唱えずにほいほい乗っただろうし、そうするとなまず親父に感付かれて全部水の泡だ。逆に俺だけだと何仕出かすか信用できないとなまず親父は思っている。なーにが曲逆侯だ。だから実直一筋の周勃が俺に張りついているのは、奴にとって大変よろしいのである。
 俺にとってもだけどな。
 けれどもそろそろばらしておかないと、周勃が独断で極めつけにまずい計画を実行したり、逆に思いつめて早まって樊噲を殺したりしかねない。というわけで、俺は酒のまにまにひとしきり説明をする羽目になったのである。俺、基本的に自分の考えたこと説明するの面倒だから嫌なんだけどなあ。ってーか、自分の昔考えたこと一々書面に書いておく奴って、あれ何?一発屋が過去の栄光に綻ってるとしか見えないんだけど。
「…だーから、よせばいいのに廬綰追っかけて、元々向いてない陣頭に立つからだろ。あの人が陣頭に出たときって大抵ろくなことがないじゃん。項王には散々叩かれるし、匈奴では凍りそうになったし、本人はあちこちで大怪我するし、んでもって怪我したら絶対帰りたがるじゃん。ったく、総大将なんて威張って出てこない方がいいんだよ、あの人は。こないだだって結局大怪我して、それが治らなくて病みついてるわけだろ。そのせいでめげて讒言に耳貸しやすい後ろ向きな心境になってるんだから、今は刺激しないのが上策。でも絶対後になったら、やばい失敗した!って後悔するに決まってる。そこに樊噲助ける余地がある。」
「…ほんとに後悔しますかね。」
 ぽつり、と周勃が呟いた。するに決まってるだろ、とは言えなかった。
「しなかったとしても、そうなったらちーちゃん経由で手を回すまでだ。」
「呂のおばさんですかっ?!あんなおっかない人……。」
「樊噲の嫁さんはちーちゃんの妹だ。」
 周勃は青くなった顔で、かくかくと頷いた。
「はっきり言う。なまず親父は長くない。次に権力を握るのはどう見ても皇太子の母君、ちーちゃんだ。そうしたらすーちゃんがいとも気高き姉上に、旦那殺された復讐を持ちかけないと、どうして言える?」
 そう。樊噲救出には、別の側面もあるのだ。周勃は震え上がった。
「悪いが、呂氏一族の出方は場当たり式だ。ちーちゃんがまだ話が通じるってだけで、後はお話にならないの、わかるだろ。」
「…命令がどこから出たかなんて、聞いちゃくれないってわけですね。」
「ご名答。ってより、俺にせよお前にせよ、消えてくれればそれだけ自分たちの取り分が増えるとしか思っちゃいない、寄生虫だよ。だから俺とお前は仲良しじゃいけない。真面目に仕事しちゃいけない。まともな発言しちゃいけない。おわかり?」
「な、何で真面目に仕事しちゃ……。」
「お前が大将軍だろーがっ!軍権握られてみろ、下手なことやって族滅されると思ったら、あの呂産ってのは思い込みだけでお前の首を飛ばすためちーちゃんにあることないこと言うぞ!」
 周勃がすくみ上がった。真面目一筋に生きてた周勃には理解できないのかもしれない。それでいい。
 俺が助けてやるから。
「いーか。奴らはお前が怖いの。そのお前さんが、この知謀冴え返る陳平さんと組んだらどーなると思いますかね、しゅーぼつちゃん。はい、考える。」
 あちゃー、めげちゃった。俺はあのなまずが沛でくだ巻いてた頃は知らないから、別に周勃みたいな感慨はない。
「何で、こんなことになっちゃったんですかね。」
 しばらくめげていた周勃が呟いた。
「人間なんて結構けちくさいもんだよ。」
と俺は嘯いて、本当のことは言わなかった。

 あのなまずは皇帝になって変わった、とはっきり言える。人間が変わったってわけじゃない。今まで隠していたことを隠せなくなったってとこだ。問題なのは、それが求心力を低下させるような性格だってことである。
−私はあれだけの男に『使われる』ような存在でしかなかった!−
 あそこまで考えたことはないが、なまず親父がどこかで部下を物扱いしているのは薄々感じていた。必要なら悪気なく擦り寄ってくるのだが、不用になるとわかりやすく遠ざける。子房は口にこそ出さなかったがいつもそれを嫌っていた。俺は個人的な好き嫌いに関心の薄い男なので、それはなまず親父の勝手と放置していたが、この勢いでは放置もできない。遠ざける、ですまずに、誅殺する、になるからだ。
 不要どころか有害としか考えていないのだろう。それで近付けるのが、頭は空っぽの美少年籍孺だなんて、ああ笑えない。あーゆー奴は自分がのし上がるためなら、言いたい放題讒言するからな。呂后ちーちゃんのお身内も同じことだ。頭は空っぽの脳なしろくでなしばっかりだから、暇さえあれば讒言に精を出して、他人の首を飛ばしてから後釜に納まるしか能がない。実力でのし上がる能も自信もないんだろうな。
 わかってしまえば簡単なことだ。自衛するしかない。自衛するしかないからあの人は俺に近付くなと言い、俺も馬鹿正直にそれを守った。いや守らされている。周勃なんかは厄介だ。本人が善意の正直者なのでそれでいいと思っているのだが、誰も奴の人格など問題にしない。巨大な軍隊の指揮権を握っているということ自体が呂氏一族からすれば既に罪悪だ。少しは樊噲のことで危機感持ってくれればいいんだけど。
 余計なことに気が付いてしまった俺は、趣味に走って遊び暮す。華やかな恋と極上の酒、それこそが何よりの保身術なのだから。そして遊び仲間のなまずひげの『皇帝陛下』は、年下の道楽仲間として俺を時々近付けた。
『お前、どうしてそんなに頭が切れるかね。子房さんは別格としても、いや、悪知恵にかけちゃお前さんは子房さんも真っ青だよ、先生。』
『へーえー、そーゆーこと言いますか。せーっかく人があのくそ真面目な蕭何さんの目をくぐって長安新規開店の妓楼に連れてったげようと策を練りまくって三日寝ながら考えてたってーのにー、ひどいですよねー。いいです、俺いじけてうち帰って、可愛いおねーさんと一緒にふて寝します。』
『まっ待て!陳平、待てー!わしが悪かったー!!もーやだよ、未央宮なんざあ。蕭何の阿呆がこんなくそでかいもの造りやがって…お陰でわしはどこにも行けん!』
『だーかーらー、俺が手伝ってあげてんでしょー?ちったー飲み仲間を大事にしてくださいよってわけで、勘定よろしく。』
『ほんっとに図々しいよ、お前は。じゃから子房さんにも振られるんじゃろ!』
『なっ…いじけてやるっ、本気でいじける!俺また四五ヶ月会ってもらえてないのに……。』
『え?そーじゃったの?昨日来たよ、子房さん。呼んでやればよかったかのう。』
『ひどい!しぼちゃーん……。』
『わ、わかったからいじけんでくれや!しっかしよく続くよね、お前さんも。わし感心するよ。あの子房さんだもんなあ。』
 どうも無謀に近い片思いに同情されていたらしい。更に言うなれば、俺の頭脳は怖いとしても、俺の人徳なんてものは皆無というのを知っているのが安心材料でもあったらしい。何たって嫂さんと通じた凶状持ち。
 何やってもへらへら笑って見逃してくれる、親父だった。変な高潔さや潔癖と無縁なだけやりやすかった。
 それでも俺は、彼のことを過去形で語る。

 いらっしゃい、と周勃をにこにこと出迎えた樊噲は、葬式よりも暗い顔にびっくりしたらしい。威儀を正して、ということは、ぞろぞろとお供を連れて大歓迎しているのに、何があったのかと周勃を気遣う辺りは人のよい熊だ。
 子房が信用しているのがわかる気がする。
 なまずの命令で捕縛に来たと周勃から知らされた樊噲は、意味が理解できなくてしばらくつっ立っていた。そして素直に大将軍の印を周勃に渡した。
 あんたの罪は重いぞ、なまず親父。泣きそうな顔で俺を見て、何にもしてないよ?と訴えた樊噲を見ろよ。周勃の丸くなった背中を見てやれよ。沛からの仲間なんだろ。こいつらは俺みたいな札付きでもないぞ。
 信じてやれよ。
 人君の姦は人を信ずるところから生ずるのです。
 あんたが、そーじゃないと覆さないから、子房はいまだにあの韓非子にがんじがらめにされてんじゃないか!
−好みや寵好が入り混じる。だから人の心を操ることができない私には押さえられない。−
 そーじゃないだろ、子房。操ることができないんじゃない。
 貴方もどこかで人を信じられていないからだ。貴方が脆いのは、そのせいだ!
「取りあえず何か食わせてくんない?樊噲。ついでに酒のいいやつと美人…はまずいか。しゅーぼつ、睨むことないだろ。まあまあ、ごはん食べながら話しようよ。俺、腹減った。」
 うん、と背中を丸めて先に立つ樊噲。そのせいで二倍小さく見える周勃。俺は背筋を伸ばして二人の後を追い、食事が出揃うまで無駄話で時間をつぶした。籍孺の阿呆っぷりとか、長安酒店の格付けとか、行きずりの色恋の話みたいな軽い話題には事欠かない。何も知らずに立ち聞きしている樊噲の使用人がくすくすと笑いを堪えている。当の二人は葬式状態でちっとも笑ってくれなかったけど。
「しゅーぼーつー、もういーかげん俺の手腕に請うご期待してくれたっていいんじゃないの?ったく、樊噲の飯までまずくして何になんだよ。ほれ、もっと食う!」
 樊噲の皿にどかどかと肉をのせる。うん、と樊噲がのろのろ箸を取った。
「…最後の晩餐……。」
 ぼそっと周勃が呟く。樊噲がそのまま静止した。この際なので牛の蕩けそうな煮込みを遠慮なくやっつけている俺は、
「だーから食事時に何つーネタを振るの?周勃。やめろって。お前にはちゃんと説明してんのにそれじゃ困る。何のために俺がわざわざこの仕事引き受けたと思ってるわけ?あんたらじゃ按配できないからだろーが。ったく、心おきなく食っててくださいって。この陳平さんが来たからには助かりますから。」
と駄目を押して、すっぽんの吸い物をしこたま取り分けた。
「その根拠のない自信はどっから出てくるんですか……。」
 やけになってこちらも箸を取った周勃が言い捨てる。
「あんたの作戦なんて、樊噲檻に放りこんで、極力ゆっくり帰って時間稼ぎの一手に尽きるじゃありませんか!」
「勝算ないことは俺やんない。子房殿みたいに勝負勘ないから。」
 ん、んまい。あーあ…これでおねーさんがいればなー…っつーよりしぼちゃんがいれば……。
 殴られるのがおちか。くっそ、どこの誰だよあの人の情人になりやがった奴。それこそ讒言して私怨私恨全開で下獄させてやるのに。
 やけ酒に逃げた。
「…噲、助かる当て、あるの?」
 不安そうな大男が俺を綻るように見る。軽く頷くと、少しほっとした様子で食事を始めた。
「なまず親父も怪我して大概参ってるだけだよ。んなとこに呂産だの馬鹿籍だのが中傷したもんだから、脳天に血が上っただけだって。あの阿呆なおっさん、も少し信じてやんな。どーせ、うわあ!早まった!!って泡食って後悔して、撤回命令出すから。あいつ、韓信死んだ後もそれやってんだもん。お前なら尚更じゃんよ。違いますか?とにかく今は時間を稼ぐ。最終決定は奴本人にしてもらうぞ。」
 そだね、と樊噲の食事の速度が上がる。周勃はちらりと俺を見た。
「で、私は燕に行って廬綰さんを討てっていうんですか!」
「お前が反乱軍つぶせばなまずの気も逸れるだろうが!とにかく今は樊噲だ、目の前のことに集中してくれ、頼むから!」
 渋々といった顔で周勃は頷いた。
 擬装上必要なので樊噲を囚人よろしく縛らせてもらった。無論縛り方なんて手加減しまくりのゆるゆるである。檻車に乗せて囚人の一丁上がり、使命は確実に遂行されていますという宣伝は万全だ。
 調子悪くなったらすぐに言えよ、と含ませて、下人の遊び人仲間を『監視』につけた。要領のいい男だし目端も効くから、樊噲が何も言わなくても不都合そうだったら連絡しろと命令した。
「その代わり長安帰ったら軍資金と休暇やるから、ぱーっと遊びに行っていいぞ。」
「さっすが旦那、話がわかる!任せておいてください、樊の旦那は俺が責任持って見ています!」
 これでよし、と。
 茶目っ気のある顔で請け負った下男は、初秋の寒さもあいまって、樊噲の体調に細かな注意を払ってくれた。俺も周勃も毎日会いに行き、時々はこっそりと食事や酒盛りを一緒にしたりもしていたのだが、それだけでは気付かないことも多いので助かった。頑丈な大男とはいえ、樊噲ももう年だ。無理をさせてくたばる前にこっちが先手を打たないと、どーせ奴から注文なんて出てこない。若い時みたいな体力と気力があると信じてるから厄介だ。
 その樊噲も、自分があのなまずに逮捕されるほど疑われているというのが骨身に染みてこたえたらしい。めっきり白髪が増えた気がする。
 物見遊山感覚で亀のような行軍を続けながら長安に帰っていたが、ある時周勃が二人だけの時に食って掛かった。
「こんなことしてても恩赦なんて来ないじゃないですか!あんた、本気で劉邦さんが樊噲許すって目処が立ってるんですか!」
「あ、陳平さんをなめてる。」
「いくらあんたが頭いいっていったって、劉邦さんは変わっちゃったんですよ……。」
 周勃の声は消えそうだった。だから。
「知ってる。それにかけては、期待してるだけだ。けれども、時間をかければかけるほど、樊噲は確実に助かる。なまずの陛下は…悪いけど、もう長くないよ。」
 本当の切り札を教えると、周勃は真っ青になった。
「あんた…劉邦さんが死ぬのを待ってんですか!」
 その声は今から涙声で、俺の襟首掴んで締め上げた。
「ほかにどーしろってんだよ。樊噲殺せって?陛下の寿命なんか俺にどうこうできるわけないだろ!なら助けられる奴を助けるってのが本筋じゃないのか、周勃!」
「あんた、薄情にも程がありますよ!」
 それがどーか?と突き放すことはできなかった。周勃は本気でぼろぼろ泣いてたから。
 周勃には、どっちも切れないから。だから、俺が片方を見捨てるしかない。
「なまず親父は天命だから、もうどうしようもないんだよ、周勃。せめてそれに樊噲を巻きこませちゃいけない。わかるだろ。なまずの陛下だけじゃない。蕭何さんも年だしね。そしてちーちゃんと、呂一族がいる。周勃、お前が泣いてちゃ、誰が沛からの連中を助けんの?」
 だらりと襟首から離れた手が垂れた。
「何で、こんなことになったんですか。」
 そんなの、俺が知るわけないだろ。
「お前と樊噲は俺が必ず助けるから。俺の知謀を信じろ、周勃。」
「札付きのあんたを信用しろってんですか!」
 おいおい。信用してもいない奴に感情剥き出しにして食ってかかってんの、周勃ちゃん?何だかんだ言って、俺がお前の足元掬うなんて考えもしないくせに。
 信用しないってのは、そんななまやさしいもんじゃないよ。
「張子房の名前にかけて約束する。お前と樊噲は俺が助ける。」
 漢と劉氏を、どんな代物だったとしてもその形骸を守って、と。
 でもさ。その枠の中には、生身の人間がいるのですよ、子房殿。
 周勃は目を見張ってから、ようやく頷いた。俺にとって子房殿がどんな人か、周勃はよく知っている。その名前が出てきたってことは、あの人がこの策に関わっているのかもしれないと思ったらしい。
 思っておきなよ。知らない方がいいから。
 あの人が絶望と共に全てを捨てて引きこもったなんてことは、俺だけが知っていればいいのだから。
 周勃と話をした四日後、長安からなまず親父の訃報が届いた。

「俺は長安に戻る!周勃、樊噲頼んだぞ!」
「ま、待ってくださいよ!あんたいなかったらどーすればいいんですか!戦闘なら勃と樊噲で何とかしますけど、そーじゃないでしょっ!」
 一番いい馬を引かせて出立の準備をしている俺に、周勃がくっついてきた。荷物も何もいらないので、そのまま駅馬車に飛び乗って長安に行こうとすると、水はどうする、食べ物はやっぱりいるだろう、着替えも持って行ったらどうだと心配してくれるのだ。
「いーか、周勃。今度は時間勝負だ。周勃、樊噲はゆっくり帰らせて。下準備しておくから、安心して燕を片付けろ!」
「陳平さん!あんた一人じゃ危ないですよ!私か誰か付いて行きますよ!呂のおばさんとか呂産とか変なのいるでしょ!」
「お前に宮廷工作できんの?…周勃、危ないから一人で行くんだよ。任せなさいって。長安で祝杯にしよーぜ!」
「無理しないでくださいね!」
 車に飛び乗る。後ろから周勃が叫んでいた。
 大丈夫。きっと助けるから。
 ねえ、なまず親父。しぼちゃん。貴方たちは、こんな周勃や樊噲でも信じられないって、そう言うの?だから寂しいんだよ。簡単なことじゃん。
 俺は人徳なんてかけらもないけどさ。俺を好きになってくれた人たちは、能力がなくても、頭悪くても、不器用でも、それぞれなりに俺のこと、大事にしてくれてさ。俺、それで命拾いしたこともあるんだよ?
「お前、もっと飛ばせない?俺年だ…絶対年だ。くっそ、一足早く長安に帰って、うちから車持って来て。乗り換えて未央宮行くから!」
「大将の方が早いでしょうが!大将はお若いですから関係ありませんよ。四十に手が届くとは見えません……。」
「やめてーっ!俺気にしてんだから!知らない間に孫は生まれてるしっ!なまずに天下取らせて一族呼び寄せたら孫が生まれてましたって、それありなの?!お前、ひどいぞ!」
「ったって、俺も十五の時から大将についてきてますけど、遊びに行ったって絶対大将の方がもててるじゃないですかっ、身分隠して貧乏人の振りしてたって!いい男ってのも大概罪ですよ、大将!」
「うーるーさーい。本命に振られて雑魚に好かれたってしょーがないっ!」
「いっつも不思議なんですけど、大将ほどのお方を袖にするのって、どんな女なんです?」
「俺の勝てない相手。」
「大将が勝てないって嘘でしょうが。信じられないっすね。」
「信じたくなきゃそれでもいいけど、事実は事実だよ。次の駅亭までどの位!」
「昼前には馬を替えられます!」
 従者を連れて、駅亭ごとに車を乗り捨てて、伝令並の速さでひた走る長安への道。そう、周勃も年上だもん。こんな強行軍はもう無理だよ。砂埃を蹴立てて城門をくぐった。
「陳護軍より至急の軍使!開門!」
 白旗を掲げて弔意を表していた城門が急いで開かれ、俺は速度を緩めもせずに市内へと駆け込んだ。絶対に先手を打つ。呂沢だの籍坊主風情にちーちゃんを取り込まれてたまるか。ちーちゃんは、この俺が確保する切り札だ。奴らを出し抜く自信はある。所詮利己的打算だけで固まった頭の悪い無能な男が俺を出し抜いて計を仕掛けることなどできるものか。周勃と樊噲の命を賭けて、子房殿の期待を背負って、俺は未央宮の門も突破する。
 だから俺は信じる。この勝負に勝つのは絶対に俺だ。

 護軍中尉からの急使と聞き、皇太后としてすぐさま謁見を許した呂后もとい、ちーちゃんは、急使どころか本人登場に切れ長の瞳を見開いた。白絹の喪装がよく似合っていて、ちーちゃんは美人だったんだなと場違いな感想が頭を過った。この人は馬鹿じゃない。権高で、どちらかというと理に過ぎる種類の美人だ。まあ…なまず親父の好みじゃないなあ。
「陳平、貴方、まだ燕にいたんじゃなかったの?!」
「いましたよ。仰天して周勃放り出してすっとんで来たんですから。…事実のようですね。」
 ちーちゃんは、ふ、と口元を緩めた。周りの侍女たちがすくみ上がっていたが、俺にしてみれば別に怖くない。酷薄、という類の笑いじゃない。呂后もまた、なまず親父の死で解放された一人だもんな。
 俺は女じゃないけど簡単な話だ。彼女の戦場は後宮という私生活全般なのだから、戦闘休止も和平条約もないだけ救いがない。なまず親父が死んだ以上、そして彼女の息子が皇太子に留まり続けられた以上、彼女の戦争はようやく終わった。もうこの国に彼女の権力を脅かす者はない。それはつまり命の保証をされたということだ。
「…樊噲は無事です。」
 彼女は聡明だ。一言で通じる。
「ありがとう。貴方を頼りにしていますよ。」
「もったいないお言葉、光栄に存じます。」
 ちーちゃんはさらさらと絹ずれの音をさせて俺に近付いた。
「相当疲れているようですね。早く家に帰ってゆっくりお休みなさい。私が許しますよ。」
 それは、困る。
 俺はちーちゃんの気遣いをどうしても受けるわけには行かなかった。
「お願いです。ここにいさせてください。」
「陳護軍?!貴方やつれてるわよ。いけません、養生をなさい。」
「お願いです、俺のわがままですから、お願いですから何か貴方の力になって差し上げたいのです!」
 今、俺が宮廷を離れるわけにはいかない。呂産やら籍坊主に付け入る隙をやってはならないんだ!
「お願いです、貴方の側にいさせてください!」
 ざわりと呂后の侍女たちがさざめいた。ちーちゃんが苦笑を浮べていた。
「…貴方、女性にはいつもそんな物言いをするの?」
「へ?」
「…何でもないわ。何でもないの。」
 人間は自分に都合よく人の言葉を解釈するくせがあるらしい。俺はちーちゃんの誤解を訂正せず、粘り勝ちで宮廷に逗留する許可を取り付けた。どうせいるのだし、なまず親父にも挨拶しなきゃな。
 大斂まで棺は明堂に置かれたままだった。守人が退屈そうに立っている。眠りこけそうによろめいたかと思えば、蝋燭の影のいたずらだった。もしかして立ったまま寝る技術を身に着けたのかもしれないな。
 棺の前に膝を付いた。
 帰ってきたよ。おい、全部やっぱり誤解だったじゃないか、なまずの親父さん。樊噲は面食らって立ちんぼするし、周勃なんて将軍じゃなくて葬式屋だぞ、葬式屋!
 だから、みんな助けてきたから。悪く思うなよ。ううん、思わないよな。あんたの勘違いだったんだから。みんな、よその奴があることないこと吹きこんだだけだったんだから。
 本当はあんただって辛かったんだろ。俺に沛のことはわからないけど、仲良かったって周勃が泣いてたよ。
 いっつもあんたはそう。取り返しつかなくなってから後悔する。韓信のことだって、ほんとは気に入ってたくせに。いや…あれは蕭何さんとちーちゃんが糸引いたんだっけか。あのさー、後悔するよーな策立てちゃ駄目だよ。やる前によく考えないと。だから俺がいてやったってのに。
 何で、最後に一緒に飲めなくなるよーなことしやがったんだ、馬鹿なまず!
 どうして、どうして、みんなで送ってやれなくなるよーなことしたんだよ……。

 何だかんだといっても、結論は簡単なこと。
 俺はあの馬鹿なまず親父が好きだった。

「陳護軍はまだ哭泣しているの?」
「ええ、本当においたわしいほどお嘆きになっておられますわ。」
「先帝の柩前で泣きじゃくっていらっしゃいますもの。お止めしてもお聞き入れあそばさないのです。」
「…そういうところがあるのよ、あの人には。」
「陳平のことです。何か策謀があるに決まって……。」
「お黙り、建成侯。貴方はあの人を知りません。私が何も知らないと侮るのですか。」
「申し訳ございません、太后陛下……。」

 結局結論は簡単なこと。
 俺は自分を拾ってくれたあのなまずが、札付きの飲み仲間が、好きだった。
 周勃や樊噲が好きなのと同じくらい、なまず親父のことが気に入っていて、大好きだった。

「柩前に復命したまま動かない?」
「ええ……。食事もとらないのです。燕から昼夜兼行で駆け戻ってきたかと思うと、今度は……。郎中令に叙しても動かないし、見ている私が可哀想になったのでお知恵を頂きたかったのですよ。」
「…だから私も断穀をやめろと?」
「人生は長くありません。どうして自分を痛めつける必要があるのです。私は自分に残された人生を謳歌するつもりです。」
「…貴方はご苦労をなさいましたから。」
「…貴方も私と共に人生を楽しんで頂きたいのです。貴方はいつも私を助けてくださった。」
「過賞でございます、太后陛下。」

 ぽんぽん、と肩を叩かれた。少し休んだらいいと入れ替わり立ち替わり現れてくれたちーちゃんとこの侍女かと思うと、秀麗な喪服姿の仏頂面軍師が夢のように背後にしゃがんでいた。
「しぼちゃん……?!」
「泣き疲れて眠るなど、お前は不疑か。」
「不疑?」
「うちの子供だ。」
 …聞きたくない名前を聞いてしまった。が、仏頂面のしぼちゃんは、ぽんぽんとあやすように肩をまた叩いた。
「少し休め。何も起きないから。安心しろ。」
「でも……。」
「私が参内したというのでは、もう保証にはならないか?」
「俺、周勃と樊噲の命預ってるし…なまず親父が死んで寂しいのもあるし…気にしなくて、いいんだよ。」
 投げやりになったこの人を宮廷へと呼び寄せるなまず親父の影響力に、俺は今更ながら唖然とした。この人もこの人だ。わだかまりを持って怒ったりすねたりしたくせに、あのなまずと茶飲み話する時はちょくちょく現れるってんだから。
 俺には絶対会ってくれないくせに。
 ぽんぽん、と今度は頭を撫でてくれた。
「郎中令に任ぜられたのなら、安心していい。太后はお前を信頼している。」
「…ねえ、俺ってそこまで現実主義者に見える?」
 こんな時にでも情に溺れないから、この人は一流の軍師になったんだろうな。当人にとって良かったかどうかは別としても。
「体を壊すぞ。お前がそこまで嘆いても劉邦が生き返るわけではあるまい。」
 あ、機嫌が悪い。呼び捨てにしてる。
「しぼちゃん、なまずのおじさんのこと、怒ってる?」
「当然だ!何を考えているのだと怒鳴ったのだがな。樊噲に反乱などできるはずがないだろうと…ふん、疑心暗鬼もいいかげんにしろ、だ。」
 毒吐いてる……。
「暇だからくだらないことばかり考えるのだ!あんな十人並の容姿と鶏程度の知能しか持たない籍孺を寵愛して無駄に精力を浪費するから治るものも治らないのだろうが!」
「しぼちゃん…籍坊主の見てくれを十人並だっていったら、あいつの取柄なくなるよ……。」
「だからそう言っている。劉邦も悪趣味にも程がある!」
 その当の本人の喪中なんですけど……。戚夫人も頭は空のくせに野心家だし、本人が記憶にないのに生ませた子もそれなりにいるだろうと罵声が続いた。そりゃあそーだけどさあ……。
「それはなまずさんの好みなんだからしょうがないでしょ。ある意味そのお陰で貴方は無事だったんじゃないの?」
「それは違う。彼は私の知略が欲しかったし、枕席に侍る者の命令など誰が聞くかと言ったら納得した。いざとなったら二つに割って捨ててやるつもりでもいたしな。」
 割ってって…そりゃあこの人が昔下邳の侠客束ねてたのは知ってるけど……。そーいやなまず親父本人が、しぼちゃんとは侠客同士だから話がしやすいって言ってたな。
「私の能力を彼は買った。だから私も彼を見込んだ。それだけだ。私には韓非子以外誰もいないのは、お前が一番よく知っているだろう。」
「もう一人いるくせに。」
「?」
「いくら家のためだからって、貴方が好きでもない男の子を生むような人だとは見えませんけど。」
 ぶつけた嫌味に、しぼちゃんは固まった。何か面妖なことを聞いたとばかりな顔つきで俺をじろじろ見つめている。
「誰なの?まだ生きてるんだろ!」
 それこそ落とし入れて再起不能にでもしてやろうかと思いついたが、しばらく困ったようにしていた子房殿は、
「成り行きなのだが。」
と相当ずれた返事をした。
「成り行きにしても!」
 ぽんぽん、と頭を撫でられた。
「どうでもいいことだ。それだけの無駄な気力があるのなら、食事を摂れ。そして身繕いを整えろ。呂后はお前に親しみを持っている。泣き崩れている場合でないのは自分でわかっているはずだ。」
「…俺さ。なまずの親父が好きだったんだよ。」
「そうか。」
「今だけ、めげちゃ駄目?」
 帷幄の軍師は、優渥に微笑んだ。
「もう泣くな。高皇帝もそれだけ泣かれれば閉口するぞ。収まるまで私もいてやるから、だから、泣くな。」
 状況が変化して悪くなったこともあるが、良くなったこともあるのではないか?
 やっぱり、冷静なこの人には勝てないや……。
「…よくここまで頑張ったな。」
 ぽんぽん、とまた撫でた。それが嬉しくて、俺は知らない振りしてしぼちゃんの膝に頭を乗せる。疲れちゃった、と言い訳をして。
「俺一人のことじゃないからね。」
 しぼちゃんのいい香りがする。ぽんぽん、とまた撫でるしぼちゃんの小さな手の感覚。
「お前は強いから。」
「そーでもないよ…俺は誰彼構わず信用しないなまずさんほど悪趣味じゃないだけです。」
 信用できない貴方ほどじゃない。ぽん、と頭の上に乗った手が震えた。だから俺はあくびに混ぜて畳みかける。
「貴方との約束はちゃんと守りますから、少し当てにしてよ。」
 本当に、微かに、うん、という声が聞こえた。

 郎中令という位は伊達じゃなかった。俺は太子の傅として次の帝の側に大手を振って張り付いていられることになり、呂産の奴は中傷しようにもできなくなった。ざまーみろ。妙な真似しやがったら、にっこり笑って勅令盾に消してやる、という無言の恫喝は効き目があったようだ。
 自分で動けるのなら呂産程度は怖くない。修羅場くぐったことがない奴が大口叩くなっての。俺なんか魏王に消されかかり項王に殺されかかり漢王にまで讒言されたって札付だぞ。
 なまず親父の訃報を受けて樊噲は護送されてきた。周勃が確実に約束を守ってくれたことに安心した。ちーちゃんはあっさり樊噲を無罪放免した。太子が無事に即位し、安全になってから俺は家に帰った。帰るしかなかった。
 ねえ、これでも貴方は誰も信用できないのですか?
 労をねぎらってくれる家人の誰彼を適当にあしらって礼を言い、居室で放心したように腰を下した時だった。騒々しい複数の足音と共に甲高い子供の声。
「やかましいぞっ、人が疲れて帰ってきてんのに、少し寝かせろ、このくそ坊主!」
 扉を開けて顔を突き出し怒鳴ると、意外なことに腕白坊主の孫(といっても子供にしか思えない)、恢が使用人の子たちを引き連れて走り回っているのではなく、身なりの良さそうな恐らく功臣の子弟であろうガキ仲間と連れ立っていた。何で俺が帰ってきた日に群れてるんだよ、こいつら。
「あ、恢のおじいさま!父上からお届けものです!」
 へ?小さいのがぱたぱたと走ってきた。はい、と両手で綺麗な包みを差し出してにっこり笑う。きらきらとした大きな黒い瞳が無邪気に俺を見上げた。
 子供ってのは、時々俺の後ろ暗さをまっすぐに突いてくれるよな。
「じーちゃん、留侯んとこの不疑兄だよ。何か持ってきてくれたんだって。」
 これが、しぼちゃんの。
 似てるな、しぼちゃんに。けど、雰囲気はあまり似ていない。うちの恢とつるんで違和感ないものな。なんて場違いな感想をよそに、口でお礼を言い、寄越された包みを手に室内へ引っ込んだ。小さい連中はさっさと走り去って行ったらしい。
 紫紺の覆いを取り除けると、この間送った本の礼状と一緒にきちんと畳まれた一本の組絋が入っていた。首を傾げて礼状を開く。この間会ったばかりなのに、通信を寄越すなんて珍しいこともあるもんだ。俺は嬉しいけどさ。そしたら、末尾に。
 手慰みに組絋を編んだので送る。私からの行賞だ。絶対に冠は落とすな。できることであれば援助する。
 どこといって変哲もない、創意工夫なんて入れようもない、公式の場で冠を支えるための決められた組絋だった。赤と黒の細かい格子が微妙な色調を作っている、それを。
「…どんな顔して編んだのさ……。」
 あの人のことだから、道学の書を読みながら手持無沙汰にしこしこやってたというのが一番ありそうだけれども。俺にやるつもりもなかった可能性が相当高いけれども。
 ただ、嬉しかった。
「…畏まりました。絶対にこの陳平、貴方に託された冠を転げ落としたりはしないと誓います。」
 漢と、劉氏のために。

 そして、それを託した貴方のために。




×××××××××××


一年くらいかけて書いてましたね、結局。しばらくしぼと陳平は三頭身(笑)。久しぶりに完成させましたが、放置がたたって世家のコピーがあわや行方不明になりかけた!裏を確認しようとしたら(でも見切り発車したとこも多々あり)ブツがないんだもん…焦ったー……。ちなみにお題は見切り発車で「嘆き」。色々暗いし、陳平泣いてるし(笑)。タイトルは…さりげにしぼ視点です。本人、面妖だ…とか素で思ってるでしょうけど。(笑)


いんでっくすへ