ああ 爾の幼志
以って異なる有り
独り立ちて遷らず
豈喜ぶべからざらんや
     −屈原『橘頌』より



Noblesse oblige
-アパッショナータ−


 とんでもない甥である。どういうつもりで人生渡っていくつもりなのか知らないが、あれではただの乱暴者になってしまう。亡き兄上になんと言い訳したらよいのやら。
 とはいえ、人の事はあまり言えないが。影響力はあるが地位はない会稽の顔役という立場にある私とて、父が存命であれば十分嘆きの種だ。父は歴とした楚の将だった。秦に最後まで抵抗したが為蘄水で死ぬ羽目になった。兄もその時に死に、我が家は離散の浮目を見た。
 楚の項家が残っていると厄介だ。秦王が判断しても不思議ではない。我が家は代々将軍の家として楚に仕えてきた貴族なのだ。今の私にその片鱗などほとんど残っていないし、父親の顔も覚えていない甥に至っては、その辺りの庶民より余程柄が悪い。いや、年長者に対する礼儀は弁えるようしつけたので、とりわけ無礼だというほどでもないが、気品や威厳というものは期待しても無駄だ。近所の悪たれの頭というのがどこにいても甥の役所だった。
 それは屈家や景家、昭家の三家ほどの超上流の家柄ではないが、もう少し品というものを持って欲しいと思うのは叔父の欲目か?強くたくましく育ってくれたのは嬉しいのだが、あれでは草蒙の力自慢と一緒だぞ。まあ、私も甥のことをとやかく言うほど行儀良くはないのだがな。
 伯は誰かを殺したかとかで、しばらく連絡しないと言って寄越した。聞いた限り伯には非がないようだが、彼の素性が明らかになると項家にとっても悪いと判断したのだろう。私達兄弟の中でも伯は昔から人が良かったから、恐らく友達を頼ったのだろう。伯は昔から人に好かれる男だった。
 できれば頼られる男であって欲しかったのだがな。あれも家は継がないにせよ、元は項家の分家の主となる身だった男だ。それがいつまでも末っ子気質の(厳密に言うと末っ子ではないのだが)抜けないまま大人になってしまい、なまじ秦王のせいで項家というものまでなくなったが為に、のほほんと育ってしまったようなところがある。甥も似たようなものだ。
 彼らは知っているのだろうか。楚人の口に水面下で膾炙するこの言葉を。
「三戸となりても、秦を滅ぼすものは楚なり。」
 そう、楚人は秦を憎んでいた−。

 今に始まった話ではない。始皇−つまり秦王−が楚を滅ぼしただけの為でもない。その昔から楚と秦は覇を競い合い、中原の駆け引きに絡んできた。どちらも蛮だ狄だと中原の国々から陰口を叩かれながら、最終的には頼られてきた。数々の同盟に引きこまれ、戦いにおいて援護を要請され、後ろ盾となった。
 どちらかは楚に、どちらかは秦に。
 始終対立の構図に巻きこまれていたせいだけでもなかろうが、結局戦国の終盤になって諸国が秦に対抗するため頼ったのは楚だった。
 どうぞ合縦の盟約に参加してください。それこそ六国が存続する唯一の活路なのですから。
 父はまだ加冠を終えたばかりの頃に、楚の合縦を取り仕切っていた三閭大夫屈原を見たと言った。一見穏やかな貴族としか見えない男に備わっていた大人の風格に威圧されすらしたと。
 三閭大夫は文官だ。如何に詩句が激情に満ちていようとも、当人は泪羅に身を投げるしかできなかった。我々は違う。我々は武人だ。将軍を排出した武門の家だ。
 必ず秦に一矢報いるのは項家の男子である。父は折に触れ口にした。いずれ自分が陣頭に立つと予期していたのだろう。
『張儀というのがまた、男らしくない奴であった。』
 どう男らしくないのかは語らなかったが、項家ではみな、父が認めないなら彼は男らしくないのだということで話は通じた。武勇ではなく詐略に頼るような奴は駄目だと父は良く口にした。張儀の仕掛けたのは策略ではなく単なる詐欺だというのが我が家の共通認識だった。我が家だけではなく楚朝廷の認識だった。張儀がいなければ楚が合縦から離れ落ちることもなく、懐王が咸陽へ誘拐されることもなかった。国力は削られず、したがって王翦の一撃が楚を壊滅に導くこともなかっただろう。一度の戦いで社稷が滅びることがあってはならないのだ。
 父は王翦に敗れた後、昌平君を擁して戦ったが、蘄水で敗れ、自殺した。だからこそ我々項家は離散したのだ。他の貴族、例えば王室につながる屈、景、昭の三氏のように咸陽へ連行され、それなりの生活を営むこともなく。そのためか、私達は別れに際してあの言葉を誓い合ったのだ。
 三戸となっても、必ずや秦を滅ぼしてみせる。

 この様ではな、と溜息が出る。甥は腕白のまま育ち上がったような男になりつつある。これでは戦死した兄に顔向けができんではないか、と怒鳴ると殊勝に謝るのだが、かといって改心するでもない。勉学も嫌いだ。今机に座っていたかと思うと、何かしら口実を見つけて外に飛びだしていく。剣法を教えても、自分の癖を修正する気すらない。剣技自体は好きなのだろう。私が稽古をつけてやるというと喜んで出てくるのだが、人の注意などてんで聞いていない。我流もいいところだ。剣の構え方、足の位置、立ち位置、手の動かし方などを教えても、始まったと言わんばかりにあくびなどする。それでいて私より遥かに強くなったのだから手に負えない。
 それでも甥は私を父代わりと慕って、素直な一面も見せた。私もこの問題児が好きだ。
 お前も項家の一員なら、恥かしくない程度の教養を身に着けろ、と説教を食らわせたことがある。甥は如何にも嫌そうな顔をした。言ったことが振るっている。
「文字なんか姓名が書ければ十分です。剣だって、所詮一人しか相手にできないじゃありませんか。俺は万人を相手にできる兵法を学びたいんです、叔父上。」
 たわけた小理屈をこねるな、と拳固をくれたのだが、引っかかりを感じた。
 私も父から兵法を学んだことがある。私は甥に教えた。自分で言い出しただけあり、他の事よりは身を入れていた。けれども真面目に兵法を学ぶというには大きな隔たりがある。時折甥は簡から目を離してそこはかとなく自分の考えを追っていた。集中できないのではない。集中すべき時は注意を払うように私が教えた。つまり甥には集中して兵法を極めるまでのつもりはない。
 甥は何をしたいのだ?
 その答えはいずれ明らかになる。

 秦王が会稽へも回ってきた。
 天下が秦一色になってしまった現在、今は皇帝を名乗る秦王はあちこちへ出没した。おとなしく咸陽の宮殿で威儀を正していればよいものを、何故あれほどに動き回るのか理解できない。少なくとも布衣の娯楽を提供するためではなかろうが、あれでは体のいい見世物だ。
 黒を基調にした趣味の良い華麗な馬車、騎兵、旗、儀杖兵の美々しい行列が続く。眺めるともなしに私は眺め、目立たないように頭を下げる。沿道の観衆も、それが無難とばかりに頭を下げている。難癖をつけられて首が飛ぶのはごめんだ。
 皇帝とやらに敬意を持っている者は、いない。何故自分が頭を垂れるのか、或いは平伏するのかすら理解しないまま、恐怖に背を蹴られるまま多数派に従う者ばかりだ。少なくとも、私は自分が頭を下げる理由を知っている。甥も同じだ。
 甥は私ではない。
 ふと視線を移す。丈高い甥の握りこぶしが私の目線にある。甥は両手を体の脇に垂らしたままで、ただ大きな手に力を篭めて握りしめていた。
「何をしている!」
 私は小声で叱責する。私の育てた甥が、秦兵に奪われてよいものか。如何に問題児で勉強嫌いであろうとも、籍は私の大事な甥なのだ。
 甥は傲然とその若い頭を上げて立つ。そうして私を振り向いた。
「…奴に取って代わってやる!」

 何ということを。
 それも皇帝を目と鼻の先にして。 
 この子は、生粋の楚人、生粋の項家の者だ!

「たわけ者!」
 叱責した私は無理矢理甥の頭を掴んで目立たぬ程度に引き下げた。しばらく抵抗した甥だが、私が髻を掴んで離さなかったせいか、じきに静かになった。巻き添えを食ってはたまらぬと白い目で見ていた沿道の布衣達も安堵の息を洩らし、秦兵は頭の弱い大男がいたのだと嘲笑いながら通り過ぎた。
 誉めてやりたかった。お前こそ項家の男だと声を大にして、誉めてやりたかったのだ。息子のようにして育ててきた、私の甥を。
「…すまぬ、籍。」
 私の囁きを甥は聞いた。
「いいえ、叔父上。」
 甥は愚かではない。
 一隊の行き過ぎた後で、彼は遠ざかる砂埃を仇と睨みつけていた。
「籍、お前は若い。忘れるな。秦を滅ぼす者は三戸であっても、必ずや楚人なのだ。」
「いいえ、叔父上。」
 彼は不敵な若者の笑いと共に、私を見る。一点の曇りもない自信をみなぎらせ、甥は言い放つ。
「奴に取って代わるのは楚人ではない、この項羽です。」




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一日で書きました。お題シリーズで『血筋』です。こんな有名なエピソードをネタにできないとは、もう作文の方法が間違っているに違いない。(笑)項羽のにーさんが好きなのに書けないのは、本人が物を考えてくれないからです。何かしようと思ったら即実行なので、事実の羅列になってしまいます。下手したら十行(笑)。なので、叔父様視点になりました。私は項梁叔父様も好きだったりします。…ってより、そもそも私は楚の関係者の方が好きなんだよなあ…楚漢抗争では。不定形しぼとゆーもんが漢に出現してしまったためあっちばかり書いてますが、本来は楚を書きたいという。うーん、でも誰も思考の蚊取り線香をやらないから、あそこ書くと短くなるのよ…項伯さんに至っちゃ自陣のことすっぽかしてしぼちゃんのことばっかし書いてるし。(笑)



いんでっくすへ