あそびをせんとや うまれけむ
たわむれせんとや うまれけむ
あそぶこどものこえきけば
わがみさえこそゆるがるれ
     −梁塵秘抄より


Der Abenteuer
-過去の主題による変奏曲−


 恋をしなさい。
 極めつけの恋を。

 その江浜に佇んで思い出したのは、かつての宰相の一言だった。

 恋をしなさい。
 極め付け上等な恋を。
 そうしたら、多分君子にはなれずとも、極上の男にはなれるから。

その人は当時の丞相で、私が出仕を始めた数ヵ月後に亡くなった。


 早熟の天才。河南では有名だった私を呉公が招いてくださったのは十八の時だった。かの秦の賢相李斯に師事したという呉公は当地の碩学として名を馳せていた。その方に認められたのが嬉しくもあり、私の発する言葉に手応えのある返事があるのも愉快だった。十八では友人達に大した洞察を期待できない。多少年上の友人ならばまだましだが、とても対等な論議を交わせた代物ではなかったのが、呉公と出会って変わった。
 呉公は稀々に李斯のことやかの荀子−彼はかの大儒にも会ったことがあるそうだ−の話もして下さった。その話を聞くにつれて、私の中で確信となった一事がある。
 漢は秦にとって代わったわけではない。
 秦と言う国は、それ程特殊な代物だった。秦、というより、始皇、と言い換えた方がいいだろう。少なくともこの何百年か分裂していた中原を統一したのは彼なのだし、その統一に必要な枠組みを規定したのも彼、そうでなければ呉公の師だったという李斯なのだ。漢はその制度を継承して今に至っている。蕭相国は所詮秦の刀筆の吏に過ぎなかったのだし、次代の曹相国はそれが最上とばかりに何の手心も加えず、歴代はそれを踏襲してきた。
 みっともないから変えるべきだ。少なくとも、漢とは秦と異なる一つの国家であるからして、正朔や儀典をそのまま引き継ぐなど恥さらしにも程があると、私は呉公に言上した。
「河南の太守に、君の言を容れるだけの影響力があると思うのかね?」
 温和な顔立ちに、困ったような微笑を浮かべて、それでも先を促す呉公の人柄が私は好きだ。忠臣と呼ばれる李斯もそうだったのかと尋ねた際に、彼は、
「私など師の足元にも及ばぬよ。」
と苦笑した。恐らくそうなのだろう。李斯という人に会ってみたかった気もする。
 呉公の人柄は当地でも愛されていた。彼の人柄を表すように穏やかで平和な統治は、治績という結果を出した。人は職分にいそしみ、治安もよく、その評価は朝廷へと達した。
 呉公は廷尉の命を受けた。九卿に連なる高官となった呉公を人々はたたえ、私もこの人の幸運を心から喜んだ。賦を作って差し上げると、いつもながらに見事な出来だ、と分かってくださる。
「君も、都へ上るのだ。私は陛下に君を推薦しようと思っている。」
 好機が訪れた。
 二十をいくつか越した頃、私は呉公と共に長安の地を踏んだ。
 皇帝は私を気に入った。当時即位したばかりで、代などという僻地から長安の玉座に座したばかりの壮年の皇帝は、どことなく疲れたような顔をしてはいたが、熱心に私の言うことを聴いてくれた。謁見を許されたその日、私達は日没まで語り合った。呉公は驚いていた。私の出仕もまた、その日の内に決まった。
 無論、不愉快な連中が多いのは承知の上だ。昔から才走った生意気な奴、と同年代は陰口を好きなだけ叩いていたし、まして凡庸な大人達は嫉妬と羨望の混じった愚痴に近い中傷を浴びせてきた。
 貧しくとも、高貴であっても、人間のすることなどほとんど変わらないものだ。悔しかったら自分が進歩すればよいのに。宮廷で『大臣』と呼ばれる人々を私は眺める。そこには微量の軽蔑も混入していたかもしれないが、無駄に年を食ってきたような人々に地歩を譲る必要はない。
 肩で風を切って歩く。初頭の風は少し冷たいが、頬は燃えるようだった。私は新たに与えられた長安という活動の場に満足していたし、皇帝も度々私を呼んだ。古の例にもあるような君臣の仲らいだった。

 呉公改め呉廷尉と待ち合わせていた一日、早く来過ぎた私は坪庭で暇つぶしをしようと回廊を下りた。秋の花も紅葉も終わり、冬枯れが残るだけの景色だ。詩賦の種にもなりはしないが、建物の中をうろついて無駄に自分の悪口を聞かされるのも腹が立つ。
 意外なことに先客がいた。四阿の欄干に両腕と背を預けて、枯れ果てた庭を眺めていた。引き返そうとすると、気配を察したのかこちらを見た。それだけの仕草がやけに魅力的な人だった。
 一癖ありそうな笑顔で、それでいて、優しい瞳を細めた。呉廷尉の師だったという李斯とはこういう人だったのだろうか。
「遠慮することはないさ、庭はみんなのものだからね。」
 北風に乱れる解れた髪をうるさげに掻きのける仕草も、妙に粋だった。私にも、呉廷尉にも、縁のない世界から来た人のようだ。こんなに粋な仕草をする人には会ったことがない。おいで、と手招くので、一度拱手して下りていった。何だ、お堅いなあ、と笑っている。
「おいおいおい、叔孫通の真似する気かよ。あんなんじゃ、干からびた出汁も取れない陰険じじいになるぜ。」
 近付く私に言い放つ。漢の碩学として誰もが尊敬している叔孫大夫を平気で扱き下ろすこの人は誰だ?灰色の髪の下に、きりりとした太い眉、通った鼻筋、一癖ありそうな笑いを湛えて綻んだ口元の近くに笑窪がある。一体幾つなのだろう?髪の色から推すと四十代の後半でもあろう初老の紳士になるのだが、顔だけ見ていると四十代になったばかりかとも思う。いや、私より少し年上なのだろうか?まさか呉廷尉と同年代ではあるまい。それにしては物言いがぞんざいだが。
「珍しいね、こんなところに来るなんて。」
「待ち合わせをしておりまして。失礼致します。」
「へえ。待ち合わせはいいね。俺は待ち伏せなんだ。どうも不発に終わることが多いけど。」
 どう相槌を打てというのだろう。黙り込んでしまった私の顔を、ひょい、と覗き込む。本当に、この人、一体幾つなんだ?
「あ、そうか。君か、陛下と仲良しの秀才君。いやはや。」
 生意気だ、とでも?と身構えた私に気付かなかったのか、彼は見事に予想を外してくれた。
「周勃の奴、嘘つきやがったな。もっと若いって言ったくせに、ちっとも若くないじゃないか。」
 なん、だっ、て?
「あの、私は幾つくらいに見えますか……。」
「ん?三十は越してるだろ?そりゃあ言いたいことも沢山あろうってなあ。んにゃ、気にしなくていいよ。周勃ちゃんたら昔っからお勉強苦手でさ、ちょいと頭を使うって言ったら、まるで押し込み強盗するんじゃないかってな眼つきを向けてくるからね。慣れれば大丈夫、慣れればさ。」
 いや…絳侯なんかどうでもいいのだが……。
「私はまだ二十三です!」
 そりゃあ悪かった、失礼したね、と口では言いながら、どうも全く気にしていないらしい。駄目押しとばかりに、だって君、老けて見えるよ、と釘を刺してくれた。
「それに、君たちの世界では老成とか言って、老けていることは美徳なんじゃなかったかな。」
 にやりと笑って付け加えた。
「君、儒門だろう?」
「いえ、呉廷尉は李公の門下に学んだお方です。」
 口笛を吹く。誰か聞いたのではないかと、つい辺りを見回した。行儀の悪い人だ。
「李斯か。そりゃ失礼。それにしたって、呉廷尉はまあ李斯の弟子その百くらいなのかもしれないが、君は呉廷尉の門下にはちっとも見えないね。お堅いところといえ、無駄に弁の立つところといえ、陸生そっくり。あ、陸生知ってる?」
「陸大夫のこと…でしょうか……?」
 誰だ、この人。そういえば、この人は誰にも敬称をつけていない。
「貴方は、どなたです?」
「気になる?童顔の悪党で有名なんだけどさ。」
「私は宮廷に不慣れでして……。」
「ま、気にするこたあないよ。どうせ俺もろくな奴じゃないしね。それにしても、君もどうしてそんなにじじくさい顔になっちゃったかなあ。その年なら、もっと楽しい顔をして遊び散らした方がいいと思うがね。陛下に説教食らわすよりは余程楽しいと思うよ、俺は。」
「私には分不相応だからやめろとでも?」
「んなこと言ってないだろ。ツボの外れた先読みは自分も相手も不愉快にするだけだからよしなさい。せめて…そうだね、せめて陳平さんくらいに先読みができる自信を持ってから言いなさいってさ。」
「陳丞相…ですか?」
 目から鼻に抜けるように賢いと言われ、高祖皇帝にも知恵が有り余っていると言われた人だが、その一方で酒浸りだの乱脈な女性関係だのでも有名な人だ。
 顔でも顰めたのだろう。彼は天を仰いで陽気に笑った。
「ほら、眉間に皺寄せた。二十代からそんな顔するもんじゃないって。だから老けるの。若いんだから、少しくらい羽目外しなさいってば。その若さで、俺は完成してござい、なんて顔して歩いたって、つまらないだろうよ。女性なら逃げ出すよ。」
「結構ですよ。愚かな女にどう思われようと。」
「あちゃー、そこまで固まってる。君、秀才君、君には女性が必要だ。結婚はしてるの?」
「貴方に申し上げる必要がありますか?」
「いやさ、馬鹿だと思われてるんじゃ、奥さんも可哀想だなってだけさ。おまけに野暮に過ぎるね。」
 言葉に詰まる。踵を帰して立ち去ろうとすると、言われたのだ。
「君、恋をしなさい。極めつけの恋をね。そうすれば、きっと君子になれなくとも極上の男にはなれるから。」
 私は足を止めた。
「どういう、意味ですか?」
「くたばり損ないのじじいから、若い人へささやかながらの御節介。」
 にやにや笑いながら四阿を出て行ったが、彼には嫌味とかわざとらしさが全くなかった。庭へ下りた背中を追った。まっすぐに伸びた、誇らしげな背中を。すたすたと大股で歩く足取りにも、あやしいところは全くない。だが、自分で言ったところからすればこの人はかなり年嵩なのだろう。季節の過ぎた薔薇の植え込みで、足を止めた。
 冬枯れの、何もない庭の、葉も落ちかけた薔薇の枯れ枝をいとおしそうに触った。
「その方と、待ち合わせていらっしゃるのですか?」
 普段は絶対に発しない不躾な質問をする。しゃがんだ背中は振り向きもしなかった。
「待ち伏せてるだけさ。来ないのはわかりきっているけどね。」
「いらっしゃらないなら、無駄なのでは?」
「もう一度、待ち伏せしてみたかったのさ。」
 そして、ふと天を仰いだ。
「そろそろ、迎えに来てもいい頃だしね。」
 引退を目の前に控える年なのだろうか。為すべき国事はまだ山と残っている。つまらない追想に浸れるとは、ある意味気楽な身分だ。
 彼が鼻を鳴らした。
「耄碌ぼけじじいと思ったろ。やだねえ、これだからくそ真面目さんは。秀才君、君はそのままじゃ間違いなくその辺の二流才子で終わるぜ。悪いことは言わない、あんたに必要なのは学問じゃなくてお遊びだ。」
 何故知られた?私は彼の言葉を肯定するのが恐ろしさに、何も言えない。
「お、図星。あのね、俺は昔っから人の隠しておきたいことだけはよーく見えるの。無駄な抵抗はよしなさい。」
「私は…無駄なことをしたくないだけです。」
「ふむ。遊びも色恋も全ては無駄と。」
「何の役に立つのです?」
「詩賦を読むかい?」
「は?」
「詩を読んだりするかいって聞いてるの。嫌い?」
 この人は私の文章を知らないのか?呉廷尉が御前で披露してくださった私の詩賦を聞いてはおられなかったのか?
「詩賦は詠みます。」
「二流の?」
 何だって!
「失礼な!」
と叫んだ私を、ようように振り返った。まだ笑っている。人を苛立たせて一向に恥じないらしい。
「失礼なのはどっちだよ。本当のことを言われて怒るのは礼儀正しいのかよ。まあ、座ったらどうだ。秀才君。」
「根拠は何なのです。陛下もお認め下さった私の詩賦がまずい、その理由をお教え願いたいものですね。」
「素人に誉められて鵜呑みにするとは、お若いね。」
 一言はきつかった。私は半ばへたりこむようにして彼の隣にしゃがみこむ。
「陛下なんかど素人。こないだまで代の僻地にいたんだから、野暮に毛が生えたようなもんだし、悪いけどあの人も学者好きなんで詩なんかとても、さ。呉廷尉が恐らく推挙なさったんだろうが、あの人の師匠は李斯なんだろう。李斯は博識だったんだろうが、詩書を焚いた男が詩文に造詣が深いとは思わないね。それとも、自作を誉めてくれる人はいい批評家だと思ってる?」
 この人の一言は相当厳しい。本人は優雅な顔でにやにやと笑っているのだけれども、その辺りの人が叱責と共に言うようなことを平気で口にする。
「俺もさ、詩には素人だけど。けど、本物の詩賦ってのは素人の心を鷲掴みにするってのかなあ…そんな迫力があるように思うよ。」
「私の詩文にはそれがないのですか?」
「恋をしたことがないって言ったろう?無駄だ、とね。本気で人を思ったことのない奴に、極限まで追い詰められた人間の気持ちがわかるはずがないさ。わからなければ動かせない。人間、馬鹿じゃないぜ。頭でわからなくとも、胸でわかることもあるのさ。俺も詩文に共鳴できるようになったのは、あの人に会ってからだった。」
「しかし、お言葉ですが!詩というものは男女の仲だけを扱っているものではありません!偉大な事跡を称えたり、君子の規範を示すために存在するものでもあります。」
「そいつがどれだけ後世に残るかってことだよな。そりゃあそんなもんも量産されるさ。昔だってしたろうさ。けどね。夏の歴代を称えた歌がどれだけ残った?聖王の徳に捧げられた歌がどれだけ残った?頭で読んだ技巧の歌がどれだけ残ってる?君、すぐに言える?」
 畳みかけられて、私は返答が出来ない。陛下のどんな下問にも流暢に答えを返したこの私が。
 考えたこともなかったことを、この人は追求する。
「残るのはね。普遍のものさ。誰もが共感できるもの。で、そういうものは案外、素朴で解り易い題と中身を持っているものだと、残ってきた詩文を読む度に俺は思うけどね。」
 例えば、楚辞のように。一言呟いて、彼はその一篇を口ずさんだ。愛唱しているのだろう。聞き惚れるような言い回しだった。

  衣をたなびかせ 玉佩をきらめかせて
  ある時は陰 ある時は表 誰も知らない それが私の計だとは
  白玉のような麻の花 折って貴方に贈りましょう 私から遠く離れている貴方に
  じわじわと私は老いた もう極みが見えた 
    なのに少しも近付けなくて 貴方はますます遠くなる
  龍車に乗る 車輪の音も高く 高く駆ける 天に届くまで
  恋の印に結んだ桂枝 たたずめど たたずめど
    ああ それでも思いは募るだけ 私を苦しめるだけ

 だから、君も極上の相手を見つけて、極めつけの恋をしなさい。自分の全てを捨てて掛からないと渡り合えないような、危険で極上の人に。そうすれば、きっと君子にはなれなくとも、極上の男にはなれるから。人の心が見通せて、それに揺さぶりを掛けられるような、魅力的な男にして貰えるから。

「貴方のように、ですか?」
 彼が大きな眼を見開く。愛嬌というよりも、可愛らしさすら漂っている。
「そりゃどうも。男に言われても複雑なものはあるけどね。」
 振り仰いだ空の彼方に、何を見ていたのだろう。
「遠い、星のような人だった。」
 ぽつりと、呟いた。
「俺ももうそろそろ星になるかなあ。」
「貴方は星という柄にはお見受けしませんが。」
「きついね。」
 その横顔に影がさす。私は慌てて言い添えた。
 星ではないのだ。この年配なのだろう不思議な紳士は。
「貴方は、土徳の方とお見受けいたします。天だけではなく、乾坤が揃ってこそ世界は成り立つのではありませんか。」
 ひゅうっと、春風のような口笛が鳴った。
「さすがは秀才君。いいこと言うじゃん。」
 彼の笑顔を見て、春そのものだと思った。

「いたーっ!」
 突然の叫び声が回廊から降って来る。上品な身なりをした二人の貴公子が、息急き切って駆けて来た。私と同じくらいか、少し上くらいだろうか。
「こんのくそじじい、また純真な青少年に妙なこと吹き込んでたんだろうがっ!病人はさっさと中に入りやがれ!」
 腕を掴んで暴言を乱発する。誰か礼法でも教えてやればよいものを。
「何すんだ、恢、お前生意気!大体辟彊殿まで引っ張ってきたのか、この不肖の孫野郎が!」
「なんなら不疑兄まで連れてきてやろうか。くたばり損ないが、少しは養生しやがれっ、人様の親切無にしやがって!」
「そうですよ、丞相!また無茶をなさるようでしたらうちの兄も連れてきて止めさせますからね!」
 もう一人が腕を引っ張る。けれども、私は既に二人など見てはいなかった。
 丞相、と。今、この漢に丞相は一人しかいない。
「陳…丞相?」
 彼はにやりと微笑みながら、振り向いた。
「若いんだから、こいつらぐらい楽しくやんな。少なくとも、度胸はつく…恢っ、お前病人をぶちやがったな!」
「病人が何吹いてんだよ!すみません、うちの極道じじいがご迷惑をおかけしまして…辟彊、撤収しようぜ!」
「よし来た!」
 このやろー、とそれでも楽しげに悪態をつきながら、彼は私の前からいなくなった。
 一月後、彼は本当にいなくなった。星になったのか、大地になったのか、私は知らない。

 江浜で、私は彼を思い出した。何故。その川は、彼が口ずさんだ詩の作者が身を投げた所だった。
 私には、放逐された詩人の心がわからないのだろうか。皇帝に飽きられ、放逐されて辺境を彷徨う私には。
 彼だとて、恋をしたわけではなかったろうに。彼は国を、楚国を憂えただけ。
 憂いとは、それほど強い感情だったのだろうか。あの詩。溢れ出る思いをせき止める、激流の中の水杭にも似て差し込まれた、兮、の一文字。
 間投詞を投げねばならぬ憂い?憂いとは何?だらだらと、連綿と、締りなく続く感情の羅列。
 私は自分の記した賦を眺める。私は放逐された『詩人』として、過去に放逐された先達を偲んだ。
 偲んだ?
 締りがない。いや、私には、せき止めねばならないほどの感情が、ない。彼は正しかったのだ。私は素人に持ち上げられて鼻を高くした二流の詩人だった。
 極上の、危険でもあるような恋をしなさい。
 あの全身知恵と称えられた人に、危険などあるのか?それは、高后の専横が目に余っていた時分の保身は難しかっただろうが、理解できない。保身に失敗して、この淵に身を投げた楚国の君子にこそ、危険という言葉はよく似合う。そして、楚国の君子は、恋などしなかった。
 本当に?
 記憶の中から探り出す詩章が否定を突き付けた。そして私は、『博士』にも推挽されかけたこの私は、ようやくに彼の激しい恋心に気がついたのだ。楚国の君子は、何も隠していなかったのに。

  初夏の短夜を望んでも
  秋の夜長は一年のよう
  郢への道はあんなに遠い
  魂だけなら一晩に九度も飛んでいけるのに
  道の曲がりくねりなんか知らなかった
  南の月と星を指して
  すぐに飛んで行きたいのにできなくて
  魂だけが知った道を行き来する
  何て正直なこの心
  あの人の心は私とは違うのだけれども
  申し込みが下手で求婚が伝わらないのだけれども
  あの人はなお私のこの振る舞いをわかってはくれないのだけれども!

 それでも、諦められなかったのだ。何を?恋を。帰りたくて、帰れなくて、その思いを受け止めてもらいたくて身悶えするほどに。
 お願い、私の愛を受け止めて。貴方のためを思って言う言葉を受け止めて。聞き苦しくとも、不器用であっても、信じて、私は貴方のためだけを思っているのだと。お願い、貴方のことなど愛していない人たちの、耳ざわりだけがいい甘い言葉に誘われてしまわないで。貴方を破滅させても構わない人たちのために、貴方を愛した私を捨てないで。辛くても、たった一人でも、私は貴方を愛してしまったのだから−!
 そうして詩人は振り返る。天上へ続く道の途中、決して見てはならない死の世界を。
 何故なら、彼は、それを愛していたから。どれだけ愚かな国君でも。人から見れば僻地の、湿気の多いだけの土地だったとしても。それでも。
 『楚』である以上、彼にはその全てを受け入れて愛することしか出来なかった。危険な恋は、ついには彼を泪羅の水底にまで引きずりこんだのに。
 私は儀礼として、同病相憐れむつもりで彼に賦を捧げ、そして何一つ知ってはいなかった。
 私の賦は貶されるだろうか?いや、称賛されるだろう。しかし、私は疑問を持ってしまった。私は才子なのか?私は漢を三閭大夫ほどに愛することが出来るのか?
 私は、二十六にもなって、私は、願う。
 危険な恋を、一度したい、と。

 大司命が私の命を後七年で断ち落とすことを、私は知らない。




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お題シリーズ『老いた人』。ロマンスグレーの陳平が「気は童顔の悪党のままのお茶目な老紳士」で老けたのが書きたかったんですが、若いのに既に老けてる賈誼も妙にお題にマッチしてくれました。賈誼は『屈原を弔う賦』というのを書いていて、これも傑作と呼び声の高いものです。東坡先生も賈誼の別の賦を一押ししてます。が。面白くないです、はっきしいって。(笑)『文選』に収録されているので、訳が出てますから興味がわいたらどうぞ。屈原のいい加減な抄訳が例によって入っております。『大司命』と『抽思』。ちなみに大司命とは寿命や運命の星なのだそうです。


いんでっくすへ