差す手、返す手。踏み出す足に、引き返す足。
そして剣尖が火花を散らす。
戦っているのではない、舞っていた、筈だ。
舞ではない、戦いなのだ。そして私は勝利以外を眼中に入れない。
観覧席の麗人は平然と酒杯を傾けながら、剣闘士の競技を観戦した。
自身の命を賭代として。


Allegro D minor
−死線上のアリア−

 子羽が危ない。頭を横切ったのはそのことだけで、気がつけば馬に飛び乗っていた。子羽の命が危ない。私の命を救ってくれた子羽が、死にかけている。子羽を救わなければならない。
 沛公は何度も軍義の席で見た。ある時は味方として、この度は敵として。
 甥は逆上している。自分を蔑しろにした沛公を許すまい。甥は間違いなく全軍を率いて沛公を滅ぼす。そうしたら、沛公に扈従している子羽は、共に死ぬことになる。見ず知らずの私を救った子羽のことだ。まして沛公から離れはすまい。
 一見冷静でいながら、途方もない激情を秘めた子羽を、殺したくはなかった。命の恩人であるからというだけではなく、下邳の義兄弟であるからというだけでもなく。沛公の陣の所在は良く知っていた。私もまた激情に駆られて夜半に馬を飛ばした。新豊から覇上までも馬を飛ばした。
 子羽の実名を出して沛公の陣に駆け入った。静まり返った宿舎の周囲に馬蹄の音が響き、韓司徒の天幕で馬を降りた。誰何する衛士に向かって手綱を投げ、人の気配を感じさせないが明かりだけは点っている入口に呼ばわった。
「子羽、項伯だ!」
 静かに入口が掲げられ、髪を下ろした白晰が燭台を片手に現れた。
 子羽、またの名を張良という。

 全てを話しても、子羽は平静だった。下邳で、人を殺して秦吏に追われていた私の話を聞いたときのように平静だった。眉一つ動かさず、微笑とも取れる穏やかな表情を動かさず、甥の羽が沛公を滅ぼそうとしている、という話を聞いていた。
 相変わらず頼りなさそうな、端麗に過ぎる姿だった。
「沛公の左司馬が、羽に使者を出した。関中の王たらんと欲した沛公が子嬰を宰相として、秦の珍宝をみな我が物としたと言った。羽は激怒している。更に悪い、范増が羽の怒りを煽っている。子羽、私と共に逃げよう。死を座視する法はない。共に逃げよう、さあ、早く!」
 相変わらず華奢で柔らかい白い手を掴んで急き立てた。子羽は乱暴に私の手を振り払ったが、言葉だけはあくまでも穏やかだった。
 子羽の黒い瞳が、ひたと私を見据えた。蛇に魅入られでもしたように、私は子羽の前で身動きできなくなる。子羽にはそういう神秘的な部分があった。
「項王は、今どこに。」
「鴻門だ。一刻を争うのがわかっただろう、子羽、だから!」
 腕を掴んで引き立たせた。子羽は解き流していた髪を素早く結い上げ、冠に手を伸ばした。その腕を引くと、また振り払われた。
「身なりに構っている場合じゃない。子羽、私に全て任せてくれ!」
「…項伯、私は逃げない。このまま、沛公の下へ行く。」
「あんな奴の巻き添えを食らって無駄死にするつもりか!」
「私に不義者になれというのか。」
 言い捨てて、冠を着けた。上着を取りながら淡々と続けた。
「私は韓王の司徒として沛公を送ってきた。征旅に危険はつきものだ。項伯、私は義に欠ける行為は出来ない。」
 正装の司徒は戸口をくぐろうとした。私はその前に立ち塞がった。子羽がぎらりと柳の目を光らせた。
「私の義は子羽止まりだ。これは楚の機密、沛公に洩らされては困る。私は義によって、子羽だけを救いにきた。沛公に義理はない。甥の邪魔をする気もない。」
「項伯、私は沛公に借りがある。義として、私は告げずに済ますわけには行かない。そこを通せ。」
「私も子羽を見殺しにするわけには行かない。通すわけに行かない。」
「どうやら、私の気性を忘れているようだ。」
 子羽は腰間の剣を抜き放った。その仕草の流麗と、帯を締めた腰の細さに目を奪われた。
「無理にでも、通らねばならないのだ、項伯。貴兄相手に乱暴な真似はしたくない。」
「それが、お前の義なのか、子羽。」
 子羽は肯いた。
 負けたのは私だった。子羽は私を待たせて沛公と会った。質素というよりは書以外のものが殆どない殺風景な子羽の居室は、昔から変ってはいない。
 子羽が沛公劉邦に尽くす必然など、なかろうものを。

 子羽は下邳ではちょっとした有名人だった。下邳の侠客を仕切っている男、といえば、大抵の人間は知っていた。知っていたが、子羽自身に接したことのある人間は少なかった。子羽は目立ちたがらなかったからだ。自身が秦の追捕を振り切って潜伏していた身だとは、親しくなってから知った。
 兵学を教えていた師匠の門で、見かけたことはあった。まだ名も知らない頃で、娘のような男があの細腕で何をするのだと、同窓の連中とからかったものだ。師匠の下で子羽は別の偽名を使っていたので、私は彼が下邳で名高い子羽だとは夢にも思わなかった。
 あの日までは。
 酔った秦の賎吏が、楚を蔑み、罵るまでは。楚人を嘲けり、罵倒し、私の父項燕を偏斥するに及んで、私の我慢は限界に達した。気がつくと抜き放った剣尖が赤黒く染まり、床には血溜まりが出来、男は死体となっていた。秦吏は誰からも嫌われていた。酒場の女将が血に汚れた着物を急いで着替えさせ、下男が裏口から私を連れ出した。そして近所の侠客として顔が知られている腕っ節の強そうな男の元に私を隠した。私も体格ではおさおさ他人に引けを取るものではないが、ことは腕力だけで片付くものではなかった。
「俺ではあんたを守りきれんだろう。子羽さんに頼むから、あんたからもよくよくお願いするこったな。」
 下邳でも評判の荒くれが思案の末に連れて行ったのが、子羽の隠れ家だった。訪れた時、子羽は一巻の絹帛を広げて読みふけっていた。客の依頼を二つ返事で引き受けた。
「子羽さんがすぐに受けてくれるとは珍しい。」
「項伯ならば知っている。私が請け合うからには安心したがよい。」
 大言壮語ではないか、と思った。疑念をねじ伏せるような苛烈さが、子羽の語調にはあったのだが。貴方が子羽だったか、と気まずく問い質すと、薄い唇を歪めて応えた。子羽の家には殆ど人の出入りがなかった。また抜け道や袋小路にも通尭していた子羽は全てを私に叩き込み、侠党に協力する数件を教えて避難所を提供した。当人は殆ど私に関わらず、平素のように師匠の所へ赴くこともあり、自宅に篭っている場合もあり、外出してしばらく帰らなかったり、夜半に脂粉の香りを漂わせて帰ることもあった。
 匿って貰って失礼な話だが、私は子羽を当てになどしていなかった。男というより美少女の子羽は口数も少なかったし、師匠の元でとりわけ目立っていたわけでも、華々しい武功を皆に披露していたわけでもなかった。その子羽が、一日珍しく私を誘った。侠党の一人と会う約束があるので同道しないか、と問われ、手持ち無沙汰の私は軽く受け合った。子羽の会った男は、私を見るなり血相を変えた。何が何だかわからなかった私は、冷たい顔を崩さない子羽と、恐怖に引きつった大柄な男の顔を交互に見比べていた。
「下衆、やはり紫鵑の申したことは事実だったか。」
 男は何か喚きながら、剣に手を伸ばした。突嗟のことに、子羽を守ろうとするより早く、雷光が走った。子羽の細い手に抜身の剣が握られていて、その先は男の胸に深々と吸い込まれていた。武門の家に生まれた私が驚くほどの早業だった。子羽は淡々と、
「秘密を守れぬ者に侠の資格はない。」
と言ってのけ、表情一つ変えずに止めを刺し、死体を足で蹴転がした。それからようやく私を見た。
「確証が必要だったので立ち合ってもらった。不愉快な見世物だったが、許してもらいたい。」
「何の確証が……。」
「この男はお前を売ろうとしていた。褒賞に目が眩んだのであろう。」
とだけ告げて、後は無言で剣を拭った。平然と鞘に納めて歩き出す、文弱の公子然とした姿があれほど恐ろしかったことはない。
「いつから、そんな!」
「ここ数日だろう。お前の周囲で不審な動きをしていたため妓に見張らせていたが、昨夜馬脚を現した。私と共にいるお前を見て動揺するのならばと思ったが、掛かったようだ。」
 私が子羽と共に誅罰に現れたと錯覚したのだと言った。子羽に対する私の見方ががらりと変ったのは言うまでもない。
 親交が深まるにつれ−といっても私が一方的に子羽に私淑したというような関係だったのだが−子羽の学識の深さに私は舌を巻いた。師匠の門下で滅多に発言しなかったのは、無駄だと思っていたからで、子羽は独自の確固とした兵法観を持っていた。師匠の元に通ったのは、一般の兵法家の見地を知るためだったというのだから恐れ入った。
 子羽は仙人から兵法を授かったのだ、と侠客達は彼を別格扱いにして崇拝した。当人に尋ねると、穏やかに微笑んで、多分な、と言った。子羽には神仙染みた部分もあった。捉え所がなく、誰に対しても穏和だが、とんだところで激情家の面を見せた。実際、私に関わった件だけではなく、刃傷沙汰に子羽が絡んだのは一度や二度ではないと知って、驚いた。子羽の剣の技量は、武官の家に生まれた私が認めるほどで、普段重たげに下げている剣を一旦抜き放ったら、あの細い腕で素早く正確な斬撃を加えた。
 実際、子羽といて不愉快になることはなかった。楚の将軍という貴族の父を持っていた私には、まだ幼い頃のしつけが残っていたので、草莽から出た侠客には不快な思いをさせられることも多かったが、子羽の礼儀の前では、恥じ入るばかりだった。
 子羽があちこちで沢山の偽名を使っているのは知っていた。何故かと問うと、自分もまた潜伏しているのだ、と答えた。人を殺したのかと気安く問えば、殺し損ねたのだ、と呟いた。殺したかった、とも。
「呂政を殺すことが出来れば、一命など惜しくはなかったのだが。」
「では、博浪沙で始皇の車に鉄槌を投じたという壮士は……。」
 子羽はにっこりと微笑んで、それが答えだった。あの美しすぎる微笑に魅入られたのは、その時だろう。私は子羽を尊敬した。
 その始皇が死に、兄と甥が倒秦の兵を挙げたと聞き、私は江南へ帰ることにした。小柄で美男の才人を誘ったが、子羽は決して首を縦には振らなかった。
「私は楚の人間ではない。」
と。陣中から何度も書信を送ったが、なしのつぶてだった。
 その子羽は自分で小さな集団をまとめ、何故か沛公などに投じた。彼は韓の貴族、張良という本名をようやく明らかにして、韓の司徒という姿で再び現れた。兄が戦死し、甥、項羽の統括する陣中で私は彼に再会した。彼は生来の病躯に過労を抱えており、介抱してやった私は今に続く違和感を見つけた。
 子羽は、あの壮士は、壮士ではなく烈女だったのだ。

 やや青ざめた顔色の子羽が戻ってきた。私の前で丁重に礼を取り、沛公に会って欲しいと頼んだ。沛公は血盟を望んでいた。
「子羽、正気か?」
 平然と、狂っているかもな、と答えた子羽に、何かが切れた。
「出来ることと出来ないことがあるだろうが。俺は項王の臣下だ。それが、機密を洩らした上、沛公に会うなんてことが出来るか。子羽、頼むからもうやめてくれ、一緒に逃げてくれ!」
 子羽の両肩を掴んで揺さぶった。子羽の細い首ががくがくと揺れた。それでも、あの黒い瞳は堅固な意志をもって私を見据えていた。まるで、攻略すべき難関を検分してでもいるように。
「私を救うか、立ち去るかだ、項伯。だが、私はお前を帰すわけには行かない。伏して頼む。沛公に、お会いしてくれ!」
 魔が差したとしか思えない。
「…高くつくぞ。」
と私は口に出していた。
「会ってくれるか。」
「一夜でいい、子羽が俺の妻になるというのであれば。」
 さすがの子羽が、真っ青になって固まった。唾を呑む音が、耳についた。
 子羽の正体を知っていると知らせたのは、初めてだった。
「…わかった。」
 消え入りそうな声が承諾だと気付くより先に、私は子羽の腕を掴んでいた。

 道を修めた男として名高い孔門の澹台滅明の字を、子羽という。孔子は極めて醜貌の彼を侮って掛かり、その徳や能力を見誤ったという。
 私の子羽は反対だ。美麗に過ぎて、やはり才覚と能力を見誤る。子羽を外見だけの男と侮る人間は多い。一旦子羽の底力を知れば、崇拝する者が多いのは反動なのだろう。
 では、私のしていることは冒涜なのだろうか。
 子羽は目を閉じたまま、死んだように動かなかった。
 澹台滅明の義に傾倒したのかと問うと、再会した子羽は冷たい笑いを浮べて首を振った。子羽は孔門が嫌いだ。澹台の人となりは嫌いではないが、と付け加えた辺りは、個人を良く見ている子羽らしかった。礼楽の一定の効用は認めつつも、それは目的ではなく手段に過ぎないと断定するのが子羽だった。目下の情勢は礼楽など無用の長物、早急になされるべきは暴秦の酷政の打倒と、破綻した雑民の生計の回復であり、その上でなければ社稷の経営は成立しないと理詰めで語った。
 今は微かな吐息で辛うじて生きていると解るだけの赤い唇から、一言の言葉も洩れてこない。
 何故、子羽という名を名乗った。子羽は確か。
 韓非子を覚えているか。
 知っている、と言うと、後は微笑むばかりだった。子羽は韓の五代にわたって宰相を出した名門張家の当主だったのだ。韓の公子と交誼があってもおかしくはない。
 韓非子がお前に名付けていたのか、と言っても、子羽は答えなかった。
 手で探ってみても、子羽の背中には翼などついていない。それでもこの侠客は、いつでも天へ飛んでいきそうな仙人染みた空気をまとっていた。いや、仙女と言うべきか。
 正反対の容貌を持ちながら、義に関しては苛烈さを追求する二人の子羽。澹台滅明と張子房。
 私に不義者になれというのか。
 なればよかったのだ。子羽は侠客の頭たるべき者ではなく、深閨で夫を待つのが相応しい身なのだ。楚の項氏ならば、韓の張氏にも引けは取るまい。
 何故沛公の策士などになった。義によって結ばれた弟である私の懇請を蹴ったくせに。それでも子羽は何も言わない。
 子羽は、沛公とどんな関係を持っているのだろう。沛公のために私の申し出を承知した子羽は、何も語らなかった。

「項伯兄を説いて参りました。お連れ致します。」
 沛公の感謝の声が、天幕の外にまで聞こえた。子羽が穏やかな顔を覗かせて私を差し招き、沛公は拝礼で私を迎えた。子羽は平素よりは少しゆっくりとした動作で外に出た。牛を引いてくるよう命じている。沛公が手配していたのか、すぐに牛の鳴き声が聞こえた。先程まで気絶していた人間が刃物を振るって、手元が狂わないか心配したが、子羽は淡々と牛の両耳を傷つけて器に血を満たし、我々の元に戻ってきた。
 義兄弟の盟を結ぶ儀式を、子羽は下邳の侠客として淡々と執り行った。香を焚き、天を拝させ、地を拝させ、沛公と私の年齢を確かめてから兄と弟たるべく誓いを交わさせ、血の盃を酌み交わした。
 全てが終わっても、動こうとしなかった子羽。急いでいたのに、起きもしなかったので気を失っていたことに気がついた。揺さぶって、怒鳴って、ようやく気がつくと、子羽は弾かれたように起き直り、凄まじい早さで身仕舞をしてから、まだけだるい余韻に浸っていた私の頭から冷水を浴びせかけた。
「これで、沛公の義兄弟になってくれるのだな。」
 時間がない、とふらつく足で私を急き立てる子羽は、別段語気を荒げた訳でも、泣いていた訳でもなかった。ただ淡々としていて、私にはそれがやりきれなかった。
 血の盃を酌み交わす私と沛公を、子羽は穏やかな微笑で見守る。兄弟の盟約が成立したとき、沛公は私に弟の謙譲をもって、項王の怒りの不当を訴えた。この男は、確かに私に綻り、それ以上に静かに見守る子羽に綻っていた。
「どうか、愚弟の為、項王にとりなして頂きたいのです!」
 私は沛公のなまずひげから、私の子羽に目を戻した。私の子羽は、じろりと私を見据えた。
 お前の拒絶は、私に対する不義だ。
 私は子羽の目の呪縛から逃げだすことが出来ない。
「解った。項王にはおとりなしいたすが、御自身、翌朝なるたけ早くにいらっしゃるがよろしかろう。それまでに王のお怒りを解いておく。」
「かたじけないことです。子房さん、貴方も一緒に来てくれますかな。」
「無論のこと、同道致しましょう。項兄、明日、またお目に掛かれると存じます。何卒、項王によしなに。」
 何ということを仕出かしたのだ。私はあの甥に釈明する良い手立てを思いつかなかった。甥はまだいい。私の話を聞いてくれるだろう。問題は范増だ。気が重い。
 沛公と義兄弟になった。羽は、怒るだろうか。いや、羽は私の良い理解者だ。あれと私には似たところがある。死んだ兄の梁のように、落ち着いて考えるということがあまりなく、衝動で行動するところは良く似ていた。
 子羽は沛公と、陣の外まで私を見送った。子羽の端正な顔には危機に対する挑戦以外のものは浮んでおらず、私にはそれが寂しくもあった。
 深夜に起こしてしまった羽は、私の行動をやはり咎めなかった。あいつと血盟なさったのですか、と驚き、口下手な私が何とか沛公を弁護するのにじっと耳を傾けた。とどのつまりは、沛公は貴方に逆らおうと思っていたのではなく、考えが足りなかったばかりに関を閉ざしてしまい、不用に怒りを買っただけなのだ、愚かは愚かだが、それだけで全軍をもって滅ぼすのは貴方のすべきことではない、と繰り返しただけだ。
 羽は困っていた。貴方のしていることは、弱い者いじめだと言われて、困惑していた。甥には、まだ育ちきっていない幼さが残っていた。
「亜父にも諮らなければなりません。」
 頑迷な老参謀の顔が思い浮かび、ぞっとした。彼は沛公を敵視して、この度の殲滅を企てた張本人ではないか。
「羽よ、翌朝劉邦は貴方に謝罪するため現れる。この叔父の顔を立てて、せめて、話だけでも聞いてやっておくれ。この通りだ。」
「何をなさる!叔父上、顔を上げて下さい。あいつを殺すことなど、いつでも出来ます。わかりました、話だけは聞くとお約束いたしましょう。それ以上は亜父に諮らねば、如何とも為し難い。」
 甥の膝下にひれ伏した私が引き出すことの出来た譲歩はそこまでだった。後程会った范増老人は、ほだされましたな、と冷たく私に告げた。私は一言もなく押し黙る。羽はずっと不機嫌だったから、私以上の叱責を浴びたのだろう。
 翌朝、何も知らない沛公は鴻門に現れた。、随行の者達をぞろぞろと門に残して、何やら大きな男と私の子羽を連れてやって来た。出迎えた私は、硬化したままの范増老人と逡巡している羽の様子を伝え、子羽はただ肯いた。
 何故落ち着いているのだ、子羽。当事者の一人でもあるお前が、何故我々以上に落ち着いているのだ、子羽!
 沛公はお前の繊細な面差しに救いを求める。そして私は、お前の表情に憐憫のかけらでもと探る。子羽は穏やかな微笑を浮べて、何も言わない。仕草で、そっと沛公を宴席へと促す。或いは宴という名の審理の場に送り出す。
「項兄がいらっしゃいます。不肖、張良もお傍におります。安心して、いつものように素直になさればよろしいのです。」
「子房さん、わしは、生きて帰れるだろうかのう。」
 子羽の瞳が、侠客の時分と同様に、ぎらりと輝いた。
「必ず、生きたままお帰し申し上げます。義によってお約束いたします。」
 そして子羽は舞のように袖を翻し、入口を指し示した。行け、と。
 戦いは始まった。

 上座に、怒ればいいのか笑えばいいのか困っているような羽がいる。南、南面する君主のように不機嫌と威厳の固まりである、しかし君主ではない范増老人がいる。その向かいには北面する臣下が身を震わせているという体の劉邦。
私の正面には、私の子羽が淡々と盃を干していた。私は隣で大杯を呷る豪快な甥と、楚楚として盃を重ねる子羽を交互に見ていた。落ち着きのない、と范増老人が苦言を呈したのは、私をだしに甥へも注意を促したかったのだろうし、場違いに戦陣の料理など褒めている子羽は、例の微笑を辺り構わず振りまいていた。それで劉邦が笑えない田舎じみた話をして一人で笑ってみたり、時折甥が口を差し挟んだりする程度の空気が流れた。
 弁明自体は途中で腰を折られていた。話の中身など、耳にたこの出来るほど聞かされた飽き症の羽が、今更動揺したこのなまず髭の親爺の謝罪など聞きたくなかったからなのだろう。項王にはまことに申し訳ないと思っております、とまで聞いたところで、出し抜けに酒を命じ、范増老人が目を剥いた。
 それでも、范増は羽に逆らうことはできぬのだ。もしかすると、叔父である私以上に羽のことを可愛がっている−とてもそうとは見えないのだが−は彼なのかもしれない。羽の福祉と勝利を考えているのは范増であり、私は甥以上に私の子羽のことしか考えていなかったからだ。
 しかし命を救われたとは、叔父上は大層な豪傑とお知りあいなのですな。しかし、韓王の司徒にそのような豪傑は見なかったと、籍は記憶しておりますが。
 首を捻っていた羽は、実際の子羽を見て幻滅の顔を表した。仕方がない。少し酒が回ると、羽は私に向けて囁いた。
「叔父上、あの陰気な男が例の豪傑ですか?」
「王よ、子羽を外見で判断なさると誤りますぞ。」
「子羽?客よ、貴方の名は子羽というのか?」
 突然羽が呼びかけたのに、子羽はいささか驚いたらしい。黒い瞳をしばたたいた。もっとも、戦場に立っているのでなければ虎退治をしている方がましという我が甥は、子羽の美貌にも何ら感じるところもなく、脳天気な口調を変えなかった。或いは酒席の陰気さに、いい加減飽きてきたのだろう。
「項伯殿の知遇を得ました頃には子羽とも名乗っておりました。本名は現在名乗っております通り、張良と申します。」
「沛公、張良殿には失礼だが、貴方はこのように陰気な客を傍に置かれて退屈ではないのか?」
 沛公が困っているのを見て、楽しそうにするとは困った甥だ。子羽は一つも表情を変えなかった。それが却って、私などには恐ろしい。
 羽よ、羽よ、そなたは叔父の命の恩人に何ということを申すのだ。
「いやあ、陰気というより、子房さんは物を考える方で、わしのような物知らず親爺などとは違う世界に住んでいらっしゃいますからなあ。」
 陰気と陽気な家臣について、二人の主君がぎこちない会話と乾いた笑いを交わす。陰気な美人、私の子羽は表情一つ変えず、例の微笑をたたえて、時折相槌を挟む。
 かちり、と硬質な音が聞こえた。子羽が素早くそちらへ視線を投げた。殺気すら篭った、下邳の侠客の。
 范増老人の掲げた手の中に、玉玦がある。
 かちり、かちり。
 火打石のようなその音を、私の甥は黙殺した。貴方の傍に陽気な人間は居らぬのか、と、青ざめた沛公に問い尋ね、沛公は引きつった笑顔で部下の話を始めた。范増老人が一時退席した。その空席を、睨み据えている子羽に、誰一人気付かなかった。私以外は。下邳の侠客を知っている、子羽の恐ろしさを知っている、私以外は。
 玉の火打石は、子羽に火花を飛ばしたのだ。あの黒い瞳が剣呑な光を帯びてきらめいている。子羽は軽く瞼を上げて私を見た。さあ、どうする、と詰問せんとばかりに。いや、違う。
 沛公を救え。私はそれだけのために代償を払ったのだ。
 代償、なのか?私がそれを聞き返すことなど、許されない。子羽は既に私ではなく、范増老人の出ていった扉を見据えている。
 甥よ、何故楚国の陽気な健児の武勇について、沛公に無益な話を続けているのだ!沛公をもう解放してやれ!そして子羽を、ここから出してくれ!
 子羽の顔は、義弟を憐れむ顔ではない。取引の相手に実行を迫る、他人の顔だ。子羽は、既に私の義など当てにしてはいない。何故?
 かたりと扉が開き、入って来たのは荘だった。范増老人が荘の背後から陰のように入ってきて、子羽は老人のしゃんとした背中だけを見据えていた。
「おお、沛公。これは私の従兄弟、項荘と申す豪傑だ。彼こそまさに江南の健児、勇に優れて豪快な、胸のすく快男児である。」
 上機嫌の羽、白い歯を見せながら項王に、沛公に礼をして見せた荘は、何を思ったか、すらりと剣を引き抜いた。
「何をする、荘?」
「おお、客人の座興に剣舞を一差しご覧に入れようと。」
「それは良い、是非に願おう。沛公、彼こそ舞の妙手である。しかと見られるがいい。」
 はあ、と顔を引きつらせる沛公が、下座の麗人を見る。羽よ、羽よ、客の恐怖に気付かないのか。成り行きに任せて、投げやりに酒なんぞを呑んでいるお前は。荘、何という構え方をする。片手で剣尖を沛公の喉許に突き出し、そこで一旦所作を止めるなどと!じり、と身を引いた沛公から優雅に剣尖を引き、円弧を描くようにして回し−。
 満座が息を呑んだ最中、ほう、と息をついた者がいる。荘の動きに目を取られる羽以外、そう、舞手の荘までもが振り向いたのは、物憂げに机にもたれながら片手の盃を弄んで微笑む、下座の麗人。いや、子羽は笑ってなどいない。子羽の黒い瞳は、ただ荘のきらめく剣尖だけを睨みつけ、口許だけが微笑んでいた。
 荘の舞には無駄がない。引き締まった体躯に、項家の者に相応しい長身、流れるような動きに、手入れの行き届いたきらめく剣が輝きを沿える。その光の流れは、時折逸れて、沛公に襲いかかる。きらりきらりと華やかに襲いかかる。手を曲げ、足を引き、身を逸らし、首を振り向け、凛々しい荘が舞っている。
 何度目かにその光が沛公へと流れ、あと一歩を荘が踏みだそうとしたとき、火花が散った。荘は、唖然として割って入った剣を眺め、割って入った私を眺めた。私は何時の間にか飛び出していた。
「一人舞とは無粋だろう。」
 無頼を張っていた時身に付けた、恫喝の笑いを浮べた。荘は忌々しそうに私を眺め、もう一度舞い始めた。
 仕切り直しか。
 若い甥の身ごなしはさすがに素早い。緩急をつけ、鮮やかに刃をひらめかせ、立ち、屈み、旋回し、動作を決め、間合いを測る。対して舞っている私までが魅了されそうになる。その合間に隙を狙って光が流れ、火花が散る。私は荘を妨害する者として、舞い続ける。
 差す手、返す手。踏み出す足に引き返す足。刀身を掲げて反り返り、そこから一息で縦横に辺りを薙ぎ払う、静と動の交錯。そして交錯する光の軌跡の交点は、鋭い音と共に発する火花。
 私の子羽に近付くな。子羽の沛公に近付くな。
 荘、お前の剣先を私の子羽に向かって伸ばすのではない!
 私は子羽を背にし、甥に向かって剣尖を伸ばす。甥は従兄弟を背にし、叔父に向かって剣尖を伸ばす。私達は対称を為す美しい絵であり、同時に敵だった。交錯した剣尖を中心として、私達の動きは円弧を描く。荘の背には范増老人、私の背には沛公。
 お前は誰を守るというのだ。お前の敵は誰だというのだ。
 中心が均衡を失ったとき、荘の剣が素早く動いた。早足で拍子を取ったかと思うと、私の脇を掠めて、素早く沛公の喉を狙った。下から直角に交差させた私の剣が、彼の動きを座興の動作に押し流す。剣は差し込み、止まることを許されず、舞の流麗な動きを続ける。それは計算された緩急の動きにも似て、即興劇の緊張を残す。項王羽は、既に身を乗り出している。
 誰も、一場の舞から目を放すことが出来ない。守られる沛公も、追い詰める范増も、傍観に徹する羽も。舞っている私も、荘も。ひらめく剣の輝きと、動く肢体のしなやかさに虜にされて、最早抜け出すことも叶わない。子羽以外は。今は張良を名乗る、私の子羽以外−。
 韓非子を覚えているか。
 再びの火花が散る。
 非、という名は、背き離れてゆく翼の絵だ。私もまた、韓子のように、俗から離脱する翼が欲しいものを−。
 再会したときの子羽の言葉が甦る。子羽は既にここにはいない。全てを賭けた剣の舞に背を向けて、どこかに飛んで逃げてしまった。私は少し安堵する。安堵し、そして自分の舞を子羽に見てもらいたかったことに気付く。
 どこに飛んでいった、私の子羽。私の背後にいた、お前の影はどこの高みに飛び去ったのだ。背を逸らす所作の最中、日の入りの方角にしつらえられた空席を、それでも私は見ずにいられない。私の、つまり項王の真正面に座って微塵も動揺を見せなかった、別世界の侠客。お前は、最早存在しない『義』を追って、空の高みに舞い駆けるのか。
 時折響く剣撃と、鍔ぜりの音、踏む足の拍子が沈黙の舞の奏楽となる。誰も逃げ出す事の出来ない、一命を賭けた剣の演舞は緊張を孕んで淡々と続く。時折鮮やかな光跡を残し、終止符にも紛う剣撃の音も高らかに、火花を散らしつつ、緩急をつけ、位相を入れ替え、守り、攻め込み、退き、進み出、繰り出し、受け止め、流し、払い除ける。
 舞、なのか。戦い、なのか。どちらでもある。目まぐるしく入れ替わる私と荘の位相にも似て、目まぐるしく入れ替わりを続ける天化の覇者の位相は、華やかな戦いの動きにつれて絶え間なく位置を変え続ける。ある時は美しく、ある時は醜悪に、しかし下りることも逃げだすことも出来ず、私達は踏みとどまる。剣をかざして、進んでは引き、手を伸べては差し戻し、膝を曲げ身を伸ばし、回っては立ち止まる。振り回す剣が描く、光の軌跡に誘われ、いつしか忘我の境地に至る。
 何故、舞うのか。一拍遅れて、剣が鳴る。
 荘の剣を振り払い、私はここにいない子羽のために舞って、或いは戦っていた。
 凄まじい物音が鳴り響き、終演を告げた。帷を引き裂き、盾をかざして突進してきた大男が、肩をいからせて項王を睨み据えた。羽も突嗟に構え、佩刀に手を掛けた。
「客よ、何者だ!」
「沛公が参乗、名は樊噲。」
 涼やかな声が名乗った。大男の背後から静かに現れたのは、小さな私の子羽だった。

 沛公の危機と聞きつけて乱入した大男を、羽は大層気に入った。その大盾で護衛の者を何人も突き飛ばしてきたのだと知ると、羽は心底嬉しそうな顔をした。
「壮士である、杯を与えよ。」
 大杯を干し、豚の肩肉を盾の上で捌いて食うような男が、項王の、甥の『壮士』なのだ。その壮士に、訥弁に近い口調で、沛公に対する処遇の不当を訴えられると、羽は大いに感じるところがあったらしい。まあ食え、と陪食を勧め、大男は子羽をちらりと見て黙諾を察してから従った。
 羽は沛公に壮士を誉める。 沛公も項王に壮士の武勇を讃える。ぎこちない和やかさがしばらく続く。連続する舞の動きにも似て、さらさらと時が過ぎる。そして一拍。
 沛公が小用に立ち、子羽と壮士が続いて退席した。
「頭が緩いが、悪くない親爺ではないか。亜父、貴方はどうもあれに厳しすぎはしないか?」
「大王、そのご寛恕にこそ、奴は付け入ろうとしておるのですぞ。奴が心底恭順を示すのであれば、咸陽に入らずと、大王のご到来をお待ちすればよかったのでございます。それを僭越にも、府庫を接収したばかりか、独自の法を出したなど、奴には野心がありすぎまする。騙されてはなりませんぞ、大王。」
「だがな、聞いたであろう。奴の手の者は、我が江南の健児とは違う、流俗と無頼漢の寄せ集めに過ぎん。それこそ高札の一本でも出さねば治まらんだろうよ。」
「では、それらの者の絶対の忠誠を得ているという、あの男の得体の知れない信望は?」
「そこそこの将なら信望くらいあるだろう。私にだとて、亜父よ、この項王にだとて、奴にいや勝る信望があるのだ。絶対の忠誠を持つ江南の健児が多数いるのだ。なあ、荘よ。その程度で勝てるほど、戦というものは甘くないではないか。亜父よ、寛容の徳を示してやるが良い。」
「大王の御心のままに。」
 笑いあい、肯き交わす若い従兄弟達をよそ目に、范増の眉間の皺はますます深くなる。
 新たな酒が運ばれてきても、沛公は戻ってこなかった。捜しに行かせましょう、と范増が提言した。険悪ですらある顔に、羽は苛立ちを隠そうともせず、
「あの親爺のことだ、急かしては哀れであろう。亜父の一瞥に、絶えず震えあがっていたぞ。」
と突き放した。
 甥は優しいのだ。乱暴であるが、自分が庇護してやらねばならないと感じた者には、徹底して優しいのだ。だから、甥は部下に好かれる。信仰のような対象として、甥は仰がれ、私の兄が死んで数ヶ月の間に、『大王』と仰がれるほどの存在になった。まだ、二十代も半ばの青年に過ぎないというのに。
 甥の優しさは沛公を救い、そして恐らくは−?
 范増の責めるような眼差しに、私は一つの仮定を見つけてしまった。
 子羽が、甥の優しさを利用して沛公を救おうと狙ったのであれば。或いは、私の情を。
 これで、沛公の義兄弟になってくれるのだな。沛公を救うのだな。お前は、代価を要求した。だから私は代価を払った。項伯、私とお前の間に、最早義は存在しない。あるのは、利害の取引のみだ。
 まさか、子羽!
 出し抜けに立ち上がった私に、范増老人の二人の甥も驚いた。私は羽に、様子を見てくる、と早口に告げ、彼らの後を追った。追おうとした。
 違うのだ、子羽。代価を要求したのではない、信じてくれ。私は釈明しなければならず、しかし子羽の後は追えなかった。入口で、入ってきた男とぶつかりかけたからだ。
「何をそんなに急いでおられますかねえ……。」
 人を食ったような笑顔の男を突き飛ばしてやろうと思うより早く、彼は中へ向かって呼びかけた。
「范老人、お言い付けどおり見張っておりましたが…来ませんよ?」
「陳都尉、まことにそなたの方へは来なかったのか?」
「はい。目を皿のようにして見張ってはおりましたがね。」
 都尉の分際で、私など眼中に入れず脇を通って項王と范増老人の前に膝まずいた彼は、私にだけ意味のあった言葉を付け加えた。
「なまずひげの漢王なんか通りませんでしたよ。おやじどもは一人もね。酌の美人しか通らなかったのですが、場所を変りましょうか?」
 范増が顔をしかめた。まあ良い、待っていよ、と命じていた。
 酌の美人など、この前線にいるはずもない。あり合わせの女を徴用して来たのが時折うろついてはいるが、まさか。まさか、子羽は女の姿でどこかに行ったのではあるまい?
「叔父上、都尉も申していることですし、酒でも飲みながら待てばよろしいではありませんか。」
 羽が屈託なく呼びかけ、なあ、と従兄弟と肯き交わした。若い都尉が苦笑気味に、私のために場所を空けた。
 再び入口が開き、子羽の細身の姿を見つけた私は安堵した。あの優雅な微笑をたたえたまま、何やら大層な包みを抱えて、おっとりと現れた。礼物持参の辞を述べる子羽の仕草は、さすがに亡韓の相家に生まれた者としての気品が漂っていた。あの白い手が玉璧と玉斗を捧げ持ち、羽と范増に捧げるのを、私は黙って見守った。
 私には、何もない。何故なら、私は既に礼物の前払いを要求していた。高く付いた、それはどちらに?
「で、沛公は?」
 物欲の少ない我が甥は、場の空気が凍ることも何のその、ずけりと尋ねた。子羽はにっこりと微笑んで、
「逃げました。」
と、言い切った。范増が憤怒の形相も凄まじく、私の子羽をねめつけた。子羽は涼しい顔をして、しゃあしゃあと、
「大王のお怒りを買ったのではと恐れて、兎のように自陣へ馳せ帰ってしまいました。今頃は到着しておりますことでしょう。」
と続けた。その流し目が、一瞬だけ范増を射た。
 残念だったな。
 下邳の不敵な侠客の、不遜な言葉を、范増は確かに認知したのだろう。血相が変っていた。
 羽は何も気付かない。呆れて、
「ご苦労であった。それにしても、しょうのないおっさんだ。」
「大王!」
 范増の制止は、最早意味を持たない。羽は大胆不敵な私の子羽から目を逸らすことが出来ない。
「沛公のご好意、受納しよう。」
 何故か、脇に座っていた都尉が息を付き、子羽は軽くそちらに視線を流した。

「一人で、大丈夫か?」
 軍門まで子羽を送って出た私が尋ねても、当人は、大丈夫だ、と繰り返すばかりだった。沛公がまともな護衛を全て引き連れて脱走し、その後をなし崩しにおいて行かれた者達が追ったので、子羽には誰も付いていないというとんでもない状況になっていた。
「覇上までついていっても構わないが。」
「こんなことのあった直後だ。これ以上貴兄の立場を悪くはしたくない。」
「…子羽、水臭いこと言うなよ。お前は、俺の命の恩人だろう。俺は、お前の義弟なんだから、忘れては困る。」
「…そうだったな。貴兄には、だが、このたび大恩を受けた。」
「だから、水臭いこと言うなって。俺は、お前のこと、好きなんだからな!」
 子羽はふわりと笑った。そうして、手を伸べた。白くて細い、優しい手を。
「戦場で見えることがあっても、私はお前の義兄弟だ。必ず、お前は助ける。」
「俺も、必ず!」
 義のためでは、ないだろうけれど。
「項伯、それにしても見事な舞だった。」
 子羽は一言誉めてから、去っていった。からからと廻る天輪にも似た車輪の回転に運ばれて、私から、遠くへ遠くへ行ってしまった。
 差す手、返す手。踏み出す足に、引き返す足。わかってくれただろうか、子羽。私はお前のために舞ったのだと。ぴんと張りつめた一本の死線の上を、優雅な足取りで爪先立ちで歩いていく踊子にも似た、大胆不敵なお前のために舞ったのだ。剣をかざして、進んでは引き、誘い込んでは反発し合い、動いては止まり、緩急をつけ、見る者を幻惑する、舞のように生きてきたお前のために。
 人は子羽の上に何を見るのか。戦場の軍師か。いや、違う。子羽は、人を救う。救うために剣を取って、軽やかな足取りで危険な足場に踏み出してゆく。私は子羽のために舞った。子羽は、何のために舞うのだろう。義のためか。
 それとも、私の手に触れることのなかった翼で、余人に到達し得ない高みへ駆け昇るためなのか。
 義兄弟であり、敵であり、そして。絶えず位相を変える私達は、交えた剣の交点を中心として、決して近付かない二人の舞手にも似ているのかもしれない。今度、どんな立場でまみえるのかも知れない、私の子羽は、もう砂塵の彼方に見えなくなっていた。
 本当に見事だったのはお前だよ、子羽。

 貴方がたは、韓相の正嫡に何を見るというのですか。
 危険でありながら麗しい、剣の舞のようなものを!





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ラスト2行のセンテンス、実はぱくりです。(笑)出典の分かった方はにやりと笑ってください。
さて、お題シリーズで目下最長編になってしまった話です。(できたのは去年の九月)しぼがらみはどうしてこんなに長くなるのだろう。『舞う』。舞っているのは項伯の旦那。項伯さん、ある意味しぼちゃんの崇拝者なので、全然しぼちゃんのことをわかってません。(笑)だからこそしぼちゃんがあんなに美化されているのかも。陳平なら、どっかでキれてる、絶対に。何だか都合よく利用されちゃってますが……。項羽さんのことは完全目下扱いだし、全く単純にも程があるというのか、なんというのか。(笑)陳平と韓信殿と項伯さんとぶつけてみるという、とんでもない話を書いたらどうなるでしょう。良くも悪くも、しぼちゃんが意識しているのは陳平だけなんですけどねえ。というより、他の人は無視してかかっているというか…騙せるから。とんでもないヒロインだな、これ。騙せないからというだけの理由で嫌われちゃあ、札付き陳平君もたまったものじゃありません。鴻門の会、ようやく文章化しました。何だか…語り手が情けない……。(笑)


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