| 「ここ、空白一行空けて下さいって言ったでしょう。あとね、ここは『穀類』なんて適当な物品名で記載しないで下さい。麦だったんですか、米だったんですか、粟だったんですか。」 「麦です。」 どうでもいいだろう、食えれば。現に配給できたのだし。私の書いた簡を話しながらかりかりと削り直していた上司は、ようやく小刀を置くと、ため息をついて筆を取り上げた。 だから最初から私などに任せず、自分ですれば良いのに。 書き込むのかと思いきや、上司のちびた竹筆は簡に下ろされなかった。 「で、どっちです。」 「どっち?!」 「大麦と小麦があるでしょう!」
久し振りに見かけた夏侯嬰さんは、大きな口を開けて爆笑した。笑えないだろう、どう考えても。 口の欠けた椀になみなみと酒を満たしながら近況を尋ねた彼に招かれるまま、漢王幕舎の側にあるさしかけ小屋に招かれた。日頃の鬱憤をつい愚痴ると、この反応である。 まあ飲めよ、と私の椀に足しながら、彼は相変わらず涙目で笑っていた。 「蕭何さんだ、ほんと蕭何さんだ…悪いな、あんたの災難がおかしいわけじゃないよ。あの人、昔からそうなのさ。」 「あんな細かくて、何の役に立つんです?!」 詰問調になったのは、この人が命の恩人で、私を『取り立てて』くれた人でもあるからだ。最大限間違った方向にではあったが! 項王の下から逃げ出した私は、どこといって取り柄のない兵卒に過ぎなかった。それでも私は自分に一軍を指揮する才があると信じていたし、今でも変わっていない。楚軍は、項王の縁戚か、有力な将軍に強力な手蔓でもない限り立身出来ないと知って、私は物好き極まりなくも絶頂の楚軍を離れて漢に投じた。漢王は寛大で良く人を用いると聞いたためだが、噂はやはり噂でしかない。高位にあるのが、腕力を指揮能力と勘違いし、取りあえず怒鳴っておけば部下を統率できると考えている田夫野人に代わっただけだ。私はやはり兵卒のままで、境遇がさらに悪化しただけだった。何しろ蜀すれすれ、関中の奥地まで連れてこられたのだからな!ああ、咸陽にいた筈が、とんだ転落人生。 ところがその先で連座した。 断っておくがあくまで連座だ。私が悪事を働いたわけではない。大体率先して危険を冒すのは面倒だ。どうせ見返りも少ないことだし、私にはやりたいことがある。連帯責任なんて言葉、糞食らえ。 次々と首を切られて十三人。あわや次は私の番というところで夏侯嬰さんが通りかかったのは人生最大の幸運の一つだろう。とにかく命あっての物種であり、夏侯嬰さんが漢王の車係だというのは誰もが知っている。破れかぶれで私は彼に向かって叫んだ。 『王は天下が欲しくないのか!何故いたずらに壮士を斬るのだ!』 夏侯嬰さんは足を止め、連座の件は不問にしてくれた。繰り返すが私はとばっちりを食らっただけで悪いことはしていない。どうして私を救おうと考えたのかわからないが助かった。本人は、 「あんたの面構えが気に入ったからさ。ついでに面白れえもんな、あんた!」 と言っている。その図々しさが気に入った、というのはいささか嬉しくないが。 それで命拾いはいいのだが。 その後、兵卒から漢王の側近と名高く、私でも名前を知っていた蕭何さんの配下になったのは出世ではあったのだが。 だが。 どうして役人でもない私が木簡の山に埋もれて、かなりどうでもいい書類の訂正に明け暮れなければならないのだ?!刀筆の吏とはよくぞ言った。 毎日削っては書き、蕭何さんに無駄に細かい点検を受けた挙句、削り直して書き直す。毎日毎日その繰り返しだ。うんざりもする! 「まあまあまあ、蕭何さんはそいつが大事なんだと言ってるんだから、お前さんも付き合ってやれよ。一応都尉だろ、治粟都尉!」 「夏侯さん、あんた、あれに付き合う気あるんですか……。」 地鳴りのような声が出たのは仕方ない。うっ。と詰まった夏侯嬰さんは、必死で、 「無理無理、俺無理!字なんか読めねえ!」 と顔の前で手を振った。配属基準…もしかしてそこなのか……。ありうる。すさまじくありうる。 秦吏崩れの下僚を指揮しながら、連日書類仕事に精を出す上司を恨めしく眺めても無理はないと思う。 「韓信、この未徴収って何ですか?」 「糧抹の提供を断られたそうですよ。」 「困りましたね…わかりました。私が説得に行きます!」 怖るべし、この執念。すぐさま立ち上がった蕭何さんは、怪訝そうに私を見た。 「何してるんです。早く用意なさい、行きますよ、韓信。」 行くのか、私も......。 さらに怖るべしは、彼が狙った地帯の租税や供出が確実に納められることである。宥めも脅しも駆使し、足労も厭わず、書類の山にも怯まない蕭何さんは、率直に言う。怖い。 慣れない事務仕事と訂正書簡と納期督促に私が根を上げるのは早かった。そもそも、地道な仕事に私は向いていないのだ。だから三軍を早く指揮させて欲しいのだが、異動できる見込みは薄すぎる。さらに悪いことに―ある種の連中には慶賀すべきことだろう―上司に気にいられたらしく、押し付けられる仕事の種類が増えつつあるような気がする。 押印箇所がおかしいの、行頭は空けろだの、逆に漢王の名は改行した上一文字飛び出させて書けの、相変らず訂正しきりである。 どうでもいいだろう、そんなこと! これで連日居残り仕事なんて、涙が出る。暇ならいいだろう。問題は、漢軍が見事なほど連戦連敗失地回復不能なことだろうが!何で前線にも出られず、木簡を毎日削っては書きを続けなければならないのだ!木簡に埋もれた人生なんか金輪際ごめんだ!! 徴収はまだましだが、私は収税吏志望でも、天職でもない。渋々同行した挙句、 「大分督促が上手くなってきましたね。」 と笑顔で言われて、誰が喜べるか!絶対、絶対、私にこの仕事は向いてない!誰か配置転換してくれ! しかしなまじ私を見込んでしまったらしい蕭何さんは首を縦に振ってはくれず、せめて誰かの幕僚にという希望は希望のままだった。 削っては書き削っては書き削っては書き。訂正訂正糧抹督促。 もう、嫌だ!!! 「やめてやるっ、こんな職場!」 配属に文句がある、という私の事情はまだましな方だ。連戦連敗の漢軍にいて戦死する確率と、脱走に失敗して斬られる確率なら前者が間違いなく高い。よって毎日かなりな数の脱走が起きる。そもそも食い詰めて入ったとか、蕭何さんの徴発に引っかかった、という消極的にも程がある理由で兵になった連中だ。忠誠心など期待するだけ間違っている。 そして私にも漢への忠誠心など欠片もなかった。軍の指揮を取りたいといってわざわざ楚軍からやって来たのに、やらされているのは木簡仕事だ。決裁の標題が、食「料」移送だろうが食「糧」移送だろうが、どっちだっていいだろう! 我慢の限界だ。その日、脱走する一団の中に私もいた。 既に一度失敗したことがある私は経験者として歓迎された。深更、人目に付かない裏道を歩きながら三々五々集合して、最終的には一緒に抜けようという程度の手筈で、私は急ぎ足で漢中を抜けようとしていた。 月もない、曇った夜に安心する。 白状する。私は上司を甘く見ていた。 「韓信見かけませんでしたか?」 再提出になった書類を抱えてまさか蕭何さんが自宅を襲撃していようとは。その前に、私の行動半径全てを捜索させていたとは。 明日が締め切りというのにまさかそこまで執念燃やすとは。 「あー…北門の方に行くのを見かけましたよ。逃げたんじゃないっすかねー。」 「韓信!!」 まさか、方角聞いただけで追跡開始するとは! 幻聴かと思った。 漢中脱出を目指して足を早めている最中だ。おまけに、好き好んで人の通らない間道だ。 そこで自分の名前が連呼されるのが間違っている。 気味悪さに、誰もが小走りになる。追われる身の恐怖も手伝う。 しばらくして声はより明瞭になった。韓信韓信と呼ぶ声が蕭何さんのだと気づいた途端、全員全速力だ。 「待ちなさい、韓信!ま、ち、な、さ、い!!」 誰が待つか、首斬られると知っていて!十人全員顔色がない。馬蹄の音まで聞こえたからにはなおさらだ。若さと体力に任せて走る。 それはいいんだが、私の名前を連呼するのはやめてくれ! 「か、ん、し、ん!ま、ち、な、さ、い、っ!」 だから諦めろ!しつこい!貴方の年は私の親といって通用するんだから、年柄でない無茶はやめろ! …息、切れてないか……? ちらりと振返る。 何やってるんだ、あの人は!馬かと思いきや、その痩せた驢馬はどこから持って来た!それもまともに乗れていない。半分ずり落ちかかっている。無理な体勢で、落ちないようにしがみつきながら、必死で私を呼んでいるのだ。 貴方の執念の掛け方はどう考えてもおかしいぞ、蕭何さん! 「あんたは落馬する前に止まりなさい!」 私は怒鳴る。ああほら、余計なことしてたら一番最後になってしまったじゃないか!あの人のことは放って行くぞ! 「まーちーなーさーいー!!」 「諦めなさい!お世話になりました!」 待て。何でここで私は辞去の挨拶などしているんだ?!そして。 「人に、背中、向け、て、挨拶、する、ひと、があります、かーっ!」 あんたは落馬しかかりながら説教するなーっ!危なくてたまったもんじゃないだろうがーっ! 「帰んなさい、漢中にっ!」 後ろなんて振り返りながら走るもんじゃない。少し遅れている。追いつかないと。速度を上げる。 「まっ、待って……!」 悲鳴。よせばいいのに私は振り返り、足を止めてしまった。仲間たちはもう見えない。 「蕭何さん、手を放しなさい!引きずられますよ!」 半ばずり落ちている元上司は、執念でへばりついているといった体だ。驢馬に蹴られるとか、落ちて引きずられるといった間抜けな最後は見たくない。自分を追いかけてなんて最悪だ。 私が足を止めたのを確認して、蕭何さんは手を放した。よろめきながら走って来た驢馬の手綱を捕まえる。さしたる抵抗もせず大人しくなった。驢馬がここまで弱るって…あの人はどんな乗り方して来たんだ……。 驢馬を引きながら踵を返す。内心は重い。何しろ前科持ちだ。今度こそ首が飛んでも文句は言えないだろう。 「…立てますか。」 とりあえず上司が寝転んだままでなく、身を起こして座り込んでいたので安心する。手を差し出すと、苦笑しながらつかまって、ゆっくりと、立ち上がった。よっこいしょ、って、蕭何さん。軽く埃をほろい、手足を振ったり曲げたり伸ばしたり回したりして、異常がないのを確かめる。殺しても死なないようなごつくてでかいの(あの樊噲とか)みたいな体格と縁のない人なだけに、ほっとした。 のは早過ぎた。 体のあちこちを叩いていた蕭何さんが胸を叩いた時、ああ、という顔で取り出したのは、二本の簡。 「出してくれた補給承認、二箇所訂正があったんですよ。今夜輜重を発送したいので、役所に戻って下さい。この二本以外は綴ってあります。」 怖るべし、蕭何さん。 息切れしているにも関わらず、輜重発送の遅ればかりを気にしている上司をなだめ、まともに動けるようになってから二人で来た道を歩いて戻る。 「安心なさい。貴方のことは殺させませんから。」 と、折に触れて蕭何さんは断言した。 月もない夜だったのが、いつしか綺麗な星空が広がる晴天に変わっている。私の脱走はつくづく運がない。その明かりに照らされて隣を歩く人は、人並の体格、人並の話し振り、人の良さそうな穏やかな顔をした小役人にしか見えない。猫背気味で、気が急くのか、何かと小走りが多い蕭何さん。 それでも、この人がやると言ったら必ず実行するだろうことを私は疑わなかった。 「…韓信、私の下は窮屈だったでしょうね。」 苦笑しながらそんなことを言われ、驚いた。 「仕事は嫌いですが、貴方はいい上司だと思いますよ、蕭何さん。細かくなければもっといいんですが。」 隣の人は声を上げて笑った。本当に、漢の丞相などという御大層な人には全く見えない。村の書記がせいぜいだ。着ているものも私と変わらない。 莞爾として微笑み、歯など見せず、当然声など上げない『士君子』などという代物より数段良いが。 「貴方は大軍を動かしたいのでしょう?」 いつも私の異動希望にゆったりと耳を傾けながら、決して取り上げてはくれなかった蕭何さんは、初めて自分からその話題を持ち出した。肯定した私に、彼は意外な言葉を掛けた。 「貴方ならやれると思いますよ、韓信。だから知っておいてもらいたかったんです。将の功績、軍功が、誰によって、どんな風に支えられているのかを。」 貴方は嫌なのを隠そうともしませんけどね、と皮肉でなく続けた。 そうなのか。 兵員をかき集めてくるのにどれ程の労力がかかるのか。全軍を賄うに足る糧抹が農家にとってどれだけの負担と、不満となるのか。物資の問題だけではない。引いてはそれを供出する人心を如何にして引きつけ動かすか。 短衣で小走りの丞相は、裏方の苦労だけでなく、統治者の視点を私に叩き込んでくれたのだ。(書式の効用はいまだにわからないが) 「貴方は細かい上にわかりづらい。私はあのまま刀筆の吏にされるかと思って、ぞっとしましたよ。」 「適性はあると思うんですけれどねえ。」 恐ろしい発言をする上司に思い切り首を振る。冗談じゃない。事務仕事なんか、今後一生分し尽くしたとも!蕭何さんは肩をすくめた。 陣に着くなり、私は役所へ放り込まれた。放り込んだその人の行方不明が大騒ぎになっていて、すわ蕭何脱走!と漢王までが青くなっていたため、得をしたのはこの私だ。咎められることもいきなり斬られることもなく机に向かって簡を前にした途端、急に脱力感が襲って来た。 …蕭何さん、あとどれだけ修行させるつもりだ。 あの人は、やると言ったらやる。 その夜の内に漢王を論破して私の大将軍就任を承知させ、訂正書簡を仕上げて荷駄を発送した私の前に、明け方近く現れた。 最後の仕事お疲れ様、と言われて、未練などなかったが、この上司と離れるのは少し寂しかった。 官職は口頭伝達という漢王が、珍しく麗麗しい就任式などを上げたのは、我らがお固く細かい丞相閣下が強硬談判したからだと聞いて、さすがの私も壇上で苦笑した。 貴方には勝てません。怖るべし、蕭何さん。
お題シリーズ「強引」。強引に総務に置いとく蕭何さん(笑)。と見せかけて、実はB面があります。ほんとは蕭何さんはまめに韓信の話してたのに、ろくに取り合わないなまずのせいで話が流れていたという。けど、訂正マニアの蕭何さんは書きたかった!(笑)文書事務は面倒です。韓信ならずとも大爆発(笑)。 しかし…これが…あの暗い韓信殿の話と薄暗い蕭何さんの話の元ネタだなんて……。この二人、どっちも変人だ……。三傑は、しぼが崩壊しているせいで目立たないが、この二人も相当おかしいぞ……。 |