| もう一度戻ってきて 貴方の酷い仕打ちで顔色なからしめられた 私の追悼が終わるように 放られて、見捨てられて、 座って、ため息、泣いて、ぱったり、もうだめ 死ぬほど苦しい、永遠に辛い −ダウランド「Come again」
婦女と戯れ、酒色に溺れた丞相がいた。 当然だったが、弾劾された。 弾劾のみならず、讒言された。 太后は彼を召喚した。 咎めるのではなく、ただ認める為に。 さすがに千鳥足で出てはこなかったが、浮かない顔で回廊を歩いていた。丞相がしばらく振りに参内するのも結構だが、何しろ呼び出した人間が人間だけに、軽い同情を込めた軽侮の視線があちらこちらから飛んできた。 知った顔が殆どいなくなったな。 別にいたって嬉しくもないが、と丞相は諦観の境地で歩き続ける。どれだけ探しても、あの人はもう何処にもいなかった。待てども待てども、追うことすら許してくれないままに、赤松子を追ってどこかへ行ってしまった。 だから、世事に興味がなくなった。 誰が天下の権を握ろうと、知ったことではない。自分が無事なら良いだけで、役体もない『大義』だの『劉氏』の為に尽くす義理は持っていない。 だから、酒を呑んで愉快に暮らし、美人を側に侍らせた。 もはや何をしても、あの人が微笑んでくれることなどないのだから。あの小さな柔らかい、不機嫌な旧家の姫君は。 嫌ってもいいから、側に置いて、とあれほど頼んだのに。 丞相は高位に祭り上げられて、 それ故に欲するままに振舞うことは出来なかった。 「陳丞相、よく来てくれました。」 つけつけと物を言う太后が、どれほど物騒な存在か、丞相は昔から知っていた。配偶であった皇帝とは終始不仲だった。皇帝も既に亡かった。 気の毒な人、とは思うのだが、既にそれだけだった。 「そなたの行状のことで、また弾劾がありましたよ。」 「それはどうも。色惚け爺が年甲斐もなく、と言われましたか。」 にやにやと笑う丞相は、そうはいっても老い込んでなどいなかった。童顔のせいで昔から若くは見られてきたが、頭髪に白いものが混じるようになった今でも少年のような表情をする時があった。 今のように、と簾中の太后は溜息をついた。 にやにやと不敵に笑って、弁解もしない丞相を、太后は昔から気に入っていた。利口過ぎるほど利口な男で、周りからはどちらかといえば嫌われていた。それでも会えば、屈託のない人懐こさに気を許してしまう。 鼻が効き過ぎる、機に目ざと過ぎる節操なし、と嫌われる丞相を、しかし太后は好いていた。誰もが顧みなかった自分に、それなりの敬意ばかりでなく親しみを持ってくれた丞相を、旧友のようにして好いていた。 決して親友ではなかった。親友などを持てるような朝廷ではなかったし、そんな存在を二人とも当てにしてはいなかった。気軽に陽気な話を楽しむだけの仲らいを持つだけで、十分だった。太后にも丞相にも敵は多く、二人が親しくすれば敵もおとなしくしていたのだから、良かった。 そんな丞相は、時折少年のような顔をする。まだ追い掛けなければならないものを抱えて、鬱屈をためている少年の顔を。 「美人をあまり泣かさないようになさいよ。貴方も薄情ですから。」 「とんでもない。情が厚くて、本人が困っております。」 「嘘をおっしゃい。本命がいるのでしょうに。」 「逃げられましたよ、とうの昔に。」 「引きずっているのではなくて?」 「いいえ、もう全然。なんといっても若い女の子に囲まれていますからね。毎日愉快に過ごしていますよ。」 丞相の洒脱な会話の奥に、太后は副旋律を聞き取った。 楽しまなければならない。意地でも楽しんでやる。貴方がいなくとも、私はちっとも寂しくはない。 置いて行かれたって、辛くなんかない。 丞相がかつて追っていた人を、太后もよく知っていた。 貴方の影を誰彼に重ねた。貴方ではないということが、嫌というほどわかった。貴方の不在に打ちのめされた。 貴方はいない。何処にもいない。 春の桃花の下、夏の星空、秋の月、冬枯れの道を先に立って歩いた貴方の姿は、何処もなかった。 それでも私は探しつづける。 春の花陰、夏の叢、秋散る紅葉に冬木立に。今はもういない貴方を。 私を、追ってはならぬ。 追いつけないほど遠い、星のような貴方を。 「留侯が、貴方に全てを相談すればよいのだ、とおっしゃっていましたよ。」 太后の言葉に、丞相の眉が片方上がる。 「ですから、頼りにしておりますよ。」 「…あの人は、昔から無責任だ。」 「丞相?」 「人に責任を丸投げして、自分はさっさと何処かに行ってしまう。」 「…そうだったのですか?」 「私など、眼中に入れてくれませんでしたから。」 触れると嫌がった貴方。面と向かって嫌いだと言った貴方。人格など要らない、才能にだけ用があると叫んだ貴方。冬の星しか見つめてはくれなかった貴方。 でも、何処にもいないよりは、まだましだったのだ。 お願い、私など見てくれなくともいいから、戻ってきて。 「そうでしょうか…留侯は貴方を大層頼りになさっておりましたよ。」 「謀略のことでしょう。」 「いいえ、貴方がいれば、漢は安泰だと、よく。」 「だから、政略のことでしょう。あの人は、私の腕は認めてくれた。だが正嫡を確立したあの人の手腕を、いや、水のようにさりげなく全てに手を回していたあの人にかなわないのは、私が一番よく知っています。」 「貴方と留侯は性格が違うでしょうに。留侯は、貴方の性格を羨んでいたのですよ。」 丞相の眼が大きくなった。 信じられない、と眼を見張る少年の顔で。 護軍中尉は素直ですから。 かつて留侯は私に語ったことがある。 護軍中尉が? ええ。物にこだわらないような顔をしていますが、あの男は相当に気を遣う男です。それほど気兼ねをすることもないのに。あの男には人の思惑が見えすぎるのでしょうね。だから当り障りのないように身を処してしまう。知が立つ、と言われるのも仕方ないのでしょう。そのせいなのかどうか、心底嬉しい時は、子供のような可愛い笑い方をしますよ。御覧になってみたらよいでしょう。 驚いた私の前で、留侯は見たことのない笑い方をした。花の蕾が静かにほころびるときのように、艶やかな満ち足りた表情だった。 留侯は陳護軍と仲がよろしいのですものね。 私の言葉に、困ったような顔で、そんなことは、と呟いた。 仲が良いのではない。私にだって判っている。きっと本人達には判っていないのだろうけれども。 護軍中尉は、貴方に会いたがっておりましたよ。 いえ、会うつもりはありません。 どうして。会って上げれば喜びますよ。相談したいことも、多分沢山あるのでしょうに。 あの男に、私の助言など必要ありません。 貴方にそう言われるのは、賛辞ではあるけれども。あまりにも哀しい、拒絶にもなりうる賛辞だった。 会いたく、ないのです。 ただ、留侯は繰り返して、一切の説明を拒否した。あの黒い瞳は、何処か潤んでいるようにも見えたけれども、錯覚だったのかもしれない。私が、潤んでいることを望んでいただけかもしれない。 時折共にいた二人の雰囲気が、好きだったのだ。 憧れを宿した少年の瞳の護軍中尉と、意地を張る少女のような留侯とが。私には許されなかった穏やかな空気に包まれた二人を見守るのが、好きだった。漢軍の中でもどこかしら浮いていた二人は、誰もが軽視して粗略に扱った、愛されない漢王の妻に親切にしてくれたから。 恋物語を読むように、幸せな結末を望んでいた。哀しい終わり方をしてしまったのだけれども。 会いたく、ないのです。 護軍中尉が悲しみますよ。 留侯は静かに、首を振った。そうして。 彼に私は、必要ありません。 眼が潤んでいたのは、私だったのかもしれない。その時留侯は池に移った自分の顔をじっと見つめていた。髪に白いものの混じる年になった、私と留侯が水鏡に映っていた。石を投げ込んで水面をめちゃめちゃにした私を、留侯は確かにわらっていた。 事実は、変えることが出来ない。私達は確かに年老いていた。 近頃、過去がいとおしくなってまいりました。 留侯はもう、遠い時の流れしか見ていなかったのだろう。 「会いたく、ないと?」 丞相がうなだれた。軽く口の端を噛んだ。 「ええ。今になって、判る気も致します。貴方の方が、お若いのでしょう。」 「それが一体何だと?」 太后が、そっと自分の灰色の髪に手を触れた。丞相が、一時絶句した。 「多分、ご自分を見られたくなかったのだと思いますよ。」 「馬鹿馬鹿しい!」 丞相が握りしめた拳が震えていた。 引きずっているのではなくて? いいえ、毎日楽しく過ごしていますよ。 そう、貴方の中には、置いていかないでと叫んでいる、少年が住んでいるのですよ。 「貴方は美人に囲まれておいでだから。」 「あの人以上の美人が、何処にいます!」 「貴方の才能を自由に発揮して欲しかったのですよ。」 「あの人が見ていないのなら、何になるのです!」 太后は咎めなかった。仮にも丞相の位に座す者の暴言を。 良いのですよ。どのみち、天下は私と貴方のものなのですから。 振り向かせて見せる。いや、ひざまずかせて見せる。 その不遜を罰しでもするかのように、貴方は一瞥もくれはしなかった。まして私の前にひざまずくなど。 貴方は賢くて、冷たくて、追いつけない遠い人だった。貴方の心に踏み込ませてもくれなかった。誰もを遠ざけて、一人で星と語り合う、遠くて綺麗な人だった。 でも、下界も見て欲しかった。私も見て欲しかった。 遠い貴族の姫君だった貴方に、才覚だけを頼りに成り上がった農夫の息子を、認めて欲しかった。 留侯。人は貴方をそう呼ぶようになったけれども、私は本当は、全然別な呼び方をしたかったのだ。封号で呼ぶなど、官爵で呼ぶなど、貴方の華奢な肩を幾重ものかせで縛るような気がしてならなかった。貴方は全てを捨てて仙界に遊びたいと願い続けてきたのだから。 せめて、連れて行って欲しかったのに。貴方の側にいるだけでよかったのに。 私の後を追うな。 貴方は、もう、どこにもいない。 留侯の葬儀の時、丞相は泣かなかった。多くの人と距離を置き、それでも敬愛されていた留侯は礼儀にかなった涙で送られたが、参会していた丞相の顔に涙はなかった。 どうして俺はここにいるのだ。何が起きているのだ。 頭で理解していることが、胸の内にまで下りてこない人のように、ただ立ち尽くしていた。 留侯が死んだ。 張子房が死んだ。 それが何を意味するのだ。 丞相はかぶりを振って、退席した。何も、解らない。 解ったのはただ一つ。貴方は、また私を拒絶する口実を作り出したのですね。 追いかけたかったのに、追えなかった。全ての責任を担えと、貴方が望んだ。劉氏を立てよと、貴方が望んだ。漢宮に埋め込まれた時限装置のように、私はまだここにいる。 貴方が、道具としての私を欲したのだから、それが貴方の遺志なのだから、私には拒絶する術がなかった。代償に接吻の一つも許してはくれずに、全ての責任を丸投げして逝ってしまった貴方。 なれというなら、なってやる。貴方の道具にでも、何にでもなってやる。 とにかく、貴方は私を無視できなかったのだ。 それだけが、私の手に残された事実。索漠とした、感懐の種にもならない事実。 私は、貴方が−。 「慕わしくてならない…今更のように。」 「嘘をおつきなさい。」 「嘘ではありません。」 「嘘です。いまだに愛しているのでしょう。」 言葉は正しくお使いなさい、と太后が止めを刺した。 俺が?まさか。 まさか、まさか、まさか。 あの人を愛していたのは韓信だった。 あの人が愛していたのは、韓非子だった。 俺はあの人が欲しかっただけ。こちらを振り向いて欲しかっただけ。いや、大人気もなく、あの人を独占したかっただけ。 言葉は正しく使うべきだ。俺にはその言葉を使う資格はない。 あれだけ嫌われて、何を今更。 何を今更。 愛していた、などと、おこがましいことが言える? 「いいえ、愛してなど…おりません。」 帰ってきて、帰ってきて。ただ、帰ってきて。 お願いだから、嫌ってもいいから、側にいさせて。 「留侯がいれば、私は好きなことが出来ますからね。」 お願いだから、側にいて。怒っていいから、顔を見せて。 私の、ただ一人の憧れの人。 「仕事は嫌いです。美人に囲まれてうまい物を食っているのが生活というものです。あくせくするなど、性に合いませんからね。そもそも、そのために学問したようなものですよ、私は。」 軽口に紛らわした丞相に、太后はもう踏み込めなかった。怠け者ですね、と相槌を打って楽しげに談笑するばかり。 貴方がいなくとも、寂しくはない。だから、私は楽しく会話をしているのですよ。 「帝を、変えようと思います。」 またか、とは言わずに、丞相が頷いた。今度は幾つだ、と追求しかけたが、止めた。 「お心のままに。」 呂氏の末裔を玉座に据えたがる太后に、今は逆らうことが出来ない。今はいない留侯の仕掛けた罠は、全てを容認する童顔の丞相。丞相は全てを黙認し、全てを笑顔に押し隠す。 「丞相が後見を勤めてくれるので、安心していられますよ。」 「嬉しいことを仰せ下さいます。」 貴方が立てたのは劉氏の帝だった。出来はともかく、貴方が作った枠組みを惜しむが故に、貴方を惜しむが故に、私は時限装置のように呂氏を抹消する機会を伺っている。 太后が崩じたならば、留侯の仕掛けた罠は作動する。 私は何も仕掛けはしなかったが。 記憶の中のその人は、少しあどけない仕草で首を傾げた。 それはお前の発案ではないのか。 突き放されても、今の私には追う術がない。丞相はこみあげてくるものを懸命に堪えた。 私など、あの人の眼中にはなかったというのに。 私を追ってはならぬ。 私のようになってはなりませんよ。 かつて留侯と呼ばれた人自身が、そう突き放されていたことを丞相は知らなかった。 私のようにならないで。私のような冷たい抜殻にならないで。暖かい、優しいひと。 だから、私を追ってはいけない。 もはや何も残ってはいない、私などを追ってはいけない。 でも、貴方に、もっと早くに会っていたのなら、私は変わっていたかもしれない。 九泉の向こうとこちら側で、同じ思いが鏡のように重なり合って消えた。臨終の床で思い出した人と、思い出す事を否定してばかりいる人と。 残っているのはただ一つ。 もう一度、帰ってきて。 お願いだから帰ってきて。 丞相は退席する。昔話を終えた太后は、物憂げに午睡に就く。 全ては日常のままに回ってゆく。 帰ってきて、私の憧れの人。 嫌ってもいいから、無視してもいいから、殴ってもいいから、側に置いて。貴方を見つめさせていて。貴方のために世話を焼かせて。 お願いだから、ここにいて。 日は上り、日は沈む。 貴方は去って、私は残る。 私を泣かせた、意地悪な貴方。
『亡きひと』。しぼちゃん死後の陳平です。このお題、陳平の話になるか、しぼちゃんの韓非追想になるかと思ったんだが。穿ったところで、政君のぴこちゃん追想とか、更に穿って呂不韋追想でも良かったのだが。こうなりました。五年前に書いていた文章。というより、この連中との付き合いがかなり長くなっていることに今更慄然の高松です。というよりさ。 このしぼは本物か?!「にや」もないし「きゃっ」もないし、2.5等身でもないだろう!(笑)共通項は根性の曲がりっぷりだけだなあ。まあいいや。この頃、世傑ちゃんと陳平とどっちが可哀想なんだろうと色々考えてましたが、間違いなく世傑ちゃんのほうが気の毒だと結論するに至りました。陳平のは趣味です、明らかに。物好きにも程があります。 タイトルはダウランドから。この曲、具合悪くした辺りにNHKの『名曲アルバム』でかかってて、曲名がわからず、作者の名前だけ辛うじて覚えてたんですが、一発目に買ったNAXOSのCDがビンゴだったもの。とても明るい曲です。二番がこんな歌詞とはとても思えないほどに。(笑)一番と三番は前向き。 |