| 途のつかれに項垂れて、 黙然たりや、おもかげの あらはれ浮ぶわが「想」。 命の朝のかしまだち、 世路にほこるいきおひも、 今、たそがれのおとろへを 透かしみすれば、わななきて、 顔背くるぞ、あはれなる。 思ひかねつつ、またみるに、 避けて、よそみて、うなだるる、 あら、なつかしのわが「想」。 −アンリ・ドゥ・レニエ『花冠』上田敏訳『海潮音』より
床に就くことが多くなった。 子供達は何かと気遣ってくれるのだが、それすらも大儀になっていた。その上、人が具合が悪いというのに朝廷はひっきりなしに『見舞い』の使者を寄越してくる。重い体を引きずって使者を接見する方の身にもなれと怒鳴ってやりたい。 もう、長安にいるのは限界だった。 私は転地を決め、子供達は不安がりながらも納得した。並大抵の反論では私の意見が覆らないと良く知っていた。 鏡の向こうに、老いさらばえた、髪にも幾筋もの霜が混じった、抜殻のような体がようように立っている。近頃手放せなくなった竹杖は仙人を気取っているのではない。体を支えるのに不可欠なのだ。 何かに縋っていないと、今にも倒れ込みそうだった。 冠を着け、帯剣する。正装に身を包むのは、恐らくこれが最後だろう。頭頂の冠は耐えられないほど重いし、細身に作っているはずの剣も目方が増えたのではないかと疑うほどに重い。 それでも、背を伸ばし、恐らくは見納めになるだろう未央宮を指して馬車を命じた。転地の追認を太后に求めておきたかった。 多分それだけだ。 留の封地で病を養いたいと存じます。 長い付き合いになった太后は、私の体を気遣ってくれた。彼女は何かと私を頼りにして、事毎に使者を送ってくれた一人だった。基本的に自分の血族しか信用しないこの人が、私には少しばかりの親しみを覚えていたのか、それとも私の弱さを侮っていたのか、それとも私の演技が彼女を騙しおおせて警戒させなかっただけなのか、今となってはどうでもいいことだ。留へ行ってもよいという許可が下りた今となっては。 皇帝も、不例が続いていた。昔から体の弱かった男だが−両親には全く似なかったようだ−近頃は危険な状態になることも多く心を痛めている、と太后は語った。 何に?息子の命に、ではあるまい。私も没義道だが、皇后も情が薄いことではいい勝負だ。だからこそ、付き合いが続いたのかもしれないが。 「貴方がいなくなられると、心細くなりますね。留侯、なるべく早く戻ってきてくださいよ。」 それは、社交辞令というものだろう。私が二度と戻ってこないことを太后は承知している。 「過分のお言葉に感謝いたします。」 「私のお友達、貴方には色々とまだ、相談したいのですよ。早く病を治してくださいね。」 そう、言うと思った。 貴方には相談役が必要なのだから。それを見越して、私は罠を張っていたのだから。私は口元に微笑を浮かべる。勿論、心からの、会心の微笑を。 「護軍中尉に御相談なされませ。」 見えない大きな透明な罠を、ふわりと投げる。貴方は最早その中だ。 「彼ならば、きっと太后様の御心に背きはいたしますまい。」 背くなと、私が命じたのだから。 彼女は深く頷いた。 これで私の仕事は完全に終わった。私は微笑を貼り付けたまま、彼女の元を退出した。 そのまま、帰ればよかったのだ。それでも、私は愚図愚図していた。近頃とみに鬱陶しさを増した天気のように。払っても払ってもまつわりつく、湿った生暖かい空気のように。 未央宮の一角で、太后の居室と政庁と皇帝の居間と、どこから来ても必ず通らなければならない角がある。小さな坪庭にも似たその一角は、この天気よりも鬱陶しい男がよく私を待っていた場所だった。劉邦が死んでからは年に一二度、来るか来ないかという私が来たとなったら、どこから情報を聞きつけてくるのか用が終わった後に必ずここで待っていた。 秦宮の廃墟から奪ってでも来たのか、焦跡の残っている形だけは見事な石を中心に、潅木や花が申し訳程度植えられていた。成熟した緑にまつわりついた藤の花が、薄紫の花房を重たげに垂れている。湿った空気に混じって、甘い、理性を蕩かすような香りがそっと私の元に届く。 人の姿はそこになく、軽く失望した自分に気付く。 会ってはならないのに。突き放さねばならないのに。陣中ではないのに。無視せねばならないのに。 それでも親切な『偶然』は、いつでもあの男を私の前に連れてきた。私は昔のようにあの男を叩き出す気力をいつの間にかなくしていた。 疲れてしまったのだ。全てに。 そう、思うことにした。 岩陰の草叢に、赤い花が見える。どうせ最後なのだ。下りてみた。少し早い長命花が咲いていた。綺麗な綺麗な赤だった。柔らかい深紅の花だった。 普段ならそこで立ち去るのに、私はその棘のある茎を掴んでいた。開いたばかりの初めの長命花を手折ってしまった。 長命など、望むべくもないことを。かつては、死にたい、と願い続けた私だったものを。 これが最後なのだ。この忌々しい生涯と忌々しい病躯からようやく解放されて、私はどこかへ行ってしまえる。どこか、知らない、遠い場所へ。 −行かないで− 行かないから。どこにも、行かないから。私の形見はここにいて、だから私は嘘はつかない。嘘は、ついていない、はずだ。 行かないで、行かないで、どこにも行かないで。岩にもたれて、私はその言葉を思い出す。棘のある長命花を弄びながら、不在の姿を思い出す。待ってなど、いない。会うべきではないのだから。 最後だから、この庭を少しゆっくり見たい、だけだ。 甘い藤の香り。それすら掻き消すような更に甘い、そして強い長命花の香り。 −それでも、生きていて欲しい!− 生命に対する執着とは、強く、甘いものなのかもしれない。気付くのが遅すぎたけれども。な、と長命花に頷きかける。 皇后はあまり人を寄せない。皇帝は不例続きで人を呼べない。人の行き来がなきに等しくなったこの回廊の坪庭で座っているのが、私にはただ楽しかった。 動くのが億劫になったこともあるし。花は綺麗だし。何よりも、これが最後の藤の季節なのだし。 少しだけ、寒かった。 遠くから足音がする。走っている。目を上げると、予測がぴたりと当たっている。形振りかまわず、全力で走ってくる。ここは宮廷の廊下だというのに。畑の畦道ではないというのに。 あれを見るのも、これが最後だ。私は目を伏せた。見続けて、平静な顔を保つ自信がなかった。 気取らせてはならない。私は、いつもの、ただの病弱な軍師の役を演じなくてはならない。手に持った長命花を握り締めた。 「子房!」 壮年の男が、息を切らせて、回廊の上から呼び掛ける。私はじろりと目だけを上げた。走り下りてきた。そして。 もう、寒くない。 「良かった、帰っちゃったかと、間に合わないかと思った…もしかして、待っててくれたりした?」 「誰が。」 「良かったあ、今日に限って庭に下りてみる気なんか起こしてくれて。」 相変わらず鬱陶しい男だ。大体この男には公共心とか羞恥心というものがないのだろうか。見るなり人に張り付いてくるし、益体もないことを喋り散らしながら、髪だの背だのを撫で摩っているし。 でも、もう寒くない。 「で、何か用なのか。」 「あ、またそーいうこと言う。ほんとに冷たいんだから。ね、折角来たんだからお茶しましょ、一緒にお茶しましょ。ね?」 この男の言葉の使い方は根底から間違っている。茶を飲むというのは、人を私室に引きずりこんで一晩寝かせて帰すことではないはずだ。 「…子房、もしかして何かあったのか?」 しまった。言った瞬間に殴らなくてはならなかったのに。この男はそれでなくとも勘が鋭いというのに。 「勘繰り過ぎだ。」 言った拍子に、長命花を握り締めてしまった。慌てて放した手が、一回り大きな手に捕まった。 「駄目でしょ、薔薇なんか掴んじゃ。棘が刺さってるじゃない。もう。」 ぞくりとした。何だって人の掌など舐めるのだ、この男は!私の非難の眼差しに気付いたのか、 「血が出てる。この位なら舐めた方が早く治るんだって。わかったらおとなしくしてなさい。」 と全く説得力のないことを言った挙句、再び丹念に同じ仕草を繰り返したので、腹が立ったから蹴飛ばした。 「っつー…しぼちゃん、すぐに人のこと蹴らない!」 「お前こそ人の手など舐めるな、汚い!」 「ひど…うわ、怒っちゃ駄目、お願い、謝るから帰らないで!」 誰が帰るか。 「手を洗うから水差しを貸せ!これだからお前なんか、大嫌いだ!」 言ってやると、すっとした。あの男は何故だか、にへらにへらと笑いながらついてきた。相変わらず締りのない顔だ。恐らく生活も締りのないままだろう。 乱雑に私物の積み上げられた、見覚えのある部屋に座る。いい加減昔の貧乏ではなく、列侯になったのだから侍童にでも片付けさせればいいものを、この方が落ち着くと放置している。掃除もしていないのではあるまいな、と座るのををためらっていたら、どこからか綺麗げな敷物を持ってきた。 「枇杷食べない?そこの裏庭に植わってるのを時々もぐんだけど、ちょうど熟れてて美味しいよ。」 相変わらず物を食べさせようとするし。 「お前、官舎の植木から果物をもがなければならない身ではなかろうに。」 だって熟れてるんだもん。理屈にならない言い訳を残して、裏口から消えた。 ここへ来るのも最後だ。室内を見回していると、両腕にやたらと抱えて、足で戸を開けて戻ってきた。一つもらう、と手を出すと、まだ駄目、と言って丹念に拭いてから皮を剥き出した。全部剥いてしまってから、 「はい、あーん。」 と差し出した。相も変わらず人の口に物を入れたがる男だ。 もう何年もこんなことを続けている割には、食べるのが上達しない。大抵人の指まで齧って謝る羽目になる。何にせよ進歩しないというのは不愉快なので自分で食べたいのだが、こういうところでこの男は妙に頑固だ。 今日も齧った。 「甘い。」 「でしょ?」 指についた果汁をしゃぶるのも、この男の品のない癖だ。そうして、とりとめのない話を楽しそうに始める。 漢で誰もが認める知者でありながら。誰一人知らぬ者のない策略の持主でありながら。 「ちゃんと食べてる?」 指をべとべとにして果物を剥きながら、そんな話ばかりする。私は頷く。 「嘘つき。痩せてます。」 見破られた。 「また断穀なんて無茶なこと仕出かしてないだろうな。貴方はそれでなくても体が弱いんだから、ちゃんと食べなきゃ駄目!」 本当は、もう食べられなくなっているのだけれども、黙っていることにした。 もう駄目。もう限界。長安にいられないほど、苦しい。だからここに来るのもこれが最後。 食べさせられるままに果物を口に入れた。甘くて、美味しくて、嬉しかった。あの男が喋り続けるのを聞くとはなしに聞いていて、ふと錯覚する。 私はまだ少しは若くて、ここはどことも知れない陣中で、この胡乱な策士をどうやって蹴り出そうか思案している途中なのではないか。 ふっと鏡の中の姿を思い出し、我に返る。私には、時間がない。 「本当に、どうしたの?」 あの大きな瞳が、ついぞ変わらぬ図々しさで私の顔を覗き込む。 「どうもしないが?」 「今日、変に優しいよ。」 不愉快だ。問答無用で横面を張る。 「うー…やぶへび……。」 この男は、変わらないのに。不愉快が黙々と増殖する。 「私が、お前が相手にしているような優しい淑女達と同列にいると錯覚したら大間違いだ。私はこれでも張家の当主、なり損ないの軍師で列侯なのだ。そんなものを持ち合わせるはずがない。」 「げっ、知ってた……。」 「不疑が時々恢殿が可哀想だとぼやいている。」 「あんの不肖の孫野郎……。」 「若くて美しい宮女を入れたら、お前の目が心配だと太后も苦笑している。相当あそこでも遊んだらしいな。」 「しっ、しぼちゃん、そんなの聞いてたの?」 目に見えてうろたえる素行不良が、おかしくてならない。宮廷中にあれだけ鳴らしておいて、私の耳に入らない訳がないではないか。 「ああ。仕事もしないで恋文ばかり書いているだの、それでなければ泥酔して涎をたらして机上で寝ているだの、従軍中と変わらないではないか。いい加減、周囲の目も少し気にしたがいい。」 「しぼちゃん、気になる?」 誰が。そろりと見上げた上目使いを黙殺する。黙って白湯を口に運ぶ。 気になど、するものか。 「丞相になったのだろう。それなりにしたがいい。」 膨れた童顔。 目の前の顔は、変わりはしないのに。 残りの時がさらさらと過ぎる。お菓子,飲物、取りとめのない話題。詐略も道学も礼学も兵法も近況もいっしょくたにした気ままな会話。 摘み取られた長命花が卓上に載っている。何時の間にか生気をなくしている。赤い花弁をなぞると,いつしか張りが失せていた。 私には、時間がない。 「あ…水に挿そうか。」 あの男が立ち上がって,応とも否とも言わない内から、大きめの杯に水を張って持ってきた。水揚げをしてしばらく置くと,もう一度生気を取り戻した。それが,束の間であるとしても。 世話焼きが。 日が傾いている。まだいいだろう。薄闇になった。もう少しいいだろう。あの男が燭を灯した。まだ夕食ではないから大丈夫だ。それにこの男は二人分の食事を言いつけてしまった。途中でいなくなっては下人達に悪い。食べ終わってすぐに動くと体に良くない。だから、もう少し。もう少しだけ。 いつしか夜警が時を告げていた。腰を浮かせた私の手は捕えられる。 行かないで。 静寂の中に、その一言を聞いたような気がした。 私とこの男との間には何もない。昔も今も。唯一まともに存在する繋がりは、同僚であり、或いは『軍師』という立場に拠る上下関係だけだ。それすらも解体しているのかもしれない。私は既に致仕したも同然の『少傅』として、今や『丞相』であるこの男どころではない、『太傅』である叔孫通風情の下位ですらあったのだから。 だめ? あの男はそれだけをおずおずと聞いた。私の子供達の父親は。 物好きが。 この一言は、いつから承諾になったのだろう。 怖く、しないから。 嬉々としてじゃれついてくる私の子犬。承諾した覚えなどないというのに。それでも、私はそれを口にはしなかった。 蹴飛ばしても蹴飛ばしても嵐の中をついてきた、私の子犬。そして、私の最後の切札。一度くらい、頭を撫ぜてやってもいいだろう。二度と顔を合わせることはないのだから。あちこちに顔をすり寄せては、嬉しそうな顔をしている、私の子犬。 あれだけ蹴飛ばしたのに、まだ私の後を追おうとする、私の子犬。 ついて、こないで欲しかった。私は、飼ってやれないのだから。お前は、ほかの人のなのだから。 やわらかい。あったかい。いいにおい。 ぽやぽやと浮んで消える形容詞。何がそんなに楽しいのか、されるがままに放っている私にはよくわからない。あの男は他にも意味のない言葉を切れ切れに投げかける。ぽやぽやとした声色で。 じゃれる子犬が私の髪に手を掛けて、私は突嗟に両手で頭を覆った。何かを勘違いしたあの男は、じゃれているとでも思ったのか、笑い声をたてながらあの手この手で髪を解こうとする。 やめ……! やだ。しぼちゃんの髪の毛、好きなんだもん。 力負けするのは昔からだ。さらりと髪が広がって、私はきつくきつく目を瞑る。 きれい……。 くふん、と髪の毛の中に顔を埋めた。一番見せたくなかった人間が。 嘘をつけ。 嘘じゃないもん。 白髪のどこが綺麗だ。 私の物言いは相変わらず身も蓋もない。それでも人に言われてしまうより、自分で言った方がまだましだ。つい、と一束掬っては指の間を滑らせてじゃれているあの男は、白くないもん、とまた嘘をつく。殴ってやろうかと思うほど、忌々しかった。 銀色に光ってる…月の光まで織り込んだみたい。 ぽやぽやと続いた言葉に、私は絶句する。そうして、童顔の中から大きな瞳が心配そうに私を見た。 「ね、月になんか、行っちゃ駄目だからね。」 私には、微笑むことしか出来なかった。 約束、したんだからね。 額を合わせて、ついでに唇も合わせて、ご丁寧に念を押してくる。決して慣れることの出来なかった気色の悪い感覚の中で、そんなことを切れ切れに考えている私がいて、ぽやぽやと嬉しそうなあの男がいる。 怖くはなかったけれども、理性がどこかへ潰走していきそうなほど気色の悪い感覚だけは決して慣れることが出来なかった。そう言うと決まってあの男はめげるのだけれども。だから今日は言わないでおく。 「ね、怖く、ないからね。」 どこか潤んだ瞳で私を見る。そうして。 頭の中が真っ白になってから、真っ暗になる。怖くて、どうしたらいいのかわからなくて、辛うじて少しだけ動かせた手を、誰かが取った。 遠い、どこかで。 韓非子、とその人はいった。 からからと音を立てて落とした木簡の束。拾って手ずから渡してくださった韓の貴公子。 自分の家ですら独りぼっちだった私の手を、初めて取って笑いかけてくださった方は、夭折の天才という宿命を持っていた。温かくて滑らかな手だった。 そう、あの日から、人の手の温かさが欲しくてたまらなかった。 誰か、泣いている。何故か、泣いている。 重い瞼を上げると、声を殺してしゃくりあげていた、小さな子犬の背中。 「そんなに、許せない?そんなに、復讐したい?俺は、韓非子じゃ、ないんだよ?」 知ってるのに。 私だって、韓非子を蹴飛ばす度胸はないものな。 蹴飛ばしても蹴飛ばしてもついてきたのは、お前だけなんだものな。 どうして、泣くのだろう。 どうしたら、いいのだろう。 泣かないで。最後なのだから。それでも、稀代の策士に気取られるのが怖くて、私は動けない。 記憶の中の韓非子が、あの綺麗な微笑みを浮べていた。 貴方のしたいようにすればいいのですよ。最後、なのでしょう。 私が隠してあげますから、安心なさい。 私は何を、したいのだろう。 したかったのだろう。 「子房……?」 顔なんか見せない。見せたら絶対気取られる。私に残された時間の花弁の少なさを見抜かれてしまう。 私の子犬を、きつく胸元に抱きしめる。蹴飛ばして蹴飛ばして、いじめ抜いてもついてきたいじらしい子犬を拾って、抱きしめた。 拾いたかった。よそのうちのだとよく知っていたけれど。追い払っても追い払ってもついてくるから、情が移ってしまった。だから、ついてきて欲しくなかったのだ。 私には、拾えないのだから。 私のだ。 私のだ。今だけ、私のだ。誰にもやらない。私の子犬。 「お前が韓非子のはず、ないだろう。」 韓非子は、私のじゃない。 「だったら俺見てあんな奴の名前なんて呼ばないでよ!」 怒っている私の子犬。怒って泣いてる。 今だけ、私のだ。 もう、撫でてもいい。可愛がっていい。明日になれば、もう二度と会わないのだから。もう、最後なのだから。 柔らかい髪の毛を撫でてやる。次第にしゃくりあげるのが遠くなる。 私のだ。誰にもやらない。私だけのだ。 「夢を見た。」 「ああそう、韓非子の?良かったね!」 「二度と私の後を追うなと、言われた。」 子犬の背中が、びくん、と震えた。 「寒い。」 「…しぼちゃん……。」 「寒い!」 「子房?」 「寒い寒い寒い寒い寒い!」 腹が立って、目の前の背中をばしばし叩いていると、あの男が向きを変えたのが目を閉じていても分かった。ぱふ、と抱え込まれる。いつものように、そうっと。 もう、寒くない。 暖めて。きっと、留は寒いから。どこかに行ってしまうまでの間、冷たくなってしまわないように暖めて。 「何で、あいつなのさ……!」 もう愚痴のようになっているその台詞を、あの男は口にする。口にしながら、私の髪を撫でている。 「俺のことは名前だって呼んでくれないくせに!」 駄々をこねる子どものように、天下の『丞相』が。 丞相なんて、似合わない。この男は護軍中尉だ。一生私の護軍中尉だ。よそになんか、やらない。ずっと、私の部下だ。札付きで、常識無視で、人非人に見えて、本当は一番被害者の少ない手品を考え付く、稀代の策士の手品師だ。 名前など、呼べるはずがない。名前を呼ぶ、必然がないのだから。 見下せたのなら名前を呼べる。目下だから。だから私は大抵の人間は敬称こそつけたものの、名で呼んだ。字で呼ばれる代償として、皆それを当然と受け入れた。 でも、この男の名前は本当の諱だ。私には口にすることができない禁忌の名。それを呼んで当然の関係など、どこにもないのだから。 あるのは、時折この男がすり寄ってくるという事実。その結果として二人の子供がいるという事実。二人の正体をこの男が知らないという事実。それを知らせたが最後、全員の命すら失わせかねないという事実。 だって私は『帷幄の軍師』なのだもの。あの男は『漢軍の智嚢』なのだもの。 「寒い…寒くて、寝られない……。」 私が言えるのは、ここまでだ。私が暖かくしていられるのは、あと少し。 遠くで聞こえるのは鶏鳴ではない。あれは、夜鳴き鶯だ……! 朝の光の中で見た長命花は少し萎れていた。人の髪の毛を触りたがるあの男に髪と冠の始末を任せながら、手持ち無沙汰に赤い花を見ていた。 時間は経ってしまった。少し手を入れれば、もう少し花の名残が保つだろうか。 「何だか前より細くなってない?養生しなきゃ駄目だよ。」 重たい冠を載せてしまってから、後ろから貼りついてくる重たい人間。重い、と言うと、渋々離れた。のしかかられると重いが、まっすぐ座っているのが大儀なので、あの男にもたれかかって座る。ちゃっかりと両腕を回してくるので、ずり落ちないのはありがたい。 「だから留へ行くのだろうが。」 「早く良くなって帰ってきてね。貴方がいないと、寂しいもん。」 すり寄ってくる、私の子犬。 寂しくないから。私は、どこにも行かないから。護軍中尉、約束は守る。これでも私は下邳の侠客の頭なのだ。 この姿では、二度と会わないだろうけれど。 雨に打たれた子犬のように、寂しがることはない。お前には、華やかな高位と富貴と長命が相応しい。 「あの長命花、お前にやる。水を替えれば、もう少し持つだろう。」 「ずっと取っておく。」 取って置け。富貴と高位と長命を、私に許されなかった分までも。 捨てられた子犬のような顔、するな。あのいけ図々しくも能天気な、春の陽だまりのような顔の丞相になれ。お前がいれば、この陰惨な『漢』という枠組みも少しは陽気になるだろう。 離れたくない、春の陽だまりのように。 鶏鳴すらもう聞こえない。夜鳴き鶯など論外だ。 行け、と時に命じられ、私はあの男に腕を借りて立ち上がった。最後の意地で参内に竹杖を持ってこなかったせいだ。放って置くと家までついてきかねない男なので、戸口からついてくるなと言い渡した。 「体、大事にしてね。留は暇だろうから、練丹の本でも面白そうなのを探して送るよ。丹薬練ってたら、気もまぎれるでしょ?」 「お前、丞相にもなって、また仕事をせずに内職するつもりなのか?」 「何言ってんだよ。偉くなったら人を顎で扱き使って好きなことする以外、何の役に立つっての。百官の総領なんて仕事、真面目にやったら首が飛びます。」 軽く肩を竦めて飄げて見せる。だから私は安心する。 私がいなくなっても、何もかも安泰だ。私の切札は、万事呑み込んでいる。 「なるべく早く長安に戻ってね。あんまり遠くに行かないでね。」 それは、約束できない。 普段聞き捨てにして帰宅する私は、最後に一つだけ、自分に課した禁忌を破った。 「ごきげんよう、陳平。」 「しぼちゃん、またね。」 告別だけはしないで帰ろうと決意していたものを−。 だから私は振り向かない。留へ行けば、好きなだけ思い出せばいい。だから、背を向けた春の陽だまりは二度と振り向かない。私の帰りを待つ子犬を二度と振り向かない。 回廊を急ぐ足は速く、その勢いで馬車までふらつきもせずにたどり着いた。座席についた途端、疲れと放心でぐったりと倒れこんだ。 欺きおおせた自信はある。私に残された時間の嵩を水増ししてみせた自信はある。 それでいて、そんな上出来な演技をしおおせた自分を、馬車の外に放り出してやりたかった。放り出せない代わりに、嵩増やしに使った用済みの水が目からどっと溢れてきて袖を濡らした。 からからと車輪が回る。車輪に似た天輪が一つ巡るたびに、私に残された時間の花弁がはらはらと散っていく。私にはもう何も残っていない。だから、私に許されなかったものを全て、お前にやる。 知っているか。長命花は幸福の花なのだ、護軍中尉。
…だーっ……。やられました。高松PCの前で茫然自失。お題シリーズ『これを限りの』。実はひそかに始めた『薔薇の名前』シリーズ第一作です。(笑)長命花=オールドローズ。なのにタイトルの「ディープ・シークレット」はハイブリッドティーだったりする。(笑)色は八重でむらのない深いクリムゾン、香りは強く甘いそうです。(というわけで、しぼちゃんがもいできたのはオールドローズというよりこれです)というわけで暴走したしぼちゃんときたら高松の目を点々にしてくれました。途中でジュリエット状態になってるし!(笑)なんっつーのか…この割れ鍋に綴じ蓋カップルときたら…もう少し素直になるとか歩み寄るとか言う発想がないのか、子房!という心境です。書き終えた高松にしてみれば。まあ、「しぼちゃんを女の子にしても効果なかった……」と思っていたら、「しぼちゃんが女の子だったから陳平が善人化したのか」になり、「陳平がなついたからしぼちゃんが多少軟化したのか」になったわけでありまして、何とか当初目的「しぼちゃん善人化」に近づいたような気もします。 |