ひさかたの
光満ちたる夏茂り
思いうらぶれ結ぼおれ
はた落ち行かん南の方
     −屈原『懐沙』より


Dove vado?
−泪羅のフィナーレ−


 青い水があった。綺麗で、ただ綺麗で。私は水際に腰を下ろした。
 ああ、綺麗。本当に、綺麗。
 もうすぐ、全てに別れを告げねばならないというのに、なんて綺麗。
 山も、河も、田畑も、空も、水も、光も、私を取り巻く全てが美しくて、涙が出た。
 もう全てから追い出された私ではあるのだけれども。行き場のない私ではあるのだけれども。
 ねえ、何処に行けばいい?
 答えが返る、一つだけ。

 私は貴族。もうどうでも良いことだけれども。
 顓頊高陽氏の末裔で、楚の王室と縁続きで、貴族の三家を束ねる大夫にもなったけれども。
 もう、どうでもよいこと。
 誰も私を必要とはしなかったのだから。
 私はただの御節介でしかなかったのだから。

 私は詩人。もうどうでも良いことだけれども。
 長い詩を書き、宮廷でも歌われて、弟子も沢山いたけれども。
 もう、どうでもよいこと。
 誰も私を必要とはしなかったのだから。
 私はとうに過ぎ去った人でしかなかったのだから。

 ねえ、何処に行けばいい?
 返る答えはただ一つ。

 私は、本当は、何処にも行きたくない……。

 ふわりと香る蘭の香り。小さな花をつけた、野生の目立たない花だけれども、それでも蘭の香りは紛れもなく、宮殿の庭に咲く姉妹達と同じだった。
 ねえ、詩人さん。貴方は私達を愛してくれた。私達は貴方が好き。
 この香りを、貴方は解ってくれたのね。素直で率直で激しい貴方。私の香りを愛してくれた貴方。
 清楚で微かな花の香りを焚きしめた貴方の詩歌は枯れはしない。私達が咲き続けて、その私達を愛する人がいる限り。
 ねえ詩人さん。人間って馬鹿ね。貴方のこと捨てるなんて。追い出すなんて。貴方、自分の事なんか考えたことがないのに。貴方、人のことばかり考えてたのに。
 貴方を振るなんて、大馬鹿よ。

 ふわりと香る橘の香り。緑の葉叢も花橘の豪奢も丸い果実もただ綺麗で、都の家を彩ってくれたっけ。
 ねえ、大夫さま。貴方は私を称えてくれましたね。寒い冬にも屈しないと、私のことを誉めてくれましたね。
 ありがとう。どんなに寒くても、大夫さまを見ていれば、私は辛くなかったのですよ。
 朝廷でも節を曲げはしなかった貴方。皆が栄達を考えて秦に媚びても、頑として首を縦に振らなかった貴方。要領が悪くて、直言する途端に不器用になって、皆に鼻で笑われた貴方。
 でも張子が信用できないと見抜いたのは、ただ貴方だけでしたね。
 ねえ、大夫さま。わかっているのですよ、きっと。貴方がどんなに素晴らしい方か。堂々とした方か。貴方は立派過ぎて嫌われたのですね。貴方がいれば、他の人など霞んでしまうのですから。
 貴方を行かせるなど、目先のことしか見えないのですね。

 きらりと過る燕の影。ひらりひらりと空を舞い、私の憧れのように飛んで行く鳥が羨ましかった。
 ねえ、三閭殿。私なんか羨んでも仕方ありませんよ。でも、気に掛けてくれて嬉しいな。
 貴方の言葉なら、いくらでも運んであげますよ。その想いを翼に乗せて。
 でも貴方には天空の馬車がある。天地を縦横に駆け廻り、威儀を正してきららかな行列を指揮する貴方に、私の小さな羽は、本当は要らないのですよ。貴方の心意気は誰にも縛れない。王様にも、宰相様にも、令尹様にも。
 俗人共に縛られたりしない貴方は、誰よりも自由に心を遊ばせているのですよ。私の翼が追いつけないほど、遥かな高い空の果てに。
 ねえ、三閭殿。飛びましょう、お供します。鳥の一族も貴方をお待ちしています。何処までも飛んでいきましょう。泥沼で騙したり騙されたりしている連中などお忘れなさい。
 貴方をそしるなど、頭がおかしいのですよ。

 ありがとう。ありがとう。
 でも、私の問いは保留のまま。
 ねえ、何処に行けばいい?
 怖い答えは一つだけ。

 私の想いは何処へ行くのだろう。誰にも受け止めてもらえなかった私の想いは。
 楚が好きで、故郷が好きで、それだけだったのに。誰にも横取りされたくなかっただけなのに。秦になど入ってきてもらいたくなかっただけなのに。
 王よ、楚を秦に渡さないで下さい。張儀の口に乗って、この故郷を譲り渡したりしないで下さい。
 それだけだったのに。
 あの鳥を引き離さないで。その樹を秦に渡さないで。小川を盗んでいかないで。お願い、私の大好きなものを人になんかやらないで。王様、私の大好きな王様。貴方の身すら、危うくなるのですよ。
 王はもういない。秦は入ってきて、楚の土地は削られて、私の居場所はなくなってしまった。
 寄る辺のない私。行き場のない想い。
 ねえ、何処に行けばいい?
 問い続ける私は知っている。私は何処にも行きたくない。私はずっとここにいたい……。

 それは君に帰る所があるからだ。俺にはないよ。
 かつて斉の宮廷ですれ違った人は言った。皮肉に笑った彼は同盟を結んだ国の宰相。秦の張儀と机を並べた、布衣から身を立てた説客だった。
 俺はね、故郷から叩き出された。奴も故郷から叩き出された。だから、何処でもいいのさ、自分の居場所など。君は嫌うだろうがね。解ってくれとは言わないさ、どうせ解らないだろう。
 迎えてくれる人など、ないんだよ。迎えてくれるような土地もね。君にはある。だから君は意地になる。俺はなりようがない。それだけのことさ。
 行き場など、初めからないんだ。俺にも。君の嫌う−俺もその気持ちは解らなくもないけれどね−秦の彼にも。まして、理解者など、贅沢というものさ。
 嫌な顔をしたね。うん、解らないとは思ったんだ。
 だって、君には帰る所があるのだもの。俺にはないからね。
 彼は流れ歩いて、最後に刺客の手に掛かって、遺体を車裂にされたと聞いた。
 君にも行き場はなかったのだな。
 私にも、ないのだけれども。

 ねえ、何処に行けばいい?
 君、そうなるしかないじゃないか。斉で会ったあの顔が、笑って言いそうだった。
 私は、行きたくない……。

 いらっしゃい、わたくしの腕の中へ。
 私は貴方に恋をしたことはない、湘水の君……!
 私が、私が愛していたのは。
 この故郷の、楚の全て。

 時は移ろい、世は変り行く。貴方の愛した故郷が、この何処に残っているとおっしゃるの。
 そう、私もまた故郷から叩き出されて、この水際に一人。膝を抱いて座り込む。

 ねえ、何処に行けばいい?
 いらっしゃい、この青い水の中へ。

 行きたくなどなかったのだけれども、他に行き場が見つからなかった。
 さようなら、私の故郷。さようなら、とこしえにさようなら。
 青い水が、水紋を描いて、後にも何も残っていない−。

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お題シリーズ『行方も知らぬ』。屈原です。久し振りに書いただけあって、屈原の性格がこれでいいのか自信が揺らいでいた(笑)。一年半前に書いた代物ですが、実は一番巻頭のいんちき訳詩が気に入っているという代物です。「南」は「みんなみ」と読んでくださると語呂が合うはずです。この四行に一時間。なつかしの国語便覧まで動員したという、本文以上の努力の結晶(笑)。

いんでっくすへ