私には何も残っていない。だからもう、何処にでも行ける。
夢だったのだ。赤松子のように、自由に何にも縛られず、仙界に遊ぶことが。
私は、もう長くない。だから全てに整理を着けなければならない。整理といっても、身辺だけだ。私と朝廷の関係は、とうに切れていた。時折、思い出したようにやって来る太后の使いと、息子の使いを除けば、朝廷の消息など耳に入らない。それで満足だった。
膨大になってしまった書籍の集積を、体調の良い時に整理した。一度全て処分したというのに、と苦笑がこみあげた。
筆跡は、ただ一人の手になるもの。『酒色に溺れて仕事をしない』と言われ続けている人間が、勤務時間中に書き写しては送りつけてきたもの。お世辞にも達筆とは呼べない、癖のある、それでいて丁寧に書こうという努力の跡だけは見えるもの。
私は、これを息子に遺してやろう。その父の、形見として。
目録を採る私の字に、往時の勢いはない。ゆっくりと、ゆっくりとしたためる。書き記された書は、もはや私のものではない、息子のものだ。だから、私のものは次第次第に減っていく。
何も、私の記憶が何も、残らないように。
初歩の初学の教本も、一般教養も古典もある。文学が少なくて、兵学がやけに多いのは、私とあの男の共通点だったのだと気付いた。今更になって。もう知り合って何年も経つ、今頃になって。
要らないと言ったのに。あの男は、送らせて、と頼み、言葉の通りに送りつけてきた。一時は連日のように届いたものだ。それも荷馬車に山積みにするほどの分量が。田舎家にあったもので、申し訳ないが、と信書の中で詫びていた。それからも、人に本を貰ったので、自分で写したものは要らなくなったから、とか、稀本を借り出したので二部写した、片方送る、とか、何かにつけて送ってきた。だから、私の息子など、初めは彼を儒生と勘違いしていたほどだ。
この通信は、私の唯一の私的な通信だった。
陸生が珍本を見つけ出したので、頭を下げて貸してもらった。不眠不休で仕事もせずに、一月かけて写したので、差し上げます。ちゃんと食事をとっていますか。徹夜をするとまた倒れるので、夜ふかししないようにね。貴方に会いたい。誰か、また反乱しないかなあ。
人を食った、机上の書簡には、まだ返信を書いていなかった。その隣に練丹術の五巻組が置いてある。読むので、手一杯だった。
身辺整理で、忙しかったから。
何も、もう残っていない。



Farewell,farewell
−告別のリプライズ−


 結局、短い礼状しか書けなかった。書いている間に、目眩はする、吐き気はする、耳鳴りまでした。休み休み書くので、精一杯だった。
 何か、書き足りないような気がして、ならなかった。それでも使者に礼状を託して、長安へ送った。
 私は長安に住むのをやめていた。食邑としてもらった留の町に、小さな家と膨大な書と共に、静かに住んでいた。息子は既に長安の屋敷で一人置いても不安なく育っていたし、学舎や友人のいる都の方を好いていた。それでも私と共に来ると言って聞かなかった。
「僕が父上のお側にいなければ、誰が父上のお世話をするのですか。」
 小さな口をとがらかせた息子に、私は返す言葉を失った。
 俺が貴方の側にいなければ、誰が貴方の面倒を見るんですか。強情張るのもいい加減にしなさい。
 よく、似ていた。
「お前はまだ色々なことを学ばなければならない年だ。それには長安にいるのが良い。私もいてやりたいのだが、朝廷が何かと呼び出すような場所では、病を養うことも出来ぬ故に、仕方がない。」
 だから、私のことなど案ずるな。私は自分で身の始末はつけてきたのだから。
 もう十を越している私の子は、それでも泣きそうに顔を歪めた。その仕草が。
 私に似ているのだ。太后も、私に瓜二つだと驚いていた。諸将も認めた。朝廷でこの子を見かけたという、あの男も。
 それなのに、この子は私になど、似ていなかった。父親に、良く似ているのだ。一つ一つの仕草が。動き方が。考え方が。ただ、あの触れれば切れそうな才能はなかったけれど。
 なだめすかして、長安に置いてきた。
 初めは心細かったようだが、監督がいない自由を満喫する術を覚えたらしい。親しくしている陳家の面々と集い騒ぎ、興奮のままに書簡を送ってくることも度々だった。すなわち、あの男の子供達と。
 それで、よいのだ。
 私は膨大な書と共に留へやって来た。その初め、皇帝が沛公と呼ばれていた時分に巡り合った町だった。ここで、まだ今よりは若かった私は沛公に戦略を説いた。無名の、亡国の貴族の、遥かに自分より年下な者の言葉を、沛公は容れた。のみならず、その後はずっと私を頼った。私は頼られたのが嬉しかった。そのときは、気付いてすらいなかったのだが。
 この男なら私の手駒として使える。それだけだった。私は沛公を操り、秦を倒させようと勤め、そして。
 そして、私は知らない内に彼の『軍師』として認識されていた。
 私は彼を皇帝にした。その男、劉邦も今は亡い。
 発端となった町が、今はただいとおしかった。
 何処といって取得のない町に、同じ筆跡で書かれた膨大な書と篭り、体調に合わせて紐解くだけの、単調で、穏やかな毎日だった。
 多少寒くはあったのだが、そのことは極力考えないことにした。
 全ては終わってしまったこと。もう、何も残っていない。
 せっせと写したらしい練丹術の書を広げた。もう、意味などどうでもいい。きちんと並んだ悪筆を、私の目はひたすらに追っていた。
 この一巻を目録に書き写せば、私の蔵書は全て息子のものになる。あの男の書いた悪筆の書籍は全て。
 まだ、書きたくなかった。

 大量に残っていた信書を全て、焼き捨てた。もういなくなってしまった誰彼からやって来た書簡。
 明らかに代筆の勅書。漢王がこんな美辞麗句を使えるものかと苦笑がこぼれた。
 几帳面な蕭何殿の字。唯一まともな会話が成立した、貴重な年上の友人。
 控え目でいながら、辛辣でもあった曹参殿の書簡。穿った人の噂が好きで、でも嫌味のない人だった。
 非業の最後を遂げた韓信殿の書簡に、手が震えた。私は、あの人を見殺しにした。
 韓信は、貴方を愛しているのに。
 そう言ったのは別の男だった。韓信殿は、何一つ。ただ、私にはとても優しかった。
 そして、大量に残っている悪筆の信書。半分以上がどうでもよいことで埋め尽くされた書簡の山。
 私の心に、ただ一人、土足で踏みこもうとした無礼極まりない男の悪筆の山。私は山に手を掛けて、火中できなかった。
 長安にいる、あの童顔の男が泣きそうで。

 お願い、ここにいて。
 お願い、ただの策士でいいから、側に置いて。

 馬鹿者……。

 泣いていたのは、この私だ。
 悪筆の山は手をつけないことにした。
 その代わり、目録は完成させた。
 
 息子に言い置くことは書き記した。渡す物も用意した。かつて、あの子の父親が、私の元へ忘れていった形見を、そろそろ返してやらねばなるまい。
 あの男を見かけたのが、遠い昔のような気がする。
 敵中にいた、微官に不釣り合いな慧眼の持ち主だった。その男は味方となり、慧眼と戦術を自在に駆使して、何度も漢を救った。美男で素行不良の才子、と人は怖がった。当然だ、私だってあの得体の知れない男は怖いのだから。
 怖く、ないから。
 目の大きな、童顔の男。何故か私の回りに付きまとい、どれだけ罵ろうが殴ろうが追いだそうが拒絶しようが、意に介さなかった男。私から譲歩を引きだすことのできた、ただ一人の男。私の狂気という切り札を、最後まで切らなかった『危険』な男。
 怖くないように、みんな教えて上げるから。
 年下の、くせに。
「陳平、寒い。」
 返事はない。彼は遠い、長安の空の下。だから、私は安心して独り言を続ける。
「やっぱり、寒くないから、もういい。」
 そう言っても、あの男は私をよく抱きしめたものだった。見返りを要求せずに、ただ優しく。
 最初はそうではなかった。人間など滅多に変るものではないが、あの男に関する限りは、私の扱いは明らかに変った。その初め、それまでに関わった人間と同様に私自身を要求していた男は、いつからか一切無体な振る舞いを強いなくなった。だから毛嫌いしていたあの男の出入りを容赦した。あの男がいる限り、他人は入ってこないし、あの男は鬱陶しいが安全だったからだ。
 嫌い、だったのだ。どうでもいい、ではなく。
 私が嫌っていたのは、秦始皇、韓非子、そしてあの男。そのほかは一切の余事。
「お前なんか、嫌いだ。」
 面と向かって言ったのは、あの男にだけだ。あの男は少し傷ついたような瞳をしてから、大概反撃に出た。それでも、いつかあの男は泣きながら。
 嫌ってもいいから、側にいさせて。
 負けた、と思った。
 嫌い、だったのだ。それでもいいと、言ったのだ。

 …馬鹿者……!

 お願いだから、ここにいて。お願いだから、側にいて。
 何故?何故狂ったこの私を?お前は私に、何を見たのだ?
 貴方が、韓非子に見た、全てを。

 馬鹿者。
 お前の所為で、死ねなかったではないか。
 お前の所為で、子まで生む羽目になったではないか。
 全部、お前の所為だっ!あの書簡の山を始末しろ!この典籍の目録も点検しろ!私の子の後見もしろ!
 全部、お前の所為なのだからなっ!
「陳平…寒い……。お願い…寒い……。」
 寒いのなど、平気だったのに、全部お前の所為だっ!

 髪の毛、撫ぜていい?
 ちゃんと食う。どうせ吐いたんだろうが。食べなきゃ辛いの。むくれずにちゃんと食えったら。
 それとも、口移しにして欲しい?
 軍師殿。貴方の明察には何一つ付け加えることなどありません。貴方は、一流の軍師だ。
 あの冬天の星が、貴方を認めたと?
 でも、韓非子は、この目茶目茶な軍を勝利に導いたりはしなかった。
 俺の知ったことでなくとも、放っておくつもりはない!
 怖く、ないから。怖くないように、全部教えてあげるから。
 子房殿の恋人なら、是非に拝顔の栄を得たいものですね。
 …子まで、産んだのだろうが!
「産むつもりなど、なかったのだけれども……。」
 お願い、いなくならないで。

 だから、いなくなれなかった。お前は、韓非子以上に、私をこの世界に縛りつけようと必死になっていたのだから。
 私は、いなくはならない。私は、あの子の中にずっといる。
 約束は守ろう。
 私の護軍中尉。お前は一生、私にとっては悪党の護軍中尉のままなのだ。
 今生きている人間の中で、ただ一人、私が嫌った男。ただ一人、どうでもよいと見過ごせなかった物騒な男。

 嫌ってもいいから、側にいさせて。
 だから、ずっと側に置いただろう。この最後の瞬間にまで、私の瞼の裏側に。
 だって、私は暗いのと寒いのが、大嫌いなのだから。
「りょうね、くらいの、きらい。さむいのも、きらい。ひとりでいるのも……。」
 全部、お前の責任だっ!平気だったのに、何にも動じないように努力してきたのに、全部温かすぎたお前の所為だっ!
 責任を取れ!
 責任とは、何。

 もしも、私の髪が五歳の時に切り落とされなかったならば、どうなっていただろう。もしも、あの男が韓の貴族だったならば、どうなっていただろう。
 それでも、私はあの男を嫌ったのだろうか。それでも、あの男は私の後を追い回したのだろうか。
 もしも、私が韓の淑女として育っていたのであれば。

 一度くらい、まともに名前を呼んだらどうだ。
 無礼を働くつもりは、ない。
 何故なら、無礼を働いて当然な関係など、何処にもなかったのだから。
 自分だって、私の名を呼んだことはないくせに。
 子房。張子房。軍師殿。留侯。しぼちゃん。
 色々と呼んでいたが、あの男が決して使わなかった名前が、一つある。
 良。
 本当の、私の名前だけは、一度も呼ばなかった。もしも私が亡韓の淑女で、もしもあの男が−。
 もしも嫁いだならば、誰かが私を、良、と呼んだのだろうか。一度、聞いてみても悪くなかったような気がする。もしも呼ぶ声が私の記憶にある、あの優しい声だったのなら、聞いても悪くなかった気がする。
 そうしたら、私は何と言うのだろう。
 この無礼者!そう言って頬げたを張る。だろ?
「護軍中尉、お前、そんなに私に殴られたいのか。」
 童顔の面影は、人を食ったように笑うばかり。だから、あの男は嫌いなんだ!
 嫌いだから、大嫌いだから。あんな奴、大嫌いだから。
 殺されて欲しく、なかった。
 賢すぎるから警戒されていたあの男を、粛清に巻きこませたくなかった。だから、寒くても我慢した。私の行火にされたばかりに、陰謀を企てていると目されては、たまったものではないだろうから。
 私の後を、追うな。追ったらお前は警戒される。もう何も残っていない、私など追ってはならない。冷たく酷薄な私の後など、追うものではない。
 誰かを暖めてやって、私のことなど、忘れてしまえ。
 そうと命じるべきだったのに。膨大な書簡を送りつけることを承諾させられた。
 馬鹿者。馬鹿者。大馬鹿者っ!お前なんか、大嫌いだっ!寒いのに、こんなに寒いのに、暖めにも来ないお前なんか、二度と顔も見たくないっ!
 そう言ってやったら、あの傷ついたような、頼りない表情で、私を見つめるのだろうか。私より賢いくせに。私より強いくせに。
 もう、会えない。
 あの男は泣くかもしれない。少しいい気味だった。
 私が息子の形を取ってその前に現れたら、どんな顔をするだろう。あの男のことだ、人目を憚らずに息子を追い回さねばよいのだが。
 あの男はもう、息子のものだ。私のものであったことなど、ないのだけれど。

 もう、何も残っていない。私はもうすぐ、遠くにいく。赤松子を追って、仙界に遊びに行こう。散々に遊び回って、天下を周遊して、やりたい放題をして、飽きたら。
 飽きてしまったら、顔を見に行ってやろう。どんな顔をするだろう。
 いや、問答無用で、あの腕の中に閉じ込められるに違いない。あちこち回って、きっと寒くなっているだろうから、まあ、それでもいい。鬱陶しいとは思うけれど。多分、横面も張るだろうけれど。
 きっと、顔を見に行ってやるから、泣かないで。
 書簡に、私は書き忘れたのではない。書かなかったのだ。私の書きたかった一言は、あの男を泣かせてしまうだろうから。
 ただ、一言。

「陳平、さようなら。」




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お題シリーズ『ただ懐かしき』。懐かしいという言葉を入れずに懐かしんでいるなら成功。(笑)一年前に書いた臨終のしぼちゃんです。陳平をあんだけ翻弄し尽くして、しぼちゃんはどうなんだ、としぼちゃんサイドで。しぼちゃん…もっと素直になんなさい。最後の最後に、この人陳平のことしか考えてません。(笑)ぴこちゃんのことなんか、考えてません。まして子供のことは、陳平に責任丸投げしてます。(笑)時々キれてるし。そんなに気に掛けてやってるんなら、教えてやれよ、と。(笑)なんだか、しぼちゃんも相当なあまったれです。お子様しぼちゃんは、実は大人しぼちゃんの本音なのかもしれません。二人とも気付いていないのが悲喜劇なのですが。タイトルはダウラントの歌曲から。サビで「Farewell,farewell」と繰り返す部分があって、けっこー好きだったりします。



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