| その人は、天から舞い下りた人のように現れた。音もなく、微かに甘い香りを漂わせて。 高貴の人。旧家の貴族で、神秘的な軍師の話は聞いていた。会ったことはなかった。 つい先頃まで微官だった私には無縁の人だった。 神秘的で、すらりとした、秀麗な面差しの人が現れて、息を呑んだ。 唖然とする私の前で、さらりと衣擦れの音をさせながら、優渥に礼をした。 「初めまして、韓信殿。張良、字を子房と申します。」 鈴を転がすような声だった。
漢王の軍に来たのは、成り行きだった。 項王の軍にいた。項王の下では、ただの兵卒に過ぎなかった。私に兵としての能力はない。兵の動かし方は解る。だから将として使って欲しかったのだが、無理な相談だった。楚軍では、江南の、要するに楚の人間ばかりが幅を効かせ、私のように項王と係累を持たない者を登用する道など開かれていなかった。 項王は咸陽を焼いた。火は三月の間、燃えさかった。秦人は項王を露骨に恨み、項王は虐殺で口を封じた。人は項王より先に漢中を支配していた−項王が到来するまでの数週間に過ぎなかったのだが−漢王を慕った。その漢王は、漢中王の名と共に、蜀にまで追い払われていた。 項王は絶頂で、漢王はどん底だった。それでも私は、項王の軍を辞めた。漢王と行を共にした。お陰で山中のこんな僻地にまでやって来た。 何故だか、項王の下では働きたくなかったのだ。私を登用しなかったこともある。それ以上に、醒めた頭が告げていた。 項王は長くない。あれだけ恨みをかってしまっては、いずれ秦の二の舞となる。 そこで思いついたのが、秦の酷法を廃止して歓迎された漢王だった。漢王は良く人を用い、その話を聞くという評判も合わせて思い出した。だから転げ込んだ。 評判はあくまで評判だった。漢軍も人数が多く、漢王は微官にしか就けてくれなかった。それも、後方で補給を担当する蕭何の配下にされてしまい、とことんまでやる気を削いでくれた。 蕭何さん自身は悪い人ではなかったが、いかんせん職分との相性が悪過ぎた。だから、蕭何さんが目を掛けてくれたにもかかわらず、この僻地から、誘われるままに脱走することにした。 まさか、あの人が追いかけてくるとは思わなかったのだ。 結局脱走の一行は掴まったのだが、その中に蕭何さんを見つけたときはぎょっとしたものだった。 「待ちなさい、韓信さん、待ちなさいったら!」 と汗みずくで叫びながら走ってくるので、しまった、と思うより先に、恥かしくなったのを覚えている。 当然ながら処刑されることとなったわけだが、 「大丈夫、貴方のことはこの私が請け合います。殺させません。」 という蕭何さんの言葉通りに、私は縄を解かれた。そして漢王と直に話す機会を与えられた。 私は能弁な方ではない。どちらかというと、必要以外のことは話さないだろう。それでも、漢王は気楽に聞きいれ、納得したらしかった。納得した、では済まないことは、これまた息急き切ってやって来た蕭何さんの言葉で知った。 「将軍ですよ、韓信さん!明日、貴方に、全軍の前で大将軍の位を授けると!」 良かったですね、と善良な笑顔で喜んでくれた。 私は漢王より一足先に函谷関を出た。 年が改まり、四月、転戦中だった私は漢王と再会した。漢王は項王に敗北して榮陽に入っていた。 そこに、漢王の傍らにあの人がいた。 あの人、軍師張子房。 こんな人が世間にはいたのだ。目から鱗が落ちたようだった。 子房殿は口数の多い人ではない。いつも穏やかな微笑みを絶やさない人ではあるが、物言いは率直だった。いや、余分な言葉を介在させない分、辛辣なことすらある。だが、無意味に辛辣なのではなく、理路整然と状況を分析した上での辛辣ゆえに、私はむしろその物言いが気に入った。 「将軍には期待しております。」 と、彼は言った。細く長い指が、攻めるべき場所の地形をなぞっていく。 「負ける戦いはしない主義です。」 「結構。勝算のない人と話をしても仕方がありません。」 ということは、この人にもまた勝算があるのだ。 私の言い方を、大風呂敷を広げていると冷笑しなかったのは、漢王とこの人だった。蕭何さんは、あまり滅多なことを言うものではない、と袖を引いたものだ。善意からであることは解っていた。それでも、いや、だからこそ私は、善良で有能ですらある蕭何さんを敬ったりはしなかったのだろう。敬うべき、高位にある人だったのだが。だからこそ、私はこの人を敬ったのだろう。まだ殆ど相手を知らない状態でありながら。 誰もが私と同様の感想を持つとは考え難い。軍師張良−子房殿は、相当外見で損をする方だ。漢軍の帷幕でも、既に十分浮いていた。まず線が細い。おまけに顔立ちが秀麗に過ぎる。あれでは婦人で、それもすこぶる付きの美人で、十分通じる。おまけに落ちついてはいるが響きの良い声音で、育ちの良さを感じさせる挙措と共に現れる。仕上げのように病弱とあっては、才子多病、いや佳人多病と形容してさほど外れがない。 その人が表情一つ変えずに、城の将兵を全滅させろだの補給路を絶って敵軍が飢えるのを待てだの河の流れを変えて城を水浸しにしてやれだのと命じるのだ。外見の線の細さを裏切って有り余る過激さが、彼にはあった。そういえば、蕭何さんが言っていた。 子房殿は、あれで始皇帝を暗殺し損ねたことがある、とおっしゃったことがあるんです。さらりとね。私もぎょっとしましたが、あの漢王も酒席の酔いが醒め果てたという顔をしましたよ。その上あの顔で、呂政を、そう呂政と平気で言ったんですよ、あの人は、呂政を鉄槌で押しつぶしていたら、さぞかし秦のうろたえ振りが見物だったでしょうに、と微笑んだんですよ、杯を片手にね。いやあ、怖かった。並みいる面子が沈黙しましたものね。あの人は優雅な方ですけれど、本当はとんでもない方ですよ。 私としては、その方が良かった。的確な言葉しか出さない軍師と協議するのは好きだった。軍師も私に好意を持ってくれた、と思った。 事実、漢王の将で大事を託せるのは私だけだ、と彼は評価してくれた。当人が面と向かって言ったのではなく、伝聞で耳に入っただけ、余計に嬉しかった。何かの折に謝すると、ゆったりと微笑んだまま、 「ご自分でよく解っておられるでしょう。私の申し上げたことは単なる事実です。」 と答えた。事実、と言われただけ、私は更に嬉しかった。それを言った人も人だったから。 そこで、子房殿の手を握ったのは、場の弾みだった。意外に小さな手だった。そう、面と向かってみれば、彼は私より頭一つ分くらいは小さかったのだ。何度か顔を合わせていたが、私とそう変らない、いや、私より背が高いのではないかとすら思っていたのだが。 静かに手を離されて、自分が妙に長くそうしていたことを知った。それでも、彼は表情一つ変えなかった。 「ごきげんよう。」 あの方は優雅な方ですけれど、本当はとんでもない方ですよ。 蕭何さんの言葉を実感としたのは、その時だった。平然と踵を返して去っていく、優雅な後姿は、明らかに場違いだったから。 不思議な人だった。 漢軍の酒席は品が悪い。けなしているわけではなく、事実として相当に柄が悪い。一度酒が入ると、身分差無視の乱痴気に落ちる。冠を解く、着物をはだけるなどは序の口で、 音程の外れた歌をがなる、猥談に興じて遊び女を引き込む、殴り合いをする、絡むと、一通りの混乱を陳列しても収まらない。酔い潰れて全員が半死半生になってようやく終焉というのだから、恐れ入った。 かといって、序列正しい楚軍の酒席ときたら、これはこれで気まずい代物でしかなかったのだが。 漢王本人が陣頭に立って馬鹿騒ぎをするので、一足先に脱出していたら、先客に気付いた。月を供にして、一人で歩いていたのは軍師殿だった。呼びかけると、いつもの笑顔で振り向いた。そう言えば、この人を酒席で見掛けたことはほとんどなかった。いつも早々に退席するので、と子房殿は語った。 連れ立って歩く。子房殿が二三歩遅れる。 その度に私は立ち止まり、彼を待った。どうぞお構いなく、お先に、と促すのに首を振り、彼を待った。 酔っておしまいなのですか。お送りいたしましょう。 酔ったわけではありません。朝から微熱がありまして。 それは尚更、ご無理をなさってはいけません。第一、軍師殿は無理をなさりすぎます。 連れ立って歩く。私は彼に、いつか肩を貸していた。微熱という割には、吐く息が熱かった。 それでも、彼は確かに酔ってもいたのだ。あの鈴のような声が、歌っていると気付いたときは驚いた。聞き逃すほど小さな声で、当人も歌っているという自覚がなかったらしい。 韓盧の首輪が鳴っている 優しい美形の飼い主さん 童謡でも歌うような声だった。頬を染め、時折足をもつれさせる綺麗な人が、月明かりに浮ぶ。 男がこんなに華奢でいいのか。不可思議そのものと化した軍師殿は、熱のせいか、酒のせいか、潤んだ眼で何かを追った。一匹野犬が佇んでいるだけだった。 韓盧の首輪は二つある 綺麗な髪の飼い主さん あれは韓盧などではありませんよ、ただの雑種です、と言いかけて、絶句した。歌っている喉許から首筋を辿って、僅かばかり−そう、軍師殿には珍しく、ほんの僅かばかり寛げた衿元から常識を覆すようなものが見えた。 『彼』は気付かなかった。だから、酔っているのだと確信した。 平素は隙どころか、自らの私見すら、滅多に開陳しない人ではあった。 確かに酔っていた。『彼』の背中へ回した手に力を込めても、表情一つ変えなかったのだから。 韓盧の首輪にお飾りも 立派なおひげの飼い主さん 「韓に、どなたか残していらしたのですか。」 私の声は震えてでもいただろうか。軍師殿の表情は、いつもと変らなかった。 「お恥ずかしい。お聞き汚しをしてしまったようですね。」 「いえ、もっと聞かせていただきたいほどです。」 静かに首を振る。その仕草は平素の軍師殿と全く変らなく、しかし、私は−。 「軍師殿は韓盧で狩をなさったことがおありですか。」 間抜けな問いで全てをはぐらかした。亡韓の『御曹子』は相変わらず優渥な微笑みで首を振る。 「鹿ではなく始皇を追うのが、私の狩でした。」 率直で、的確な、とんでもない言葉。 私には、称賛の言葉を返すことが出来なかった。『彼』と歩き始めたときには、すぐにそれをしたのだろうに。言葉に詰った私など、軍師殿は顧みない。 「幼い頃に、韓盧を仕込むのが上手な公子にお会いしたのですよ。立派で、韓盧も人も見事に操る方だった。鬼籍に入ってしまわれたのが、残念です。」 「その方は、貴方の……?」 間抜けな問いに、肝心な答えは返らない。 「残念ながら、師ではありません。師事したかった。」 何を師事するのです?喉元まで出かかった問いかけを押し戻した。 「御苦労、なさったのですね。」 「大したことではありません。先だっても漢王と合流するのに、項王に殺されるところでした。良くあることです。」 そんなことが−! 「韓信殿?」 不審気な声を私の胸元に押しこめた。平然と死線をくぐるこの人は、優雅でありながらとんでもないこの人は、男ですらなかったのだから。 それを、この殺伐とした場所に野放しにして、誰も気付いていないとは−。 「もう、そんな目茶をなさらないで下さい。」 「韓信殿?」 「信は…子房殿の身に何かあったらと思うと、信はぞっとします。」 「私も貴方と同じです。負ける戦いはしません。最後に勝つのは、私です。」 きらりと月に光るのは、熱に潤んだ不敵な瞳。その赤い唇が言い放つのは、率直にして辛辣な台詞。 「ですから、私の身など、案じてくださるに及びません。」 「いいえ、私は案じます。」 ぱちぱちと瞬く睫に引きこまれ、私は−。 「韓信……!」 恐らく、私も酔っていた。酒ではなく、この腕に舞い下りた、月に。 「私は、貴方を守ります。」 離したばかりの唇が震えていた。それからようやく、私から離れようとした。ふらつく足で、高い熱を出している体で。とても放して行かせられる状態ではなかった。 この人は、いつも優雅だった。今もまた。高熱を微熱と言い切り、人を安堵させて、その実はただ一人で病を背負いながら軍師の重責も担い続けた。 私ならこの人を助けてやれる。 「子房殿、私が貴方を守ります。決して誰にも申しません。ご安心を。」 軍師殿は答えない。黙って顔を背け、それだけだった。 優雅で、秀麗に過ぎる月の佳人は、一方で気位の高い天与の軍師でもあった。だから、この人は素直ではない。普通の女のように、私にすがったりはしない。 「唐突に、何をおっしゃるのか解りません。」 ずっと放さなかった私に、表情一つ変えずに言い放った。まっすぐに私を見据えて、 「酒をお過ごしになったのでしょう。」 とだけ。 「子房殿も酔っておられる。」 「奇特なことをなさるので、酔いも醒め果てました。」 潤んだ瞳が月の光を弾いた。酒のせいか、熱のせいか、うっすらと赤く染まった頬に平素の穏やかな微笑すら浮べていた。だからこれは日常の延長であり、どこかで日常とは隔絶していた。初めて触れた頬は暖かいというより熱く、滑らかで柔らかかった。 「では、信と共に酔ってください。」 逃げ出そうとしても、もう遅い。子房殿はそもそもが非力に過ぎた。見るからに非力なこの人が、始皇の殺害を画し、鴻門に踏みとどまって死地に置かれた漢王を逃がし、先だっては単身で楚の刺客の手を逃れてきたのだ。賢すぎるのに、破天荒な事ばかりしてのけるこの人は、放って置けない。 「送ってくださるのでは、なかったのですか。」 鈴を振るような声で、詰問された。それで全ては元に戻るとばかりなこの人に、一面の稚さを見た。 貴方はその一言で、墓穴を掘ったのですよ。 「ええ、確かにお送りいたします。」 全てを日常の枠に収めようとする軍師殿は、相変わらず表情一つ変えようとしなかった。口調を荒立てたりもしなかった。それでも、私の袖を掴んだ白く小さな手は、確かに小刻みに震えていた。 影が重なる。背の高い私の影に、小さな影が吸いこまれる。 私は確かに子房殿を送った。酔った私もまた、そこからは帰れなかった。 もうご無理をなさらないで下さい。信が御側におります故に。 月の形見に繰り返し、その人はただ一言。 私の身など、案じてくださるには及びません。 後は一切の無言。 この人はほのかに酔っていただけで、私は既に酩酊していた。宴の後の月の形見に。 韓盧の首輪が鳴っている 優しい美形の飼い主さん 子守唄のように口ずさむ。聞いているのかいないのか、子房殿はじっと目を閉じたまま横たわる。 韓盧の首輪は二つある 綺麗な髪の飼い主さん 鈴を振るような声で、歌っていたのは貴方なのですよ。優しい韓盧の飼い主さん。絹のような黒髪に指を滑らせ、鹿ではなく始皇を狩っていたという人に言い聞かせた。 「貴方は、今度こそ鹿を追うのですね。中原という狩場で。」 ようやく、澄んだ声が答えを返した。 「私は韓盧を飼ったことなどないと申し上げました。」 「信が御側にいると申し上げましたが?」 小さな細い手を握りしめると、長い睫が上がった。気だるい表情は、熱のせいだけではなかった。 「…熱を移してしまったのではありませんか。」 「信に楚王を追わせるおつもりなのでしょう。お忘れですか、私も韓姓なのですよ。」 「随分と酔ってしまわれたのですね。」 それでも、子房殿はいつものように微笑んだ。 「必ず、貴方に鹿をお捧げ致します、子房殿。」 影が重なる。私はこの人の側にいられるのが、ただ、嬉しかった。 子房殿の、私に対する評価を知っていただけに、尚更。私に首輪をはめてしまった、優雅でいて、とんでもない、綺麗な髪の−。 「韓信殿。」 私を呼ぶのは、鈴を振るような声。その向こうに、優雅で過激な軍師の姿。 「貴方なら、必ずに楚軍を足止めしてくださると存じます。」 あくまでも優雅に拱手する、帷幄の軍師の姿。 「信にお任せ下さい、子房殿。」 私の供物は中原の鹿。それ以上でも、以下でもない。 「韓信、頼むぞ。あ、それと裏切りおった斉と趙もついでに……。」 上機嫌で語り続ける漢王の背後に佇む、決して小さくは見えない優雅な佳人にただ目礼した。 「欲が、深すぎます。」 一言で釘を刺され、漢王が磊落に笑いながら子房殿の細い背中を叩いた。 信と共に酔ってください。答えは無言。 しかし、功には賞で、報いなければならないのですよ。私の美形の飼い主さん。その人は表情一つ、変えなかった。物々しい出陣を見送りに来て、あたかもそれが日常の延長であるかのように。 「ごきげんよう、韓信殿。」 送ってくれたのは、鈴を振るような、平素の声。 韓盧の首輪が鳴っている 優しい美形の飼い主さん 負ける戦いはしない主義です、子房殿。
お題シリーズ『声』。実は半分くらい書いてから、このネタだとどれにはまるかと…順序が逆だよ、高松さん。(笑)「しぼちゃんに引っかかった不幸な人A」の韓信殿です。韓信を書くに当っての至上命題は「陳平と一緒にするな!」(笑)。というわけで、ロマンチストです。(笑)お陰でしぼちゃんが暴れずに済みました。(笑)えー、韓信は王子様路線で書いています。というわけなので、しぼちゃんの本心に気付いていない抜けたところが。これを気付かせたら陳平の二の舞になるので。(笑)本心に踏みこんでこないので、しぼちゃんの応対もよほど丁寧です。人が変ったかと心配になったくらいです。(笑)…つーことは、陳平はよほどのことを…してるなあ。『Winter』にも書いた時期なのですが、韓信の方が偉いので、陳平のことは完全無視にしました。はい、二人揃って蹴り出されたりしているあの時期です。(笑)今回はなんたって『第一印象』(オースティンありがとう)なので、蹴りだされてどーのという事はカットです。しぼちゃんの第一印象と、女の子しぼちゃんの第一印象を書きたかっただけなので。ちなみにこの話の『表情一つ変えず』は『Winter』の『鉄面皮の微笑』に相当します。(笑)やっぱり韓信の方が書いてて和みますねえ。あ、挿入詩は『詩経』より『盧令』、高松訳でした。 |