寒い寒い一面の枯野が、腹が立つほどのだだ広さで広がっていた。木もほとんどない。申し訳程度のはげちょろけた草地がぽつらぽつらとあって、時折小汚い羊の群れが、貧相な餓鬼に連れられて呑気に横切っていく。馬も時々、牛も時々通る。
本当に、住人は少ないのだ。
一体どこから兵を掻き集めてきてるんだ、匈奴の王ってのは。腹立ち紛れに、しばらく洗っていない頭をかきむしると、北風がふけを散らした。
半年以上、ここにいるんだな。退屈極まりない上に、美人もいないし、うまいものもないし、温泉も出てないし、最低の場所だ。仕事だから仕方ないが。それに。
長安で拒絶されているよりは、まだ諦めがつくさ。
皇帝は匈奴の王なんぞに付き合って戦うこと、半年になっていた。


Ella giammai m'amo
−匈奴のリトルネッロ−

 匈奴にいても、待っていた抗議は一度たりとも寄せられなかった。俺は怒鳴られたいがためにこんな僻地に来たも同然だったのに、あの人は黙殺で応えた。
 最初のうちはまだまともに戦っていたので、俺だってそれなりに忙しくしていられた。軍議だの、計略だの、全て押し付けてきたからな。
 それが、車騎将軍の灌嬰君がほいほいと勝ちまくってくれたもんで、勢い、参謀は用済みである。主上ことあのなまず親父は単純なんだ、そもそもが。自分の調子がいい時は、あの張子房ですら放ったらかして平気だった人だからな。いいけどさ、俺の世界もなまず親父を主軸に回っているわけでもないし。こんな僻地でなければ自由時間をもっと楽しく使えたんだろうけれどな。
 私は、あの程度の男に『使われる』存在でしかなかった。教えて、私はこの先どう生きていけばいいのだ!
 あの人は、長安で、今どんな暮らしをしているのだろう。俺には、何も教えさせてくれなかったくせに。
 漢と、劉氏を頼む。
 頼むだけ頼んで、一切会ってくれなくなった、冷たい人だった。

 周勃が遊びにやってきた。こちらも暇らしい。確かに将軍ってのは、軍を動かさない限り暇だろう。俺以上に暇らしいので、そもそも毛嫌いしていたような俺のところに入り浸っている有様だ。この間までは灌嬰共々走り回っていて、匈奴を破ったり韓王信を破ったり、上機嫌の破竹の進撃を続けていた。なまず親父と俺はこいつにくっついて動いているようなものだ。
 かつては俺のことを弾劾してくれたような周勃だが、人は良い。単純素朴で義理固い−だから俺には始終頭が悪いとおちょくられる羽目になっているのだが、本人気付いているのだろうか−彼は、弾劾までした札付きの俺と何故か一緒に仕事をさせられるお気の毒な仕儀に陥り、付き合いが長くなるにつれてそこそこ気心が知れた間柄になっていた。列侯になって、身の丈に合わない『威厳』を気取り始めた田舎仲間と合わなかったのだろう。俺は威厳なんぞくそ食らえの、相変わらずの素行不良を自認していたし、この頃では放埒だ破廉恥だとすら朝廷で囁かれてもいた。
「はい、お酒。相変わらず不景気な顔してますねえ、陳平さん。あんたの顔見てると、笛でも吹きたくなってきますよ。」
 こいつの吹いていたのが葬式の笛だということは、陣中誰でも知っている。ので、慎んで辞退させて頂いた。暗さに拍車がかかるだろーがっ。
「お☆周勃ちゃんにしちゃあ気が利くじゃないの♪」
「だって、もうすぐ勝てますからねえ。今、冒頓は代谷にいるんでしょ?冒頓やっつけたら長安に帰れますもん。おうち帰りたいですし。」
「俺は帰りたくない。長安の家はあのまま封鎖して、別邸建てようかと真剣に考えてるんだぞ。」
「だからって、昔から連れ添った奥さんを離縁しちゃ可哀想じゃないですか。閉じ込めておきたい気持ちはわかりますけど。」
 家に来たことがあるので、俺の嫁がいかなるものか良く知っている周勃が溜息を付いた。三度結婚した前歴のある凶状持ちで、若い頃から陰気で見られたご面相じゃなかったのが年のせいで更にひどくなり、会話が成立するほどの知性もないくせに、列侯夫人の権威ばかりは振り回したがって、妾や女中をいじめる女だった。昔貧しかった俺は、彼女の実家の金倉と結婚するつもりで縁談を受けた。入らなくなった道具は丁重にしまうだけだ。だから、離れに軟禁している。
 所詮、俺と彼女の間には元から接点はなかったのだし、子供を生んだのも別の女だ。
「うちの家なんか崩壊してるの。綺麗なおねーさんたちがいなきゃ、やってらんない。」
「…その発想、どうにかならないんですか。」
「ならない。もう絶対ならない。振られてやけくそになってるから、絶対ならない。」
「あんた、本当はこの戦、来たくなかったんじゃないですか。」
「いや、志願した。」
「あんたね、何考えてんですかっ!ああもうっ、そんなに振られたいんですか?留侯、本気で怒りますよ。」
「怒るなら、文句を言いに押し掛ければいいだろうが、あの鉄面皮の強情者が!受けて立つさ!」
 大杯を一息に呷る。長い付き合いで俺のことを良く知っている周勃は、何も言わずに注ぎ足して愚痴に付き合ってくれた。
 対峙するのは匈奴の冒頓単于とは申し状、その配下に降伏した韓王信でもあった。韓王信、元韓の司徒であった留侯張子房が推挙し、王として立てた亡韓の王族。

 韓とは、貴方にとってそれほど大切なものだったのですか。貴方が不幸の極みに落ちてまでも復する価値のあるような代物だったのですか。
 かつて問い掛けた俺に、子房は答えてくれなかった。
 あの人はいつもそうだ。何かのため、韓であり、漢でもあり、他人のためには走ることを厭わないくせに自分のことは全然見えていない。挙句の果てに、あの人の憧れが韓非子ときては、悪趣味も大概にしろと怒鳴りたくなる。
 だから、あんな風に号泣するまでに追い詰められたんじゃないか、と怒鳴りつけたくなる。
 陳平、教えて。もう私には何も残っていないのだから。
 どーせ、俺なんか貴方の視界に入れてくれたことはないですからね、軍師殿!
 貴方よりは、まだ匈奴の地の方が暖かいと思いますよ。凍てつくような光を放つ、冬天の星にも似た冷たい貴方に比べれば。

「韓王も、戻ってくればいいのにね。」
と周勃が呟いた。
「匈奴は、中国じゃないから、逃げても上手く行かないと思うし…それに、子房殿、きっと心配してると思うけどな。」
「多分ね。」
 心配するのなら、俺に一言寄越せばいいのだ、あの強情者。
 韓王信に手加減してくれ。と。
 俺は要求を呑むだろう。そして交換条件を出すだろう。
 貴方に、会いに行かせて。
 仕事に没頭するあまり、道術に凝るあまり、いや、絶望と狂乱に振り回されるままに、食べもしないし、寝もしない上に病気がちで、放って置けないくせに、意志だけは強い強情な貴方が倒れていないか、悔しいけれどいつも気にかかるのだから。
 韓王信は漢には戻ってこなかった。

 偵察の使者が帰ってきた、と連絡が入ったので、なまず親父の幕舎に行った。何だか偉そうな面になってきた古馴染みが、これまた態度のでかくなったなまず親父を取り囲んでいる。着物ばかりが派手になった、連戦連敗の総大将だ。
 あの人と、蕭何と、韓信がいなければ、絶対こんな風にふんぞり返れるわけのなかった奴だった。
 斥候が討てばよいと進言したので、即決で討つことになった。おいおい知らねーぞ、俺は責任持たないからな、と思ったが、発言できる雰囲気ではなかったので黙っていた。
 俺は、あの人じゃない。自分の置かれた立場に絶望しながら、それでも手を差し伸べてやるあの人ではない。勝手にしろ、人の話を聞かない奴が自滅するのは当然だという男だ。
 危なくなったら、いっそのこと、なまず親父を見捨てて、自分だけずらかろうかな。一昔前は、そんなことばかりしてたんだし。そうしたら、さすがにあの人も目を剥くだろう。どうして皇帝を死なせたと、食って掛かるかもしれない。そうしたら、あの人に会える。
 軍は、更に北へ。更に僻地へ。更に寒い場所へ。
 遠くへ遠くへ、どこにでも行ってやる。あの人の心より冷たい場所など、この世界にはないのだから。そして韓王信を追い詰めてやる。追い詰めて、誅殺してやる。
 俺を映さないその瞳に、仇敵としてでもいい、この姿を映させてやる。それが恨みであっても、俺のことを考えずにいられないようにしてやる。
 本当は、そんなこと、望んでいないのだけれども−!
 北へ、北へ、平城まで来て周勃が出陣した。
「陳平さん、そんな顔しないで。周勃、勝つよ。」
 にこにこと笑って、大きな手で背を叩く樊噲に、勘違いだよ、という気にはなれなかった。
「そうだな、周勃ちゃん、やる時はやるからな。」
 うん、と満面の笑みをたたえる樊噲は、本当にお人好しで子房が信頼してよく一緒に動いていた訳がわかった気がした。
 周勃が胡騎を蹴散らし、調子付いた主上は白登山へほいほいと出て行った。
 ほいほいと。自信過剰にも程がある。
 山は気持ちがいいねえ、と伸びをしている樊噲の隣で、俺は全身の血が引いていくのを感じた。
 これは、相手を馬鹿にしすぎていやしないか。
 山上に陣取るなんて、あのなまずひげ、気でも狂ったんじゃないのか。
 これは、負ける陣形だ。長期戦になればなるほど自滅する陣形だ。おまけにここは敵地のど真ん中だぞ、おいおいおい。正気かよ、なまず親父!
 頼む冒頓単于、ここを引き払うまで、気付かないでくれ!
 いい加減にしやがれと文句を付けに行ったが、自信満々の皇帝陛下は山を降りろという俺の提案を一言で却下してくれたのだった。
 もう知るかっ!勝手に死にやがれ、くそったれの馬鹿親父!
 子房の提案だったら、あいつは聞いたのだろうな、と微かに思った。

 貴方はせいせいするでしょう?俺は消えて差し上げますから。俺のこと、見たくもないのでしょう?
 珍しく夢に出てきてくれたあの人は、振り向きもしなかった。
 死んでやるからな。劉邦と漢軍全部道連れにして、全滅してやるからな。貴方が悪いんだ。俺なんかを買いかぶって、責任丸投げしていなくなった貴方が悪いんだからな。
 冒頓単于って知ってるか?とんでもない野蛮人だぜ。何しろ、親父から単于の位をもぎ取るために、自分の妻を針鼠にさせて部下を鍛えたって男だよ。
 自分の命じたものに矢を射かけて殺せ。最初は動物だったのが、次には自分の妻になり、射かけなかった奴を殺したという冒頓。最後には、親父に矢襖を浴びせて殺したんだとさ。すごいねえ。
 そいつが貴方の韓王の後ろ盾だよ。安心したろう?ついでに劉邦も俺もいなくなるんだから、一石二鳥でせいせいするだろう?
 何とか言えよ、言えったら!
 夢の中では、あの人の肩を掴むこともできなかった。振り向かせたいのに、あの人に触れることすらできなかった。
 本当は、長安に帰りたい。長安の、あの人のところに帰りたい。でも、貴方が拒絶を続けるのなら、俺は帰りたくはない。俺だって、生身の人間なのですよ?
 貴方にしか、頼めない。漢と、劉氏を。
 振り向きもせず、夢の中のあの人は呟いた。
 そんなもの、俺に頼まれたって、困る!
 私はまだ、生きていたい。貴公が死ぬのも、望まない。
 死なないで、陳平。そのために、会ってはならないと言い渡したのだから。
 ひどすぎる……。貴方は、ひどすぎる……。

 冒頓はこの機を狙っていたとしか思えない。いや、今までの連敗自体が完全に計算されたもので、なまず親父をお山の大将に追い上げるための作戦だったのだ。
 水と糧道を封鎖された。こんなこったろーとは思ってたんだ。いい加減に嫌になる。俺は張子房じゃないから、避穀するだの飯を抜くだのという趣味はないんだぞ。
 今更ながらに慌てた漢王、おっと皇帝が泣きついてくるのは毎度のことで、ここまで包囲されてからどうしろってんだ、もう少し後先は考えて行動しやがれと悪態をついてしまった。
「子房殿にどう弁解するつもりですか、あんたは!だからよせと言ったでしょうが!」
「すまん、悪かった、陳平、何とかしてくれ!」
「何とかったって、何とかできる局面とできない局面があります!」
 ここは中原ではない。中国の常識は冒頓単于に通用しない。野心家で、中国進出を狙っているという話の男が、殲滅してくださいといわんばかりに布陣している漢軍を見逃すはずはない。まして、漢軍の情報は韓王信から流れているだろう。
 あの人を裏切って匈奴なんぞに荷担した韓王信が、目下に展開する匈奴軍のどこかにいる。
 俺があいつに殺されたなら、貴方はさぞご満足でしょうね、玲瓏の軍師でもある私の女王様。でも、そうはならない。あんな、王の妾腹の子の孫などという、貴族であるのかどうかすらもあやしい男に差し出すには、俺の首には価値がありすぎる。
 貴方を裏切って敵に回った奴を容赦する程の寛容が、この陰険策士にあるとおっしゃるのか?
 そうだ、陰険さと悪事の常識は、万国共通だ。俺は元々、手段を選ばなかった男だ。だからあの人は俺を重宝して、用がなくなると見捨てたのだっけ。
 匈奴は、寒い…暖めてくれそうな酒場のおねーさんもいないんだからな……。

 金を出せ!と言えば強盗じみているのだが、漢王に言ったのはその一言に尽きた。金銀財宝を出せ、身の安全を買うと思えば安かろう、という理屈で、俺は食えもしないお宝をかき集めた。兵糧の手持ちは底を尽き、輜重は通して貰えないでは絶食するしかない。
 こういうことになるから、食えないお宝に興味はないんだ、俺は。という至極個人的な感想は置いておき、俺は会見を申し込んだ人のところへ、お宝担いで参上した。
 夜半に単于の妃を訪れるなんて、まるで恋泥棒だ。

 どんなおばさんが出てくるかと思いきや、冒頓の閼氏はまだ若い美人だった。先方も驚いたらしく、華やかに声を立てて笑いながら、
「あら、どんなおじさまが来るのかと思ったら。」
とのたまった。俺に付いて来た兵卒が、こんなどうでもいいところで目くじらを立てかけたので、急いで外に追い払った。俺としては閼氏と差しの方が話を進め易そうだ。
「俺はなまずひげじゃありません。」
「おたくの皇帝の髭は感心しないわ。でも、貴方は小粋な紳士で安心したわ。」
「紳士に見えますか、それはどうも。童顔の悪党というあだ名を欲しいままにしておりますので、閼氏にそう言って頂けるとは望外の喜びです。」
「使者さん、随分生意気な口の利きかたするのね。」
「生意気ですか?それは失礼を。」
「いいのよ…似合っているから。それで?漢のおじさまは何をあたしにお望みなのかしら。断っておくけど、あたしも一応匈奴の冒頓単于の閼氏ですからね。」
「あのなまずひげはいいんですけれど、俺を長安に帰して頂けないでしょうか?」
 極上付きの笑顔を進呈すると、閼氏が瞬時呆気に取られてから、軽く笑い声を立てた。快活で、良く笑う人だ。気持ちのいい美人だな、と嬉しくなる。どうせ交渉事項がどん詰まりなら、交渉相手くらい陽気な人がいい。
「まあ使者さん。ここも住めばなかなかいいところよ。長安にわざわざ帰る事情がおあり?ご家族がいらっしゃるの?」
「あんなのはいくらでも取替えが効くんですけれどもね。」
「あら、薄情。その性根、ここで叩き直してからお帰りなさいよ。」
「性根を叩き直す前に、まずは御講義料を受け取って頂けますね?」
 陣から積んで来た宝物を運ばせる。箱を開くと、快活で少年のようだった閼氏が、女性らしい喜びに目を細めた。
 あの人も、こんな顔をするのだろうか。あの人はちっとも明るくはないけれど、快活でもないけれど、少年らしさをどこかに残している点では、閼氏に似ている。
「まあまあ、よろしいの?漢の細工物は素敵ね、こればかりはこちらにないの。なんて大きな孔雀石でしょう!翡翠もあるのね、瑠璃もあるわ、こんなに大きな紅玉も、水のように透き通った碧玉も、下さるのね?…使者さん?」
「ええ、全て、美しい貴方に献上させて頂きますとも。着けてご覧なさい。きっとお似合いですよ。」
 あの人の首に私が掛けたことがあるのは、貧相な花輪だけだった。あの白いうなじには、極上の真珠が相応しいのに、場所が陣中では、衣装が軍師の正装では、どうしようもなかった。
 留め金がかからないわ、と困っているので、後ろに回って止めてあげた。胡服に変わった帽子をかぶって髪を編んだ匈奴の閼氏に、大振りの金鎖は胸元によく映えた。
「お綺麗ですよ。」
「使者さん、貴方お口が上手ね。」
「滅相もない。」
「あたしに、何を要求なさりたいの。さぞかし大変なことを頼みたいのでしょう?」
 美人の閼氏は真顔になる。真剣な顔の女性は、やはりどこの世界でも美しいのだな、と思う。あの人の張りつめた糸のような危うい美しさはないのだけれども。
 やはり俺は、男と交渉するより女性を相手にする方が好きなんだな。そうだよな、女性の方が数段可愛い。男で可愛気があるとしたら、大抵頭が悪いからな。項王にしろ、周勃にしろ、樊噲にしろ、さ。
「貴方のお力では大したことはないかもしれません。漢の馬鹿共をここから叩き出して、長安に追い払って頂けませんか。韓王信の奴が余計なことをしなければ、お邪魔するつもりはなかったのですが。」
「韓王……?ああ、去年の暮れに寝返ってきた武将のことをおっしゃっている?」
「ええ、奴です。私の…友人が…奴の身を案じているので、一応『王』と呼んでいますが、貴方のご覧になった通り、あまり使い手のない武将ですよ。」
 何しろ、危なくなるとすぐに敵に投降するんだからな。その上、そいつに後足で砂掛けて、またこっちに戻ってくるんだ。項王や冒頓に、本当にささやかながら同情する。
 その度に一人で煩悶を抱え込む子房の身にもなりやがれって言うんだ!
「随分と辛口ね。」
「貴方の瞳には頼りがいがありそうに映りますか。」
「あたしに漢の武将はわからないもの。」
 匈奴の貴婦人はするりと逃げた。
「得体の知れない連中を沢山こんなところに留めて置くのは感心しませんよ。治安が悪くなる。」
「貴方達がここの男達に危害を加えることができるとでも思って?」
 自信に満ちて微笑む閼氏はやはり美しい。その表情に、あの人の面影を重ねるとは、我ながら重症だ。
『私の計の邪魔だては誰にもさせない。』
 自信に満ちて、きっぱりと言い放つあの冬天の星の人。
「危害というのは、斬り合いばかりではないと存じますがね。怠け癖を仕込むかもしれない、酒浸りにさせるかもしれない。危険な恋の駆け引きを教えるかもしれない。」
 俺は一幅の画帳を差し出す。表紙をめくった閼氏の手が止まる。きっと引き結んだ唇は赤く、多分柔らかいだろう。
「腹の底の見えない危険な美女を単于に近付けるかもしれない。英雄は恋に危険が伴うほどのめり込む性分があるようですからね。」
「貴方…恐ろしいことをおっしゃるのね。」
「漢人なんて、所詮その程度の外道ですよ。だから美しい貴方に申し上げる。この地の平和のために叩き出しておやりなさい、と。そうしたところで単于の勝利に陰が差すわけでもない。」
「使者さん、貴方のお名前は?貴方、ただの軍使ではないでしょう?」
 どうして、貴方は私の名前を呼んではくれないのですか、子房殿!貴方が蔑んでいる匈奴の閼氏はこんなに優しいのに。俺は、貴方の物言わぬ手駒ではないのですよ!
「遅ればせながら。不肖、護軍中尉、陳平と申します。」
「陳平さん、貴方、馬には乗れて?退屈だから、遠駆けの供を命じます。」
「喜んでお供させて頂きます。」

 匈奴の夜は、暗い。生まれ育った田舎の家と同じほど暗い。降り注ぐ星灯りに微かにきらめく閼氏の首飾りを頼りに、馬蹄の音に耳を澄まして付いて行く。田舎も星が多かったけれど、もっと優しく暖かい光だったような気がした。ただの郷愁かもしれないけれど。匈奴の星は、寒気のせいか冴え冴えとして、あの強情者によく似合う。
 人馬一体となったような奔放な閼氏の姿は、生気に満ちていて魅力的だった。長安の宮廷で田舎娘が半端な儀礼を仕込まれて、がちがちに固まっているのは好きじゃない。化粧の仕方も下手だし。本当の優雅、というものを、張子房に見せつけられてしまった以上、偽物には指を染める気にならなかった。閼氏のように飾り気のない、野性味を残した率直で素朴な女性の方が気が紛れた。
 髪を乱して、夜目にも赤い頬をして、片手で手綱を捌きながら障害を飛び越え、馬を竿立ちにさせ、乗馬の下手な漢の男に、
「これ、できる?」
と無邪気に問い掛ける、素敵な閼氏だった。おまけにこの人は馬鹿じゃない。冒頓単于の趣味でないのか知らないが、少なくともこの人が弓矢の的にされなかったことは感謝しよう。冒頓の奴、女を見る目がないのかも。
「できません!お上手な貴方には勝てません!俺がやったら振り落とされて頭を割ります!」
 快活に笑い飛ばす閼氏に、今までの苛々が少し和らぐ。
 お願い、私の心を受け止めて。そうして欲しい人は、今は会ってもくれない人で、俺はせめて誰かに優しくして欲しかった。長安の優しいおねーさん達に、この匈奴の閼氏に。でも、本当は。
 私に異論を唱える権利がないことなど、承知してはいるのだけれども、それでも、諦めきれない。
「そうでしょう!漢にこれほど上手に馬を操る女はいないでしょう?」
「…いいえ、知っていますよ。一人だけ。」

−馬車に乗れったら!
−足手まといになるつもりはない!私を誰だと思っているのだ!

「意識が飛びそうなほどの高熱を出しているくせに、姿勢を崩さないで城門から飛び出して行った強情なお姫様だった。川を飛び越し、泥沼を飛び越し、下手くそな奴の脱出に手まで貸して、最後までしゃんとしていた……。」
 そうして、最後にぶっ倒れた軍師殿。誰にも用がなくなってから、一人で廃屋の片隅に動けなくなった体をもたせかけていた強情な子房。
 貴方が笑顔で馬を御しているところを、見てみたかった。
「…貴方の恋人?」
「まさか。私など、眼中に入れてくれませんでしたから。」
「入れさせるのよ!」
 不意に両肩を掴まれて、すぐ近くに寄って来ていた閼氏に驚いた。
「長安に帰りなさい。その人を手に入れなさい、使者さん。そんな顔しないの。貴方ならできる。陳平さん、馬に乗れる女はしっかりしたいい女よ。賢くて、自分の面倒を見れて、男の助けにもなれる、足手まといには絶対にならない。そして、もしその機会があったらだけど、私に見せに来て頂戴な。男でしょ、思いつめたものは手に入れるのよ!」
 長安の陸生が聞いたら、目を剥いて泡を吹くだろうな。いや、真面目な周勃でも青くなってすさるかもしれない。
 でも俺は、この閼氏が好きだ。
「的確な御講義、ありがとう。でも、貴方の三倍は強情な上に、俺の三倍は賢い人ですよ?」
「泣き落としてでも手に入れなさい。貴方に向かい合って切々と頼まれると、断り辛くなるもの。いい、諦めたら、絶対に負けなのよ!とにかく最後に勝てばいいの!」
「…貴方のおっしゃること、あの人と一緒ですよ。」
『楚に百敗しようと、最後に勝つのが漢であれば良い。』
 私の帷幄の軍師殿。今、どうしているのだろう。
 諦めない。俺はもう一度、韓王信を生贄に上げても、貴方にもう一度会いに行く。貴方に嫌われているのは百も承知で、ただ、絶対に無視はさせない。
「閼氏、貴方にお会いできただけで、ここへ参った甲斐がありました。」
 閼氏はひょいと肩をすくめて、もう一度馬を走らせた。
 漢に帰る前に、草原を満喫して行って。乗馬のお得意な貴方の思い姫が、この地をうらやむように。
 あの人がここを欲しいと思ったら、それこそとんでもないことになりますよ。決してそうは言わないけれど。

 話を付けてきた、と帰陣すると、御都合主義のなまず親父は抱きつかんばかりの様相で喜んだ。いや、実際に抱きついてくれたんだ、重い。おまけにあの髭。ついついくしゃみが出た。
「いやあ、陳平なら匈奴の閼氏を口説き落とすと思ったんだよな、なあ嬰よ。」
 どっ、どういう見通しだ!☆失敬な!
「何考えてるんですか、あんたは!俺だって公私の区別くらいきちんと付けます!」
「…ほんとー?」
 うっ。漢王の馬車係夏侯嬰の『疑いのまなざし』が……。
「皇帝と、樊噲さんとおいらで、あんたを差し向けて大丈夫だったかなあと心配してたんですよ。」
「俺だって冒頓単于に叩き切られるのはごめんです!」
「なあなあ、陳平、匈奴の閼氏は美人だったかね☆」
「…それが山の上に包囲されて、七日も絶食させられてる人間の台詞ですか。」
 子房がここにいないのは正解だったかもしれない……。途端に思い出したように、そーだ、腹減った、酒も飲みたい、とごねるなまず親父に溜息が出た。
「なあ、わしら、本当に長安に帰れるかのう……。」
「帰ります。絶対に。」
−思いつめたものは、手に入れるのよ!
 絶対に手に入れられないとは知っているけれど、せめて、私を貴方の視界に入れて。それだけのために、長安に帰りますから。
 閼氏が密使を送ってくれた。冒頓に献言してくれたのだそうだ。
 漢地を得ても、留まることはできない。しからば、無益に苦しめ合う必要がどこにあるのだ?
 地に足の着いた、常識的な意見だった。あの闊達な閼氏が率直に言ったなら、説得力があるだろう。
 頑張ってね。諦めちゃ、駄目よ。
 俺は山上から退却の潮を窺う。包囲陣の一角に隙がないか、樊噲と一緒にじろじろと見る。
「霧が、濃くなってきたね。」
 さしもの樊噲が、寒いねえ、と鼻をすすり上げた。寒いでは済まないのだ。士卒のニ割が凍傷で指を落としていると聞いている。俺のところにまで上がってきた数字だから、三割だと思っておいた方が確実だ。
 雪に氷に、霧。冷たくて、厳しくて、容赦がない。厚い厚い霧に遮られて視界も利かない。霧の向こうに何があるのか、全然読めない。往生している俺は、お得意の詭計を施す術も見つけられずに立ちすくむだけだ。
−貴方なら、出来る−
 何故か、最後に会ったあの日、俺の頬に触れて言ってくれたあの人の声を思い出した。
 ふい、と眼前の霧に切れ目が入った。その一角に、匈奴の騎兵がいなかった。
−逃げて!死なないで!−
 樊噲の袖を引く。樊噲も気付く。静かに、音もなく兵卒を往来させる。匈奴の陣の鼻先を掠めて、南へ南へ、兵卒や荷車を少々送り出す。敵は全く動かない。
−帰るのよ!−
 閼氏が肩を小突いてくれたような気がした。
−帰ってきて、死んじゃ、駄目だ!−
 あの強情者は、丸投げした責任のためだけにでも、そう呼んでくれるだろうか。
 濃い深い霧の中、私の進むべき道は手さぐりで探すしかない。それでも、進まなければ、命がない以上。
 お願い、私を導いて、私の雪の女王。
 
 立ちこめる深い霧の中を、整然と、粛々と、できる限りの物音を立てないように進む。列の一番外側にずらりと弓兵を配置して、歩兵や馬車を守らせる。矢は必要に応じて匈奴の兵に向かって放たれるだろう。
 その必要がないことを願うばかりではあるが。
 相変わらず皇帝の馬車を御している夏侯嬰も、突嗟に弓矢を取れるよう準備していた。
 匈奴の人士は、体を傷つけられることを嫌うのだ、と昔聞いたことがある。だから飛び道具を使えば、多少の距離は稼げる筈だ。
 早く逃げたいとごねる漢帝を黙らせて、徐行させた。静かに、車輪の音までも霧に飲みこまれるように。夏侯嬰の手綱捌きはさすがに玄人だった。あれなら安心して、俺は自分のことにかかずり合っていられる。
 みっともない退却行は、深い霧が包み隠してくれた。いつものことであるのだけれど。楚と戦っていたときも、負けてばかりだったのだし。
 最終的な勝利を図面に描いていたのが張子房だったから勝てただけで、軍としてみれば敵の方が優秀なのだ。昔も、そして今も。勘違いして、よそ様に手を出すような余力は初めからなかったんだよ、なまず親父殿。
 それでも、平城に辿りついて周勃と合流したときは、さすがにほっとした。その上、意外なことに長安からの援軍が待っていた。
「良かったあ、陳平さんがいるから何とか逃げてくるとは思ってたんだけど、心配したんだよお。何だかすごいところに行っちゃったって言うじゃない。」
 何日かぶりの食事に、全員が物も言わずにしこたま掻き込んだ後、周勃が顔を出した。俺は緊張が解けたせいか、自分の幕舎にへたり込んでいた。久し振りに仕事したもんなあ……。それに、今回は子房が側にいなかったのだし。
「よせって言ったのに、なまず親父があんなところに行くからだよ。ああ、ひどい目に遭った。」
「うん。長安にさ、灌嬰が前線報告を飛ばしたらしいんだけどね、そしたら夜昼次いで急使が帰ってきてさ。援軍送ったから連れ戻せって焦ってて、それで灌嬰も勃も心配したんですよ。」
 意外だな、と首を傾げたが。周勃が声を落とした。
「ってことになってるんだけどね。前線報告より先に陛下が山に行ったって聞いた時点で、子房殿が太后と相国に援軍の打診をしたみたいだよ。」
 帷幄の軍師の打診なら、決定に等しい。
 やっぱり、かなわないな。あの人にはこの敗北が読めていたのか。
「あんたがいるから陛下は無事だろうけれど、何しろどういう逃げ方をするか予測がつかないから派兵しておけって。こんなことならついて行けば良かったって、相当焦ってたって亜夫が言ってた。あ、うちの亜夫、子房殿のとこの不疑君と仲良くしてるんで、聞いたみたい。」
「そりゃあ、詭計の策士が手の内予測されたら立つ瀬がないだろーよ、周勃ちゃん。それより亜夫君、もしかして来たの?」
「援軍と一緒にね。こんな時に来なくても良さそうなもんですけどね。」
「同感だね。ま、せいぜい親子で楽しく過ごしなよ。」
「やなこったって言ってますよ。生意気に。灌嬰と一緒の方がいいんですってさ。」
「お、生意気。」
 せっかくだから樊噲誘って飲みましょうよ、と周勃が言い、ああいいね、と俺が言う。全ては普段のとおりで、帰ってきたんだな、と思う。
 帰ってゆくのだ、あの空疎な長安の日常に。
−諦めたら絶対に負けなのよ!−
 いっそのこと、あの人を引きずり出すためには、派手に大敗してやる方がいいのかもしれないな、と微かに思った。あのなまず親父が危なくなれば、あの人はどうやらついてくる気になるらしいから。
 あんな奴のために、と相当面白くなかったので、結局酒に逃避した。
 雪と氷で寒い寒い匈奴の地には、他に自分を暖めてくれるものがないのだから。
 
 あの人は私を視界に入れてはくれない。責任を丸投げして、いざという時は劉邦と漢を何とかしろと命じるだけ命じて、姿を隠した雪の女王だった。遠い星のように追いつけない、神韻縹渺たる帷幄の軍師、張子房という人は。
 諦めたら駄目よ。
 そう言ってくれた北の女王、匈奴の閼氏の方が余程優しかったですよ。そうあの人に伝える手だては、この遠い北辺の地ではない。いや、長安に帰っても、私と貴方との間には遠い遠い距離がある。穏和な仮面の下に隠された軍師の心を読む術は、私にはない。
 霧に閉ざされ、包囲された山の上に一人で立っているように、絶望的な物思いは晴れずに残っている。それでも私を導くのはあの強情者の一言だった。

 貴方には、出来る。貴公が死ぬのは望まない。

 貴方はそうして、私を縛り続けるのですね。会いにも行けないほど、遠い天の高みから。だから、私は絶対死にません。たとえ貴方に嫌がられても、嫌われていても、もう一度生きて貴方の元に帰りつくために。




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お題シリーズ『遥か彼方』。地理的に彼方です。(笑)僻地とも言います。(笑)いやあ、もっとドライになるはずだったのだが、語り手が陳平だからねえ。閼氏が好きです。もしかして豊麗に似てるんだろうか?ということは置いといて。あの交渉場面、陳平の語り口は『口説き文句と紙一重』を目指して書いていたのだが、上手く行っただろうか?それにしても、何かにつけてしぼちゃんを連想する陳平、当人も認める通りの末期症状です。(笑)周亜夫君は別の話でもちらちらと出てきていますが、周勃の息子です。タイトルは『ドン・カルロ』からフェリUのアリア。そうっ、『彼女は私を愛したことがない〜一人寂しく眠ろう』(笑)。だから、もー少しやさぐれるはずだったのが、閼氏の応援で陳平はまた暴走するし。この話、B面があります。

いんでっくすへ