| 「食え!」 「嫌だ!」 この掛け合いが陣中に響き渡って、もうしばらくになる。
「また食べないと言ってるんですか、あの人は。」 ほとほと手を焼いた。手元には目下の問題軍師からの、何の問題もない流麗な手蹟がある。軍の移動に伴っての補給に関する用件だった。目の前に座っているのは、古馴染みの曹参である。元々文官だった筈なのに、何故か戦場で扱き使われ、おまけに順応してしまった、今は将軍である。かつての部下の報告に、げっそりめげてしまった。 「仙人修行も結構なんですがね。子房殿はあれで相当頑固だから、一旦食べないと言い出すと、後が……。」 その後は判っている。間違いなく病気を拾うか、過労になるかして倒れて、全快しない内にまた動き始めて更にこじらせるという悪循環にはまるのだ。 それでなくとも丈夫な体ではなかろうに、と呆れ果てて声も出ない。曹参も、 「頭のいい人ほど、妙なものに凝るってのは本当ですね。」 とかぶりを振っていた。 「誰か、口でもこじ開けて物を突っ込んでやればいいんです。漢王なんかお得意でしょうが。」 とんでもないことだが、そこで曹参がにたりと笑った。 「あ、やってます。札付の新入りが。」 「うわ、本当にやったんですか…札付のって?」 「陳平ですよ。」 「…子房殿も可哀想に。」 さしもの私も同情した。葬式屋周勃が、半泣きで私に愚痴りに来た男の名前なのだ。漢王にも愚痴ったが却下されたとか言ってたな。 『ひどいんですから!これまでに見捨てた主が魏王でしょ、項王でしょ、そいでもって義理の姉さんと通じたとかいう凶状持ちで、おまけにうちでも賄賂を取りまくってるんですよお!あんなの使うなんて信じられないーっ!』 うん…確かに……。 その男が子房殿の口を開けて物を突っ込んだ……。 目眩のしそうな展開だ。別段、私が子房殿と親しくしているわけではないが、あの育ちがいい優雅な人が屈指の札付に翻弄されていると聞くのはちょっと可哀想な気がする。 「私の所に来た時は、人当たりのいい美男というだけだったのですがねえ。」 「奴の取得は顔だけです。根性は最悪。」 曹参の毒舌が、生鵠を射ているような気がする……。 そういうわけで、陳平殿の印象は『子房殿の口に物を突っ込む男』だったのだ。当人に会う前も、そして会ってからも。 「…で、また食べないと言い張ってるわけですね。」 深く深く溜息をついた護軍中尉は、子育てに疲れた父親よろしくという体でがっくりとうなだれた。 「はあ…お子様化してしまった上に、拗ねるしむくれるし、口も利いてくれないし、ぶたれるし暴れるし、手の付けようがありません。」 子房殿が時々錯乱した挙句に、幼児化するという話を聞いただけで仰天したのだが、その相談を持ちかけてくるというのがもっと凄いと思う。それにしても、良くぞそこまで貴方になつきましたね、と言うと、引きつった顔で笑っていた。仔細はあるが、とても言えるような話ではなさそうだ。それで親代わり…子房殿も、返す返すも気の毒にと思ってしまう。 「ちゃんと食事は摂らないといけませんよ、子房殿。」 幕舎の隅にある寝台に転がった、布の固まりに向かって呼びかける。そこに丸まっているらしいのだが、ついぞ出てこない。 「ほら、蕭何殿も言ってるだろうが!ちゃんと食え!」 軍師を怒鳴りつける護軍中尉…周勃が嫌がっていたのが判る気がした。さすがは札付。ずかずかと近寄って、あわわ、上掛けを引き剥ぐなんて、そんな手荒な。 「こら、ぶんむくれてないで出て来い!」 「やあだ!」 ばしっ☆陳平殿は顔を抑えてうずくまり、再び布の固まりはころりと転がった。私は為す術もなく、あんぐりと口を開けて成り行きを見ているばかりである。 「っつー……。子房、お前少し手加減しろっ!」 布の固まりに向かって叫ぶ護軍中尉であった。くすくすと布の固まりが笑って…笑った?あの穏やかな顔を崩さない子房殿が…えーと…『やあだ』…えーとえーと……。混乱。 「蕭何殿っ!貴方、まともな子育ての経験がおありでしょう、こんな場合はどうすればいいんです!」 必死に聞いて来る札付の若い策士が、私には心底怖かった……。 「はい、あーん。」 「あーん。」 ぱかっと口を開けて、匙に掬った羹を飲み込む。これにて一件落着と言いたいのだが、どこも落着していない所が頭痛を誘う。 どこの世界に、同僚の膝に座って食事を食べさせてもらう軍師がいるのだっ?!大体陳平殿も陳平殿だっ、少しはこの状況の異常さを気にしなさいっ!…って、羹を吹き冷ましてやれと、誰が言いました?脱力。 それは、小さい頃は私が匙を持って食べさせてやったりもしましたが、とは教えたのだが。だが、子房殿が一体幾つだと思っているんです! それにしても。あの誰にも距離を置いた付き合い方しかしない子房殿が、良くぞここまでなついたものだと思う。一時的な発作のせいだ、と陳平殿は言っていたが、それでも子房殿はこの札付と言われた男に思う存分我がままを通しているように見えた。そして、彼も。 手を変え品を変え、何とかして子房殿に食事を摂らせようとしていた護軍中尉が、言われるほどの悪党には見えなかった。童顔のせいもあってか、可愛らしくすら見えたのだ。 匙を運ぶ彼の表情は、蕩けそうなほど甘かった。そして、子房殿のうっとりとしたあどけない表情。 駄目だ…異常慣れしてきそうな気がする……。 げほん、と咳払いして、釘を刺しておくことにした。 「あの、陳平殿。くれぐれも、子房殿が男性であることをお忘れなく。」 「違うんです。」 「は?」 口を開けた私に、心底済まなさそうな顔で陳平殿は爆弾発言を飛ばした。 「女の子なんです、この子。あのう…確認しました。」 目眩がする……。 そこへ、更に混乱を煽るような面子がやって来たものだ。私が来ていると聞きつけたらしい漢王と寄りにもよって周勃が、幕舎の中にやって来た。 「あ、しぼちゃんが小さくなってる。可愛いのう。」 どうやら、漢王は全てを知っているらしい…だったら、もう少し頓着して欲しい……。 一方周勃は、きょとんとして、この異常な光景を見つめている。 「あ、なまずのおじさん。」 子房殿……。がっくりと頭を抱える漢王。その気持ちは良く……。 「しぼちゃーん。わしはなまずのおじさんじゃなくて、劉邦おじさんなんだよ。漢王様で偉いんだぞお。」 何かが違うーっ! 「子房殿、こんな危ない人の所にいちゃいけませんよお。」 周勃の方が正論を吐いている気がするのは気のせいか?陳平殿の顔が引きつったが、彼が危険だというのには私も或る意味同感だ。確認したって…うちの子供の側には絶対に寄せないでおこう。 「あぶなくないよお?」 「危ないよお。だって、このおにーさん、あちこちで…むぐぐぐ。」 「はいっ、周勃おしまいっ。それ以上は青少年の教育に良くないからっ、よしましょう!」 慌てて周勃の口を塞いだ陳平殿である。苦笑した漢王が、 「陳平が一番教育に悪かろうが。」 と突っ込んだ。確かに。 「陳平、きょーいくにわるいの?」 きょとん、とした顔で護軍中尉を見上げる子房殿。うん、確かに可愛いが…早く正気に戻ってくれなければ、漢も相当危ないのだが……。髪の毛を撫ぜて至福の表情をしながら、陳平殿が、 「いーや、あっちのおじさんの方が危ないから気を付けようね、しぼちゃん。」 とのたまった。 「お前なんぞに言われたくないわいっ!」 「ほーお、それじゃあこないだ酒場で引っ掛けた女性のこと、夫人にばらしてもいいんですかね。」 「脅す気かーっ!」 「ほらね、あーゆー人に付いて行っちゃ危ないんだからね。陳平と一緒でなきゃ、遊びに出ちゃ駄目だよ☆」 「陳平殿っ!」 あああ、沛にいた頃からこの軍はおかしいと思っていたけれど、今や常識はどこにあるのだ、常識は!子房殿がいる間は軍規粛然として、私がいなくても助かると思っていたのにーっ! 「貴方も漢王も子房殿を何だと思ってるんですか!そういう歪んだ教育を施すのはよしなさい!女の子なら女の子らしく、人目に触れないようにしてやるのが先決でしょうが!それを滅多矢鱈とおもちゃにして、子房殿が可哀想だと思わないんですか!」 一喝すると、悪のりしていた二人が黙った。陳平殿はしゅん、としてしまったので、私もいささか言い過ぎたかと反省した。それでも、正気に戻った子房殿がこの惨状を知ったら、首でも吊りかねない。 くいっ、と袖を引かれた。子房殿の大きな黒い眼が私をじいっと見つめていた。 「蕭何どの、陳平、あんまりおこらないであげて。」 「子房殿?」 「りょうがね、ちゃんとごはんたべなかったからいけないの。陳平はね、わるくないの。だからおこっちゃいや。」 これは…何と言えばいいのでしょう? 「蕭何どの、おこっちゃだめ。りょう、ちゃんとごはんたべるから。…たべたくないけど、がんばるから。」 「いい子ですね、子房殿は。」 つやつやした髪の毛を撫でてやると、ようやく笑ってくれた。私の方は、全く髻まで解いてしまって、と陳平殿を睨んでしまった。もっとも陳平殿ときたら、感激してしまって子房殿の顔以外眼中になかったのだけれども。 何だか、おかしくなってきた。 陰険の何のと散々言われてきた陳平殿がこれなのだ。皆が、彼は漢軍に仇を為す、と警戒しているけれどもそれはないだろう。あの人一倍敏感な子房殿がなついた人だ。誰も寄せないあの人が、側に寄せた人なのだ。それに、と笑ってしまう。あの蕩けそうな顔ときたら、『子房殿が可愛くて可愛くてたまらない』と大書してある。子房殿が、彼の『しぼちゃん』が泣くようなことはしないに違いない。 何故か、それは確信できた。 「と、いうわけで陳平殿。」 ぎくりとして札付護軍中尉が顔を上げた。 「貴方一人では心許ありません。長安の父にも近況を報告しなさい。貴方に女の子を預けるなんて、危なっかしくてたまりませんから。」 仕方ない。手伝ってやるとしますか。 「あっ、わしもっ、わしもしぼちゃんの面倒見る!」 身を乗り出した漢王を、べしっ、と周勃が叩いた。 「駄目ですっ、あんただって陳平さんと同じぐらい危ないじゃありませんかっ。蕭何殿、安心してくださいね。僕と樊噲でしっかり見張っておきますからね!」 「ひでえや周勃!」 …札付二人が異口同音に叫び、子房殿は華やかな笑い声を上げた。陳平殿がああなったのも、判る気がする。 あんなに臆面もなく甘えきってくれる子供もそうそういませんよ、陳平殿。 「はい、あーん。」 「あーん。」 「ずるいぞ、陳平、わしにもやらせろっ!」 「なまずのおじさん、おひげごしょごしょするからやだっ!りょう、蕭何どののおひざにいくのっ!」 ごそごそと這い上がって、陳平殿に向かって、かぱっと口を開けた。 何だか、熱愛中の夫婦にも見えるのだが…正気の子房殿に言ったら、怒るだろうな。多分。 「だから、断穀をしているだけなのです。ご案じなさらないよう。」 当然ながら、昨日の面影はない。見慣れた頭脳明晰な軍師が、とてもまともな説明をしてくれた。昨日のことを口にしたら憤死するような気がする。 「断穀とおっしゃっても…漢王以下、皆がお体を案じておりましたよ。」 嘘ではない、嘘では。付いて来た曹参が、面白がってにたにた笑っていた。周勃辺りから話を仕入れたのか、今朝になると私の所に真偽を確かめに押しかけたのである。 「元々私は食が細いので、心配されるほどのことではないのですよ。漢王にも何度も申し上げましたが、どうも判っては頂けないようですね。」 静かに首を振る様子を見ていると、これが昨日『なまずのおじさん』を連発していた同一人物かと思ってしまう。子房殿を理解しようというのは、相当な覚悟が要るのではないだろうか。 彼は、きっと覚悟を決めたのだろうな。 童顔の札付を少しばかり思い出し、楽しくなった。 「護軍中尉がやたらに気にしていましたが。」 嬉しそうに言うものじゃありません。曹参を肘でつついても、全くお構いなし。子房殿がぴくりと眉を寄せた。いかにも嫌そうに。曹参、だから嬉しそうな顔をするのは陳平殿に失礼です。 「彼の知ったことではないでしょう。」 …その台詞、あの人が聞いたら傷つきますよ。だから曹参、我が意を得たりと頷くんじゃありません。いや、曹参のことだから、さり気なーく陳平殿の耳に入れに走るのかもしれない……。かつての部下ながら、何というのか、かんというのか、うーん。 「とにかく、私は自分の生活はきちんと自分で調整しておりますから。」 「あの、子房殿。何か、お好きなものなんか、ありますか。」 私の問い掛けが意外だったらしく、二三度瞬きをした。この間まで育ちの良い美男は違うと思っていたものが…昨日の陳平殿の爆弾発言ですからねえ……。 「好きなものですか…特にこれといって思いつかないのですが。あ、病中に時々葛を溶いて飲むのは好きですけれども。」 それは好物というのだろうか。薬の流れなんじゃあ……。 「本当に、食が細いんですねえ。じゃあ、食道楽ではなく、着道楽なのですか。」 「どう見えますか?」 ゆったりとした微笑みで、紛らわされてしまった。 「葛湯って、好物になるんですか?」 唸って天を仰いだのは、かの護軍中尉である。折角聞いたので、長安に帰る前、教えてあげようと思ったのだが、どうも余計な悩みを増やしてしまった気もしないことはない。 「毎日葛湯を飲ませたら、また殴られるよな、絶対……。」 とぶつぶつ呟いているので、 「そんなに殴られたんですか、貴方。」 と聞いてみた。返答に窮した顔が全ての答えである。この人も、全く。 「何をそんなに怒らせたんですか。あの辛抱強い人に始終ぶたれているんじゃ、漢軍で生活するのは大変ですよ。」 「誰が辛抱強いって?…いえ、あれで子房殿は相当短気で……。」 「誰が短気だ、護軍中尉。」 硬直した陳平殿に氷のような声を投げつけてから、ゆったりとした微笑みで私に礼をしてくれた。軍師殿は相変わらず優雅な方ですねえ。まあ、この人が始皇帝を鉄槌で潰してやろうとした元凶の訳ですから、人は見掛けによらないのですが。 …そーか、この人が短気で手が早くても、ある意味不思議はないんですよね……。 「補給と糧食の件で、また無理を申し上げるとと思いますが、どうぞよろしくお願い致します。」 「いえ、こちらこそ。貴方の軍略だけが唯一の頼みです。」 お互いに丁重な礼を交わして、そつなく別れていたのだ。これまでは。軍師殿は近付きづらい方だったから。 私は、前よりもこの人が好きになったかもしれない。 「蕭何殿?」 と首を傾げる、軍略の天才が。 「護軍中尉がお食事を勧めるときは、少しくらい聞いてあげてくださいね。」 子房殿の顔が引きつり、陳平殿が我が意を得たり、と頷いた。うわ、子房殿のあの目つき…後で陳平殿、ぶたれるんじゃないだろうか。 そんな子房殿は、初めて見たな。 「今度お会いする時は、ご一緒にゆっくり食事でもしたいものです。」 と誘うと、 「ええ、是非。」 と受けてくれた。 「何か好物を作ってくだされば、取り寄せてお送りしますよ。」 「では、考えてみましょうか。」 「是非に。」 でも。 車が走り出してから、私はちらと思ったのだ。 あの人の好物は、もしかして、誰かに食べさせてもらえるもの全部なのじゃないのかな、と。 「はい、あーんして。」 「あーん。」
お題シリーズ、「たべもの」。(笑)しぼちゃんが物を食わないので陳平が困るというのは、『Winter Starlight』にも書いたんだが、そのお笑いバージョンです。蕭何が切れた……。何だか、劉邦がどんどん変なおじさん路線を歩いています。しぼちゃんはどんどん退行していくし。その内、宋瑞と陳平で、お子様のお守話を書いてみてもいいかもしれません。そーいや、周瑜んとこの欠食児童もいたぞ。周勃は「何故か異次元」で定着してしまったし。彼、陳平嫌いだったのに、丞相でコンビを組まされるとは、お気の毒様、です。(お題シリーズで書いたので、本編が進み次第出す予定です)実は、これがお題シリーズで初めて書いた代物でした。漢軍の崩壊はこの一歩から…というつもりはありませんが、これでしぼちゃんのお子様化が決定的になったかと。彼女は暗いので、私としては「ちっちゃいしぼちゃん」(つまりは狂気のしぼちゃん)を書いてるほうが好きですね。 |