| 日の上る前から起きて、貧しい朝飯の支度をする。畑へ行ってから洗濯をして、近所で油も売って、合間に子守りをして、一息いれたら昼飯の支度だ。野良から鍬を担いで帰ってきた亭主が昼飯を掻き込むと、子供を背負って一緒に畑へ行く。夕方、一足先に帰って洗濯を取りこみ、夕飯の支度をして、明かりを使わないように早く寝る。 毎日毎日、この繰り返し。子供の手を引くようになり、その子供らの数が六七人に増え、その子等がまた嫁を迎えたり嫁に行ったりして減ってゆき、それでも毎日、この繰り返し。退屈で、いとおしい、繰り返し。 あたしはこれで、満足だった。その男の名前を聞くまでは。 この村があの男のものになったと知って、あたしは若かった時分に引き戻された。あの男が『義弟』だった頃の、忘れてしまっていた時分に。
今の亭主は二度目の亭主だ。甲斐性はあるし、まめだし、貧乏だが、まあ小作にしては楽なものだ。器も揃っているし、祭りになれば一人か二人は新しい服を着られる程度の暮らしはできた。亭主は旦那さんや顔役さんとも仲良くしてくれたから、お上に入れる年貢なんかは手心を加えてもらったらしいんだ。 前に嫁いだ家はがらんどうだった。寝る時のむしろにだって穴が開いているような凄まじさで、貧相な亭主が痩地をかりかりと引っ掻いて暮らしていた。あたしの着物も継ぎ当てだらけで、継ぎ当て布もあるかないか怪しいもんだった。 あの男は、亭主の弟だった。兄貴が痩地をかりかり引っ掻いてる間、草一本抜こうともしなかった。あたしは腹が立った。あたしは腹が痛かろうと、足が棒のようだろうと、容赦なく扱き使われたのだ。それなのに、亭主は自分の弟には何もさせず、弟も不精者だった。 許せなかった。 あたしだって、好きでこんな家に嫁いだわけじゃない。陳伯は働き者だ、真面目な男だ、と親が嫁入り話を持ってきたから行っただけだ。でなきゃ、誰があんな貧相な男と、それ以上に貧相な家に行くもんか。家というより、潰れかけた小屋だ。戸も立てつけられないようなひどい小屋で、申し訳程度に破れむしろがぶら下がっていた。 あたしだって、嫁に来たんだ。あたしの働きで、多少はましな暮らしにしようと思った。そうじゃないか、それが甲斐性ってもんだろう。なのに、亭主にはその気が全然なかった。何て家に来ちまったんだろうって、思った。 亭主が欲しかったのは、嫁じゃなくて、下働きだった。あたしが値切ってためた金も、僅かばかりの畑からの上がりも、みんな弟に注ぎ込んでいた。あたしには、着物の一枚も買ってくれないくせ、弟に学問をさせていた。水呑み百姓の倅が学問してどうするんだ?なのに、弟は呑気な顔をして学問を続け、一切畑には出ず、兄貴は兄貴で弟をお貴族か何かのように奉っていた。要するに、あたしはあの家で一番位が下だった。普通、兄嫁様と敬ってもらえるはずの、あたしが。 敬いはしたのだ。あの弟は、嫂さん嫂さん、とやけに親しくくっついてきた。訳のわからない字の話をしたがるし、手伝うでもないのに、かまどの隣に居座って延々と喋り続けているし、 人前ではいつもあたしを先に立てた。でも、あの弟の賢そうな顔を見ていると、何だか学のないあたしを馬鹿にしているとしか思えなかった。出ていけと怒鳴ると、へらりと笑って部屋に戻るところなんか、後ろから熱い鍋を投げつけてやりたいほど腹が立った。あの役立たずには、一人前に部屋があるのだ。食えもしない木っ端の切れ端を山積みにした、書とかいう代物をかき集めていた。あたしと亭主は土間にぎゅう詰めだった。いびきがうるさい上に、貧相で年も離れた、変に弟を溺愛するこの亭主から、あたしは早く逃げ出したかった。無理だと知ってはいたのだけれど。あたしの家も貧乏だったから、どうせ戻れはしなかった。 痩せ地をかりかりと引っ掻いて、貧弱な菜っ葉を育てて、亭主はあたしを孕ませることもできなかった。子供も産めないのかい、と近所の目が険しくなった。嫁に来る前より痩せちまったこの体で、どうしたら子なんか産めるんだと、あたしは泣いた。 お前は出来がいいから、きっと偉くなるから、と兄貴が弟を持ち上げる。うん、と弟はふてぶてしく頷いて、しょうもない木っ端をぐるぐる巻きにした書と一緒に部屋にこもる。時に友達まで連れて来て、酒を呑んだりしこたま食べたりしていった。 他人様にしこたま食わせるほどの物が、うちにあるっていうのかい! 堪忍袋の緒が切れた。 次の日、遅くまで起きてこない弟の朝飯代わりに、櫃の中に糠ばかり、ぎっしり仕込んでやった。あたしは何食わぬ顔をして、そのまま畑へ出た。 昼の支度に帰ってみると、櫃の中は綺麗になっていて、弟が食い散らした皿が井戸端に干してあった。朝飯は、と兄貴が聞き、旨かったよ、と弟が答えた。 旨いというなら、続けてやろう。あたしは弟に糠しか食わせなくなった。弟は何も言わずに、しこたま糠を食っていた。それでも図体ばかりは一丁前に大きくなったので、腹が立った。近所から、御立派な弟さんですね、などと言われると、更に腹が立った。 何を食べればあんな立派になれるんですか。糠ですよ。糠だけですよ。 あらいやだ、と井戸端で笑われた。そうだ、あんな奴、井戸端の笑い者になるがいい。 素直に謝れば麦飯を出してやらないこともなかったが。畑の手伝いをすれば、それなりに兄貴と同じ物を出してやろうとも思ったが。 あの弟は、ひたすら本を読み続け、役に立たない友達を増やし続けた。あたしは糠を出し続け、ぼんくらな兄貴は何も知らないままだった。そしてあたしたちは貧乏なままだった。 いつかきっと平が出世をしたら。亭主の夢物語はうんざりで、あたしは聞く気がしなかったし、亭主も弟としか話をしなかった。弟は子供のような空約束を繰り返し、嫂さんにも必ず恩は返すから、と繰り返した。誰が当てに出来るんだ、そんな約束。 あたしは一枚の着物も、一人の子供もこさえてもらったことはないのに。 あたしはこの毎日が嫌で嫌で、それだけしか考えていなかった。嫌で嫌で、とうとう涙が出た。 何のために嫁になんか来てしまったんだろう。あたしはこのまま楽しい目も見られずに、貧乏で苦労したまま死んじゃうんじゃないだろうか。子供の一人も産めなかったと後ろ指をさされながら、ばあさんになるんじゃないだろうか。 悲しくて悲しくて、誰もいない畑に行って、鍬を振りながらただ泣いた。何故あの時亭主がいなかったのか、覚えていない。婚家が嫌で、実家も嫌で、亭主も嫌で、自分も嫌で、ただ泣いた。何時の間にか、畑の端に来ていた。鍬を置いて、膝を折って、また泣いた。 後ろからそうっと抱きしめられたのは、その時だった。 「泣かないで。」 不安気なこの声を、よく知っていた。耳の横で囁かれた声は、こんなに優しかっただろうか。 「お願いだから、泣かないで。俺に出来ることなら、何でもするから、嫂さん、お願い、泣かないで。」 いつ来たの。いつから見ていたの。あたしの声は出てこない。吐息が白くなって、夕焼けの中に溶けた。 どうして来たの。あんたが畑を手伝えば、あたしたちの暮らしは良くなって、あんたも糠以外のものを食べられるんだよ。あたしは、そう言うべきだったのだ。でもあたしの声は出てこなかった。じわりと伝わってくる暖かさに、不意を突かれて、『弟』の為すに任せてしまった。 ぽたり、と涙が弟の手に落ちて、弟はあたしを自分の方へ向かせた。 「ね、泣かないで。」 この子の瞳は、こんなに綺麗だったのか。まだ、幼さすら残しているような、可愛い顔立ちの弟は、しかし界隈で名の知られた青年だった。勉強をしている変り種、として。弟は、すうっと目を細めると、そのままあたしに顔を近付けた。 どうして、そうなったのか、解らない。 「好きなんだ、嫂さんのこと。だから、俺のこと、嫌いにならないで。」 どうして、こうなったのか、解らない。 「糠ばっかり食べてもいいから、俺のこと、もう少し好きになって。弟にして。」 嫂を組み敷いている『弟』を、そうと呼べるものなの? もう、あんたを『弟』とは呼べない。決して、呼べない。これは−。 「寂しくさせないから、俺、きっと偉くなって嫂さんのことも幸せにするから、もう少し待って。」 「どうして……。」 「何?」 「どうして、あんたじゃなかったのよ……。」 「何が?」 あたしの亭主は、どうしてあんたじゃなかったの。あんたが『弟』じゃなくて亭主なら、あたしはきっとあんたを好いていたのだろうに。 「嫂さん、お願い、そんな顔しないで。」 おろおろとしながら、口付けで涙を拭う不届きな弟を、あたしは止めなかった。亭主が見ればいいと思って、開き直って、二人とも叩き出されてしまえばいいと思い切って、拒まなかった。 あたしを好きだ、なんて言ったのは、この不届き者一人だけだった。 どうして、どうして、どうして。 あたしは、離縁されるだろう。呆然と考えて、この弟はそれで復讐するつもりなのかと考えて、それもいいかと投げやりになった。 もう、元には戻れない。あたしは義弟を受け入れてしまって、とうに後ろ指を差される身になり下がってしまっていた。 「ね、嫂さん、寂しくないから、ずっと、側にいるから。」 だから、泣かないで。あたしに身繕いをさせながら、真顔で言い続けるこの男は、本当は頭が弱いんじゃなかろうか、と思った。 あたしは不義を働いた女として、家を出される。不幸にしたのはあんた。あんたにあたしを幸せになんか、できっこない。畑を手伝わないあんたなんか、あたしの世界の人間じゃないもの。 あたしは糠を出し続け、弟の悪口を言いつづけ、弟はものぐさを続け、黙って糠を食べ続け、毎日は変りなく過ぎていった。 頓狂な弟は、それでも名前ばかり界隈に知られて、富豪の家と縁を結ぶことになった。そしてこの小屋を出て行った。 時々顔を見に来るからね。 どうすれば、あんなに屈託なく出来るものか。貰った晴着を臆面もなく着こなし、明るく手を振った弟に、けれど、あたしは二度と会わなかった。予測通り、あたしは離縁された。亭主は、弟に意地悪をしたからだと言っていた。理由がどうあれ、あたしもこの亭主に未練はなかったから、文句なく家を出た。家を出て、実家に戻るとき、鼻歌が口をついた。 しばらくしてから今の亭主と縁を結んで、今度は沢山子供も出来た。そうして、あたしは幸せになった。筈だった。 あの『弟』が、大出世してこの村を治める列侯になって戻ってくるまでは。 華やかな行列が行き過ぎる。馬の飾りが夕日を浴びてきらきら光る。両手にぶら下がる小さい子たちを連れて、あたしは、列侯の行列を他人として見送る。 あの貧相な前の亭主はおこぼれに預かって、猿みたいな体に、やっぱり似合わない派手な衣装を着込んでいるのだろうか。弟だけが生き甲斐の男だったから、夢が叶ったとでも言うのだろうか。 嫂さん。 鮮やかに甦る、あの夕焼けの景色。あの子の声。 嫂さんをきっと幸せにするから、もう少し待って。 鮮やかに甦る、あの温もり。 あたしは、待たなかった。あたしを幸せにしたのは、別の人。あんたとは縁もゆかりもない、別の人。 あの美々しい馬車の中に、あんたがいるのね。糠ばかり食わせたあんたが。今じゃ糠なんて、見向きもしないあんたが。 どうして、あんたじゃなかったのかしらね。 嫂さん、俺のこと、好きになって。 鮮やかに聞こえる、あの日の声。 嫂さん、泣かないで。 「かあちゃん、泣かないで。」 ちびに言われて、あたしは涙に気が付いた。若い娘でもあるまいに。馬車の貴人も、若い男でもあるまいに。それでも、あたしの中に残る面影は、あの憎たらしくて癪に触って、妙に人懐っこかった若い弟の姿。 どうして、『弟』だったの。 「かあちゃん、泣かないで、俺がいるよ。」 今、あたしの顔を心配そうに見上げるのは、うちのちび達。ぐりぐりと頭を撫でて笑ってやれば、汚い顔で照れたように笑う、あたしの子供達。 あんたは幸せ?あたしは幸せになったから、気にすることはないのよ。 嫂さん、ずっと側にいるから。 ええ、あんたはずっと、あたしの中で鮮やかなまんま、居座ってしまったのよ。ただ一度の過ちの記憶と共に。 さようなら、あたしのたった一人の『弟』。 嫂さん、俺のこと、好きになって。 好きだったのよ、ずっと。
お題シリーズ『鮮やかに』。はい、陳平の嫂さんでした。『dreamed』や『Winter』の最初の方で触れてある、陳平のスキャンダルです。このネタしっかり『史記』に載ってまして、だからといっては妙だが最初陳平のキャラクターを作るのに四苦八苦したという。嫂さんいい人過ぎる…だから陳平がぐれずに、あんなのほほんになってしまったのか?うちの陳平はだんだん、やたらと人懐こくなっていくが。弟いじめは蘇秦のケースと共通ですが、陳平の場合は、何故に嫂さんに手を出したんでしょう。しぼちゃんなら鍬で頭を割っているかもしれません。(笑)そーゆーことばっかやってるから、人に嫌われるんだってばさ。に、しても、うちの陳平はどうしてこんなに年上の人を追い回すんでしょう。それも並々ならぬ執念で。(笑) |