「父上、なのですね。」
問い詰めると、彼は見たことのない鋭い視線を私に向けた。
病床の彼は、丞相で、友の父で、私の後見だった。それだけだった。
私もまた、震えていただろうか。あの人は、私の『父』は何一つ語らなかった。
父は彼に奇妙な遺言を託した。
『これはそなたの親の形見である。』
粗末な一本の簪を受け取ったときの彼の顔を忘れない。驚愕に眼を見開き、たちまちの内に眼を潤ませた丞相の姿を忘れない。あたふたと席を外した後ろ姿を忘れない。
彼は、父の葬儀で泣きもしなかった人だった。その彼に、もう一度畳みかける。
「父上、なのでしょう。」



Impossible Dream
-張不疑のエピローグ−


 丞相はしばらく黙っていたが、やがて盛大な溜息を付いた。
「若い者にはかなわんね。」
 その丞相は、髪こそ灰色になりかけていたが、十分に若かった。美人が好きだと内外で高言するだけあって、この屋敷にも美女がひしめいていた−いや、この病室にもついさっきまで美貌の侍女が四五人いたのだが、彼に侍するのを嫌がる素振りを見せる者はほとんどいなかった。若くて陽気で、楽しい人だった。
 彼はゆっくりと寝台に身を起こすと、
「どうしてまた、唐突にそんなことを思いついたものかな、不疑殿。」
と私を名で呼んだ。最初、襲爵した爵位のままに留侯、と呼んでいた彼は、いつしか私を名で呼ぶようになった。留侯、というと、父上のこととごっちゃになって…蒙録するとこんなものですな、と弁解していた。
「唐突でしょうか。今まで私が気付かなかったのが抜けていると思いますが。」
「滅相もない。貴方は賢い方だ。」
 人好きのする笑顔に、今日こそははぐらかされまい、と決める。この人は、私の親がただ一人警戒した方だったのだから。
「父の…張子房の蔵書を近頃整理していて、見つけたものがあります。」
 これで、私の目論見通りなら、貴方は私をはぐらかせないはずだ。そして丞相は、私を追い払いもせずに、取り出した布包みから現れる飴色の竹簡を見つめた。
「ご覧下さい。」
 渡されるまま、竹簡を開く彼の指が、微かに震えているように思った。

 父、張良の遺した蔵書が同じ筆蹟なのは、知っていた。私は、それを父の若い頃の粗雑な手だろうとばかり思っていた。何しろ、博学な人だった。子供にも近寄りがたい人だったが、穏やかで敬仰すべき人だった。父のことは敬愛していた。漢の軍師と、天才と、令名を欲しいままにした人を父にしていることが、子供心に嬉しかった。
 父は私達を十分可愛がってくれた。無論、溺愛したというには程遠いものがあったが、元々傍に人を近付けない父が傍らで書を教えてくれたり、私を見守っていてくれるだけでどことなく得意になれた。
「不疑の父上は立派な方だからなあ。うちの極道爺とは大違いだ。」
と羨ましがったのは友人の恢だった。恢は丞相の孫だった。目下襲爵の気兼ねも責任もない恢は、無作法な口を平気で叩き、私にはそれが格好良く思えた。本当は恢の方が年下だったのだが、彼は生意気な口を叩き続け、兄弟の少なかった私は共犯のようにそれを黙認した。
 陳家には沢山の女性がいた。皆一様に綺麗で、私達子供を可愛がって甘やかしてくれた。菓子やささやかなおもちゃを手土産に家に戻って父に見せると、穏やかな微笑を浮べて私達の戦利品を喜んでくれた。
「父上も一緒に食べましょうよ。」
 父は食の細い人だったが、子供に自分と同じことはさせなかった。時折仙道修行と称して穀類を取らなかったりもしたので、子供心に何か食べて欲しかった。父は、私達が進める駄菓子は拒まずに食べてくれた。飴玉や果物の砂糖掛けといったやたらに甘い菓子を並んで、良く食べた。
 父は時折丞相の話をしてくれた。丞相は偉い人−ついでに恢の『極道爺』−だとしか思っていなかった私は、父の語る陳丞相という人物に憧れた。
 布衣の身から、怜悧な頭脳だけを頼りに乱世を渡った人だと。若い頃は敵でさえ認めるほどの美男で、しかし美男であることを忘れさせるほどに奇抜で天才的な策士だったのだと。絶望的に包囲された城からの脱出を指揮したり、項羽の軍営に離間策を投げ入れたり、淮陰侯と戦って高祖に勝利をもたらしたり、胡軍と戦ったりする丞相の話を、父は時折、淡々としてくれた。父自身の軍功の話よりも、聞くことが多かったかもしれない。父は、多病だから自分はほとんど陣頭に立ったことがないと呟いていた。父がどれほど優れた軍師だったのかは、恢や宮廷の友達から聞き知ることのほうが多かった。
「不疑の父上みたいな方、いいなあ。」
と恢がぼやけば、
「恢だって、すごい祖父上を持ってるじゃないか。」
と私がなだめたものだ。もっとも、私が丞相の話をしても恢は、
「へえ、あの極道爺もたまには役に立つんだね。」
と生意気な口を叩き続けていたのだけれど。
 恢は良く家に私を呼んでくれたのだが、うちではほとんど友達を招かなかった。父が人との交際を最小限にしていたせいもあり、父が病床にあることも多くて憚ったせいもあった。滅多に出仕すらせずに、それでも宮廷関係者からは相当な尊敬を払われていた父のことは友達も良く知っており、無理にうちへ来ようとはしなかった。
 私があまりに恢のことを話し過ぎたためか、父が、呼んでおやり、と言ってくれたことがある。あの小生意気な恢が全身がちがちになって父に会ったのは滑稽ですらあった。
「り、りりりり、留侯には、お招き、ありがとう、ございます!」
 父は楽しげに微笑み、さらに固まった恢は拝礼ついでに机に頭をぶつけ、私達の爆笑を誘ったものだ。おやおや、と慌てることもなく父は恢のたんこぶを冷やしてやって、半べそをかいた恢と私と弟に戦の話を一渡り聞かせてくれてから、庭へ送り出してくれた。
 あの留侯に会った、というので恢は一躍子供社会の時の人となり、あちこちで父の話をして回るので、恥かしかった。何しろ恢の話では、神韻縹渺たる張子房の背中から後光か何かが出ていて、手を触れればどんな怪我でも治りかねない勢いだったのだ。仙人の父上を持つなんて、いいなあ、とまで言われた私は、父はまだ仙人じゃないと訂正して回る羽目になった。
「うちのくそ爺まで羨ましがったんだぞ。今度は連れてってくれ、だってさ。うちのくそ爺、悪党のくせに留侯にだけは頭上がらないんだって。すごいなあ、不疑の父上。」
という恢の言葉を伝えると、父は黙って首を振った。穏やかな笑顔で、
「丞相は、うちにはいらっしゃらない。」
と言った。お呼びしたい、とごねると、父は私を抱き寄せた。
「不疑、人は私を軍師と呼ぶ。つまりだ、私の知謀は丞相と同じほど危険だと、皆が知っているのだよ。韓信殿…淮陰侯の話をしてあげたことがあるね。淮陰侯は有能だった。だから、高祖や高后が恐れ、滅ぼされたのだ。智に秀でた丞相には、武に秀でた淮陰侯と同じ事が起こりうるのだよ。ましてや、私と関わっては、尚更危険だと目される。わかるね、お前のためにも、丞相や恢殿のためにも、丞相に来て頂いてはならないのだ。」
「父上、丞相に会えなくて、寂しいね。」
 父ははっとするほど美しい眼を見開いた。私は自分の父が美男だと思っていたので、丞相が美しいと言われてもいまいちぴんと来なかった。
「どうして、そのようなことを?」
「だって、父上と丞相は親友だったのでしょう。恢と僕みたいに。一緒に遊べないなんて、つまらないと思います。」
「…お前は、親御に似て優しいね。」
 私はそれを、『亡くなった母に似て』だと信じていた。
 父は様々な書を私達に読ませ、宮廷の学友達の知る以上の知識を私に授けてくれた。恢もそうだろう、と思ったら、この幼馴染みはとんでもないことを言い出した。
「うちの親父に学なんかあるかよ。畑で鍬振って、爺さんが出世したから自分がぼろ出しやしないかって、日々びくびくしてる駄目親父だぜ?字、読めないんだから。それは、じーさんはましだけどさ、あのくそ爺がそんな殊勝な玉かよ。留侯なんかと格が違うんだから、比べちゃ駄目駄目。あの駄目爺、こないだも弾劾されたんだぜ。太后様がかばってくれてるからいいようなものの、うちは皆びくびくものだよ。飲む・打つ・買う、だからなあ。博打はそれほどしないけど、昼間から美人に手を出して、家の中で酒壷抱えてごろごろしてるんだぜ?寄りたくないよ。俺はもっとまともな家の子になりたかったね。大体、一緒に妓楼に行こうって誘うんだぜ、うちの極道爺。勘弁してよ。」
 何故だろう。恢の語る丞相と、父の語る丞相は、同じ人に聞こえない。朝廷で見かける丞相は、気さくに挨拶をしてくれる友人の祖父以外のなんでもなく、恢が言うほどの悪党にも、父が語るほどの英傑にも、思えなかった。
 丞相と話してみたいと洩らしたら、恢は眼を剥いた。
「絶対よした方がいいと思うけどなあ。不疑、ひきつけを起こしてぶっ倒れても知らないよ。」
 結局、やめた。
 丞相と初めてまともに話をしたのは、父の葬儀の終わった晩だった。父は不思議な言葉を遺していた。
 丞相は必ずお前の後見をしてくださる。もし丞相が御助力を渋られるようなことがあれば、この小箱を渡して、一言半句違うことなく私がこう言ったと告げるように。つまり、『これはそなたの親の形見である』と。さすれば、留侯との交誼に免じて丞相は引き受けて下さろう。丞相は賢いから、必ず覚えておられる。
 不思議な父の遺言と小箱は、確かに丞相を動かした。箱の中に入っていた質素な簪を丞相が震える指で摘まみ上げ、目の前に翳した時、彼はその向こうに座っていた私など見てはいなかった。日頃は親しみ易い笑顔を浮べている人が、まじまじと大きな眼を見張り、厳しくすら見える表情を浮べた時、父の語っていた天才的な策士の話を思い出した。
 その眼に涙が浮ぶのを見て、二度驚いた。丞相は葬儀の場で泣かなかった方だった。声を掛けるのも憚られる中で、うろたえた私に、丞相は素早く礼式にかなった挨拶を述べてその場を外した。後見を引き受けてくださったとはいえ、私には驚きの方が大きかった。回廊を急いで遠ざかる足音が、父の死は異常なことだったのだ、と私に告げていた。呆然と座りこんだまま動けなかった私の元へ、恢がやってきて慰めてくれた。
「不疑を放ったらかして、何してるんだ、あの極道爺。客を放りだす阿呆がいるかよ、不疑はこれでも列侯なんだぜ。自分とこの餓鬼と一緒にするなよな。ごめんな、不疑。」
 私の代りに憤慨してくれた恢は、なおもぶつぶつ言い続けた。生意気で小憎らしい恢だったが、服喪中もしばしば様子見に顔を出してくれたのは彼だった。
 丞相は確かに私の後見をしてくださった。父が意図したよりも緻密な後見をして、朝廷での人付き合い、危険、天下の情勢、酒杯を巡らせながら全てを教えてくださった。父の話よりも、丞相の話は生気に富んでいて、時折眼を剥くほど汚い言葉をにこやかに口にしてみせた。そんな時の丞相は、親友の恢に良く似ていた。丞相は恢殿に似ています、と言うと、
「貴方は留侯に良く似ておられるのだが…話をしていると、留侯というよりは……。」
と苦笑していた。
「じゃあ、きっと母に似ているのだと思います。」
「母上。」
 きょとん、とした丞相は、それが父の同僚であることを忘れさせるほど若く見えた。まるで、恢の年上の兄でもあるかのように。
「…母上は、どんな方だったのかな。」
「私は母に会ったことがありません。私を産んで、すぐに亡くなったと父が申してておりました。父は側室も置きませんでしたし、時折恢殿が羨ましかったものです。母上や、姉上、妹君やおばさま達に囲まれて、可愛がられていましたから。」
「恢は貴方を羨んでいますよ、不疑殿。こんな札付き爺ではなく、留侯のように他人様に誇れる祖父が欲しかったとね。」
「丞相を祖父上に持つということは、誇らしいことと存じますが。少なくとも、私の父は丞相と淮陰侯以外の方を、あまり私の前で誉めたことはありません。あの父が認めた知者なのだ、と、幼い私は丞相に憧れたものでした。」
「…私なんぞに憧れてくださったのですか。」
「ええ。それに祖父君だけでなく恢には立派な父上がいらっしゃるし、母上もおられる。私には、幼い頃からの夢がありまして…お笑い下さい。父と、亡くなった母と、三人で、歩いてみたかった。もう、望んでも叶わぬ夢ですが、私は恢殿が本当に羨ましかったのですよ、丞相。」
 丞相は、眼を細めて私を見た。私はそれが、他愛のない若者をいとおしむ年長者の顔だと信じて疑わなかった。
「叶えば、良かったですね。」
 丞相の優しい声が、何故か私を安堵させた。
 恢の『極道爺』は弾劾されながらも丞相の地位に留まり、恋と快楽以外には何の仕事もしなかった。参朝すること自体相当稀で、時折見かけると頭を抱えてふらつく足で歩いていた。彼を取り囲む高官や従者が声高に説教しているのを見ることもあり、一度など恢が人前で喧嘩を仕掛けているのに出くわしたこともある。とにかく恢を引き離して、仮にも祖父上に衆目のあるところで食って掛かるなとたしなめたら、衆人監視の前で不行跡を恥じない不良爺に責があると反論された。俺の人生に口出しするな、とまで恢は言われたらしい。
 恢に会うため陳家に行くついでに挨拶をしていたので、あの頃の私は人より丞相に会っていたと思う。不疑の前でだけ格好付けてやがる、という恢の憎まれ口の通り、私と会うときの丞相には不行跡を感じさせる気配は一切なかった。
 高后が垂簾を執り、呂氏の幼児が次々と登極し、劉氏の皇族が滅ぼされていくのを、丞相は黙認した。高祖と共に戦っていた人々はそれを座視し、新たに朝廷に参画するようになった儒生や他の人々はそれを糾弾した。友人達の間にもいつしか不満が燻るようになった。
 何故呂氏を討たない。かつての功臣も爵禄に甘んじて、蒙録したのさ。
 恢はもう陳家のことを諦めて投げやりになっており、しばしばうちにやってきて父の遺した仙道の書を読みふけっていた。一度だけ、
「不疑、この書も父上の?」
と持ってきた。そうだと答えると、怪訝な顔をして、読み続けていた。何故仙道なのかと尋ねると、あの極道爺の評判が聞こえないように山奥に行きたいと嘆いた。私は山に入るのだけは思いとどまらせ、恢はうちに入り浸り、恢の父上には感謝された。恢の父上が言っていた。
「ここだけの話、恢は私の父に似たんだと思う。父上も若い頃、相当道術に凝ったそうだからね。先だって父の乱行を諌めてみたのだが、気と養生と房中術と錬丹の関係を講釈されて、ほうほうの体で逃げ出したよ。あの父上が理論武装していては、太刀打ちできないものだねえ。」
 丞相が、道術に凝っていたとは初耳だった。それならわかる。私の父も仙人修行をしたほど道学に造詣が深かったのだから、二人が親友になったのも理解できた。
 戦略と、道学。丞相と、留侯。
 丞相は 無為のままに情勢を看過するつもりだろう、と結論しかけたときに、私を引き戻したのは亡き父の声だった。
『丞相は策が成るまでは絶対に手の内を明かさない。敵に回すと恐ろしい方だ。彼を項籍の陣で見たときは、嫌な男が敵にいる、と思ったものだ。項籍ならば、彼を飼い殺しにしてくれると踏んだのだが、あの男を見損なっていた。あの男は項籍を見限って漢に付いた。丞相は、状況をきちんと把握して、計算している。無理なときは絶対に動かないが、一瞬の好機を捉えて、素早く動く。漢は、だから何度も彼に救われた。不疑、お前にはまだ良くわかるまいが、丞相は天才だ。だから、丞相の行動を、一々凡庸の物差しで図ろうとしないことだ。あの男が何を考えているのかは、私ですら読み切れなかったのだから。ただ、丞相はお前や漢の不為を計ることはないと、信ずることだよ、不疑。』
 丞相には、策があるかもしれない。打ち明けると、恢は眼を丸くして、その後猛烈に反駁し、平行線の議論を戦わせる羽目になった。
「じゃあ、賭けるか?不疑、勝算があるのか?」
 売り言葉に、私は買い言葉を返した。
「あるとも。私も張子房の息子だ。」
 恢は賭け物として父の道学の書を欲しがり、道学に興味のなかった私はそれを許した。
 高后が崩じ、その晩に丞相は兵を動かした。丞相が絳侯と手を結んでいたのも、絳侯が劉氏に荷担する貴族を結集していたのも、私達は知らなかった。高后が崩じた晩、宮廷に詰めていた私と弟の辟彊は丞相の使者を受け取った。
 左肩を脱いで、私の元へおいでなさい。子房殿が貴方を守っていますから。
 訳もわからず妙な指令に従った私は、流血の巷と駆け回る兵の混乱の中に、涼しい顔で立っている丞相を見つけた。丞相も、共にいた絳侯も、左の肩を脱いでいた。
「呂氏に荷担する者は右を、劉氏に与する者は左肩を脱げ!」
 あちこちで怒鳴られる声に、ようやく丞相の指示を悟った。絳侯が私の両肩を掴み、
「さすが軍師殿のお子!よういらっしゃいました!」
と満面の笑顔で揺さぶり、丞相は、
「私から離れずにおいでなさい、不疑殿。」
と差し招いた。近付くと、小声で呟いた。
「不疑殿、良く見ていなさい。これが貴方の親御の、最後の軍略です。」
 父の計だと、彼は告げた。絳侯は鮮やかに朝廷を制圧し、丞相は慇懃無礼に幼帝を玉座から引きずり下ろし、いつの間に迎えを出していたのか、高祖の皇子代王を恭しく玉座に据えた。陸大夫が新帝を擁して絳侯と共に文武官を統制する中、丞相はそっと席を外した。貴方達はここにおいでなさい、と言い置いて。
 しばらくして丞相の不在に気付いた絳侯と陸大夫が探しに行った。代王は落ち着き払って群臣の祝賀を受けていた。玉座を下ろされたあの幼児の泣き声がまだ、聞こえているような気がした。
 丞相と絳侯は一転して無二の忠臣と崇め奉られた。恢は仰天して、潔く負けを認め、私に良馬を十頭ばかり寄越してきた。
 私の話を聞いていた恢は、
「まあ計は不疑の父上のだから、うちのくそ爺なんかが威張ることじゃないけどな。相変わらずしたい放題だし、丞相辞めるなんて言いだしたりしてる。それにしても、本当にじーさん、不疑の父上だけは尊敬してたんだなあ。亜夫殿に聞いたんだけど、あのじーさん、留侯の廟に額づいて泣きながら報告してたって。絳侯が見たんだってさ。あのくそ爺がと思うと、留侯の偉大さが今になってよくわかるよなあ。」
と言っていた。
 丞相は、父の廟で泣いたのか。あの時、皆から離れていったあの時に。
 恢を見送った後で書斎に座ると、からりと袖の中で音がした。あの日着ていた着物から書簡を取り出すのを忘れていたらしい。乱雑な丞相の字が飛びこんできて、笑いかけた私の口許が途中で引きつった。
 この筆蹟には既視感がある。それも良く馴染んだ筆蹟だった。私は慌てて立ち上がると、無造作に書架の一巻を引き抜いた。同じ筆蹟−もう少し丁寧ではあったが−で記された『春秋』の文章が広がった。さらにもう一巻。これも同じ筆蹟の『呂覧』。離れた書架から引き抜いたのは、同じ筆蹟の『尉繚子』。『呉子』。『新語』。『列子』。
 全ては、あの日渡された丞相の書信と同じ筆蹟で、私は呆然と広げた書の散乱する中に座り込んだ。
 何故、うちの書は丞相の筆蹟なのだ。私の父の筆蹟はどれなのだ。そうして、私の父はもっと流麗な線の細い字を書いていたことを思い出した。私は何かに急き立てられるように父の筆蹟を探した。
 父は書き置きなど一切遺していなかった。私は膨大な書架の列を睨んで唸り声を上げた。
 そして、私は書架の整理を始めた。遊びに来る恢は妙なことを始めたと首を傾げていたが、来ると決まって手伝った。俺がぐちゃぐちゃにしたんじゃないだろうな、と恐縮しているので、杞憂であると告げると安心したようだ。
 ない、ない。父の筆蹟はどこにもない。私が連日書をひっくり返している間にも時は流れ、丞相は絳侯を推薦して引退し、自適な生活を始めた。恢は、また自堕落を始めた、と渋面を作ったが、時折訪れる私は丞相の周囲に侍る女性の陰が格段に減ったことに気が付いた。恢に教えると、彼もまた見張りでもしたらしく、逆に不安気な顔で相談に現れた。
「不疑の言う通りだ。じーさん、具合でも悪いんじゃないだろうな。どうしよう。」
 私たちは、何故か丞相の筆蹟の典籍をひっくり返し、長安でも有名な薬師に様々な薬の調合を依頼し、恢を通して丞相に送った。恢が言うには、丞相はその殆どの処方を知っていたのだそうだ。お前、こんな妙な薬良く知っていたね、と笑われたと、恢は言っていた。
「不疑、前から気になっていたんだけど…怒るなよ。この本、本当に軍師殿の蔵書なのか?」
 ついに恢がおずおずと言い出した時、私は内心ほっとした。
「いや…僕も丞相の筆蹟が何故こんなにあるのか不思議で…それで、父の字を探すためにこんなことを始めたんだ。」
「やっぱり、この汚ねー字、うちのくそ爺のなんだ。不疑に本借りるようになってから、常々不思議だったんだ。なんで爺さんの本が、一冊二冊ならまだしも、こんなにあるんだって。」
 中身を知っているってことは、じーさんのだよな、と恢は言い、私も同調した。それからは連日のように二人で深更まで整理を続け、妻には−もう私たちは妻帯する年になっていた−笑われた。
 ある日、書架の脇に積み重なっていた籠の山に気が付いた。几帳面な父のことだから、地代帖などを保管しているのだろう、と一つ開いた。飴色の書簡は、父の字でも地代帖でもなく、見なれた筆蹟の、それも私信だった。人懐こい丞相の語り口そのままの、親密な、いや、何か異常なものを感じ取って震えが走るほど親密に過ぎる書簡だった。
 貴方に会いたい。貴方に会いたい。会えない代りに、私が書き写した書を送ります。
 近況や時候の挨拶こそ違え、丞相が父に書き送っていた文章は、明らかに親友に対する物ではなかった。その中には計略もあり、私には理解できない含みのある言い回しもあり、時事の打診もあったが、それは同僚や上司に問い掛けるものではなかった。
 恢には見せられない。
 私は仮病を使って閉じこもり、四日かかって籠一つ分の書簡を読み通した。私は丞相が怖かった。何十通の書簡を読んだのかわからない。四日目の夕刻に、その書簡を見つけた。
 貴方は韓のお姫様なのですから、もっと体に気を付けて避穀などなさらないようになさいね。私はもう、貴方に近付くことすら出来ないのですから。今度倒れたと聞いたら、泣きながら押しかけて差し上げますから、それが嫌なら食事をなさいね。
 父は…韓の貴族だった。韓の宰相家の正嫡で……。
 お姫様。
 丞相の、この膨大な書簡は、恋文だったのだ。それを、廃棄もせずにこんなところへ押しこめて保管していた父。
 恋文ならば、合点が行く。そうして、父の不思議な遺言と、丞相の反応を思い出した。
『これは、そなたの親の形見である。』
 父は、『自分の形見』とは言わなかった。そして、あの簪を見つけたときの丞相はそれを信じられない眼差しで見つめていたのではなかったか。
 まさか、丞相は。
 丞相の筆蹟の山を見つめながら、私は『父』が繰り返し語った丞相の武功を、いつとはなしに思いだしていた。
 私なんぞに憧れてくださったのですか。苦笑と共に言った丞相の姿も。
 恢には言えない。それでも、私はじっとしていられなかった。書簡を掴んで、馬車ではなく馬で、陳家を訪問し、恢ではなく丞相の前に立っていた。
 丞相は病中だったのに私を通してくれた。私は見舞を言うべきだったのに、詰問していた。
「父上、なのですね。」

 からからと丞相が書簡を巻き戻した。
「貴方は留侯のお子だ。留侯譲りの鋭い理解力をお持ちだが、まだお若い。気付いても、口に出さぬほうが良いことも、ありますよ。」
と言いながら、書簡を差し出した。
「否定なさらないのですね。」
 ただ、肯いた。
「何故私を父のところにやったのです?」
「不疑殿、それは違う。私は子房殿が逝去なさるまで、何も知らなかった。あの人が私の簪と共に貴方を寄越したので、始めて貴方の父親を知った次第だ。あの人はね、不疑殿、強情で、自分の私生活には一切の介入を許さなかったから、誰も知らなかったのですよ。」
「あの人は、私の何なのですか。丞相、貴方は知っておられるのでしょう。貴方があれだけの恋文を送りつけた人は、何なのです。貴方は竜陽の癖をお持ちだったのですか。」
「不疑殿。私は美女は好きですが、男など嫌いです。」
 びしりと釘を刺されて、私はただ黙る。丞相は、しばらく私の顔を見つめてから、
「あの人は、一人で貴方を産んで育てた、貴方の母上ですよ。」
とゆっくりと告げた。
「知っている人もいた。いない者も無論多かった。けれど、あの人は貴方の本当の父親については一切口外せずにいなくなった。私はね、あの人から言質を取っていたんです。決してこの地上からいなくなって、仙界に逃げだすような真似はしないとね。あの人は嘘付きだった。貴方がいるから、もういいでしょうと、私の前からいなくなってしまった。あの人はその初め、貴方がいるということすら教えてくれなかった。私だとて、もっと早くに知りたかった。」
 それだけを、丞相は、私の父は告げて、黙りこんでしまった。
 もっと何か言おうと思ったのだ。何故父にあのまま軍師を続けさせたのかとか、張子房を何故正夫人に立てなかったのかとか、何故自分から早く名乗ってくれなかったのかとか、言いたいことは沢山あった。それでも、背を丸めた丞相は何かをじっと堪えているようで、私には追い討ちをかけることが出来なかった。私は初めて、恐る恐る丞相の手をそっと包みこんだ。丞相は片手で私を抱き寄せた。
「私だって、貴方と、あの人と、穏やかに過ごしたかったのだ…あの人だけが、私のただ一人の憧れの人だったのだから。叶わぬ夢を持っていたのは、貴方だけではないのですよ、不疑殿。」
 かたりと物音がして、私は弾かれたように振り向いた。厳しく誰何した丞相の声に、覚悟を決めたように現れたのは、恢だった。
「不疑が血相変えてじーさんのところに飛びこんだのが見えたから。」
と恢は悪びれずに言った。
「どれだけ聞いた。」
 恢は答えなかった。丞相を見て、私を見て、丞相の枕許に膝を付いた。
「…馬鹿爺。」
 丞相は黙っていた。黙って立ち去ろうとした私の裾を恢が掴んだ。
「行かないで!」
 私は立ち止まり、恢は、私の年下の親友はそのまま私を抱きしめた。私には、何よりも、それがありがたかった。丞相は、恢の不敬を咎めもせず、穏やかに言った。
「貴方は…そうしていると、本当にあの人に似ていますね。」
「丞相。」
「恢を、よろしく頼みます。恢は貴方を兄のように慕っている。不疑殿、どうか……。」
「兄のようにって、叔父上なんだろう!いい加減にしろ、馬鹿爺、俺は、俺はね、不疑の家であんたの本を見た時からおかしいと思ってたんだ!どうして留侯に遠慮したんだよ!不疑と留侯を攫って来れば良かっただろ……。」
 丞相がはね起きて、恢を私から引きはがすとしたたかに横面を殴った。壁際までふっ飛んだ恢は呆気に取られて丞相を眺めた。丞相は低い声で、
「あの人にそんな真似が出来るか。」
と凄んだ。
「それでなくとも辛酸を嘗め尽くしたあの人の、お前が何を知っている!あの人の立脚基盤を崩すような真似が、俺に出来るか、お前、あの天才から軍略と地位を取り上げて、一婦人に貶めろと、この俺にほざく気か!この馬鹿野郎、そんなことが出来るなら、とうにしている。張子房を俺の前で侮辱するな!」
 そう、私の父は怒鳴った。
 張子房という人が、何を考えていたのか、私にはわからない。丞相との間に何があったのか、『父』は決して語らなかった。それでも書斎に保管されていたあの書簡の山は何かを物語っているようでもあった。
 私と、父と、母と、三人で過ごしたかった。頼みさえすれば、漢の軍師であった『父』は策を捻り出してくれたのだろうか。
 丞相には、淮陰侯と同じことが起こり得る。私と関わっては、尚更危険だと目される。わかるね、お前のために、丞相のために、恢殿のために、丞相に来て頂いてはならないのだ。
 亡くなった『父』も、私達と同じ夢を見たことがあったのだろうか。丞相の筆蹟ばかりを遺し、逝ってしまった。
「恢、丞相の所為じゃない…父は…父は粛清を恐れて…誰とも交わらなかっただけだ…あの人に関われば、誰もが巻き込まれると、それを厭っていた……。」
「泣くなよ、不疑。」
 恢はぶたれた頬を押さえながら立ち上がり、にやりと笑った。丞相に、良く似ていた。泣くなと言った割に、自分の眼が赤かった。
「じーさん、格好良かった。見直した。」
「お前なんかに見直されるとは、俺も焼きが回ったな。」
「親父には内緒だぜ?あんたのすることは一々凡人の心臓に悪いんだよ、この不良爺が。」
「何だよ、共犯になるつもりか、お前。」
「無論ですとも。親友の不疑兄を助けてやらなきゃなりませんからね。」
 な、と恢は私の肩に腕を回した。ありがとう、と私は言い、恢は、不疑が兄貴なら歓迎するさ、と応じた。
 ここに、あと一人いれば。きっと、丞相も私とそう違わないことを考えていたのだろう。

 翌年、丞相が亡くなって、私は恢を訪れた。不孝は承知の上だったが、私が服喪するわけには行かなかった。
「気にするなよ、あの極道爺のことだ、子供のことなんか忘れ果てて留侯の後を追い回しているさ。」
と恢は笑っていた。
「あのじーさんにはそれが幸せなんだから、留侯には我慢して頂くより、ないよなあ。」
「恢はそれでいいのか?」
「水臭いぞ、兄貴。」
 小突かれた。
「な、あの極道爺分けてやるからさ、俺も留侯の子供分にしてくれないかなあ。」
「弟の癖に生意気だって、張家の父上に陳情してやるさ。」
「今度、また錬丹術の本貸してくれね。じーさん、どうもうちの本を洗いざらいそっちに送っているらしくって。」
「持ってくる。服喪が明けたら、またおいで。」
「そうだな、兄貴の家の方が、居心地いいしな。」
 父上、母上、そして私。
 叶わなかった夢の続きを、私はいつか手にすることがあるのだろうか。 
 叶えば良かったですね。私の、二人の『父上』。




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お題シリーズで『願い』、不疑君サイド。実は、脇役だったはずの恢ちゃんがキーパーソンの狂言回しになってしまって、びっくりの高松です。でも生意気恢ちゃん好き。(笑)恢ちゃんは、あんな無責任なことを言い散らしてますが、実は父上の跡を継ぎます。文帝二年の陳平死去の後、買さんが跡を継ぐのだが二年で死去、なので。それにしても、子供の目から見たしぼちゃんと陳平の関係って、不可解至極ですねえ。(笑)第三者サイドから書くと、「何やってんだ、この二人は!」にしかなりません。あーあ、困った困った。ほぼ一年前に書いていた話で、「この年になっても物書きから足を洗えなかった……」としみじみ慨嘆してましたが(誕生日の前日に上がった代物だった)、もう物書きはどーらくとして諦めるほかないですねえ。たぶん。



いんでっくすへ