朝、目が醒めたら、巨大な青虫になっていた。
青虫だ。青虫だ青虫だ。 頭の中が真っ白になって、他のことが考えられない。何だってこんな不条理! まずい。徹底的にまずい。今日は漢中から蕭何殿が出てくる日だ。項籍撹乱遊撃計画の段取りを膝詰めで話したかったのに、どうして!いや、そもそもこれでは人前に出られないではないか。体はやたらに重いし。取りあえず寝台から下りることにしたが、やたらとある足を使いこなせずに、ぼて☆と無様な音と共に落下した。…痛い。ようやく手筥の所まで這いずって行き、なきに等しい長さの手(足か?)で体をひねりながら蓋を持ち上げ、よせばいいのだが鏡を取り出した。鏡面一杯に映る青虫の顔(顔と呼べるのだろうか自信はないが)に、思わず鏡を取り落とした。 駄目だ、とても軍議に出られない!いや、それだけならまだいい。外に出たら、間違いなく殺される! 死にたい死にたい、と言う私だが、青虫だ〜気色悪い〜なぞと人に踏み潰されたり物で叩き殺されたりするなんて嫌だ!せめて尊厳を持って死にたい! どうしよう。取りあえず、誰にも見られなくて良かった。そこの上掛けを被って逃げ出そうか。…どう考えても布の化け物にしか見えないのでやめた。せめて蕭何殿には会いたかったのに。 泣きたかったのだが、青虫の目が何処に付いているのか解らないので、やめた。視界が開けているということは目があるのだろうが、どの部分がそれなのか、いまいち良く解らない。この体の横に付いている点々が全部目だったりしたら、迂闊に泣くととんでもない状態になってしまう。 せめて、誰にも見つかりませんように。 漢軍の軍師に、そんな願いは無駄なのだ。遅かれ早かれ、誰かに見つかる。見つかったら叩き殺される!でも、迂闊に外に出て、馬だの牛だのに潰されるのはもっと嫌だ。少し動いてみて、鈍いにも程があるという動き方しかできないと思い知らされた。馬車でも来たら、まず避けられない。 昨日は護軍中尉がいなくて良かった。宴会で漢王と相当飲んでいたから、あのまま二人で酒場のはしごにでも行ったのだろう。こんなところを見られなくて、助か……。 「しーぼちゃんっ、一緒に軍議に行きましょうっ♪」 だから、わいて出るな!顔を覆いたかったが、どの手にも覆うほどの長さがなかった。というわけで、私も、入ってきた護軍中尉も文字通り固まったのである。 「…あの…青虫さん、もしかして子房殿を食べました?」 なるほど、そういう解釈も…って、この男のことだ。何か勘違いして、『吐き出せ!』などと首でも締められてはたまらない。思いきり首を振ったのだが、くねっているだけにしかならないのが、我ながら空しい。 「青虫さん、青虫さん、俺のしぼちゃんの行方を教えてくださいな。ね?」 誰がお前のだ!殴ってやりたいが、この手の長さ……。一本だけを動かせなくて、片側全部振り上げた挙句に、ひっくり返ってしまった。無様にも程がある。…が。 「もしかして、子房か?」 どうして解るんだ!私は護軍中尉が心底怖かった……。 何はともあれ、護軍中尉が転がしてくれたお陰で、正常な位置に戻れたのは喜ばしい。散々もがいたところで、自力では起きられないことを思い知ったのであった。 「な、子房だな?」 だからそんなに顔を近付けるな、鬱陶しい!…と言う術がないのが悲しい。頷くにしても、顔(頭?)が地面すれすれのところにあるので、頷きようがない。 せめて、もう少しまともな形の動物になったのなら良かったのだが。 固まっていると、護軍中尉が頭だか背中だか解らないところを撫でている。取りあえず、この男がいる間は潰されなくてすみそうだ。…そうだ、護軍中尉だ。 方向転換はかなり楽に出来るらしい。文机まで這って振り返る(護軍中尉の方に体をねじったというのが正しいのだが)と、こちらへやって来た。良かった、取りあえず判ったらしい。やっとのことで文机に半分よじ上ると、昨日整理した竹簡を指そうとして、またひっくり返った。今度は護軍中尉が受け止めたので、半分ひっくり返っただけで、すぐ元に戻してもらったのだけど。 「これ?」 竹簡を手に取ったので、短い手足を振り回して、開けろと伝えた。そのたびにひっくり返りかかるので、護軍中尉は片腕に私を抱いて、片手で書簡を開いた。開ければ、何を言いたいかは判るはずだ。…それにしても真顔で巨大な青虫を抱いている男というのも、すさまじい見世物ではある。 「判った、蕭何にこれを渡せと言うんだな。」 今度は空間があったので、頷いた。端から見れば、くねっているだけかもしれないが。護軍中尉は竹簡を置いて、両腕で私を−青虫を−抱き締めた。ある意味、私がこの男を怖がるのには正当な根拠があるような気もする……。 「俺のとこに来ないか。ここに一人でいても、大変だろう?」 もっともな話で、さすがの護軍中尉も青虫に手は出さなかろうから、当座の避難所として転げこむことにした。頷く(くねる)と、人が横面を張れないのをいいことに、頭に口付けを落とした。突き飛ばそうにも手の長さが……。 …と、青虫にそんなことをして、何が楽しいのだ、この男は?袖の中に竹簡を放り込んで、抱き上げようとしたが、意外な重さによろめいて尻餅をついた。まさかそんなに重くなっているとは私も知らなかったのだが。 「仕方ない、背負って行くから、上れ!」 どういう弁解をして陣中を突っ切るつもりだと思ったが、この男の言い抜けは相当年季が入っているので、万事任せることにした。 「…すまない。」 「子房、喋れる?」 話せ…た。私の声だ。心底嬉しそうな護軍中尉が、この時ばかりはありがたかった。本当はしがみつきたかったのだが、何しろこの手……。おまけに青虫……。 「どうしてこうなったんだ?」 「私に判れば苦労はない。」 「…だよな。どうする?蕭何をしょっぴいてくるか?」 「やめてくれ!」 「ほーお、俺ならいいけど蕭何殿には会いたくないと。尚更連れてきたくなるよなあ、そういう言い方されるとさあ。」 「お前は押しかけたのだろうが!私は誰にも…会いたく…なかった。」 「悪い!悪かった、謝るから、ごめんな、子房。な、めげないで、俺が何とかするから。」 青虫の頭を撫でながら、必死に謝罪する護軍中尉に、泣きたいのと吹き出したいのが入り混じってしまった。 いいか、どうせ私は青虫なのだし。少しくらい我がままを言っても、護軍中尉なら大丈夫だろう。 「陳平…寒い。」 寒くはなかったのだけども。得たりとばかりに、護軍中尉は私を胸元に抱き寄せた。 抱き締めて、とはさすがに頼めなかった。 この男を毛嫌いして悪かったかな、と少しだけ後悔した。 「ずっと、貴方の側にいるから、心配しないで。」 青虫に口説き文句を言えるこの男が、どこかでありがたかった。 「また遅刻…きゃああああっ!!!」 周勃が異次元よろしくの声で叫び、腰まで抜かしたので、漢王も蕭何殿も何故か来ていた韓信殿まで最悪の間合いで振り向いた。平然としていたのは、樊噲だけである。 「陳平さんがでっかい芋虫背負ってきた。」 そうなのだ、止めろと言うのに、この男は私を背負って軍議に顔を出したのだ。 「何でそんなもの背負ってきたんですか!」 蕭何殿が青くなってすさっている…当然の反応だ。 「陳平…それは新手の糧食か?」 さすがの漢王まで引きつった顔をしているとは、面白い。…といっていられる局面ではないのだが。護軍中尉は私を下ろした。 「きゃーっ、やめてーっ、おばけいも虫に食べられるーっっ!!」 …周勃……。樊噲が、ぽんぽんと周勃の肩を叩いた。 「食べられる前に食べちゃえばいいんだよ、周勃。」 「…食うなよ。食ったら容赦しないからな!」 その前にこんなところに連れてくるな、護軍中尉!このおおたわけ者! 「だから、その化け芋虫を外に出しなさい!せめて議事が済んでから連れて来なさい!」 …正論だ。 「何をおっしゃる蕭何殿。実は、これは子房殿からお預かりした仙獣なのですよ。頭が高いっ、控えおろう!」 せ、仙獣だと?おまけに頭が高いって…うわ、漢王まで頭を下げるとは、いやはや、困った……。あ、蕭何殿はさすがに正気を残して座っている。良かった。 「で、その子房殿はどちらなのです。陳平殿!」 「う…あやしい仙人と修行に行って一週間帰らないと書き置きを残したまま、俺を見捨てて行ってしまいました。」 「ありそー。」 全員納得したというのが凄い…確かに妙な現実味のある話ではある。 「そりゃあんたが子房殿に付きまとったからでしょうが。あんなに嫌がってたのに。」 あ、ばれてる。隠したつもりだったのだが。 「しぼちゃん、来週帰ってくるの?」 しょげている樊噲が気の毒になったが、口を開いて紛糾を煽ることはあるまい。ごめん、樊噲。 「違う、お前子房に手を出して、自分の幕舎に隠してるんじゃないだろうな、いや、絶対そうだ!許せん、わしに断りもなく!」 あ、あのなまずひげ、ぶん殴ってやりたい……!と、護軍中尉が、 「そんないい思いをしてたら、軍議になんか出てきません!」 馬鹿者ーっ! 「…誰が子房殿に手を出したって?」 うわ、韓信殿までこっちに来た!だから、全て護軍中尉、お前のせいだ!締め上げられても、図々しい護軍中尉は舌をペろりと出している。 「相手にされないからってひがまないで下さい、将軍様。」 …この男に丁寧にされると馬鹿にされている気がするのは私だけではないらしい。ぱこん、と韓信殿に一発殴られ、私はいささか溜飲を下げた。恨めしげに護軍中尉がこちらを見ている。青虫は沈黙していればいいので便利だ。 「っつー……。とにかく、子房殿は書き置きで仕事を俺に引き継いでから、判らないことがあれば仙獣に訊ねるがいいと書き残していったんです。だから背負ってきたんですよ、文句ありますか!」 ものすごく強引な理屈だ。やはり護軍中尉に全てを任せたのは間違いだった。これならおとなしく自分の幕舎で待っていればよかった。あああ、蕭何殿が胡散臭い眼差しで見ている。当然だ……。 「芋虫さんかわいー。」 にこにこと寄ってきた樊噲が、ぽんぽんと私の背中を叩いた。 「触っちゃ駄目。それにこれは青虫さんで芋虫さんじゃないの、樊噲。」 護軍中尉…訂正するところが間違っていようが…大体青虫を一人占めして何が楽しいのだ、この男は。まさか単なる青虫愛好家ではなかろうな。 「青虫でも芋虫でもいいですけどね。では、補給の話をさせていただきますよ、陳護軍。」 「はいはい、任しとけって☆」 一同眉を顰めたが、私の頭に置いた手に力が入ったので、わかった。 私に、請け合ったのだ。 心配したのだが、杞憂だったようだ。彭越や黥布を使って、項籍の後方を撹乱し、彼らに後方支援を送るという計画は素直に通った。遊撃であるからには何処に出没するか不明なのだが、その点は担当者同士で協議すればよいことだし、『分け前』を保証すれば彼らは動くに違いない。計画書の要点を護軍中尉はすぐに読み取って、無事に蕭何殿に伝えた。蕭何殿も『芋虫』はともかく、私が彼に仕事を引き継いだことだけは納得したらしい。 「これでよろしいですか、青虫さん。」 護軍中尉が笑いかけたが…だからどうやって頷けというのだ、この胴体で。 「いいそうです。」 よくわかったな。蕭何殿も同じ疑問を口にした。と。 「間違ってたら、ひっくり返って暴れますから。」 …護軍中尉〜っ!覚えていろ、人間に戻ったら…戻れるだろうか……。 ぽんぽん、と護軍中尉が頭を叩いて、 「ではまた、明日。」 と辞した。目を丸くする蕭何殿の前で、護軍中尉の背中に這い上るほか、道はなかった。鼻歌を歌って青虫を担ぐ護軍中尉…この男はやはり何かが間違っている。 口が変な位置についていることもあって食事をする気もなかったのだが、護軍中尉が羹くらい飲めと言ったので、おとなしく従うことにした。器に顔を突っ込むのかと覚悟したが、この男が匙で口に入れたので、そこまで無様な格好にはならずに済んだ。もっとも、この男に食べさせられなければ食事が出来ないという事態そのものが、十分無様なていたらくなのだが。 青虫の身で導引をするわけにも行かず、暇を持て余していたら、護軍中尉が延々と無駄話を始めた。聞くつもりもなかったのに、この男の自堕落な近況をずっと聞かされてしまった。もっと役に立つことを喋ったらどうだ、と言うと、しょげた様子でうなだれた。 こうなると、私と護軍中尉の間には共通の話題がない。軍略の話以外、この男と通ずるものは何一つなかった。目下の状況では、兵法のことも考えたくない。 黙り続けるのがいい加減気詰まりになった頃合に、用件ばかりは済ませてしまおう、と私は口を開いた。 「明日は一人で軍議に行ってくれ。私が行く必要はないだろう。」 「背負っていくから気にするなって。」 「誰にも会いたくない。頼むから、連れて行かないでくれ。」 「じゃあ、俺もさぼろうかな。」 「お前が行かなければ仕事が進まないだろう。それに……。」 「俺がいない間、貴方はどうやって身の回りの始末をするつもりなんですかね。強情張るのもいい加減にしなさい。」 びしゃりとやり込められて、青虫は沈黙するしかない。だから青虫なんかなりたくなかった。 「…そんなに俺がいるの、嫌?」 頼りなさげな眼差しでこちらを見る。嫌だと言ったら、明日から路頭に迷いそうなので、私は返事を保留にする。 「…不便でも、いない方がいい?」 そうだ、と言ったら、どんな顔をするのだろうな。我ながら根性が悪い。 でも、本当にこれ以上構われるのは嫌だ。私生活の中に余人の介入を許すのは嫌だ。職務以上の関係に煩わされるのは嫌だ。それでなくとも、この男は十分立ち入り過ぎている。 世間のしがらみなど、少なければ少ないに越したことはない。 沈黙の青虫に愛想が尽きたのか、外へ出て行った。他人の幕舎で更に手持ち無沙汰になった私は、丸くなって眠るほかなかった。 目を開けると護軍中尉が隣で横になっていた。寝ているのかと思ったら、片肘ついてまたこちらを見ていた。どの位眠ったのだろうと思ったが、夜警が時報を告げる辺りではないらしく、まだ夜中だということしかわからなかった。 動かないと、寝ているのか起きているのかわからないのだろう。護軍中尉はいささか気味が悪くなるほどの間こちらを見ていて、それからようやくこわごわと手を伸ばして青虫の背中を撫でた。撫でられるのは嫌いではないので放っておいた。 「そんなに嫌わないで…世話くらい焼かせて、頼むから……。」 起きているのがばれたのだろうか。私は取りあえず黙っていることにした。黙っていたら、青虫にくっついてきた。手で突き飛ばせないのはわかっているので、尻尾を振り回したら…と思ったところで、動きの鈍さに思い至って止めることにした。 「寝てるときは、可愛いのに…目が醒めたら、また貴方は側にも寄せてくれないのですね。」 寝てると思ってるのか。まあ、青虫の起臥を瞬時に判別したら、別な意味でこの男を避けたくなるかもしれない。それにしても、こんなに青虫好きだとは、人はわからないものだ。 暖かくなってきたし、寝ようかな……。 「本当はね、ちょっとだけでいいから、好きになって欲しい…貴方が起きている間に、そういう度胸はないけれど。」 夢の中で、誰かがそんなことを言っていた。 ちょっとだけなら…嫌うのをよしてやってもいいだろうか…とてつもなく…眠たい。 次に目を覚ますと、朝の支度を終えた護軍中尉が隣に座り込んで竹簡を眺めていた。脇に水を張ったたらいまで置いてある。声を掛けると、弾かれたように顔を上げた。 「おはよう、しぼちゃん☆顔洗ってやるからこっちに来いって。」 手招きしたので、もそもそと移動する。大量の手足を使い慣れないので、時々手足がもつれてひっくり返りそうになった。 「…それにしても、青虫って水に漬けていいものなのか?」 素朴な疑問に、護軍中尉が一時ひるんだ。 「拭くだけにしておく?」 「ありがたいのだが、拭いていい生き物なのかどうか、私には自信がない。」 「うーん、俺にもそんな自信はないな…ちょっと待ってて。誰かに聞いてくる。」 「よせ、護ぐ…蕭何殿!」 飛び出しかけたあの男が入り口で棒立ちになり、何とも形容のし難い表情をして立っている蕭何殿が、これまた棒立ちになっていた。 「…やっぱり子房殿を隠していたのは貴方ですね、陳平殿!」 「うわっ、入っちゃいけませんってば、蕭何殿っ、入らないで下さいって!」 無視してすたすたとやって来た蕭何殿は、巨大青虫の前にすとん、としゃがみこんだ。 「子房殿ですね?」 …しらを切っても無駄らしい。 「私です。」 「よくわかったんですね、絶対ばれないと思っていたのに。」 などと唸る護軍中尉を睨みつけ(ざまをみろ)、蕭何殿は心配げな面持ちで、いつからこうなったのか、何か原因に心当たりはないかなどと、まともな話を筋道立ててしてくれた。やはり、まともな会話が成立するのは漢軍広しといえどもこの人だけだ。護軍中尉に何か飲まされたりしなかったか、などと再三聞く辺り、やはりあの男は信用がないらしい。 「この度だけは、彼も無実ですよ。昨日、突然こうなって以来、世話を掛けましたから。ご提案の件は、昨日護軍中尉が私に代わってご説明した通りです。まだ何かおありでしたら、全て護軍中尉に引き継いでおりますので、彼とご相談下さい。」 「軍師殿がお話できるのでしたら、私は一向にこのままお話に伺っても構いませんよ。」 「気味が悪いでしょう。」 「可愛いじゃありませんか。」 にっこり笑う蕭何殿…私の同僚は、こんなに青虫好きがいたのだろうか。それも怖い……。 「どうして私だと?」 首を傾げたつもりが、反り返ってしまった。曲がりが良すぎるのも不便なものだ。 「陳平殿がね…どう見ても異常なほど青虫さんを構ってましたからね。膝に青虫さんを載せて、撫でながら会議をするわ、目を放すと幸せに緩みきった顔で青虫さんを眺めているわで、もしかしたら、と。」 「護軍中尉!」 悪い、と両手を合わせている。ふん、そんなに簡単に許してやるものか。 「…彼は青虫が好きみたいですから。会談の最中に、申し訳ありません。」 「青虫じゃないでしょう、子房殿。」 さて?癖なのか、また反り返ってしまった。自分の意外な癖を思い知るものだ。蕭何殿は苦笑という他ない笑い方をして、 「まあ、貴方にはいい薬かもしれませんね。」 とあの男に呼びかけた。 「全くです。彼に仕事をさせたほうが良いので、私の同席は必要ないでしょう。確かに話は出来ますが、図面や書簡を参照しようとするところがこれでは、役に立ちません。」 「それは違うと思いますがね。」 少し離れたところに立っていた護軍中尉が口を挟んだ。余計な、とたしなめる暇もなく、蕭何殿が頷いた。 「参照なら、私がお手伝い致します。軍師殿が直接蕭何殿にお話なさった方が良い。これは貴方の計であって、私の計ではないから、貴方の口から語られる時に一番精彩を放つ筈です。」 妙な説得力があった。 私の言いたい事など、全て把握している筈の人間がそう言ってくれたのが、私には嬉しかった。 「陳平殿のおっしゃる通りです。私も貴方の論理的な話を聞かせて頂くのを楽しみに参りましたので、お体が許せば是非、そう願いたいのですが。」 蕭何殿まで。 体は、悪くはない。青虫である分には、動けるし、辛くもない。 まだ何も請け合っていないのに、あの男は竹簡と地図を広げて私の隣に陣取った。蕭何殿も座って、話を詰める態勢になっている。 仕方がないか。今度だけはおとなしくしているほうが良さそうだ。何もしないと暇で仕方ないのは、昨日で懲りていた。 そろそろ元に戻るかと多寡を括っていたが、根拠のない楽観は失望に終わる事を絵に描いたような展開になった。一週間青虫生活は続き、蕭何殿との会談もつつがなく終わった。蕭何殿は心配しいしい漢中へ帰っていったが、私の一件は漢王以下に秘しておいてくれたらしい。護軍中尉に妙な真似をしないよう重々念を押してくださったので、こちらも安心して生活できる。年上の常識人とはありがたいものだ。もっともあの男は、人を何だと思ってやがる、と、ひとしきり呟いていた。 青虫は古い皮を脱ぐので、水に漬けなくとも良いことも判明した。我ながら、自分の生皮が青虫型に転がっているのは相当気味が悪い。ひっそりと始末しに行っている護軍中尉が気の毒になったくらいだが、当人は気にならないらしい。図太いのも得になることがあるものだ。 護軍中尉といえば、私の世話を盾にとって、ぱたりと外出しなくなった。連日漢王から使者が来るのも無視し、周勃とのうち合わせもすっぽかし(仕方ないので周勃が『いもむしのえさ』を手土産に現れた)、日がな一日、役体もないことを喋っている。 飯がどうだの陽気がどうだの家族がどうだの着物がどうだの、それがどうした。役体もないことをひたすら喋りつづけ、私にも喋らせては喜んでいた。仕事の話以外がしたくて堪らないおしゃべりだったとは知らなかった。それにしても、この男はこんなに喋ったか?やたらとはしゃいで悪洒落を飛ばす護軍中尉を、何処にあるのか今だにわからない目で見据えた。 「お前、青虫相手に食事して、何がそんなに楽しいんだ?」 呆れ果てた私に、 「だって、子房が怒りも殴りもせずに、普通に話してくれるなんて、滅多にないもん。」 と答えた。 「相手を選べば良い。」 「選んでます。子房殿じゃなきゃ、嫌です。」 「どうして。」 「どうしてって…だってお前、他の人間じゃ俺の話についてきてくれないもん。『なにそれ〜、わかんなーいっ♪』って言われるのがおち。自分の言った言葉を逐一説明するなんて会話、かったるくってやってらんない。」 「蕭何殿やら陸生ならお前の話が通じるだろう。」 「やめろよな、あんな儒学狂いの勉学気違いと面突き合わせて、それこそ何が楽しいんだよ。蕭何だって頭に2文字つく真面目だろう。あれならなまずの漢王と酒飲んでるほうが遥かにまし。それより、お前空飛ぶ仙薬って試したことある?荘周の書を読んでから調べてみたんだが、どうも肝心なところを書いてあるものがなくてさあ。子房なら知ってそうだけど。」 道学に話を振られては、相手せざるを得なかった。交際範囲の中でまともに道学の話が通じるのは、事もあろうに護軍中尉一人だった。 道学の話がしたいのなら、そうと言えば良いのに。役体もない話ばかりするから、呆れるのだ。大体私の過去など知りたがって何になるのだ。私の趣味嗜好など知って、味方同士で計略でも仕掛けるつもりか。 それならば、最大の弱みをいつも握っているだろうに。今だって、そうだろうに。 丹薬を練る方法を説明しながら、私はどうどう廻りの疑問を追いかけていた。 それでも、確かに暇ではなくなっていた。始終張りついている護軍中尉が、物を食べさせたり、お茶を出してきたり、双六だの(口にくわえて伸び上がり、賽を落とすのだ)弾棋だの(尻尾で弾く)の暇潰しを仕入れて来るせいだ。一週間の終わりに、自分の生活が完全にこの男に依存していることを思い知って、目眩がしてきた。青虫でも目眩はするらしい。熱も出るのではなかろうか。 丸くなってめげていると、護軍中尉が不安そうに寄ってきた。具合が悪いと勘違いしたらしい。 「青虫さんに人間の薬って強烈に過ぎたりしないだろうな。」 「いや…気分は悪くないから、気にしないで貰いたい。」 「あのさ、元に戻らないって気にすること、ないからな。俺は楽しいし。」 「私は楽しくない。人に厄介を掛けるのも嫌だ。」 「厄介じゃないけどな。」 「私が厄介だと思ったら、厄介なんだ。」 その性格こそが厄介だよ、と護軍中尉。一理はある。 「子房、元に戻らなかったら、俺んとこ来いよ。」 「お前は青虫まで食客に取るのか?」 「できれば嫁さんになって欲しいんですけどね。」 「蛇の嫁入りならともかく、青虫では話の種にもならなかろうが。お前、少しは常識を弁えたらどうだ。」 「…青虫だって、中身は子房だろ。」 …そうなのだ。 私の中身は何も変わっていないのだ。仕事は気になるし、嫌いなものは嫌いなままだし、漢王にも説教しに行かないとならないし、この男の横面も張ってやりたいし、本当は元に戻りたいのだ。 「俺は、子房の側にいたい。張子房はお前しかいない。世話するからさ、いよいよ覚悟を決めたらうちに来いよ。ほら、韓信だの陸賈だののところに行ったら、何されるかわからないぞ。な?」 …ものすごく説得力があった。青虫でいる間は、青虫好きの所に転げこむ方が良いだろう。この男なら気兼ねするまでもなく、大抵の弱みは握られてしまったのだし。 「…元に戻らなかったら、考える。」 ありがとう、と張りついてくる護軍中尉が、珍しく鬱陶しくなかった。私も心細くなっているのだろう。 それにしても青虫を嫁にして何が楽しいのだ?護軍中尉という人間が、だんだん怖くなってくる……。 他人を怖がっている間は良いのだが、今度は自分が怖くなった。口から糸を吐き出し始めたからで、さしもの護軍中尉が青くなっていた。いい気味だ。自分の口が糸が出ているという情けない姿でなければ、もっと高みの見物を決め込んだのだろう。 散発的ならまだましなのだが、糸巻きにでもなったのか、室内に絶え間なく糸を吐き出して動く(のたうち回る)のには閉口した。当然食事どころの騒ぎではない。 「子房、繭でも作るのか?」 護軍中尉の一言で目が醒めた。繭を作るなら納得が行く。しかし、私は何の青虫なのだ?蛾よりせめて蝶々がいい。夜中に叩き落とされるなんて、一難去ってまた一難だ。 「多分そうだろう。邪魔でないところに行く。隅に転がらせてもらって良いか。」 「水臭い、他ならぬ我々の仲じゃありませんか、軍師殿♪」 …どういう仲だと追求したら、このところいささか常識を振り捨てたらしいこの男を妙な意味で刺激しそうなので、やはり無視することにした。大体、この男と職務以外のどんな関係があるというのだ。不愉快である。不愉快なので更に糸を吐く。だんだん自分に絡まってくるので、どんどんこ汚い青虫になる。 ぽんぽん、と寝台を叩かれた。 「こっちに載りなって。馬鹿が客に来た時に、踏まれたり蹴られたりしないかと思って、こっちが怖い。」 「お前が寝る時邪魔だろうが。」 「邪魔だと思う〜?」 腹が立ったので、糸を吐き掛けてやった。なるほど、こういう用途にも使えるのだなと、焦って糸を引き剥がしている護軍中尉を見ながら思った。踏まれるのは嫌なので、言う通りにはしたのだが。この男なら、取りあえずつぶされる心配だけはないだろう。だけ、というのが引っかかりはする。 一日経って、見事にぐるぐる巻きになった。来客まで断って見物していた護軍中尉(しかし、この男は職業を間違ったのではないのか?青虫の研究員にでもなればよかったものを)が、ぼつりと呟いた。 「それさあ、出て来る時はどうなってる代物なの?」 「私に解ると思うのか。大体、出てくる保証があるとでも?」 う、と詰まった。 「邪魔になったら捨てていいからな。」 吐く糸の量が減ってきたということは、そろそろ繭が完成するのだろう。くぐもったあの男の声が聞こえて、顔はもう見えない。 「馬鹿言うな、捨てるわけないだろうが!捨てないから…出てきてくれよ。」 「保証はできない。」 「約束して!」 「それは無理だ。護軍中尉、世話になった。感謝する。」 「…意地悪。嘘でもいいから、出てくるって言えよ!漢はどうなるんだよ、蕭何が困るぞ、漢王と樊噲は泣くだろうし、韓信は……。」 「泣いてるのは、お前だろう。」 くぐもった、涙声。繭を通して、ここまで届いた。 繭の中はこんなに暖かくて、気持ちが良くて、とろとろと眠たくなってくるのに、どうして泣くのだろう。こら、繭を叩くんじゃない。ぽこんぽこんと音がする。うるさいから叩くなと言うと、やめた。 「私はもう寝る。私のことは、気に掛けるな。護軍中尉、もしここから出てきたら、その時に返礼はする…出てこなかったら、空辞ですまないが、謝意だけは悟ってもらいたい……。」 眠い。やたらと眠い。暖かくて、まるで誰かがそっと私を抱きしめているようで、気持ちがいい……。 「出てきて…出てこないなんて、冗談でも言わないで……。」 そう、まるで誰かの温もりに包まれているようで……。 それから私は一週間、昏睡状態だったのだ、そうだ。 「陳平さんが葬式みたいな顔で先週ずっと歩いてたから、とっても不気味だったの。」 と、樊噲がぽそぽそと教えてくれた。 外が明るいような気がしたので、何気なく伸びなどしてみた。ばり、と妙な音がして、何か突き破った感触がある。痛い、と呟いた途端に、盛大な物音がした。体を起こすと頭までぶつかった上、再び嫌な音がした。 そういえば、繭に入ったのだっけ。ということは、出てきたのか。 「子房だ!」 私だが。寝ぼけた頭で、何を朝から護軍中尉の声を聞く羽目になったのだと考えて、闇雲に張りつきたがるあの男を突き飛ばし…突き飛ばし? 私の、手だ。 青虫の手ではなくて、私の手だ。 「護軍中尉……?」 「子房の顔だあ……。」 あの男の両手が私の顔を挟みこむ。きまりが悪い。何しろ、この前まで青虫だったのだ。こんなことなら一週間隠遁していたほうが良かったか。 それも結果論でしかないのだが。大体、青虫になって恐慌状態だった私は、やたらに人の近くにいたかったのだ。たとえ、この男しか選択がなかったとしても。 「世話を掛けた。元に戻ったようだ。返礼は、またいずれ。」 「…今、じゃ駄目?」 は?あの男の指がそろそろと私の口をなぞった。 何を考えているのだ、この男は!久しぶりに渾身の力で頬げたを張り飛ばし、そのついでに前のめりにひっくり返った。しまった、足も出しておくのだった。繭だから安定が悪いの何の。出ようと四苦八苦していると、ふわりと着物を掛けられた。…あ゛。 「あ、気が付いてなかった、その顔。まあねえ、しぼちゃんが親切気出してやってくれてるとは俺も思っちゃいないけど、ちょっと待ってな。」 …もう嫌だ。護軍中尉の上着を前で慌てて掻き合わせた。はい、と着替え一揃いを突き出され、我ながら自分が嫌になってくる。黙っていると何を勘違いしたのか、 「もしかして着せて欲しい?」 なぞと…いいだけ寝ぼけているらしい横面をもう一度張ってやった。 「っつー…青虫のときはあんなに素直で可愛かったのに、お前、どうしてそんなに強情……。」 「なら道の青虫でも好きなだけ拾って来い。」 心底恨めしそうな顔をして頬を押さえている護軍中尉なんか、無視することにした。 「…で、お返しはいつになるんです?」 「どうせまたお前、弾劾される羽目になるだろうから、その時にでも清算する。」 「あんまりだ……。」
と、書いていたのは去年の六月。いやあ、ここで青虫にしたせいでしぼちゃん不定形化まっしぐら。近頃は「口だけしぼちゃん」(つまり長助一族と同様)を落書きしているので、ついしぼちゃんが美形という設定を忘れることがあります。(笑)その上、不定形化した上に本編同様の根性悪のいじめっ子の上にお子様化しているので、最早やりたい放題です。私の事務机には陳平を袋詰めにして笑っているしぼちゃんや、ストレッチをしている陳平に乗っかってコーヒー牛乳を飲んでいるしぼちゃん(乗られたほうは泣いてます)という作業用メモがのっております。ほんとにろくなヒロインではありません。事務用メモに彼らを描けるのは、不定形化しているからだ、間違いなく。(笑)もはや三角と長助の仲間。 |