頼み入りし空なる幸の一つだにも。忠心ありて、とまれるはなし。
そをもふと、胸はふたぎぬ、悲にならはぬ胸もにがき憂に。
きしかたの犯の罪の一つだにも、懲の責をのがれしはなし。
そをもふと、胸はひらけぬ、荒屋のあはれの胸も高かき望に。
     −アルトゥロ・グラアフ『解悟』、上田敏訳『海潮音』より


The Mysterious Island
−神秘の島−


 神秘の島は見つかりませんでした。
 平然と報告してきた『道士』の顔は、ふてぶてしげにこちらを見上げていた。行きもしなかったのであろうという問責を喉の奥で堪え、次の言葉を待った。
 痙攣的に手が震えている。いつもこうだ。怒鳴り散らすことも手近な物を蹴飛ばして歩くことも許されない怒りの発露ときたら、引き攣った手の震えに集中する。それでも眼前の『道士』の頭に、いつぞやの賊が投げ落としてきた鉄槌をぶち当ててやりたい、と想像する自分は止められなかった。
 『道士』は、痙攣する王の手など見てはいない。どんな人間でも煙に巻けると確信している者の厚顔と饒舌をさらしている。私はただ『許している』だけなのだ。この広間に取り巻く廷臣達は、道士の虚言に惑わされた迷妄の王として、私を軽侮しているが。長年の知己である李斯でさえも。
 私にとて、我慢の限界というものはある。

 蓬莱という島を探そうとしたのは、気まぐれではない。李斯などは唐突な酔狂と信じ込んでいる節があるが。
 島には不老不死の果実が実り、豊かな実りを生み出す美しい土地に、仙人が住まうと聞いた。汚れなき童子の目にしか見えぬと言われる島だった。
 蓬莱の話をした男も目の前の『道士』と同じ臭いを漂わせていた。どんな人間も自分の前には平伏すると信じ込む、根拠のない優越感だ。彼らの話には裏打ちがない。精緻な理論もない。例えば、私がかつて全身で震えるほどに感動した韓非の説のような、畳み掛けるような迫力も執拗な追及も冷静であるがゆえに恐ろしい視点も、何もない。
 それでも私は彼に資金を供出し、船と童子の一団を与えた。細かいことを全て信じたわけではないが、蓬莱なる島を是非に探し当てたかった。ましてやその島で不老不死の望みが叶うというのならば、悪い取引ではない。
 徐福というその男は船出したきり、いまだ音信を絶っている。李斯は時折、新手の道士が招かれた噂を耳にするたび、思い起こさせるような視線を投げてくる。
 徐福は陛下を欺いたのですよ。
 私は欺かれるほど愚かな王か。
 視線で答える私に、李斯はそれ以上を口にしない。平素は後宮のどこかに住んでいるとおぼしい尉繚などは、はっきりと、
『詐欺に引っかかるのが陛下の道楽とは存じませんでしたよ。』
とふてぶてしく言い放った。確か、この新宮の後宮のどこかで偶然に出会った時だ。義務として後宮に出入りする私は、どこかでその義務を尉繚に押し付けたかったのかもしれない。若い頃、色恋の好きだという兵法家に厚遇として後宮への出入りを許してから、いつしかそれが当然のこととなってしまった。それでも尉繚の恋人に出会ったことがないところを見ると、自分の宮殿ながらこの後宮には何人が生息しているのかという気分にもなる。
『大体何ですか、いきなり地面からわいて出るなんて。城の城壁を突破するんじゃないでしょうが。どうして後宮に来るのに、わざわざ地下道なんか掘るんです。階段を使って運動量を増やそうとでもいうんですか。』
 最前まで誰やらを手中に、柱廊の影で何やら仕出かしていたのに悪びれもせず、つけつけと小馬鹿にした。尉繚の皮肉な口調は昔から一貫して変わらない。
 暗く建物の影が差している庭の一角に、目立たない木戸がある。丈高い植物で覆われている、庭の装飾に見える木戸の用途を、古い付き合いだけあって尉繚は正確に看破した。不機嫌な顔でもしたのだろう、地面から人の頭が出てくるところを見てしまったこっちの心臓も考えて欲しいものですね、と付け加えた。
 あちこちにある、あの無意味な柵だの木戸だのも同じですか。
 他言はするな。
 するわけないでしょう。あの李斯が地下中に大声響かせて陛下を探し回っていると考えただけでぞっとしますよ。しっかし、そんなに行方を晦まして何か楽しいですか。俺には、陛下がどこかへ逃亡したがっているようにすら見えますがね。
 腕を組んだ尉繚は、納得するまで放さないぞ、という気迫を漂わせていた。昔から無礼な男だったが、今に至るまで態度を変えないのにはある種の敬意すら覚える。思えば、ここから逃げ出そうとした男だった。あの時は捕まえたが、今逃げられたら果たして追うだろうか、と思う。
 どうせ義務としてやってきた後宮だ。
 尉繚を私室に誘った。随分久し振りだ。無論、地上の回廊を使って、私達は後宮から引き返す。
 真人、というものを知っているか、と尋ねると、予想通り胡散臭さで一杯になった顔を向けた。
『どこのどいつです、そんな阿呆らしい寝言を言上したのは。』
 盧生だ、と教えた。尉繚は蛙のつぶれたような音を出してから、酒壷を呷った。
『んなもんがいるとでもお思いですか。俺はね、これでも秦の常識は陛下にかかってると信じてたんですよ。頼みますから、目を覚まして頂きたいですね。』
『尉繚子のように俗気が多くては、とても真人にはなれまいな。』
『それはどうも。そんな干からびた飯みたいな人間、俺の方からお断りです。』
『若く、健康で、果てしなく生きていられるとしても?』
『俺は太く短く豪快に生きる方が好きですね。ほれ、あの王翦殿みたいに。あの洗面器で酒を飲むじいさん、好きだったなあ。』
『私は…今の生活を奪われたくないのだ。まだ、したいことも多い。尋ねたい人もいる。』
『仙人ってやつですか。やめときなさい、李斯の馬鹿の方がまだましだ。』
 私は果たして仙人を探しているのだろうか?しかし、幼い頃に出会った仙境を探しているという男の話をこの現実肌の兵法家にするのはやめた。
 李斯ですら言ったのだ。
 陛下、永遠は存在しませんよ。
 誰よりも私を理解しているはずの、李斯ですら。
『腐れ縁のいかさま兵家の酔い語りも少し覚えて頂きたいですね。陛下の常識、俺はまだ信じているつもりですが、相当に信用されなくなってますよ。』
 永遠は、存在しないのか?仙境は、不老不死の薬は存在しないのか?では、この時間は何のために始めもなく、終わりもなく、連続して流れてゆくのか?私はそれが知りたい。いや、その流れと共に歩きたい。私は、今に至るまで自分の存在意義というものを確信できていない。ただ、李斯が、十三のあの日から、私だけに仕えてくれたお陰で、全ての疑問は曖昧に放置されていただけだ。李斯と、仕事とが蓋をしていた。
 天下が併わさり、やや手が空き、空いた間隙にひたひたと染みてくる過去の記憶がある。
 売女の息子、父なし子、玉座の僭称者、お前など生きている価値がなかったのだ!
 尉繚を見る。尉繚の顔は、自分の言葉を裏切っていた。彼は私を哀れんでいる。空想に逃げた、衰えた男と私を捉えている。
 私は知ってもいるのだ。虚偽は確かに存在すると。そして、もしも私の疑問を虚偽に利用しようという不逞の輩がいるのだとしたら、正当な応報を加える術も知っているのだ。
『信じさせる。時を待っている、だけだ。』
 尉繚はぞっとしたように私を見つめ、再び酒壷に手を伸ばした。しばらく近況を語り合った後、再び後宮の方角へ堂々と消えた。
 二度と、地下の通路について口にはしなかった。
 尉繚に説教された、と話すと、李斯は軽く肩をすくめた。よくぞ言った、と言いたいのだろう。陛下はお仕事をなさりすぎるのですよ、とだけ、彼は忠告した。
 私は学究には寛大だ。しかし知識を標榜して人を欺く者は許せなかった。ましてや、私は秦の皇帝なのだ。
 私はただ、報告を待っていた。もしくは『道士』の行動による、その結果を。

 報告はやってきた。
 神秘の蓬莱を探した船団は消息を断ったままにございます。
 七年前に出航して一度の便りももたらされないとは。
 盧生と侯生は逃亡いたしましてございます。
 仙薬を探すのだの、精進が足りないだのと無責任な言を叩いた者達が。
 かつて私の友は言った。
 自分の申したことを果たさないのは大罪に当るのですよ。法による処罰に値するほどの。
 韓非、私も同感だ。

 糾問の会を召集した。学者と称する者、道士と称する者達に弁明を求めると布告した。近頃の愁眉が嘘のように李斯は下僚を叱咤し自らも走り回り、咸陽中から人を集めた。何をするのだろう、と朝臣達は怯えた目を見交わした。私に出会うと、化け物に出くわしたように目を伏せた。尉繚は姿を見せなかった。彼のことだから、どこかで私の行動を伝え聞いたのだろう。自分の居場所を知られたくない私だったが、自分が何をしようとしているのか、何故にするのか、は彼に報せたかった。出て来ないということは黙諾だ。
 結果はすさまじかった。
 化けの皮でも引き剥かれたかのような騒動だった。この者は他の者を罵り、かの者はあの者を讒訴し、各々が勝手な理屈を喧喧囂々と喚きたてた。何一つ論理がつながらない。同じ学説を奉じているはずの者ですら意見が一致しない。異学の者を攻撃するのみならず、同学の者までも声高に罵り合う。
 私は悪くない私は悪くないあの男の話はでたらめだ私は正しいあの男は陛下を批判した何を言うそれはお前の方だ彼の私生活は乱脈だあれは学者などではない学歴があやしい賄賂を受けているもうろくしている寝言をほざいている陛下を騙したのだ何を言うこのかたり者め食べて飲むだけが能のけだものめお前が悪いお前が悪いあいつが悪いそいつがあやしい彼は高官とつながっている人脈だけで成り上がっている本当は字も読めないのだろうお前こそ荘子が正しい墨子が正しい孔子が正しい老子が正しい道だ礼だ愛だ自然だ楚の手先め何を言う韓の嘘吐きめうるさいうるさい黙れ黙れ殴ったな足を踏んだな猿め犬め化け物め陛下陛下お聞き下さい私は正しいのですこの男が間違っているのです何卒叡慮をお示しくださいああ偉大な陛下。
 化けの皮に潜んでいた、醜悪。
 普段は柔らかい李斯の表情は、軽蔑と嘲笑に満ちた上で、剣呑だった。あまりの惨状に大抵は一瞬あの茶色い目を丸くするのに、この時ばかりは底光のするような視線を据えていた。亡き韓非が彼と交際を持った理由を、私はようやく腑に落としたのかもしれない。その瞳は亡友がしたように、静かに私へ向けられる。
 放置なさるのですか。
 放置だと。
 私の忍耐は既に限界に達していた。

「黙れ!」
 山狗の声が咸陽宮に轟く。

 秦王は鼻は高い、目は切長、鷹の胸に山狗の声ときたものだ。あんな男と付き合っていたら、先行きろくな目に遭いはしない。
 かつて尉繚はそう言い捨てて、咸陽を逃げ出そうとしたことがある。腹は立たなかった。自分でも的確な形容だと感じたからだ。容姿で先行きなど計られてはたまったものではないと一言したが。
 その山狗が吠えた。喧喧囂々の嵐が一瞬にして死の沈黙に転ずる。
「先年、無用の書を焚いた。」
 沈黙の濃度が増した。
「学問を否定はすまい。私は知識を重んずる。よって、学者、博士、方士には然るべき処遇を与えた。申せ、金の足りない者がいたか、私に目通りの許されぬ者がいたか。否定など出来まい。百万もの金を持ち逃げした者までいよう。して、そなたらの学説は何を生んだのだ。神秘の島は?影を見たという報告があって後、上陸した者がおらぬのが不可思議ではないか。不死の薬は?そなたらの頭目が逃げ去ったところを見ると、当人どもまでが信じてはおらぬ様子。皇帝に殺されて効目のない不死の薬など噴飯物ではあろう。では些細なこと、石から金を作りだしてみせるという計画は?失敗したとの報告しか上がってこないのだが。秦の『知識』を誇っている諸君、反論があるのなら即刻申し述べるがよい。」
 掻き回すことができるものなら、この沈黙はねっとりとした半固形の物体になるだろう。締りがなく、無意味に重い。だらしなく広がって行く。
 声を上げる者はいない。一人も、いない。
「それでいて、私を誹謗するとは、いい度胸だ。」
 沈黙が凍結した。
 私は報らされていた。彼等が陰で私を罵っているその内容まで報らされていた。彼等は私の性格を罵った。物事の進め方を罵った。執務の量まで罵った。
 全ては学識と無縁の内容だった。罵りは不満に起因していた。自分達が尊敬され、無知な庶民から受ける敬仰を私が与えないと、恨みすら持っていた。
 無意味な罵りしかしない者を崇める必要など認めない。それと同質の罵りを幼い頃から聞いてきた私にはわかる。遊女の子と、秦室の血を引きはしない者と、事毎に貶められた私にはわかる。自分の劣等を、自分の無能を隠蔽するだけのために他人の弱点を、それも対象と全くの無縁な欠点を上げつらう人種にろくな者はいない。
 私の性格が、私の政務が、そなたたちの掲げる知識といかなる関係があるというのか。たとえ双方が真っ向から対立することになろうとも、真実は真実たりうるのではないのか。少なくとも韓非は法の名の下に妥協など認めなかった。私が国法に超越する存在であることを望み、彼を遠ざけた時、韓非は自らの命を絶つ方を選んだ。
 本当は、あの男にこそ生き続けて欲しかった。対立しながらでも、良かったのだ。私が彼の処刑を命じたりしないと信じてもらいたかったのだ。
 生き続けるのは、学識の名にも値せぬような者ばかりだ。
−だから言ったでしょう。学者という者は、特に『いにしえ』を持ち出すしか能のない連中は、木の中を食い散らして腐らせる害虫のようだと。−
 貴方の言う通りだ、我が師友よ。だから私は目を開く。いつも、陛下は半ば眠っておられるような目をなさる、と評されるその眼をかっと見開いて、凍結した沈黙を氷解させる。
「今まで民を欺き、無用の言で金品をゆすり取り、そうして権威を嵩に着たと同様に私を欺きおおせると侮ったか!」
 おののきが政殿を覆った。ざわめきが広間を覆った。しかし私は一睨みでその全てを沈黙させた。
 沈黙せよ。立ち上がった山狗の咆哮の前に平伏するがよい。私の曇らされぬ理性の前におののき悔いるがよかろう。
 私は判決を下した。そして翻すことをしない。
「李斯、盗賊はいかなる刑に充当するか。」
 刑、という一言に、哀れな一団が崩れ立つ。李斯は普段穏やかな表情に、誰かと見紛う酷薄な色を一刷け重ね、笑顔すら浮べていた。明瞭に、
「死罪です。」
と宣告した。
 崩れ立った気勢が崩壊へと突き進む。先刻までの喧喧囂々が再び立ち現れた。最早止める術など誰しも持たぬ。
 恐怖に怯え、てんでに醜い形相で自分の助命だけを乞い願うあさましい『博士』とやらの底を見たと思った。その博士達が『倫理』の名と『道徳』の名において寄って多寡って糾弾したあの韓の公子は、独り冷笑を浮べ鴆毒の酒杯で友情を祝したものを。
 この狂乱は識者の狼狽ではなく、足がついた盗賊の末期の涙と根底が同じだ。
 お助け下さい、陛下陛下。
 黙れ。そなたたちはその杜撰極まりない知識の下に金持ちからは巨万の富をだまし取り、日々の食事にあえぐ貧民からはなけなしの暮しのもとを搾取したのであろうが!
 哀訴になど聞く耳持たぬ。獲物の息の根を止めようとする山狗に手を出す愚か者などいない。
 だから言うのだ。民の称賛など、無意味である上に危険でしかないのだと。その証拠に、そなたたちを奉り上げて珍重した者達は誰一人、救おうとしないではないか。

「お待ち下さい。」
 山狗の前に飛び出す若武者が一人。

 階の下から上がった意外な反駁の主は、私とよく似た目をしている。切れの長い、理知の勝った、それでも見開けば大きな目だ。もう少し母親に似れば良かったのに、とすら思うことがある。
 ただしその目を私は平素半ば眠っているように閉じており、彼は輝きを隠そうともせずに開いている、それが相違だ。
 僅かな、しかし大きな相違だった。
 私の母、つまり彼の祖母が、私の幼い頃に聞かせるともなく呟いたことがある。
 あまり目をきょろきょろと見張って歩くものではなくてよ。そんなことをしていると、何を考えているか全て人に筒抜けになって、虚仮にされてしまってよ。目を細くしておきなさい。泣きそうでも、腹が立っても、すぐにはばれなくってよ。そうしたら人笑われせずにすむのよ。
 あの人は、荘襄太后という人は、人の本質を見抜く鋭い勘を持っていた。政治に興味を持たなかった上に字の嫌いな彼女だったが、不思議と芯の強い男、見掛けだけの男、役に立つ男、太鼓持ち、と人間の種類を嗅ぎ分ける勘だけは間違ったことがなかった。秦の太后となってからも彼女は、それは自分が邯鄲の花形だったからだと放言して憚らなかった。
 眠そうですね、と蔡公に笑われ、目が悪くなりますよ、と李斯が真面目に忠告したこの顔をいつから始めたのだろうと記憶を遡れば、母の一言が底に沈んでいた。そういえば、荘襄太后が目を見開いた顔は私の記憶にない。半ば目を細めて、微妙な微笑を口に浮べている、誘惑的な表情が強く記憶にある。
 彼女も私も、頼る者を持たなかった。自分しか信じられなかった。しかし、私の息子は違う。誰からも愛され、賢く、若く、活力に溢れており、明るく、勇敢だった。そして人々を愛していた。だから晴れ晴れと目を開いて、豊かな凛々しい表情を見せる。彼は私の自慢の子であり、私の持つ美点が彼という器を借りてより完全になった。
 扶蘇様、扶蘇様。人は彼に信望を寄せた。丁度今、当然の処罰を受けるべき一団が免れられるのではないかなどと虫のよい期待を抱いて彼を見つめるように、仰ぎ見た。そして息子は、扶蘇は、正道と信ずることを臆せずにこの山狗に似た危険な父に申し述べた。
「天下は定まったばかり、人心いまだ秦に服してはおりませぬ。諸生は孔子を奉じていると聞きました。今陛下が法を厳重に適用されることで天下騒乱の火種となるを恐れます。」
 立派な勇気だ。山狗の前脚から獲物をひったくり、そうとでもして哀れな生き物を救ってやろうという見上げた気構えだ。さすがは私の嫡男、次代の皇帝たるに相応しい者。
 しかしこの場の騒議において、彼は何も報されていないのだ。それでありながら口を開くとは何たる軽挙。
「慎め。」
 子は父に対する従順から口を閉ざす。しかし異論はまだ顔の表情に燻っている。
 報せるべきではない。処断の剣を振るうのは一度でよい。人は私を畏怖すればよい。そして次代の扶蘇は、私には望みえなかった尊敬と親愛の内に、寛容な統治者となればよいのだ。私は地を均してしまった。扶蘇が残酷を演ずる必然はない。
 扶蘇よ、私を止め立てするな。
 学者達は己の振舞いでその墓穴を掘ったのだ。彼等の無益な弁舌で命を落とした者達への、これは復讐なのだ。皇帝が正しく成す裁きであるのだ。
 私は李斯に対して再び下問した。
「どのような死に値するのか。」
「坑刑に該当いたします。」
 立っている姿が法鼎に見えた。

 学者の往生際がここまで悪いとは予期しなかった。埋められる直前まで、泣いたり喚いたり罵ったり、とにかく騒がしかった。
 特に悪質だった四百六十人は、さも自分が無実であるがように喚き立てて地中に沈んで行った。土掘り人足が無表情にせっせと上から土を掛け、李斯は一段高い場所から平然とそれを見つめていた。
 申したことを達成しないのは罪ですから。不可能であれば黙っているがよいのです。それが相応というものではありませんか。自己を過大に見せかけて、危急の際に役に立たぬのでは爵禄を食い潰す害にしかなりません。
 心底から平然と言ってのけた、李斯だった。まるで彼の亡き親友を見ているかのようだった。
「韓非が生きていたら、やはり同じ事をしたであろうか。」
 呟いた私に、哀しげな茶色い瞳を向けた。もう二十年近く昔の出来事にもかかわらず。
「はい。」
と断言した。
 許してくれ許してくれ。お前を救えなかった俺を許してくれ。
 雲陽宮の桜桃の下に額づいていた、まだ若かった李斯を私は見た。見て、韓非が死の盃で友情に祝杯を上げた理由を漠然と知った。李斯は一切の弁解をせず、尉繚から宮廷人士の末端に至るまで、彼が自殺を迫ったと信じているのだが。
 韓非は、自ら毒杯を選んだのだ。静かに。古い極上の酒を味わうように。
 確かにそれは極上の酒だったのだろう。当時韓非の弾劾の急先鋒だった姚賈は、彼を拷問に掛けろと息巻いていたのだから。慌てた李斯が何を仕出かしたのか、大体の推察はつく。
 何とも不器用な友情に祝杯を上げたものだ。だが、我々の間にはそのような歪んだ友情しか存在できなかったのかもしれない。誰も信じない、誰も愛さないという前提の下に生きてしまった我々の間には。
 騒がしい終局が、ようやく地の底に埋まって、静寂が訪れた。裾を払って席を立つ。その後から静かに李斯がついてくる。
 迷信も詐欺も、地の底だ。
「見事な御英断でした。」
 李斯が私を誉めた。
「…それでも、私は永遠が見たい。」
「陛下?」
「方士共がどれだけ欺瞞に満ちていようとも、時というものが断絶せぬ限り永遠は存在する。李斯よ、不老不死を手にいれることがかなえば、我等の友もこの場にいて、果てなく交友を楽しむことが出来たであろうに。」
 そうして、この歪んだ友情を是正することも出来たのではないか?
 李斯は困ったように繰り返す。
「陛下、永遠など存在しませんよ。」

 それでも私は待ち続けるだろう。
 永遠の神秘が解かれました。
 その報告を誰かが持ち帰る日を。




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今年書いたまともなシリアスで『報告』です。さて、注記。政君の語り口に騙されて、「そうか、焚書坑儒は当然だったのね」なんて思わないように!(笑)いくらなんだって、人を生き埋めにしちゃいけません。高松も何度か政君に引きずられましたが。(笑)しかし、むやみやたらと埋めたんではなくて、詐欺行為が続出したんで埋めたというのが事実だそうです。扶蘇君が儒者云々を言ってるので儒者を埋めたというのが定説らしいが、どうも『史記』の文脈を見てると悪徳学者摘発のようです。学閥関わりなく。もし高松の予測が正しかったら、「扶蘇ーっ、僕がどこに儒者なんて埋めてんのさーっ!!」と政君がぶちきれます。(笑)多分儒者がひかかったってのは、「いにしえ〜♪」を乱発して政君に楯突いたのでしょう。(笑)よくあることです。タイトルはヴェルヌから。
さらに追記。巻頭詩が難しい読みなので、こう読みます、というのを書いておきます。

『頼み入りしあだなるさちの一つだにも。まごころありて、とまれるはなし。
そ思うと、胸は塞ぎぬ、かなしみにならはぬ胸もにがきうれいに。
きしかたのおかしの罪の一つだにも、こらしのせめを逃れしはなし。
そ思うと、胸はひらけぬ、あばらやのあはれの胸も高かき望に。』

読み方が分かると語呂がいいので。

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