| まずい、と直感はしたのだ。 こいつは相手が悪いな、と。 優劣がいつもの反対だ、と。 そこですたこら逃げだせばよかったのだが、好奇心にやられたばっかりに高い代償を払う羽目になった。 げに恐ろしきは物好き心というものだ。
「咸陽は気に入ったかーい?」 野太い声と共にばしっ、と背中をどつかれて、あわやふっ飛ばされかかった。いくら将軍だって、もう少し年に見合って体力をなくせよ、という気分にもなる。そーいやあ、この人の息子さんが、いつも疲れたよーな顔をしてるよなあ。お疲れ様。 とはいえ、俺は好きだね、このじーさま。 「待遇いいですからね。さっさとずらかる予定でしたが、何となく今のところはいますよ。」 「そーだろう、そーだろう、咸陽の美女は天下一品、ここからよそに行くなんて、人生の楽しみを半減させるというものさ。」 と豪快に笑うこの老将、王翦殿は、こよなき俺の飲み友達なのであった。 秦都、咸陽に来てしばらく経つ。 実は別段、こんな僻地に来たかったわけではない。いかな大国とはいえ、僻地は僻地で、西の果てのやたら広い田舎の国というのもまた、秦の現実ではある。俺は中原の魏の都で生まれ育ったせいか、秦の人間がどうも野暮くさく見えていけない。ど田舎の成金が物量に任せて悪趣味で派手な飾り立てをしたのが咸陽の宮殿だろうが、と一刀両断したものである。 期待はいい意味で裏切られた。相国呂不韋が手を入れたのか、それとも歴代の宰相達が手を入れたのか−というのは秦の丞相を秦人が勤めたためしはここ百年以上なかったからなのだが−、咸陽宮は快適で、演奏の水準も舞踊の水準もまずは合格だったからだ。おまけに宮廷の美人を口説き放題口説いて良いと勅許が下りたなら、こんな好機を逃す手はない。 『ああ…陛下は後宮にあまり興味がおありではないから。まあ、大概にしたまえよ。』 と教えてくれた、前丞相蔡沢殿も飲み仲間ではある。まあ、真面目だもんなあ、あの殿下。堅物の李斯と仲がいいのがよくわかる。李斯なんて、気の効いた洒落の一つもわからずに、しばらくしてから笑いだすような鈍い奴で、あんなのに自説を叩きこんだ韓非の気が知れない。そーだった、韓非って自分のことを馬鹿にしなけりゃ案外誰でもいいんだっけ、友人は。なんて、友人の端くれにしてもらってる俺の言うことじゃないが。 かくして俺は秦王殿下に兵法の講義をしながら、薔薇色の生活を謳歌しているんである。めでたーし。 と言いたいところだが、人生それほど甘くない。これは過激なじいさんに翻弄され尽くした、父上の座右の銘だった。尉家の座右がこれじゃあ洒落にならないが、案外じいさんの兵法よりも現実的かもしれない。俺の咸陽滞在が甘くなかったのは、事もあろうに生徒の秦王殿下が一筋縄でいかない代物だったからである。別段屁理屈をこねたがるとか、待遇が悪いとか、頭が悪いという問題ではないのだ。そうならば、二日で逃げ出している。むしろ逆だ。素直に聞き、理解できるまで追求し、待遇は薔薇色だし、秦王の呑み込みは文句の付けようがないほど早い。そのせいで、段々ここにいるのが嫌になってくるのだから、韓非などに知られたら、贅沢者!と尻を蹴り飛ばされるだろう。 しかし、事実なのだから仕方がない。もっと言えば、一回りは年下の小癪な秦王が、俺は怖いのだ。認めたくはないのだが。酒の合間にぼやくと、王翦将軍も同調したから、あながち俺だけではないのかもしれない。 兵法を学び、天下を束ねようとするくらい、大国の王で、そこそこの手腕を持っていれば誰でも思いつくだろう。ただし、と過去は保留を付けるのだ。王が学ぶのは一度、良くて数度の謁見であり、一度兵法家の手腕を認めたなら彼に全権を委譲して、自分はそれをただ、見守る。秦王はそれで納得などしない。連日俺に兵法を学びたがり、片時もお傍去らずで兵法の話をしたがる。李斯なんかがいると悪癖を教えこむわけにもいかず−秦王は見かけより相当にうぶだから−、結果として解放されるまでは禁欲させられている時間の方が長いという結論になる。別段恋をしていないと落ち着かないというほどの脅迫観念はないのだが、自分と性質の違う人間と日がな一日鼻つき合わせているというのは相当に肩が凝るのである。ましてや、それがいざとなれば俺の首を胴体と泣き別れにするくらい朝飯前の権力者ときては、だ。俺だって我が身が可愛い。 秦王政にだって感情はあるだろう。好き嫌いははっきりしているし、むしろ激情家ですらある。気位たるや相当なもので、それでも俺が怖いのは、その気位を後回しにしてまで他人を上に立てる、秦王の一面だった。 友人の韓非が似たような性格をしている。口調こそ育ちのせいか丁寧だが、言葉の内容たるや他聞を憚るほどの過激さだし、こと法治においては自分の右に出る者などあるまい、と他人をのっけから見下して掛かる男だ。だが、決定的な違いがある。韓非はその傲慢さを一時にせよ矯める事が出来ない。秦王が自分を利するためならば苦もなくやってのける『謙譲』の芝居が。 だから俺は韓非が好きだったし、秦王が嫌いだった。あの餓鬼…おっと殿下は小癪に過ぎる。この尉繚様が完全に優位に立てるような隙を残さない、可愛げのない生徒を好くつもりはない。 教えてやると約束した以上、祖父の兵法を俺なりに改竄した代物をせっせと伝授した。せっせと伝授し、薔薇色の生活を満喫し、それを一場の咸陽の夢として、早いとここんな生徒と縁切ってやる! 「君、軍師になるんだって?」 王翦将軍がにやにやとやーな笑いで近付いてきた。そのまま馬車に連れ込まれ、王家の酒盛り−酒宴というような優雅な柄の人じゃない−に駆り出された。 「誰が。こないだまで生徒扱いしてた殿下に、一転して威張られたくなんかないね。」 飲み友達にはため口というのが俺の主義である。年齢差無視、官職無視の俺は、当然ながら友達は少ないのだが、一旦気に入ってくれた人とはこれでも長く友情を続けることができるのだ。 「威張りたくてうずうずしていると思うがねえ、殿下は。積年の恨みをいつ晴らそうかと、喜んでいるだろーさ。」 「冗談だろう?やだね、俺は。大体、将軍には悪いが、俺、殿下は虫が好かない。」 「ああ、蔡公にも言ったんだろ?秦王殿下は切れ長の眼差しで高い鼻、厚い胸板で山狗の声、あれは義理人情なんか屁とも思わない手合いの人相だから、長くかかずり合うなんてやなこった、ってね。」 …ばれている。ざるの王翦将軍は、早くも洗面器のような盃にまた酒をお代わりしながら、 「やっかみに聞こえるよ。」 と、更にやーな笑い方をした。 「やっかみ?」 「違うかね?殿下はあれでなかなか、胡人に似た端正な面差しでいらっしゃる。おまけに、王でありながらあの奥手さんだからねえ…実は後宮で密かに殿下に思いを掛けている人数の多さに辟易したのだろう?」 ぎく。 「そんな了見の狭いことはしませんよ、おじさん。無風流だなあ。」 「殿下は後宮では別人のように無口だよ。何しろ、義務として子供を生ませる方だから。」 「何が義務だよ、恋こそこの世の楽園ですがね。それ、誰かが鍛え直してやったらいいんじゃないか。不良おじさん、あんたとか、蔡公だってそうでしょうさ。」 「おいおいおい、蔡公は殿下の師傅なのに、弟子にそんなことを仕込めるものかね。君が軍師になってから、たっぷりと仕込めばいいことだ、期待しとるよ、お若いの。」 やなこった。という言葉を、俺は『洗面器』の中身と共に飲みこんだ。 軍師など、なるもんか。兵法は……。 それは少しくらい、自分の兵法を実践してみたいという俗っ気もあるが…あの秦王政におちょくられながらするのは絶対嫌だ!あんのくそ生意気な生徒っ! 出てってやる。出てってやるったら出てってやりますともさ!就職なんか大嫌いだ! 「…尉繚が素直に就職するような玉ではないと思っていたが、ここまで当たると味気ないものだな。」 「そんなにお笑いになっては、尉繚君もふてくされますよ、殿下。」 「しかし、蔡公。よくもまあ、そのお年であの酒豪の尉繚に付き合っておられるな。お体に支障は?」 「いえ、全然。ここだけの秘密、私の盃は上げ底です。殿下、尉繚君にはご内密に。」 「蔡公のような古狸に騙されている尉繚が気の毒になってくる。さて、どんな顔をするかなあ。」 「さあて。まあ、王翦将軍が函谷関で酒壷抱えて待ってますから、壷に漬けて来るなり、全部飲ませて酔いつぶすなりして連れて帰るでしょう。秦にも陽気な人士は必要ですからな。李君はどうも真面目に過ぎる。」 「李斯は真面目というより、やりすぎてすっとぼけているのだ。あの二人を見ていると、とても楽しい。蔡公、まるで漫才なのだからな。もっとも、我が師がこのような策士であるのだから、弟子がああいう人材を求めても致し方ないのであろうかな。」 「…殿下。師の権限で、罰杯を命じましょうか?」 出てってやる、出てってやる、脱走してやるっっ!! もくもくもくもく。怒りに任せて歩くと早いの何の。あーっ、腹立つっ! 楽しくなかったとはいわないが。嬉しくなかったともいわないが。 いや、傍若無人な俺の話を最後まで聞いて、師事したいと言われて、本当は得意だったのだ。ほら見ろ、この尉繚様の才能をわかる奴はわかるんだよ、と。 秦王政。 『そなた、何を売りに来た?』 『殿下に兵法を。いや、殿下に、天下を。残念ながらこの商品、買った奴はまだいない。』 『申せ。尉繚子。』 貴方は、俺を買った。 いかん、あのくそ生意気な弟子に情が移ってる!くっそう、無視だ無視っ!足まで止めてしまった自分にますます腹が立ち、もくもくもく、が、ざかざかざか、というまで速度を増した。 出て行って、どこに行くのだ、尉繚。他の誰がそなたを買うと? あの小生意気な低い声が追いかけてきそうで、ざかざか歩いた。 一緒に飲もうじゃないか、尉繚君。 蔡公にくらい、別れを言えば良かったかな。駄目だ、あの人は秦王に近すぎる。 殿下に悪いことばかり教えるなっ、お前みたいな札付きになったらと思うと、おいたわしくておいたわしくて……。 安心しろよ、李斯。出てってやるから。韓非にも、お前はぴんぴんして殿下のあやしい子守役になってるって、言っとくからな。 李斯やめて。あやしーから。尉繚もさあ、李斯刺激しないでよ。僕の部下変なのばっかりって思われちゃ、梭沙ちゃん、逃げちゃうじゃないかっ! そーいや、恋する秦王殿下の初恋、見捨ててきちまったな……。ごめん。 居心地、良すぎた。このままだったら、牙を抜かれそうで怖かったのだ。俺は主君に飼われる身にはならない。そうと決めてきたのだから、今更秦王殿下にも仕官するなんて、やなこった。 そりゃあ、小生意気で腹立つほど飲み込みが良くて、色々と構ってやりたい部分もないとは言わないが。 ええいっ、感傷だ感傷!尉繚様に過去なんざ不要だいっ! すたすたすたすた。目指すは一つ、函谷関。 「待ってたよ、尉繚君!」 一隊を率いて、満面の笑顔で手を振る王翦殿に、目眩がした。こ、ここ函谷関だよな……。どーして王翦将軍が、咸陽くんだりを離れて、こんなところにいるんだよ! いや、王翦殿を派遣するとなれば……。最悪。 「で?俺はどーなるんですか、穴埋めですか、首切りですか、市中引きまわしですか。」 投げやりになって座りこむ。 「立ちたまえよ。そんなところに座ったら汚いじゃあないか。」 「そういう問題じゃないでしょう!」 「ほら、預かり物。」 ひょい、と突き出された木簡一つ。この字、殿下の親筆だ。 辺境の視察が終わったら、すぐに戻ってくるように。先生にはまだ実践を講義して頂いていない。慰労の宴は用意しているので、苦情を言わぬように。 兵法の実践講義ってったら…あのね、殿下。苦笑がこみあげる。 俺は理屈を講義するって、言ったんだぜ? 「逃げんなよ、尉繚君。殿下が、『追え!あのいかさま兵家、何があっても国外に出すな!』って怒鳴ってたんだから。君がいないと咸陽宮の漫才師が一人減ると…いや、これは蔡公も言ってたんだがね。」 「…殿下も言ったんでしょうが、その口ぶりからすると。」 「うん、あの李君もそうだそうだと……。」 …李斯の奴っっ!!天然ボケの癖に、誰が漫才師だっ、あの野郎! 「さあ、咸陽に戻ろーね☆」 「戻るっ、戻ってあの生意気な殿下に再教育してやるっっ!」 しょーがない、戻ってやるともさ。いかさま兵家だとお?生意気なーっ!この尉繚様をちったあ尊敬するまで、もう一度調教し直してやる、あのくそ生意気な秦王殿下! それこそ、私の願うところだ、尉繚子。 あのくそ落ち着き払った態度で言われそうなのが癪ではあるのだが。でも。 函谷関を閉ざすまで、俺のこと出したくなかったって?しょーのない奴だな、仕方ない、いてやろう。気にくわない餓鬼だけど、いてやるさ。 「王翦将軍、腹減った。飯、あるかい?」 「勿論だよ!あ、君のおごりだからね。君を捕まえたら懸賞金が出るのさ。」 「お尋ね者かよっ、俺はーっ!」 「似たようなものだと李斯君が言ってたがねえ。」 「覚えてろーっ、李斯の奴!大ボケのすっとこどっこいのくせに!」 そなたを秦から出す気は、決してない。決して立ち去ってはならぬ、尉繚。 だからって、懸賞金まで掛けるなよお…というのが、いささか情けない尉繚の感想だった。
お題シリーズ『強いられて』秦に留まる羽目になった尉繚の話です。(笑)これがお題シリーズで書いた秦帝国初のお笑い。久し振りにこのキャラクターでお笑いをやったもんで、まだ暴走はしてません。やはりお笑いに荀卿門下コンビは不可欠だったか……。当初はもう少しシリアスになるはずだった。が、王翦将軍と蔡公が漫才を始めたお陰でこの有様。政君までが悪のりしてます。しっかし、まさか最後のおちで懸賞金がかかっていたとは…政君、やっぱりブレーンに影響されているよ? |