掌中の玉は弄ぶためにある。とすれば、俺がこの楚を手玉に取るのはまさしく正しいことになる。ましてそれがかつての復讐にすらなるとしたら。
列席の一座を見渡すが、そこに『宰相』だった男の姿はなかった。死んだのだろう。もう、二十年近く昔の話だ。
しかし、俺は確かに予告状を送っていた。留意するか否かはそちらの判断だ。
そう、確かに俺は予告した。
汝の国を盗む、と。


La Notizia
−復讐のクレッシェンド−


 貴方が合縦を破約にし、斉と国交を断つのであれば、商於六百里の地を差し上げる備えがございます。
 この台詞に飛びついてきたのは楚王槐の方だ。もういい年になった人間が、と頭の片隅で冷笑した。こんな奴がよくぞ王位に就けたものだ。擁立する方も、もう少し頭を使えばよかろうに。
 もっとも、秦にとってそれが僥倖であることは否定しないが。そして、俺は秦相だった。秦相であり、詐欺師だった。いや、盗賊だ。
 笑顔一つ浮べない、くそ真面目な顔で俺は白昼にこの国を盗む。かつて楚相の屋敷で紛失した玉の形代として、楚の国土を切り取りに戻る。だからこそ血統以外に取柄のない楚王の前に立っている。
 王も王なら、臣下も臣下だ。宰相という仮面をかぶっただけの盗賊張儀を、諸手を上げて歓迎するとは多寡が知れている。まあ、都合は良いが。楚の公子という令尹子蘭は何かにつけて俺のご機嫌を取った。所詮は魏の平民に過ぎない男の下仕えよろしくという按配だ。
 お召し物は、お館は、お側仕えは、お食事は、お気に召しましたか。
 気に入らないと言えば、何度でも華美で贅美なものを送って寄越すのだろう。張儀という人間の不興には、それだけの迫力があるというわけだ。何しろ、突出した強国である秦の宰相閣下にして、恵文君を王位にまで押し上げた殊勲者なのだからな。
 舌とは、ありがたいものだ。子蘭の差し入れた極上の酒を味わいながらしみじみと思う。
「なあ…舌があったから、俺はここまでになったんじゃないか?」
 暗い空間に、既に故人となった妻が佇んでいるかのように、呟いてみた。いや、物故した妻と思ったものは、その面影によく似た別の人だったのかもしれない。

 白昼に客舎から引きずり出された。屈強な武芸者に取り囲まれて、俺は何の騒ぎだと叫んだ。
『宰相の宝である、高価な壁が盗まれた。』
 壁?
 だから、それがどうしたと怒鳴りかけて、俺は自分が嫌疑を掛けられている事を知った。不吉な鞭打ちの道具が用意されており、楚相の食客共がずらりと並んで、これから始まる見世物を見物しようとしていたからだ。讒言したのはこいつ等だ。俺は確信し、絶対に冤罪など白状してやるかと決めた。
 一打ち。革紐が風を切る。そして一打ち。
『お前であろう、魏の土民が!』
 一打ち。背中を蹴られて地面に突き倒され、踏みにじられる。後ろ手に縛られて顔すらかばえなかった。髪を鷲掴みにされて頭を引き上げられる。背中の裂傷に土足ですり込まれた砂があんまり痛くて悲鳴を上げた。
『白状しろ!』
 鞭ではない。棍棒で殴られて意識が飛んだ。
 この間まで眠たい間抜け面で俺の話を聞いていたと思ったら、これか。あの野郎、と脂肪が垂れ下がりつつある、飽食の貴族の顔を俺は憎む。
 恐らくは家宝を紛失して逆上でもしたか。そして吹きこまれるままに拷問を命じたか。確かに俺は名門でも貴族でもない、復讐の術を持たない土民であったのだからな!お前にとっては。
『隠し場所を吐け!』
 そんなもの、目にしたことすら、存在を聞いたことすら、ない……!
 殴られる。蹴られる。踏まれ突き倒され、水を浴びせかけられ、鞭打たれ、日暮れになる頃に屋敷から蹴り出された。唾すら吐きかけられていたのだろうが、記憶にない。
 何も知らないで客舎の中で震えていた哀れな妻は、僅かな持ち物を全てはぎ取られてから、やはり追い出された。路傍に横たわる血まみれの夫だけが、彼女に残されたものだった。それでも優しい妻は、必死で助けを呼んだ。成り行きに同情してくれた気のいい商人が、寝泊りの場を恵んでくれたらしい。医者が呼ばれ、謝礼を払えない妻は日銭仕事を必死にこなす傍ら、俺の介抱をしてくれた。
 一言も語らなかった、あの時期。
 目を開けた時視界に入ったのは、縫物を放り捨てて取り綻る妻の姿だった。
「良かった…生きていてくださって、本当に良かった……!」
 俺は、生きているのか?
 ということは、奴は俺を殺さなかったというわけだ。
「もう、いいでしょう。貴方様は弁舌など学んだばかりにこんな目に遭いなさる。貴方様が鬼谷先生に弟子入りなどなさらなければ、それほど賢くていらっしゃらなければ、こんなことにはならなかったでしょうに!」
 泣きながら綻りついた、可哀想な妻だった。だが。
「…俺の舌はあるか?」
 久し振りに聞いた自分の声。泣きながら一生懸命に頷いた妻の姿。
 勝った。
 殺さないのであれば、せめて舌を抜くべきだったのだ。俺は、お前など容赦する理由を持たない。この国に容赦するいわれを持たない。
 だが、復讐するにはどうすれば?
『何と、貴方は蘇子のご学友でいらっしゃいましたか。』
 蘇秦の名を思い出させたのは、力になってくれた商人だ。
『それじゃあ、こんな物騒なところに長居をしないで、お友達をお頼りになったらよろしいのでは?ちょうど燕へ商用もありますので、うちの連中と一緒にお出かけになるといい。人間、あそこの宰相様みたいな奴ばかりでもありませんよ。』
 そうだ、そして俺は蘇秦の下から秦へ行くことになったのだった。
 もう、二十年近く前の話だ−。

 忘れていたはずなのに。俺は手酌で『楚相の差し入れた酒』を『楚相の献上した玉』でたしなむ。
 そうだ、この玉杯を持って来た時の子蘭の間抜け面といったら。あれが宰相だとは、落ちたものだ。恵王に、楚など菓子のように簡単に手に入ると言ってやろうか。
 是非にご交誼を、と楚の令尹が持参してきた見事な玉杯だった。見事な玉などいい加減沢山見てきたが、その中でも極めて上質の部類に属する代物だ。無駄な装飾をせず、春の日を浴びた江の水面にも似てとろりと潤みを帯びた翠緑の小ぶりな杯。お気に召しましたか、と子蘭がさもしい顔を向ける。この男が見下す商人風情の方に、よほどましな面構えが何人もいるというのに。
『これはこれで立派な物ですが……。』
『お気に召しませんか?』
『いえ。若い頃楚に立ち寄った折、楚相であられたお方が大層立派な壁を持っておられたとか聞きました。今は王室の蔵にでも入っているのか知れませんが、一度拝見したいものですな。』
 ああ、それならやってみましょう、と子蘭は阿呆面を下げて帰って行ったのだった。
 俺がそれを盗んだことにされている、と知ったらどうするのだろう。それでも秦相を叩き出す度胸は奴にはあるまい。もし、それをするのであれば。
 不愉快な面を思い出した。
 王の眼前で散々に俺を罵り、和議の否決を主張してやまなかった男。三閭大夫、屈原。
 いかれた頭の詩人のくせに、俺の正体だけは正確に暴いてみせた不愉快な男。
 奴と俺では人間の出来が違うことは重々承知で、それでいながら俺はまつわりつくうるさい蝿のような彼の言辞を聞き捨てに出来なかった。この百選練磨の張儀ともあろう者が。
 歯牙にかける必要のない人間であるだけに、尚更目につく、鼻につく。能力の問題ではない。たかだかあやしげな法律を作った程度の単発男と連年遠征にまで駆り出された俺とではまるきり勝負になるはずがない。
 あの男は自分で自分の面倒を見る必要などその初めからなかったのだし、いわれない嫌疑を掛けられて袋叩きにあったことも、駄弁を弄して遊説することも、『友人』に頭を下げて借金する羽目になったこともないのだ。だからこそ、小綺麗な小理屈を並べて、安閑と高位に留まっている。一歩間違えば首が飛ぶ俺などから見れば、彼の『忠言』など子供の寝言に過ぎない。大体あの脳味噌が楚より広い地域を考慮に入れたことがあるのかどうかすらも疑わしいものだ。
 俺は今やいっぱしの識者として、宰相として、人様から恐れられつつ一目置かれている。それでいて、俺はあの単純極まりない男がいつも、勘に障っていた。もしも俺を叩き出すとすれば、今でさえ俺の首を切ってしまえと息巻いているあいつだろう。
 たかが、玉一つのことで。
 玉の方が人間様より価値があるとは、天晴なご時勢だ。
 しかし、今の俺は半殺しにされて放り出された無名の説客ではない。秦一国を転がす『宰相閣下』で、だからこそ二十年前の予告状は虚仮脅しではなくなっていた。そう、俺は恵文君に宰相に任ぜられてから第一に、楚の宰相へ果たし状を送ったのだ。

『壁を盗んだとして汝は私を追った。見よ、今度こそ私は汝の国を盗むであろう。』

 玉など、安いものだ。空手形だけで楚一国を半属国として引きずり回せるというのなら。
 楚の君臣は大層この張儀を気に入ったそうだ。無論、自分の間抜けさ加減に気付くまでだろうが。俺の正体を見破った詩人に君主の寵愛と朝廷を泳ぐ手腕がなかったのはもっけの幸い。小利口な間抜けが令尹だったのは幸運の証。
 帰り道、笑いの止まらない上機嫌の俺は、ふと、車を止めた。窓を開けると、湘水の流れが陽にきらめいていた。
「湘夫人にも分け前をやろう。」
 楚相が御大層に扱った玉杯が、円弧を描いて水中に消える。俺に玉など必要ない。そんな小物で今更弄絡など、誰がされてやるか。
 頂くものは決まっている。
 今度こそ、白昼堂々と、大嫌いな楚の国を盗んでやるさ。

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タイトルが二転三転しましたが、お題シリーズで『恨み』です。ついでながら張儀もので初めて完成した代物です。わーいっ、やったー!!(笑)相変わらずドライに暗い張儀という男で、この男自体にあやしい要素がほとんどない→よって崩れないために、書きづらいキャラクター。いや、政君くらいに重い条件を背負ってしまえば書けるんですけど、そこまでのものはないし、おまけに『幻想旅行』の主人公は屈原だし。(笑)これを書こうと思ったのは、張儀の伝記を久し振りに眺めて発見した『汝の国を盗むであろう』発言のせいです。余程衝撃だったらしく、本業(副業?)のイラスト原稿の端にまで鉛筆でメモ書きしてあったり(笑)。最初に思いついたタイトルを蘇秦に使ってしまってて、一週間近く後悔に日を送ったのは事実です。

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