世の中で罪犯さぬ人がいるものか、
そんな人いたら教えておくれ。
わしは罪人、報いは受けよう、
だがわしとおまえでどんな違いがあろう。
     オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』より


But also you
−アダージョ・モデラート−


 月に酒盃を掲げる。酌み交わす友は、もう、いない。
 それでも、あの男は俺の杯を受けてくれそうな気がした。あの端正で冷たい微笑を浮かべながら。

 近頃俺に凄味が加わった、と人は言う。そう、なのだろうか。確かに以前のようなわかりやすい僻言を聞かずにはすむようになったが、それだけだ。何よりも陛下が何も口にしない。
 あの一件についても。
「俺は、お前を見限った!」
 あの飄々とした尉繚が感情を剥き出しにして詰め寄って絶交を言い渡したというのに、俺は冷静だった。黙って彼の去るのを見送った。
 尉繚に去られて何も感じなかったわけではない。俺の弁解など尉繚には迷惑でしかないだろうから止めなかった。真相は、俺と、韓非が知っていればいいことだ。
「嘘です!先生がそんなひどいことをする方だとは信じられません!」
 近頃我家の門を叩いた呉という青年は、その囁きを聞いた後半泣きになって俺に訴えた。苦笑する以外に、なかった。
「私は、聖人ではないよ。」
「先生は、世間で言われるような冷たい方ではありません。その証拠に、このような微賤の私にさえ丁寧に接してくださる……。」
「私も元は布衣だった。それだけだ。さあ、この書簡を蒙毅殿に持ってゆきなさい。あの方の仕事を滞らせてはならない。蒙家は大貴族だ、君も表情をきちんと整えていくことだよ。」
 律の制定のため打診された文書の回答を渡しながら、いなくなった友をふと思う。存命であったとしても、彼の意見を聞こうとは思わないが。
 言うなれば、彼は純粋な理論の世界に住む人間であり、俺は結局現実以外の場所には住めない人間だったというだけのことだろう。
 お前の言ったことを逐一実行に移していたら、国がいくつあっても足りないよ、韓非。
 だから、俺は彼と現実の橋渡しをするために生きている。恐らく、だからこそ彼は臨終に際して祝杯を挙げたのだ。
 私たちの歪んだ友情に、と。

「では、貴方は復讐をなさるおつもりなのですね。」
「無論。あのような黄口児に讒言されるとは片腹痛いわ。私が誰であるか、しかと認識していただかねばな。何が韓の公子だ。世間も弁えぬ吃りの分際で。秦の四代を見てきたこの私に逆らおうなど、いい度胸だ。」
「では、獄卒にもさりげなくそれとお伝えいたしましょう。」
「おお、そなたは忠義だな。頼んだぞ。秦王は惑わされている。その蒙を開いて差し上げねばなるまい。」
「どのように致しましょう?」
「はて、杖刑に致そうか、縄で吊るそうか。舌はまだ抜かずともよかろう、今だとてあってないようなものだからな。」
「かの碩学がどんな情けない顔を致しますことか、笑えてきますなあ。」

 回廊は、長く遠い。まだ文信侯呂不韋殿の門人であった頃は門の近くの建物が私の仕事場だった。今では扈従の家人や下僚を引き連れて遠い宮城の中枢にまで歩いてゆく。かつては単身、走っていったものを。
 李斯はいるか?
 仕事場へ風のように現れた秦王陛下は、今や微動だにすらしない天下の覇王。韓を下し、趙を屠った今、残る大国の始末をお考えであられる。もう私の元へ走って現れることはない。使者が行き交い、陛下は私をお呼びになる。私は陛下の元に参上する。かつて青い襟で走っていった部屋まで、許された緋色の朝服で歩いてゆく。
 誰かの血の色で染めたのかと尉繚辺りが皮肉を言いそうだ。
 私は廷尉として秦律の総監督に当たっていた。全国に法が公布され、施行されるのを見届けよと陛下は命じられた。
 恐れられるがよいのだ。廷尉ともあろう者に威厳が欠けては、法の峻厳は守られない。孤独であるのが宿命なのかもしれない。あの碩学がそうであったように。だが、何故か私は彼が憎まれたほど嫌われることもなく、だからといって好かれることもあまりない、平凡な廷尉として朝廷に仕え続けている。
「李廷尉!良かった、君を探していた!なあ、陛下に君からも口添えして貰いたい。私には楚を破る自信があるんだ。もう老人の出張る幕じゃない。君だってそう思うだろう?何かのついでに耳に入れておいてくれ、頼んだよ!」
 現れるなり一方的にまくし立て、陽気に笑ってぱん、と背中を叩いていく。将軍となった李信殿は覇気に満ちていた。何かしたくてたまらないのだな。あの方は昔からそうだ。後先を考えずにつけつけと物を言い、間違ったとなったらからりと謝る。陽気に笑ってあまり悩まない、名家の坊ちゃん育ちがあの方の持ち味だ。かつては迫力に押されていたが、今では屈託のない彼が私の息抜きでもある。
 その友人、蒙恬将軍の顔が険しくなるのと引き換えにだ。その彼は一時私と秦律の仕事をしていたが、そもそも武門の家だった蒙家の嫡子として将軍の位に就いた。彼は韓非の死後あからさまに私を攻撃するようになっていたから、陛下としても見かねていらしたようだ。実際彼の適性は軍事にあって法学には暗かったので、私としても息をつけた。
 部屋に入ろうとすると、陛下からの使者が私を待っていた。扈従に執務の準備を言いつけて残し、私は単身、かつてのように秦王の部屋へ急いだ。回廊を曲がったところで、私は見た。
 あの、男だ。

「おや、李廷尉。大官の貴方様ともあろうお方がお一人でお急ぎですか。」
「姚卿。あなたこそこのような場所にお一人で何をなさっておられる?」
「年寄りは構って頂けないものでしてな。陛下のお姿なりと窺おうとしてうろうろしていたのですよ。大出世をなさった貴方様とは違う。」
「陛下のお召しに応えて参上したのみです。」
「お召しがあるとは羨ましい。まあ、公子非のおらぬ今、法にかけて貴方様の右に出る者はおりませぬからな。」

 何を、言いやがる−!

 あの日、この回廊で、この男は自分の客と密談を交わしていた。韓非が雲陽へ護送された直後のことだ。陛下はそれが、韓非を秦に仕えさせる方策の一環として為されたと信じていた。そして俺は猶予がないと悟った。
 数日前に韓非は満座の前でこの男を弾劾してのけたのだ。六国を股にかけ、反復常なき計を誰彼構わずに説いてきたこの男の節操のなさを論難したのだ。陛下はそれを信じた。この男は危険を悟り、逆に陛下にあることないことを吹き込んだ。
 雲陽で何が行われるのか、想像に難くなかった。使者が既に発っていた。そして俺は。

「私など、姚卿にはまだまだ及びもいたしませぬよ。貴方のように鮮やかに法の目を潜る方には会ったことがない。」
「…それはまた、大層な誉め言葉ですなあ。」

 あの日もお前は卑屈に笑っていた。人に命令を下しながら、正面ではなく陰から陥穽を掘り抜く者に相応しい、不愉快でさもしい笑いを浮べていた。だからこそ俺は雲陽へ走った。運命の壷を抱えて。
 韓非は全てお見通しだとばかりに笑った。
−同門の誼で鴆酒くらい持ってきたのでしょうね。−
 賢過ぎるばかりに自分の最期まで予期して手を打っていた男だった。韓非という奴は。それでも壮絶ですらある微笑を浮べて毒酒に乾杯した彼は、友人でありながら見とれるほどの高雅な面差しだった。
 何でこいつが生き残ったのだ。韓非に鴆酒を渡した俺を難詰する一味に加わりながら、更に汚い所行を思い巡らしていた男が!
 こいつだけは許せない。俺が韓非を殺したのだとすれば、この男も同罪だ。

「しかし、その相はあまり高貴な御相とも見えぬ。残念ですな、折角六国をお回りになってそこで終わられるとは、さぞ口惜しいことでしょう。」
「李廷尉。韓非子がいなくなった今、貴方の敵はいないとおっしゃるか?それはそうだ、貴方は彼にかなわなかったのですからな。」
「君もだ、姚卿。」
 俺は、近頃『恐ろしい』と囁かれつつある微笑みを浮べる。片頬で笑うだけで、それほど凄みが出るのだろうか。
「蟹は自分に似せて穴を掘ると申しますが?」
と切り返す説客の声には心なしか力がない。
「君のようにか。あの場で韓非を論駁することも出来ず、この柱の陰で何やら楽しげな相談をしていたな。」
 彼は俺を睨んだ。俺は、ただ見返した。
 この男のような年の取り方をするのなら、韓非のような最期がまだしもだ。青ざめて追い詰められたかつての説客はさもしい憤怒の形相を向けている。
「左様、韓非のいない今、彼に法を尋ねた私が秦律を統括する。つまり君の語ったことを君にそのまま施行することもできるというわけだ。何にせよ、かの件で我々は同罪なのだ。」
 憤怒の形相が恐怖に変わった。そう、貴方は客卿かもしれない。しかし私はその位を既に終え、法の権柄を握る廷尉であり、更に韓非の友でもあったのだ。
 咎められるべきは、俺だけではない。或いは。

 遅巻きながらでも、何かさせてくれ。我々の歪んだ友情の為に。
 閉じた瞼の裏に、貴方はいつも鈍臭いんですよ、それだけ弁が立つくせに、という毒舌家の涼やかな微笑が見えた。

「廷尉、ご無礼を仕りました。」
 拱手の礼は敗北の宣言だった。年長であり甲羅を経た説客に礼を取らせ、平然とそれを見下す俺はやはりどこかで変質したのかもしれない。呉青年には申し訳ないと思うが。
「非才の身での数々の暴言、浅慮の故とお聞き流し下さりますよう。」
「お体が悪いのであろう?」
 顔に貼り付けた微笑は揺るがない。いや、既に貼り付けたものですらなくなっている。最早会心の微笑だ。
 韓非。お前の信用した弁舌は健在だぞ。
「そろそろ養生ということをお考えになったがよろしいのでは?姚卿。」
 駄目を押すと、彼の顔が真っ青になった。
 韓非の果たしえなかったことを、一度くらい代わってやってもよいというものだ−。

 随分ともたついたものですね。まあ、貴方にしては上等な復讐だとでも言ってやりますよ、李斯。
 そう皮肉って、また過激な文言を載せた書簡を俺に寄越してくるだろうか。

 青ざめていた男が今度は震え出し、俺は後を振り返った。
「随分と油を売っている。」
「申し訳ございません。」
「私よりも姚賈が大事か、李斯?」
「姚卿に捕まっておりました。」
 俺は笑ってでもいたのだろうか。しかし背後から現れた陛下もまた、背筋の冷たくなるような笑いを浮べていた。
「李斯に健康を心配されるようでは危ないぞ、姚賈。安息もまた必要かもしれぬな。」
「…恐れ、入ります。」
 陛下の笑いには、駄目押しの一睨みが付いてくる。まだ幼かった頃から、陛下の一睨みは大抵の者をすくみあがらせてきたものだ。
 悄然と立ち去った説客の背中は丸かった。立ち尽くして見送っていた私の腕を、陛下が乱暴に引いた。
「何を呆けてつっ立っている。斉と楚について話があるというのに、一向に現れないから探しに出てしまったではないか。」
「…お待たせしてまことに申し訳ございません。」
「姚賈に含むところがあったとは知らなかった。」
 陛下が切れ長の瞳を細めた。反対に私は目を見開いた。
「いつからおいでだったのです!」
「私がいることにすら気づかなかったというわけだな。」
 叱責は、なかった。いつからいらしたのか、陛下は口にしなかった。
「蔡公がかつて教えて下さった。彼は六国の狭間を泳ぎ回って名を成した男だ。臣というものには国の均衡を操って私利のみを働く者もいると、名こそ挙げなかったがそんな話をしたついでにな。処断をする必要こそなかったが、私はあの時韓非の弾劾に膝を打っていたのだ。」
 彼の死後、初めて陛下はその名を私の前で口にした。私は黙ってうなだれる。
「姚賈の申すことを真に受けたわけではない。が、利用できると考えた。韓非を秦に縛りつけるための好機として。」
「…申し訳、ございません。」
「やめろ。策に溺れたのはこの私だ。韓非を死に追いやった究極の責任は私にある。」
 そうして陛下は、雲陽の方角を眺めやる。

 一体誰に血の罪は降りかかるのだろう。何人が苦しめばよいのだろう。
 罪を負うべき者は私だけではない。苦しんでいるのも私だけではない。悲しんでいるのも。
 それでも、俺はお前があの蘭陵でただ一人友と呼んでくれた男だ。陛下、貴方が臣従を求めてくださった者だ。
 だから、私が背負おう。

「それは違います。私は彼の才能が妬ましくてならなかった。そして道を踏み外した。」
「李斯。」
「私はかつて申し上げました。陛下の過ちは私が全て引き受けますと。その代わりに私の栄誉と見なされるものは全て陛下にお捧げしましょうと。ましてこれは私の咎です。」
 そうして私も雲陽の空を眺めやる。私達は同じ方向を眺め、歩き出す。
「…斉の話だった。」
 陛下がどれだけ知っておられるのかはわからない。それでも陛下の素振りには何かを気付いている様子がある。しかし私達は二人共、詳細を問い詰めたりはしなかった。
 或いは、だからこそ彼はあの鴆酒で祝杯を上げたのに違いない。恐らく彼も知っていたのだろう。

 この思いを共にする者は、私だけではない、と。




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お題シリーズ『我のみに非ず』。李斯の一人称です。…いやあ、シリアス李斯がするすると進むとは初めての快挙(笑)。BGMはクララ・シューマンでした。本当は韓非を追い込んだ責任は李斯にだけあるんじゃないと言いたかったのが、政君も李斯と同じ心境だったというオチに流れました。いやあ、本当に李斯が二枚目で、高松もびっくりです。それにしても韓非ってサブキャラクターでどれだけの話に絡んでいることか。彼の存在は妙に大きかったりする……。(笑)ちなみにタイトルは…笑ってください、懐かしの英語構文からです。あの「のっとおんりーみー、ばっとおーるそーゆー」。こんなところで使うとは、いやはや。

いんでっくすへ