舜という人には二つの瞳があったらしい。双の眼に一つずつの、二つの瞳ではなく、一つの眼の中に、二つの瞳が。それは昔の人の、ただのおとぎ話だろうと信じていた。
二つの瞳を持つ人に出会ったあの日までは。


Du bist mein Mann
−転調−

 業火の中に燃え沈む阿房宮を茫然と見詰めて、膝から力が抜けた。行く当てもなかったのだが、それ以上に助けて差し上げられなかった私の主人となついていた一匹の犬を思い出して、動けなかった。私自身はとうに安全な所に連れだされてはいたのだけれども。
 駆け戻ろうとした。力ずくで止められた。
 止めた方にしてみれば、何の気なしに掴んだのだろうが、私には腕を掴む力が何かの器具で締め上げられるように痛かった。
「戻るなど、気違い沙汰だ。無駄に焼け死ぬことはないじゃないか。」
 不可解至極という口調で叱責され−そうだ、制止ではなく叱責だったのだ−、どこかの建物に収容された。どこなのか詮索する興味はとうに失っていたし、安堵感よりも喪失感の方が強かった。
 権勢とは全く無縁の世捨て人同然だった夏樹公女は見つからなかった。燃え続ける阿房宮は建物から見えた。来る日も、明くる日も、燃えていた。どうして燃え尽きないのだろう、とぼんやり考えながら、燃える炎を見詰めて過ごした。遺体は見つからないだろう。初老に差しかかっていながら若さと諧謔の味を消さなかった公女は、蒸発するのも悪くはないわ、後腐れがなくて、と笑っていたっけ。黒用は公女を追ったのかもしれない。私と共に助けを求めて駆け回っていたはずなのに、何時の間にかはぐれて、それきりだった。賢くて美しい、優しい犬だった。私は公女の侍女だったが、公女自身は私を助手と呼んだり、姪御と呼んだりしたものだった。彼女が一生一人身を通したこともあって、娘のようにして頂いたものだ。秦室とは縁もゆかりもないこの私を。
 殺されるのか誰かに与えられるのかするのだろうとは予期していたが、不思議と気にならなかった。子嬰公子が−いや、三世皇帝とお呼びすべきではあるのだが、そう呼ばない無礼を許して下さるだろう−亡くなった現在、もう相手が誰でも同じことだ。気の優しい子嬰公子は祖父皇帝によく似ておられると夏樹公女はおっしゃっていたのだが、私は冷酷にして近付き難かった始皇帝と彼が似ていたとはいまだに信じられない。二世皇帝を弑した趙高を誅殺した後に帝位を踏まれた−正式には『秦王』を名乗って『皇帝』と称されなかったのだけれど−子嬰様は、すぐに劉なんとかいう将軍に降り、位から降りた。劉将軍はあの方の一命を保全したのだが、その上官の項籍とかいう者があの方を殺したのだと聞いた。
 斉の姫、と子嬰様は私を呼んでいた。私達は親しかった。夏樹公女を挟んで家族のように親しかったのだが、三人の間に血縁らしき血縁はなかった。私は赤の他人だったし、夏樹公女は始皇帝の傍系の叔母君に過ぎなかった。
 私の世界は阿房宮と共に燃え落ちた。

 大王がいらっしゃいますよ、と誰かに言われた。その大王とやらに与えられるのだろうと思い、所詮は雲の上の人でしかなかった子嬰公子を哀しく思い出した。
「元気にしているか。」
 何を言い出すのだろうと、平伏したまま思った。
「そうはいつくばらずとも良い。顔を上げろ。」
 ぞんざいな人だ。言われるがままに顔を上げて、思い出した。阿房宮の中から、腕を掴んで引き出してくれた人だった。
「その節は助けていただき、ありがとうございました。」
「俺を頼った者を救うのは当然だ。」
とは言いながら、晴れやかに笑った。子嬰公子と同じ年くらいなのだろうが、あの方の持っていた気品がない代わりに、親しみ易さはあった。育ちと環境が切迫していなければ、子嬰様もこのように笑ったのだろうか。
「飯は旨いか。着物は足りているか。」
 随分と即物的な人だ。十分に良くして頂いております、と答えてから、自分が何にも不足しなかったことに気が付いた。虚脱していられたのは、環境が激変したなかったからだ。話に聞く落城の様と自分の境遇に、大きな隔たりがあることを知った。
「飯が旨いのは良いことだ。少なくとも、火の中に飛びこむよりは遥かに良い。」
 妙なことを言う人だが、ぞんざいながら気に掛けていてくれたのだろう。敵ではありながら、憎めない人だ。
「不便はないか。実は、この三月、そなたのことなどすっかり忘れていた。」
 私の推測などをあっさりと吹き飛ばし、晴れやかに笑った。
「そなたは美人だ。」
 悪びれもせずに即物的な台詞をぽんぽんと寄越した。返答するもしないのも御構いなしだ。自分が話したいだけ話せば、何かするのだろう、と投げやりに考えた。
 不意に顎に指がかかった。随分と近くからじいっと私を見据えた−見詰めたのではない−『大王』の眼には、二つの瞳があった。
 話には聞いていた。しかし本当に存在するとは信じていなかった。舜という人は聖王だったという。この人も普通の人ではないのだろうか。不思議だったが、気味悪くはなかった。
「…俺が怖くないようだ。」
「え?」
「そなた、度胸がある。気に入ったぞ!」
 何のことやら皆目わからない。豪快に笑っている、まだ若い将軍に問いかけてしまったのはただの勢いだった。
「それは、お眼のことでしょうか?」
「は?」
 きょとん、と首を傾げた大柄な人が、何だかおかしかった。
「俺の眼はどこか変か?」
 どこもかしこも普通だぞ、と普通以上に秀でた体格を見回した。
「双眸を持っておられる方を、初めて拝見いたしました。」
「何だ、こんなものが珍しいのか。これはな、英雄の眼なのだぞ。叔父上が昔、そう教えてくださった。」
 不思議なその眼を細めて、彼は私を−見据えたのではない−見詰めた。
「珍しいのであれば、好きなだけ眺めるが良い。俺もそなたの顔が気に入った。俺は−。」
「大王!こちらでしたか!」
 無遠慮に室内に踏み入った若い武将を咎めもしなかった。彼はさっと立ち上がると、
「おお、荘か。悪かったな、探させて。何か起きたか。沛のねずみが何かしたのか。」
と足早に出て行った。振り向きもしなかった。
 一つの目の中に二つの瞳。私は、すでに四つの瞳を忘れることができなくなっていた。単純で即物的でありながらも、理解しがたい敵将の異相を。

 彼はそれから折に触れて現れた。尋ねられることは何も変わらず、何かを取り立てて話すでもなく、入ってきたかと思うと誰彼に呼ばれてすぐに出て行った。
「貴方様はお幸せな身の上でございますね。」
 老婢が背を流しながらしみじみと呟いた。それは、あの混乱の最中から助かっただけでなく、丁重に保護されているのだから感謝すべきなのだろう。たとえ未来がどうあろうとも、だ。
子嬰公子も夏樹公女もここにはいない。
「私は生き残る資格のある者だったのでしょうか。」
「滅相もない。あれだけのお方にお情けを掛けられて、何のご不満があるとおっしゃいます。」
 老婢の腕に力が篭る。
 不満、などない。欲求もないのだから、何も存在しない。老婢の勘違いを訂正する気力もなく−いずれ彼女の言葉は事実となるのだし−彼女のなすがままに洗われて、着物を着せられて、運ばれたものを食べ、眠る。単調で、無意味ですらある繰り返しが続いていた。
 咸陽の大火はようやく鎮火した。三月の間燃え続けていた炎は、燃やす対象を失って都と共に死滅してしまった。
 あの建物も、あの花園も、あの亭も、あの池も、飛び石も、何もかも。
 外に出て、咸陽を望む。建物が軒を接していた辺りには、無駄に晴れやかな青空が広がっていた。閉じ篭っていると気鬱になるという老婢の忠告に従って、当てもなく近くを歩き始めた。
 子嬰様。
 夏樹様。
 目の前にふわりと色の薄い花びらが舞い降りた。夏樹公女の好きだった、桜とかいう木の、白に近い薄紅の花びらだった。見上げると、その木は満開の花をつけていた。
 生気を失った顔色のように白い花の色だった。風が緩やかに吹くだけでふわふわと散らされる、頼りのない花だった。喪に張り巡らす白幕にも似て、舞い散る大量の花びらがその度に死者を思わせた。
「気味の悪い花でございますね。」
 老婢の言葉はもっともだ。
 夏樹様。
 子嬰様。
 これが秦の末路に手向ける喪の軟障なのでしょうか。そして、私は。
「こんな所で何をしている?」
 そして、私は。
 ふと途切れた花の軟障の間に、陽光にきらめく双眸の人がいた。

 老婢が下がる。私は身を屈めかけ、大王はそれを断った。眉を顰めて、
「陰気な花だな。」
と呟いた。
「そなたには似合わぬ。」
「大王も花見をなさいますか。」
「花は食えないからな。一走り荘と猪を仕留めて来たのだ。荘が酒宴の支度をしている間亜父に捕まっては厄介ゆえ、時間つぶしに遠駆けをしてきたのだ。暇ならばどこぞへ乗せてやろう。烏騅は飛ぶ矢よりも早いのだぞ。」
 満面の笑顔で手を引く人に逆らえず、大きな黒い馬まで連れて行かれた。大きくて、立派で、優雅ですらあった。
 あの火の中でいなくなった韓驢の黒用のように、優しい目をしていた。黒用のように艶やかな毛並みに、自然と手が触れていた。
 馬は嫌がらなかった。鼻面を寄せて匂いを嗅いでいた。その乗り手は突然私を馬上に放り上げると、後ろに飛び乗った。
「騅は賢い。一度乗せたそなたを覚えている。」
「私が、騅に?」
「咸陽からここまで、そなたを乗せて走った。」
 ああ、それで。
 大王は軽く馬の横腹を足で叩き、馬は過激な鞭を入れられた時のような速さで走り出した。息ができないほどの風の流れが顔にぶつかってきて、それが心地良かった。
「怖いか!」
「いいえ!」
「よし!」
 烏騅は更に速度を上げる。飛ぶ矢よりも速い、吹き付ける突風を巻き起こす。
 もっと、もっと速く、もっと遠くへ!私の意思が伝わったのか、烏騅はどこかへひた走った。周りの景色に目もくれず、疾走にだけ身を委ねているのが痛快だった。
 ふわりと飛び上がった。眼下にきらめく水のせせらぎを見た。
 私が乗っているのは馬ではなく鳥なのかもしれない。鷲の黒い翼に運ばれて、もっと遠く、もっと高く、飛んでゆくのかもしれない。吹きつける風を心地よいと感じながら、当所もなく疾走に身を委ねるのが性分なのかもしれない。
 風を切る感触がこれほど素晴しいとは思っても見なかった。
 もっと、もっと遠い遥かな高みへ!
「そら、降りた!」
突然の現実に引き戻されるが早いが、大王の両腕に抱えられて地面へ飛び降りていた。小高い丘には、疎らに植えられた木が整然と並んでいる。
陵だ。秦の、陵だ。木の間から焼け崩れた咸陽の街が見える。あのどこが宮殿だったのだろう。出たことのない私は、何もわからなかった。
「この丘は風が良く通るのだ。見ろ、時は盛夏に向かい、草木も再び繁栄しようとしている。暴秦は倒れた。取って代わった新たな天下が栄えよう。そなたも死者の弔いを終えるべき時ではなかろうか。」
…気付かれていた!
四つの瞳で私を見据える異相の将軍に、私は首を振ることができない。日に焼けた顔と心なしか大きな口と、高い鼻と、そして二つの瞳を抱えた双の目を向けられて、私は口を開けない。
「そなたに陰気な花は似合わない。そなたは烏騅と共に、もっと遠くへ行くことを願ったではないか。」
「口に出していたのですか。」
「叫んでいたよ。」
 袖で口元を覆うと、大王はからからと笑った。今更何を気取る、と笑った。
「俺と共に来るのだ。そなたを天の高みにまで連れて行こう。俺を恐れるな。そなたは、俺に添うためにあの場所にいたのだ。」
「大王がいらしたのはただの偶然に過ぎませぬ。」
「馬鹿を言うな。あれは天命だ。そなたのような不敵な女、西楚の覇王以外の誰に添えるというのか。」
 私は、四つの瞳に縛られて、何を言うこともできなかった。

 西楚の覇王とは。
 子嬰様を殺した男だ。
 咸陽を焼いた男だ。
 それでも、私は。
 −四つの瞳を持っていた舜は、聖王と呼ばれていた−

「貴方の、お名前は?」
 震える声で私は問いかける。何だ、俺の名も知らなかったのか、いい度胸だと大王がまた笑う。白い歯を見せて、あっけらかんと笑う。
 ああ、不敵なのはどなたなのです、大王。私はもはや、貴方を憎むことができない。手放しの笑顔を下さる貴方を、私は。
 お許しください、子嬰様……!
「楚の項王だ。項羽という名、耳にしていよう。」
 断言するような不敵な将軍に、私は既に−。
「そなたの名は?ああ、俺も聞いていなかったのか。お互い様だ。」
 お許し下さい。双眸の将軍に逆らうことの出来ない私を。そなたにはこちらが似合う、と野辺に咲く真紅の花をぎこちなく手渡した若い覇王の瞳に縛られてしまった私を。
 二つの瞳は英雄の徴なのです。大王は舜の再来かもしれないのです。
 花の季節に、私は自分の名を渡した。略奪されたのではない。添う人を私が決めた。
「虞、と申します。」




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うーん。まとまりが悪いのだが、取りあえずこれでおしまい。久々にお題シリーズで『目』。項羽の双眸の話です。しかし舜と重ね合わせる虞美人、相当に(笑)。恋は盲目。項羽のにーさんは好きなのだが、書きづらいんだねえ、この人個人に葛藤がないもんで。やることなすことストレート。解り易すぎて小説のお題にならん(笑)。この話でもストレート。君の自意識はどっからわいてくるんだね、項王。いばりんぼさんだが、ねあか。『Winter』で陳平に羨望を寄せられていることもあって、自分の強さと虞美人の愛には絶対の確信を持っていると言う。(笑)虞美人も初恋の子嬰様が死んでしまってから、また大胆な方向変換をするものですが、これが実はN高当初からのプロットでした。彼女は隠れ過激さんなので、項羽が看破してしまったように、根底では同類です。(笑)このカップルはお題シリーズで再び登場するでしょう。少なくとも、後一度。

いんでっくすへ