| 学問に王道なし −アリストテレス−
「借りていいですか?」 何を持ち出したのかと思えば、相当時代のついた古い箱である。埃だらけだよ…頼むからこの辺でほろわないでよね。むせるから。 「中身何?あ、開けないでよね。僕、咳したくないもん。」 ぎりぎりセーフ。蓋に手をかけた李斯が止まった。 「やあですねっ、貴方ってば相変わらずその不衛生な生活続けているんですかっ。私の知る限り、貴方より杜撰な生活しているのは尉繚くらいですよっ!」 「げっ…韓非、いたのか……。」 「います。陛下のお勉強中です。」 見ればわかるだろうとばかりに竹筆で机を叩く韓非に、李斯が溜息をつく。うん、極端に交際範囲の狭い韓非に断定されたくないかも。 「李斯って不衛生じゃないよ。」 「そんなの家事しなくてすむ身分になったってだけの話です。あの蘭陵のねぐらときたら!」 身震いしてるし。…李斯、目が泳いでるよ? とりあえず李斯の部屋に関するぴこちゃんの毒舌を封鎖しよう。始まったら長い。 「で、李斯、中身は?」 「河図です。」 「河図?」 「へえ…そんな物が咸陽にあったんですか。見せてください。」 韓非が身を乗り出し、李斯が困ったように僕を見た。 「外で開けてね。」 僕も中身は見たいもん。 李斯が持って戻ってきたのは古い甲羅だった。飴色になってる。古代文字がびっしり書いてあるんで、何かとあやしげな雰囲気である。 「これが河図ですか……。」 韓非が上げたり下げたりひっくり返したりしている。裏には何も書いてないよ? 「河図って何、李斯。」 「かの蒼頡が狩をしていた時、洛汭の川に行って発見したんだそうです。水中から書を背負った亀が出てまいりまして…なのですが、蒼頡の学が廃れてしまい、今では解読できる者が誰もいないという曰くつきの物と聞きました。」 「蘭陵でね。」 それでぴこちゃんも知ってるのか。…いや、迂闊なこと言ったら、どっかから自分で読んだんだと一席ぶたれそうだから黙っておこう。それにしてもあやしーシロモノ。 ためつすがめつしてから僕に貸してくれた。 「それにしても好きですね、貴方も。その枝葉末節にこだわる性分をもう少しましなことに使ったらどうなんです、ましなことに!」 「うるさいっ!自分の書き物を代書させてた奴が何を言う!」 「当然です、その代わりみっちり教えてあげたんですからね、この私が!」 「…二人共、僕、話が見えないんだけど……。」 「ああ。李斯は元々、音韻学が趣味なんですよ。」 初耳だった。 「もうマニア!語源ルーツだの字の成り立ちだの、トリビアにしかならないネタばっか仕入れて喜んじゃってるんですから!字が綺麗なだけじゃ出世しませんよ、李斯。」 …すごい言われ方。何を言っても無駄だと経験から悟ってるせいか李斯はじじーっと文面に集中してる。こうなっちゃうと周りが見えなくなる辺り、やっぱり韓非の友達だけはあるなあ。その韓非は李斯が邪魔にならないと見ると、そのまま講義を再開した。 「で、その蒼頡ですけれどもね。自らの利を画して稲を囲うことから『私』という字を作り出したわけです。必然的に『公』たるものは私に背く、つまり相反することになる。ですから『私』というものは内乱の元、衰亡の根源たることは上古より自明のことだったわけです。今はこの公私が不分明になっている。例えば登用の面においてですが……。」 韓非だって結構そういうの趣味なんじゃない?やたら詳しいよ? 「陛下っ、聞いてますかっ!」 「う、うんっ、聞いてる!」 結局一日だけで読める物でもなく、李斯はその不思議な亀の甲羅を後生大事に借りて帰った。それにしても、あんなもんがよくうちの書府にあったよねえ……。 そーして、ぴこちゃんもいなくなり、天下も統一し、僕は毎日百二十斤のお仕事の前に、ずーっと昔李斯に貸した甲羅なんてころっと忘れてしまったわけ。 忘れなかったのは李斯だった。 だだだだだっ!お約束の廊下暴走で李斯がやってくる。 「どうしたのさ、李斯。」 「解けました!陛下、読めたんです!」 ???匈奴の暗号?そんなの蒙恬から回ってきてたっけ?大体李斯なんかのところに回さないよ?全然管轄違うじゃん。 「何が?」 「蒼頡の河図!」 …それ、なーに?そこで李斯が取り出したるは、昔僕が貸した亀の甲羅!げっ、まだ読んでたのっ、李斯…ある意味そっちのほうがすごかったりすると僕は思う……。ついでに磨いてでもいたのか、あの埃だらけの代物がぴかぴかになってたりした。うーん。 「で、なんて書いてあったの?」 「『上天命を作す、星に辟して王を送る』、つまり星に則って王を送ったと。」 「それで、それで?」 「おしまいです。」 「はあ?」 だって、まだ沢山字があるよ……。 「はい、八十文字ありますから。」 「李斯読んだの八文字だけじゃん…他のさあ、この鳥の足みたいなのは読めてないの?」 「も、申し訳ありません、急いで解読しますっ!」 「いーよ、別に……。お仕事停滞したらそっちが困るもん。に、しても、よく読んだねえ、こんなの。」 「いえ…放り出そうとしたら、韓非の奴が夢枕に立ちまして……。」 「げっ、それはやかも……。」 ほーらみなさいっ、お馬鹿さんの李斯に河図なんか読めるはずないじゃありませんかっ。ほらほら、貸してごらんなさい、このお利口さんな私が読んであげますからねっ。 そーして俺から河図をひったくって、すらすら読みやがるんです。で、あの人を小馬鹿にした笑いで、まだまだ精進が足りませんねっ、なーんて俺にプレッシャーを……。 「あのさー…あの時韓非が、李斯が語源学やってるって言ったけど、本人もやってたんじゃないの?」 「…あいつは趣味でもないくせにやたら詳しかったんです!ああいう天才は、凡人には正直迷惑……。」 いや、それはぴこちゃんの性格が極端だからそういう話になるだけでさあ……。 「李斯、よくぴこちゃんと友達してたよね……。」 「いや、悪い奴ではないんですけどね……。」 やっぱし、李斯ってお人好し。 「解読祝いしてかない?斉の方から海魚のいいのも届いてるんだ☆」 「喜んでご相伴します!」 で、結局忙しくなった僕たちは河図なーんてそれ以上追求する時間がなかったんだけど。そしたら、物好きは世の中に一人じゃなかったり、した……。 「見たいです!見せてください!」 「でも、先生がどうおっしゃるか……。」 昔の僕たちくらいな年の二人が、何か掛け合いをしてる。今度の巡行の話を歩きながら李斯としてた僕は、足を止めた。 「だって蒼頡の河図ですよ?!そんな貴重な物を丞相がお持ちなら、是非是非拝見させていただきたいですっ!」 「だから、先生は御多忙なんだから、面識もない君がいきなり先生の蔵書を見せろって言うのはすごく失礼に当たりませんか!」 僕たちは思わず、顔を見合わせて吹き出した。 「あれは李斯のじゃないのだが。」 僕の声に、二人が飛び上がる。苦笑している李斯が大きく頷いた。 「秦の書府のだよ。私が若い頃陛下にお貸し頂いた物で、まだ八文字しか読めていない。」 「先生が解読なさったと言うのは本当だったのですね!」 すごく嬉しそうな顔をする子が一人。多分李斯の門人なんだろう。李斯はゆっくり頷いてから、もう一人の若者を見た。なんか、生意気そう……。 「君、読んでみるかい?」 「はい。」 「私には時間もないから…陛下、彼に貸してやっても構いませんか?」 「李斯が八文字読んでいるから、後から行く人間は多少楽だろう。」 むかっとしたらしいけど、そーいうもんじゃないの?大体僕、こういう知ったかぶりの小生意気って嫌いなんだよねえ…半端な学問しかなくて、つまんないもん。韓非ぐらい徹底しちゃうと、あれは一つの個性だけどさあ。 「貸しなさい貸しなさい、アルツハイマー敬老手帳寸前の李斯に持たせてたっていいことなし。」 「尉繚っ!お前、また昼間から飲んでたな!」 「お前なんかに言われたくない。陛下―、そーんなどーでもいーものはそこのヒマそーな坊ちゃんに渡しちゃってー、俺とー楽しく飲みませーん?」 「うっ、尉繚っ、危ない!」 がん☆や、やっぱり柱に衝突した……。あーあーあ…アルツハイマー敬老手帳って、自分も年同じくらいじゃないのさあ、尉繚……。臓腑に悪いと思うよ? 「そなた、名を何と申す?」 「叔孫通と申します。」 と胸を張った生意気君に、李斯は次の日河図を貸したらしかった。 「叔孫太傳が蒼頡の河図の十二文字を解読なさったそうですよ!素晴らしい!」 「…それってすごいんですか?私、字が読めないもんで。」 「それはいけません、絳侯、貴方様ももう列侯なのですから、字の勉強もなさらなくては。あ、陳護軍、聞きました?」 「あー、聞いた。何せ、秦に仕えてた時にかっぱらってきて、戦場で仕事もせずに読んでたんだと。ほんっと、これだから儒者って使えねー。陸生、そんなの興味あったわけ?」 「ええ勿論!これは人類の偉大な進歩ですともっ!さて、このニュースを留侯のお耳にも……。」 「入れてきた。『そんな無意味なことをするよりもっと役に立つことをしたらどうだ?』と素で呆れてた。」 「……。」 まさかその人がさ。 秦がなくなっても、河図を読んでいたなんて僕たちが知るはずもない。 「で、子房殿、ここの部分なのですがね……。」 「叔孫太傳。私は今度の外征に意見を求められていて忙しいので、放って置いて頂きたい!」
お題シリーズで『時』、あるいは時代の付いた物。(笑)『書林清話』で拾ったネタです!ようやく消化しました。『述異記』の記事をストレートに追っているだけなのでストーリー的にしまりはありませんが、李斯だけでやってると短いので叔孫青年を出すとあーらしぼちゃんにつながっちゃった♪というものです。ちなみにぴこちゃんの台詞は『五蠹編』ちゃんと引きましたし、『康煕字典』も引いたぞ!(笑)『康煕字典』の『私』の条には、ここが引いてあったりしたので、気軽に引いた高松は結構びっくりだったり、しました。 |