| 夫は家庭を捨ててしまった。 子供も手がかからなくなった。 暇である。 というわけで、彼女は趣味に生きることにしたのであるが。
いそいそいそ。あれ? 木簡の束を持って嬉しそうに走って行く張子房という、妙なものを見つけた。普段なら追いかけるのだが、如何せん間が悪すぎた。顔を付き合わせていたのが韓信だったのである。 「…今の、子房殿でしたね。」 ほらやっぱり。こいつも気付いてた。 「何か慶事でもあったのでしょうか。聞いてきます。」 うわ、俺より早い。上位者の特権、さっさと今まで話していた俺をほっぽって追いかけに行った。慌ててその後を追ったのだが。 きょとんとした子房は、 「平穏無事ですが?」 と韓信に怪訝な表情を向けた。 「貴方がとても楽しそうにしていらしたから……。」 ざまーみろ、詰まれ詰まれ♪ 「御一緒しますか?これから漢王夫人の元へ参るのですが。」 「…慎んで辞退します。」 男二人ではもってしまった。 夜中に遊びに行ったとき尋ねても、何もあるわけないだろう、漢王夫人とお茶を飲んでいただけだ、と鬱陶しがられただけだった。 それからしばらく経ってからである。 「陳平、『陽翟の侯爵夫人』って知っとるか?」 と前後脈絡なく聞いてきたのは漢王だ。 「聞きましたよ。この辺の妓楼で相当話題になってますけど。あれ、何なんです?」 そう。妓楼のおねーさん達が寄ると触るとその話をしているのだ。陳さん聞いた?と何度も尋ねられて、知らないと言ったら話に混ぜて貰えなかったりする。相方の姐さんにこの間質問したら、どうも講談話らしいんだけど。 『薄幸の侯爵夫人がもうけなげでけなげで!初恋の公爵様に純愛を貫くの!もう、絶対感動するわ、陳さん、貴方もお聞きなさいよ!誰が好きか教えて頂戴ね!』 うーん…そういう話なのか?これをやってる辻講釈師にお目にかかっていないので、いまいち聞けないままでいる。 「女子供の色恋話らしいよ。お戚が見たがってのう。お前、妓楼の姐さんからちょっくら借り出しちゃくれんかね。」 「俺も聞け聞けとせっつかれているんですがね。やってる講釈師を知らないんですよ。」 「んあ?ありゃあ書物らしいぞ。字の読める者がみんなに読んでやっているんだそうじゃ。原本の出所は知らんが、写しの写しが大量に流布しているらしくてのう…蕭何が長安にも一部置くかと聞いてきたよ。」 「すんげー脳に優しそうな書物……。」 「うん。だからわしも読みたいんじゃ☆」 なるほどね。 まあ、誰かに聞いてみてもいいか。俺としては人の話より、自分で実践する方がいいんだけどな。 妓楼へ行こうと思って歩いていたら、また木簡を抱えた子房に行きあった。相変わらず何も眼中になしという状態でぱたぱたと走っている。それにしても、両手で抱えきれないほどの木簡を抱えてどうしたんだ?子房の奴。 「お仕事ですか、軍師殿!」 後ろから呼ぶと、文字通り飛びあがった。 「な、何の用だ、護軍中尉!」 おー、ひるんでる、ひるんでる。くく、可愛い。 いっつもこんな風に素直だったらいいのに。別段、あんな鉄壁の無表情で礼儀正しくなくていいんだから。 「重そうだから、半分持ってやるよ。」 「いや、急いでいるからいい。」 あ、また走り出す…って、うわ! すてん☆あーあーあ、派手にばらまいたな。子房は座りこんで、したたか捻ったらしい足首をさすっていた。う、涙目になってる。俺、子房の涙目は不得意なんだよなあ…理性が飛んできそうで。 「大丈夫か!」 「足首が、くきっとなった……。」 だから涙目でこっち見ないで下さい、しぼちゃん!これで足さすったりしたら自分が調子に乗って何するか知れたものではないので、おとなしく木簡を回収することにした。げげ、こんな太い束八つも抱えるなよ……。 「立てる?」 …あれは絶対背負われるのが嫌さに痩せ我慢しているに違いない。その上、木簡、と両手を突き出すし。 この、強情者! 回収したついでに返さないことにした。 「無理。歩くのがやっとだろ。おとなしく背負われるか、荷物持ちをつけるか二つに一つ。」 引導を渡すと、むすりと黙ってさっさと歩き始めた。ついて来い、というわけだ。 本当はその痛そうな足を使わせたくないんだけどな。子房の個人的な好悪は措いても、昼日中だし人目はあるし、やっぱりあの気位の高い人が折れるはずがないか。溜息。一度くじくと癖になるんだが、案の定時々危ない足取りをしている。ほんの少しだけ。無理して優雅に歩かなくてもいいだろう、と言ってみても、無視された。 育ちの違う、雲の上の人。 顔馴染みの衛士さんと挨拶を交わして帷幄にお邪魔する。机上に木簡を山積みにしたと思った途端に、雪崩た。 「ご、ごめん!」 「放っておいていい。悪いがこれから所用なので帰って欲しい。」 会う前から急いでいたから、あながち追い出したいばかりでないのだろう。落ちた木簡を素早く拾い上げ、立ったまま目を通し、巻き直した。ニ三度その仕草を繰り返してから、ようやく目当てのものを見つけたのか、座ってじっくりと読み始めた。まだ立っている俺のことなどすっかり忘れ果てたかのように。 忘れていたのだと思う。 食い入るように字面を追う横顔がいつもより少し柔らかいような気がして、出て行けなかった。何がそんな顔をさせたのか知りたかったし、尋ねたところで無視されるのは解っていた。頬杖をついた指の先があの唇に当っている。それだけの仕草が、いつもの峻厳な帷幄の軍師に物憂げな麗人の雰囲気を添えている。 いいんですか。俺の前にそんな無防備な美しさをさらけ出して。 傍に寄ってみる。いつもなら邪魔だと追い払われる距離まで近付いても、白い手で木簡を繰るのに夢中になっている子房は気付かない。追い払われないのはありがたいが、何だか面白くなかった。何を読んでいるのだろう。誰かの恋文ではないだろうけど。何しろあの分量だ。 肩越しに覗き込んだ。 情熱的に抱きしめられる。彼の柔らかい声が耳の中に注ぎ込まれた。結婚しよう。貴方は私のものになるんだ。貴方は愛されるために生まれてきたんだ、そうじゃないか? もう駄目。おかしくなりそう。月のせい?駄目よ、私には公子という心に決めた方がいらっしゃるというのに!どうしてぐらついているのかしら。飲み過ぎたのかしら。それとも、月のせい?ああ、もう承諾してしまいそう。 「言って。私のものになると。さあ、すぐに!」 「貴方とは天に誓った兄弟の仲ではありませんか。」 あえぐように呟くのがやっとだった。彼は性急に口付けを求めた。何度も、何度も。くらくらする。蕩けてしまいそう。 私は、私はどうすれば? 公子、私をお助け下さいませ! 「…駄目、私は貴方のものにはなれません!」 「しかし私の助力がなければ貴方の主は滅びてしまうのですよ。」 じりじりと包囲の輪を狭めるようにして、彼は迫ってきた。逞しい胸板、日に焼けた腕が目に入る。そんなつもりはないのに、私は流されていた。 「陥落するんだ。私は愛する人のために取り成しをする用意を整えている。はい、と。その一言が貴方の計の是非を決定する。明日の宴で主君を殺されても良いのか?さあ、私の腕に全て委ねなさい!」 口付けの合間の甘い脅迫……。その間にも彼は……。 「何読んでるのーっ?!」 頓狂な声を上げてしまった俺に子房は文字通り飛び上がり、そのついでに持っていた木簡で殴ってくれた。痛い。 「何でお前がいるんだっ!!」 「っつー……。だって、随分楽しそうに読んでたから、何かなあと……。子房殿でもこんなもの読むんだ。」 相当にばつの悪そうな顔をして木簡を巻き直しにかかるので、慌ててやめさせた。 「ごめん、邪魔する気じゃなかったんだ、全然。俺も見せてもらっていい?」 面白そうだし、と言うと、意外な答えが戻ってきた。 「それなら呂夫人のところで借りてきたらどうだ。」 げげっ。あのおっそろしい漢王夫人!やだ。ものすごくやだ。ぶんぶん、と首を振ると、困ったような顔で、 「でも一巻目から読まないと話が解らなくなるぞ。これは九巻目まで話が進んでいるから。」 と真面目に言う。 「粗筋だけ教えてよ。恋物語は好きだったりしますから。」 実践の方が好きだけど、大本命(ただし落とせる確率は限りなくゼロ)がここまではまっているなら見過ごせないのが俺の性分だ。呂夫人に借りに行けばいいのに、と言いながらも話を始めたのは、どうやら誰かに話したかったらしい。確かに張子房なんかから恋愛小説の話をされる人間の心当たりなんて、ないものなあ。というより、この人がそんなものを読むというのが驚きだ。 その話が『陽翟の侯爵夫人』だというのだから、二度驚いた。漢王も灯台下暗しだ。しかし子房もやはり女性なのかというのか何というのか…複雑。 「主人公は韓の陽翟の生まれで、姫芳というのだが、賢く美しく人望のある公子背と婚約の仲でな。しかし公子背が使者として立った先で奸計にはまり、秦王に殺されてしまうのだ。姫芳は司徒の娘なのだが、家を出奔して男装し、公子背の遺体を引き取りに咸陽へ行って、復仇を誓うのだ。それで公子を葬ってから侠客の群れに投じて燕に行き、あの荊軻と血盟を交わして義兄弟になるのだな。そして秦王を倒す機会を狙っている間に荊軻が正体に気付いて求婚するのだが、大事が先だと保留にして同志を募りに東へ行くのだ。ところが姫芳が戻るのを待てなかった燕太子の短慮によって荊軻は単身咸陽で殺され、彼女は同じく血盟を交わしていた高漸離を連れて姿を隠すのだが、二人を匿うのが亡楚の貴族だった屈伯で、彼等は彼女を愛しているのだが、彼女は亡き公子背だけを慕っていて…色々錯綜しているから説明しづらいのだが、解るか?」 うん。よーくわかりますとも。ものすごくよーく解りますとも。 それって、主人公は、まるで貴方でしょうが!! 「で、彼女が秦王を殺さない限り縁談に応じないと解った高漸離は、目茶な襲撃をして失敗し、屈伯は……。」 「そいつも芳ちゃんと血盟を交わしたついでに敵味方に別れて、目下それをダシに結婚を迫っているとか。」 「お前、よくわかるな。」 感心しないでくれ!嬉しくない! 何でそんなに鈍感なんだよ、その主人公は完全に貴方だろうがさ……。荊軻云々は措いても。 ところが、その次の発言が意外だったのだ。 「芳もいい加減、伯と結婚して幸せになればいいのに。な、そう思うだろ?」 はあ? あっけに取られる俺に構わず、子房はからからと木簡を広げて、最初の部分を俺に持たせた。自分は早く続きを読みたいらしく、床に木簡を広げてじっと字面を追っている。 子房って、この話の原型、全然気がついていないんじゃ……。 でも、こんなにくっついていられる機会を無駄にすることはないので出来る限りの速度で最初の部分を読み飛ばし、額を寄せ合って続きを読むことにした俺も俺かもしれない。うん、しぼちゃんの髪の毛のいい香りがする。幸せ。 こんな読書なら、どれだけしても構わないかも。 「まあまあまあ!陳平、貴方が読むとは思わなかったわ!」 あの大量な木簡八つを返却に現れた俺に、漢王の呂夫人は大笑いしてくれた。俺は、作者がこの人と知って茫然自失である。漢王も、灯台下暗すぎる。 「この話、主人公って子房殿でしょう?」 単刀直入に聞いてしまった。 「ご名答。あの人が気付いていないのに、よくわかったわね。」 「恋する男の勘を侮っちゃいけません。韓非子が美化されすぎてやしませんか!ついでに項伯も!あれ、子房を項伯なんぞとくっつける気ですか、貴方は!」 「続きは私の胸先三寸。その話ね、あの人は早く芳を結婚させろって毎回言ってるのよ。荊軻が死んだときも高漸離が死んだときも、しばらく抗議して行ったわ。屈伯は殺すつもりはないけど。」 「駄目です!殺してください!」 呂夫人は笑ったが、俺としてははなはだ面白くない。 「うちの駄目亭主も出したし、韓信も出そうと思っているの。あの人、どっちを選ぶかしらねえ。」 「…それ、根性悪すぎませんか?」 「貴方も出してあげるわよ。」 「格好よく書いてくださいよ。お願いですから。それと、せめて話の中では殴られないようにしてください!」 「殴られてるの、貴方?」 「ふん、漢軍の色男が肩なしですよ。」 何をしても、眼中になんか入れてくれないんだから。あの人がまともに人間扱いしているのが韓非子だけなんて、まさかここの関係者に言うわけにもいかないけれど。 それでも。殴ってもいいから。 貴方の気が、それで晴れるというのなら。 「貴方は色男だとは思わないけれどもね。」 呂夫人の細い目がひたと向く。 「悔しいですね。」 「策士だとは思うけれど。」 「そりゃあ商売ですから。」 「物書きの目を侮らないことね。貴方の色恋は目晦ましでしょう。昔は知らないけれど、近頃のは。完全な偽装工作だわ。」 「買いかぶりです。俺はどうしようもない男共なんかより、可愛い女性の方が好きですからね。全ての女性に嫌われたくないというだけですよ。それより、続きがあったら貸して下さい。漢王も見たがっていましたよ、この話。」 「貴方がたに貸すつもりはないわ。」 にっこりと呂夫人が微笑んだ。こういう時はこの人も険のあるなかなかの美人なんだけどなあ。まあ、漢王っておっとりした感じの女性が好みだし。見掛けと本性に相互関連はないけどさ。少なくとも俺は戚夫人より、苦労性のこの人の方に同情してるかもしれない。相当きつい性格だけど、どうも俺のこと嫌ってないみたいだしさ。 「あのなまずには絶対に口外しないで頂戴。貴方は軍師殿に見せてもらって。その方が、いいでしょう?」 さしもの俺が、一本取られた。呂夫人は茶目っ気のある微笑みを浮べている。 「貴方に貸すと戚に流れる可能性があるから渡してもらえないと言えばいいわ。私だって、伊達にこんなものを書いているわけじゃないのよ。」 「…不肖陳平、ご協力感謝いたします。」 俺だって、自分の幸せ義性にしてまで主君に尽くすような暇な同情心は持っていない。何てったって、難攻不落の要塞を相手に途方もない持久戦をしている最中ですからね。 子房殿と一緒じゃないと貸してくれないんだって、と伝えると、帷幄の軍師はきょとんとしたが、軍議の後でぱたぱたと彼女の所に走って行った。 私の帷幄で待っていろ、と言い置いて。 「この頃、やたら鬱陶しいのが出てきたな。伯殿はちっとも出てこなくなったし。」 「しぼちゃん、この男嫌い?」 「いや、根はいい人間だと思うが…それにしても主人公の鈍いこと。もう少し東丘坦の情に気がついてやっても良さそうだが。呂夫人にまた頼んでみようかな。」 「気がついてって…貴方、俺みたいのは嫌いでしょうが。」 「…こっちの方がお前なんかより遥かに善人だと思うがな……。」 貴方はいつになったら気がつくんでしょうかね。鈍感で意地悪な私のお姫様。
お題シリーズ『僅かの間でも』。…って、これは呂氏ことちーちゃんが恋愛小説家という設定が実はありまして、なかなか書けなかったためにねじ込んでしまった代物。合う題を強引に探したというわけです。毎度のことですが。呂后は愛人ネタなどが珍しく史書に載っていない太后陛下なのですが、恐らくゴシップには興味がないわけじゃなく、暇でもあろうとこんな性格がついてしまいました。恋愛小説というよりハーレ○イン作家(笑)。あれの作者紹介はなかなか笑えます。ちーちゃんだと、「作者:ちーちゃん。長安在住。セレブな夫と愛する二人の子供に囲まれている主婦。奔放な想像力を駆使して大河小説『陽翟の侯爵夫人』続編を精力的に執筆中。」くらいかなあ。斜体の部分は大笑いしながら書いていました。ちなみにBGMに聞いていたのは『スペードの女王』。なんと似合わない。 |