| 私は物を考える。彼等は物を考えない。 さぞ、楽なのだろう。 ごろり、と寝返りを打つ。傍らの『学友』は脳天気ないびきまでかいている。 出来心で鼻など摘まんでみる。苦しそうに身をよじる。もがく友人の体を見ながら、口まで塞いでやったらどうなるだろう、と思う。 彼は『天子』でもあるのだ。 或いは、『愚民』でもあったのだ。そして私は、この『友人』に一身の采配を全て握られた私は、『公子』でもあったのだ。 では今の貴方は、何者なのですか。 机上からだらしなく床に垂れ下がった竹簡の著者が譴責しているようだった。 だから私は『友人』に綻る。口まで塞ぐことはあるまい。私は手を放す。その手を彼が掴む。 「起こすことはないだろう、折角よく眠っていたのに。」 そうして、彼は自ら私の口を塞いだ。 彼、姓は劉、名を徹。
傍若無人な男。皇帝の寵愛に取り入り、おもねる、有害な男。世評はそのように私という人間を決定し、全ては事実だった。私は徹が好きだったし、徹はどうやら私とは違った意味合いで私を好いていたらしい。 陽気で底の浅い徹は、私も同様に陽気であることを要求した。『学友』の陛下の命令を断るほど愚かではなく、私達はよく共に楽しい狩猟に出かけた。私は別段陰気であったわけではない。ただ、徹のように自分の地位に絶対の信頼を置ける身分ではないので、必然的に保身に思いを寄せる機会が多くなっただけだ。ひたすら愉快に過ごす、それだけが私の人生哲学であり、徹はそれに同意した。 無論私を好かない者、いや敵視する者は殆どだ。李将軍の長子のように、私を殴って手柄顔に宮廷を歩く者もいるし、御丁寧に称賛する者までいる。 胸はすくのだろうがそれだけだ。私と徹の関係が変化するわけでもないし、私が失脚するわけでもない。李将軍が皇帝である徹に嫌われたのが関の山だ。殴られた傷を気遣う徹は、侍医を送って寄越した。私は謝辞と共に治療を受けた。 李将軍に腹が立たないか、と徹は私以上に怒っていた。 「別に。却って、彼が立場をなくしただけじゃないか。彼なんか、気にするような僕じゃないよ。」 「嫣はさすがに韓室の出だ。君は賢いよ。」 賢い?韓、という既に存在しなくなって百年以上経つその国を出されると、私がぞっとするようになったのはいつからだろう。昼の遊猟の中で、夜の睦言の中で、徹が口にするたびに、私は共に学んでいる刑名の学の先達が自分を蔑視しているような気がしてならない。 亡徴め、姦臣め、人にも劣る屑虫め! 韓非子は、書簡の中で私を責め、共に机を並べる徹は何一つ気が付かないままだった。 韓という国には知謀の士が多い。誰に言われるでもなく、そう思う。 公子であった韓非子以外にも、同じ刑名の学では申不害もいたし、秦皇を立てた呂不韋も元は韓の商人だ。漢朝創業の一翼を担った帷幄の軍師張良も韓の貴族だし、私の祖父、韓王信も漢初の将として功があった。もっとも、祖父は乱を起こして匈奴へ走り、高祖や陳平に討たれて最後を遂げた。 その韓の末裔が、男娼とはね! 私は、徹の『学友』であり、床を同じくする『寵臣』だった。 貴方はここで、何をしているのです? 無言の譴責に、私はうなだれる以外になく、それでも私は『韓非子』を学び続けた。何故なら徹が望んだのだから。 「なあ、嫣。俺は父上や祖父上のやり方には賛成できないんだ。」 遠駆けの折に、徹が馬を止めた。 「高祖は秦に代わる国を作ろうとなさったが、大業を成就されないままに崩御された。だが、呂氏の専制のためにそれは中断された。そして漢は貧しく、暗い、地味な国になってしまった。だから匈奴だって侮って掛かりに来るのだ!」 紆余曲折を経て帝位に着いた徹は、何事も自分の流儀でしたがった。地味なのが嫌いなのは昔からだ。何しろ初恋の阿嬌こと陳皇后に、金屋を作って住ませると子供の内から豪語していた。 「俺は漢を広げる。豊かで広大な国にする。そのために金は存在するのだ、父や祖父がしてきたように、倉に積んでおくためではない。」 そうだ、その通りだ、と私は同意する。君ならば出来る。時代は、君のような英雄を待っていたのだ。 「嫣は匈奴に威を馳せた韓王信の孫だ。韓嫣が将軍となって匈奴を討ち、韓の領土を広げるのだ。嫣はありがたいことに武勇に秀でているから、嬉しいよ。」 徹は誘いかけるように、私を見る。私達は馬を下りる。手をつないで歩く。どちらからともなく木の下に座る。絶対の権力を持つ徹が主導権を握り、私は徹の為すがままの局面を受け入れる。 「俺は嫣が好きだ。」 と、私の『学友』は笑った。 絶対の権力?女に立てられた皇帝が、絶対の権力者! 夢現に嘲笑を聞いた。美しい女が繊手を口にかざして嘲笑っていた。 「徹を笑うな!」 私は腰間の剣を抜き放ち、女を叩き切ろうとして振り上げた。意外や、その女は自らも剣を抜いて、私の剣を弾き飛ばした。 土民の末裔に辱められ、唯唯諾諾として従うとは、韓の末裔も地に落ちたもの。 女の背後から、端正な顔に酷薄な表情を浮べた美丈夫が現れた。 量産するのだ、欠陥品が出来ても道理でしょう?彼の父は妾の子、その祖父もまた妾腹の孫。ここまで薄れた『高貴』に今更どのような意味があるのだと? 「お前たちは何者だ!」 誰も、答えない。 徹は伯母によって選定され、母と伯母の結託により、従姉妹の陳嬌を后に迎えることで帝位を踏んだ。それでも、徹には覇気がある。壮大な展望がある。 壮大な展望! 声に出さなかった心中を窺ったかのように、女が背をのけぞらせて笑った。笑いに笑って、床に崩れ落ちた。引き据えたその顔は、絶句するほど美しかったが、酷薄な部分は背後の美丈夫と共通していた。 たかが土民の末裔。劉邦のように定見のなかった男の、拡大して量産されたその末に、こけ威しの虚飾以外の何が残っていると? 治世の枠組は、私が決めてしまったのですよ。 背後の男が、私をねめつけた。微笑みながら、睨み据えた。 劉徹ごときに、私の弟子を越えることが出来よう筈もない。 「徹、徹、助けて……。」 お前は女になるべきだった。そして、私が男であれば丁度良かったのだ。 私を振り払った女もまた、私を睨み据えた。 お前の従う主の祖先もまた、女に立てられた皇帝だったのだから! …どういう…ことだ?私は単純で果断な『親友』を求めて手を伸ばす。そうだ、徹は私の手を握る。それでも徹の姿はどこにも見えない。これは、夢だ。悪い夢だ。 女は髷をばさりと解く。解いた髪を一括りにして、どこからともなく差し出された冠を被る。その姿に見覚えがあって、私は叫び声を上げた。 そうだ、留侯張良、私だ。この、韓の恥晒しが! 韓など、滅びるべきだったのだ。私が再三説いた通りに。私が秦王を教唆したように。 留侯の背後にいた美丈夫はそう言い放った。秦王を、教唆した……? 貴方こそ、生きている値打ちがない!私や私の陛下を偏斥する貴方達こそが、この世界を食い荒らし崩壊させる蠧ではないか!男娼と、娼婦と、宦官に煽てられていい気になっている昏主とで、国家を亡ぼす完璧な布陣を敷いている貴方がたが! 「韓非子!」 「嫣、嫣、しっかりしろ。どうしたのだ、嫣、嫣。」 がくがくと揺すぶられて、そこに友の顔を見た。不安げな徹は、大きく息をついて自分の額の汗を拭った。 「何に魘されていたのだ。とてつもなく苦しんでいたぞ。」 「悪夢を見た。」 「韓非子の名を叫んでいたぞ。宿題に悩まされてでもいたのか?」 そうであればどれだけいいだろう。 「韓非子は嫌いさ。」 と答えるのが精一杯だった。 「徹、頼む。今見たことを忘れたい。」 徹はにやりと笑い、私をその場で組み敷いた。 最早『韓』など、どこも高貴ではないのだから。『皇帝』が『寵臣』を抱いたとて、何が悪い。 「嫣、俺は嫣が大好きだ……。」 漢とはそのような代物でしかないのですか。 誰かの冷たい問いかけが、どこかから聞こえてくるような気がした。 秦とはそれ程に醜悪な代物だったのですか。 誰かの厳しい詰問が、空白の意識に流れ込んでくるような気がした。 儀式も、暦も、度量衡も、街路も、郡県も、法も、秦から奪った。漢は一体、何を生み出したのですか。 誰かの皮肉な疑問が、ぐるぐると頭を回っていた。 生み出せないが故に、下劣な契りに逃げるのですか、答えを! 徹が何をしても、消せない声が私を追い詰める。 そう。それが貴方がたの祭り上げる『皇帝』だ。義務の何たるかも知らず、ただ無駄に浪費と虚飾を繰り広げ、自己の誇大妄想に酔うだけが取得の、無能で結構な『皇帝』だ。 秦帝が匈奴を討ったのは酔狂だと思いますか?辺境が物騒だったからに過ぎませんよ。 漢帝が匈奴を討つのは必然だと思うのですか?平地に乱を起こしてでも虚名が欲しいからに過ぎませんよ。 そうだ、貴方の『帝』は、実益を上げはしない。虚名ばかりを貪って、実になることは何一つしていない、何一つ! それが『大漢』を名乗るとは。『大』の字が聞いて呆れる。 おや、逃げないのですか。逃げなさい、貴方の『ご学友』の『愛』の中に。私は同情などしませんよ。貴方など韓の一門と数えてはいませんからね。脂、の妾腹の、それも孫ですって?更にその妾の孫が貴方ですって?それで韓の一門を名乗るとは、図々しいにも程がある。 いっそ平民から身を立ててみては如何です。もしも、貴方に男娼以外の才覚があるというのならね。 私の見込んだ、あの李斯のように! 「徹は、徹は偉大な皇帝だ……。」 「勿論。俺は、あの始皇帝のようになってみせる!」 今、徹は、何と、言った。 拭えない秦の残像。消しきれない韓の痕跡。 その上にはらりとかかった漢の薄覆いに眩まされ、人は実態を見分けない。 何故、高祖のようになると言ってくれないのだ、私の徹。 あんなものになりたいと、誰が願うのだ? にやりと笑う微笑みの中に、切先を潜めているような、留侯の女顔が私を追い詰める。 これが『漢』なのだ。 私は思考を停止する。 太孫は賢い。太孫は全てに秀でている。まさに非の打ち所がない。 私は賢くなどなりたくはない……!徹のように自分の限界を知らずにいたい!私は思考を停止する。私は愚かである事に生き甲斐を見出す。無意味な慰み事を追求する。 太孫殿の後を付いて行くと金の玉が拾えるよ。 玉はじきが趣味だとは子供じみている。しかし面と向かって嘲笑う者はない。私の背後にいるのが誰か、子供でも知っている。その上、私に取り入ろうと玉はじきの達人なる者まで現れる。徹は『親しい仲』の『友』にふんだんな金を与え、私は金の玉を気の向くままに弾き飛ばす。弾き飛ばされた金の玉を老若男女が争い掴み合って拾おうとする。私は決して金の玉を拾わない。 騎射に巧みな上大夫。昔から聡慧だった上大夫。上に愛される上大夫。匈奴も討った上大夫。 私は徹の、一体何だ……?友でも寵姫でもない、寵臣。狩の先駆を受け賜り、副車を許される『高貴』の人。 誰かが頭を下げている。皇族だろうか。高臣だろうか。どうでもいい。私の前に道を開けろ。私は徹の無二の寵臣なのだ、その前に道を開け。 傲岸?不遜?そんな言葉、私の知ったことではない。私は高貴な者として今ここにある、その事実が全てだ。誰に恨まれようと憎まれようと、私は知らぬ。徹に逆らって立てるだけの者がいるというのか。そして徹の先はまだ長い。 だから私は思考を停止する。今こそが全て、と。 自分の先に待ち受けるものなど、知りたくもない。
…2年がかりくらいで書いていた武帝の『ご学友』の話。お題シリーズの『生まれたところ』。この人がまさか韓の関係者だと判明しなければ絶対書かなかっただろう代物で、どうまとめればいいんだ、まとまらんぞ、と思案投げ首の2年間でした。もういい加減終わらせたいということで。おまけに暗いし。ぴことしぼちゃんはでばっているし。 |