胸に秘めた思いのために
私は苦しめられている
跡を追い回さないでくれ
私にも解らない
私は一体どこにいる
      −『ミール狂恋詩集』巻一、285より

Voi siete mio tesolo
−長安の反し歌−

 離れにしつらえた書斎で気の向いた書見をするだけの単調な日々が続いていた。子供も日増しに大きくなっていて、私が始終見ていなければならない必然は薄れている。近頃では皇帝の幼少の子息の遊び相手として参内もするので、高臣の子息達に友達を作って楽しい時を過ごしているらしい。帰宅して顔を合わせるなり、矢継ぎ早に喋り出すのだ、相当に嬉しいのだろう。
 それでも彼は『父』にまつわりついているのにも飽きる様子を見せなかった。そんなところは親に良く似ていた。散々朝廷で騒ぎ回ってきたはずなのに、まだ私に撃剣の相手をしてくれとねだる息子を、私は突き放せなかった。
 あの男なら、突き放せたのに。
 わかっていた。本当は。あの男に自分がどれだけひどい扱いをしているのかも、自分の仕打ちが人を十分に傷つけることも、知っていた。だから子供には、一切それをしなかった。可哀想で、出来なかった。
 お前は筋がいいね、と誉めると、調子に乗って木刀を振る不疑。私は遊び半分で稚拙な打撃を受け流し、むきになって突っ込んでくる子供をかわす。戸外は相当冷える季節だったのだが、子供は顔を赤くして駆け回る。
「亜夫殿がね、不疑君はもっと大きくならないと危ないからお稽古の相手してあげられないよって言うんです。父上、悔しいから、もっと上手になる方法ってありませんか?」
「それは鍛錬するほかあるまいな。何事も精進が必要だ。」
 片手で突きを払う。
 私は、下邳の剣客でもあったのだな、と十年近い昔のことを思い出した。まさか、私が子供を生むとは思わなかった、夢にも思わなかった頃だった。
 人を斬るよりも、子供の剣の相手をしている方が、性に合っている。突き転ばせてから、泥の突いた裾をほろってやると、抱き付いてきた。相当重い。
「僕ね、父上がおうちにいらして嬉しい。」
 私の胸元で、不疑が囁いた。
「他の父上はね、忙しくてみんな構ってくれないんだって。僕の父上は遊んでくれるし、御本も教えてくれるよって言ったらね、留侯はさすが違うなあって、羨ましがってたんですよ、父上。僕、うちの子で本当に良かった。」
 それは、私の体が弱いからだ。漢軍で指揮を取っていた時分に相当な無茶をしている上に、潜伏時代の乱脈な生活が生来の多病に拍車をかけていることは百も承知だ。承知して、自殺行為と知りながら寝食を削って軍略を立てていたのだ。その私の趣味が養生法でもある導引だったというのは皮肉な話だ。だから、子供が授かるとは思いもしなかった。妓楼にいた時分、何度も流したことがあるだけに尚更。
 他の女達と違って、私には韓の生家で読みためた余計な知識というものがあった。私の場合その全てを悪用したに等しいのだが、特に薬学は悪用した。毒殺に手を染めなかったのは、その機会がなかったからに過ぎない。堕胎薬もその一つで、下邳では他人に作ってやったこともあった。それでなくとも薬漬けの私の体がどうなっているか、考えるまでもない。なのに、この子は生まれてきた。私は、一生に一度だけ、自分が毒殺しようとした相手を見詰める。

 不疑が胎内にいると知ったとき、私はさも普通のこととして薬嚢をあさった。薬種が切れていたので、違う処方を探そうと思いつき、思いついてから立ち尽くした。
 この私が生きている意味がそもそも存在するのかと。
 韓の復興は果たせなかった。秦は倒した。楚も葬ったし、祭り上げた男を『皇帝』の位に据えた。その男は私を道具として『使った』と言い放ち、私は全てが嫌になっていた。韓非子には遠く及ばない自分にも愛想が尽き切っていた。
 洛陽から長安へ移動する馬車が子供にも、私にも良くないと知っていて、私はその乱暴な振動が楽しかった。漢王の無駄話に耳を貸しながら、私は余命を数え続けていた。そして、長安に引き篭もってから伝を辿ってあるものを探させた。
 せめて、貴方の後を追わせてください。
 あの冬天の星が呷った鴆酒を作ろうと、私はその羽を探させ、一方で上等の酒を買い込んだ。それほど苦しみはしないと書いてあった。ただし、蘇生もしないと。何しろ劇毒なのだから。
 羽が見つかって、届けられ、誰にも黙って酒瓶に落とそうとした。その途端に、腹を蹴られた。軽く、しかし精一杯の抗議をこめて。
 僕を、殺すのですか。
 羽から手を、放せなかった。震えながら棒立ちになった私を、もう一度蹴った。
 僕、死にたくありません!
 私の頭に響くその声は、あの童顔の悪党の声だった。
 お願い、それでも私はここにいて欲しい!
 私の腹を蹴った、顔も知らない子の父親の、声だった。私は床に膝を付いた。腹の子は、まだ少し動いてから静かになった。死んだのか、と今度焦ったのは私の方だ。急いで書斎に駆け戻り、医書を片端から紐解いて、子供の無事を知ってまたへたり込んだ。
 護軍中尉、これがお前の答えなのか……!
 長安に入ってから会わなくなったあの男の顔をまざまざと思い出した。
 教えて、私はどう生きていけばいいのだ、と問った私に対する、これは回答なのか?そうして私は、もう自分が鴆の羽を手に持っていないことに気付く。取り散らかした書の多さに、守ろうとしたものの存在を知る。
「お前は…私の側にいて、くれるのか?」
 その時初めて、私は顔の見えない自分の子に話し掛けていた。私は病弱を理由に一年閉じこもり、あの男も含めて一切の来客を追い返し、この子を生んだ。年齢と今までの不摂生が祟って産褥から起きられないほどになったが、不思議と後悔はしなかった。わけもわからぬ不疑は、むやみに私を求めて、夜昼構わず泣き喚いた。腹が減ったと泣くし、粗相をしては泣くし、熱を出しては泣くし、小用に立てば泣くし、ほとんど寝られなくなった私は不疑を危ない手付きで抱きながら、聞かせてやる物語を知らないままに、韓非子や仙人殿の兵書を読み聞かせていた。元々眠らない人間だった私も、さすがに音を上げた。
 眠りたい、泥のように眠りたい。それでも韓の家から私に仕え続けているじいやに預けた不疑は、私がいなくなった途端にとてつもない声で泣き喚くのだ。
 あの男に、妙なところが似たのかな。
 眠い目をこすりながら、全身ばらばらになりそうな痛みに耐えながら、それでも私は後悔しなかった。一度病床にまで押しかけた呂后の勅使−無礼で能無しの彼女の甥だ−が、私を見て絶句したくらいだから、相当に衰弱したのだろう。彼女も自分の息子の立太子どころか自分の地位も危うくなって、崖淵に立たされていた。不疑が来る前は冷ややかに見ていた彼女の焦燥が、今の私にはほんの少しだが、わかった気がした。そうでなければ、あんな能も無い柔弱な劉邦の子におざなりだったにせよ手を貸す必要は認めなかった。
 護軍中尉にだけは一度会う必要があった。四六時中私を探して泣き喚く不疑を放って、私を『使う』朝廷に出てやる必要など認めなかった。それでも私がいなければ反乱の一つにもてこずる漢軍だ。なおかつ楚王の韓信殿は隙あらば自立の兆しを見せる油断のならない方だったから、一統に帰した漢の枠組を崩さないために、彼に全てを委任したかった。
 それだけだったのだろうか。
 護軍中尉はやって来て、二度と来るなという私の一言に逆上して帰って行った。
 来てはならないのだ。それでなくとも手の内を見せないあの男は、誰からも隔意を持たれていたのだから。韓信殿にも、蕭何殿にさえも、時折不満を洩らし始めていた皇帝に、あの男を疑わせてはならなかった。あの男は、私の切り札だった。醜悪でありながら、一応の形を残した、漢、なる枠組を支えるための。
 そして、私がいなくなった時、不疑を委ねるための。
 私には私の家があり、あの男にもあの男の家があった。だから、不疑は渡さなかった。知らせもしなかった。知らせたら、あの男は間違いなく悪企みを捻り出してここに来る。何度も来れば造反の意志を疑われる。何しろ彼は詭計の策士であり、私は『帷幄の軍師』だったのだから。
「不疑、私を許してくれ…父に名を貰ってもやれない、私を……。」
 私はもう鴆の羽を手にする気はなくなっていた。鴆の羽は手筥にひっそりとしまった。
 お願い、いなくならないで。
 私は、もう何処にも行かない、護軍中尉。私には韓非子の翼はないし、私はこの子を皇帝から守ってやらなければならないのだから。
 この子と、その親鳥を。

 夕食を終えた不疑は体に余るほどの大きさの碁盤を抱えてやってきた。じいやが碁石を持たされている。危ないではないか、と止めると、じいやが、わしが持つというのにお聞きにならなかったのです、と途方に暮れていた。
 誰に似たんだ、と内心で悪態を付く。息子は他人の書斎に乗り込んで、いそいそと碁盤を広げて、私の席を作っている。早く寝ろと言いつけているのに。
 俺は強情じゃありませんからね。
 童顔の男がにやりと笑いそうで、私は知らず、口を噛む。
「父上、こっち。」
 不疑が、ぽんぽんと席を叩く。その仕草に、ふ、ともう何年の前の光景が重複った。
 しぼちゃん、こっち。ぽんぽん、と自分の隣を叩く、無礼な上に物騒な年下の−。
「一度、だけだ。終わったらすぐに寝るのだぞ。」
 はあい。こちらが相当に手加減しても、まだ勝てない。この子が大きくなったら、一体どんな手を打ってくるのだろうか。わざと石を打ちやすい場所に布石してやりながら、そう思う。
 私に似た手を打つのだろうか。何しろ男の子だから。呂后は、男の子は母親に似るものだというのに、あの軟弱者はちっとも私に似やしない、と常から嘆いているけれど。そう言えば、太子は親のどちらにも似ていない。
 できれば、私ではなく、あの男に似た方が大人になってから生きやすい。この子が大きくなったときに差す碁石の軌跡が、あの男に似ていれば、私は安心してどこかへ行ってしまえる。
 ああ、わざわざ残しておいた空白を見逃した。仕方がないので、別なところに誘い込んで、こちらの隙を気付かせてやらねば。盤面が真っ白では面白くないではないか。不疑の黒石が小さくなっている。
 しぼちゃん、優しいんだね。
 あの男は、そう言って笑いもするだろうか。あの男と、一局差してみても良かったな。そうすれば、あの策士の手の内が私には少しわかるだろうか。今は匈奴へ行っている、護軍中尉の手の内が。
「ねえ父上、匈奴って強いの?」
 一人前に唸りながら不疑が尋ねる。不疑、その陣は隙だらけだぞ、せめて破れ目の一つくらい見つけて欲しいと思うのは私の欲目か?
「匈奴は漢ではないからな。文字や儀礼がない故に、乱暴者が多いのだよ。」
「寒いんだってね。亜夫殿がゆってたよ。」
「不疑、『ゆってた』ではなく『言っていた』だ。」
「亜夫殿がゆっていたよ。」
「不疑、匈奴の話など聞いていたのか。」
 ようやく空地に気付いた不疑が嬉々として黒石を置いた。そうそう、良く気付いたな。次にはそちらに…そう、そこに置けば良いのだ。
「はい。亜夫殿が、周勃将軍のお話を聞きに行ってね、僕にも教えてくれたの。周勃将軍、勝ったんですってね。かっこいいなあ。」
 周勃の生真面目極まる動き方を思い出す。瞠目するほど見事な勝ち方というなら韓信殿だが、まだこの子にはわからないだろう。韓信殿…今は楚王を逐われて淮陰侯となられたが、壮健でいらっしゃるだろうか。市井の書生らしさを残しているあの天才が、私は嫌いではなかった。救うほどの関心も持ってはいないけれど。
「灌嬰将軍も何処かで勝ったんですって。漢って強いですよね。」
 私はただ微笑するだけだ。
 戦えば必ず負ける、それが漢軍なのだから。勝てたのは劉邦自身が認めた通り、韓信殿が味方だったこと、蕭何殿が兵員と糧食の補給を投げ出さなかったこと、私と護軍中尉がするべきことを逐一指示したこと、それに尽きる。
「父上、匈奴ってどのくらい寒いの?亜夫殿は指が落ちちゃうくらい寒いのって言ってたんだけど、父上、寒さで指が落ちるの?」
「ああ。寒さで、指が凍ると腐ってしまうのだ。切り落とさなければ、手まで腐ってしまうのだよ。」
 あの男なら、無事だろうが。詳しいことは、知らないが。
 強烈に嫌な予感がした。
「そんなところに周勃将軍はいらしているのか?」
「はい。陛下は何とかいうお山の上に向かわれるつもりだって、聞きました。お山はもっと寒いんじゃないでしょうか。」
 一瞬、不疑に言われた意味がわからなかった。あまりにも馬鹿げていたから。

 山の、上だと!
 護軍中尉、何故止めない!

「不疑、すまない。父は朝廷へ行かねばならないから、今日はじいやと一緒に寝るのだぞ。」
 私は立ち上がって、じいやを呼ぶと共に外出の支度をさせた。息子は何が起きたのかと、泣き出しそうな顔をしている。
「こら、泣くのでない。父は皇后陛下に急いで奏上せねばならないのだ。いい子にしているのだぞ。土産を持って帰ってくるから。」
 それでも、不疑は潤んだ頼りない眼差しで、私を見上げる。
 そんな顔、するな!あの男に言えた言葉をまさか子供に使うことも出来ずに、私はただ微笑むことしか出来ない。
 急がねば、手遅れになる。
 子供を追い出し、数年振りに冠を着け、正装を整え、長剣を帯び、佩玉を着けた。鏡の向こうに映るのは、昔と変わらない帷幄の軍師だ。書斎の扉を開けると、ぐずってじいやを困らせている不疑が、弾かれたように私を見た。
「…父上、かっこいい。」
 不疑が、ふわあ、と笑う。まるで、誰かのように。
「いい子にしているのだぞ。勝負は明日、着けてやるからな。」
「はあい!」
 頭を撫でると嬉しそうに笑って、送るの、とついてきた。
 全く、誰に似たのやら。馬車を走らせる私は、門前で一生懸命手を振る息子に手を振り返した。
 不疑。お前の父上を救うために、私は出かけてくるのだよ。

 夜半のことではあったが、太子廃立のことで助言した私に対する借りを、皇后もまた忘れていなかった。留侯が参内したと伝えさせると、しばらくしてから目通りを許された。
 彼女も老いたな、が六年振りに会った感想だった。彼女は、
「いつお会いしてもお若いこと。」
と挨拶した。その一言に、私は自分の老いを聞く。
「不疑から、陛下の軍が危地にあることを聞きました。援軍の必要があるかも知れぬ故に詳細を伺いたく、失礼を致しました。」
「今審食箕を呼ばせましょう。」
 彼より淮陰侯韓信殿の方が要点を突いてくれそうなのだが、この人には遠ざけられているのだろう。審食箕も問題の多い男のはずだが、楚と戦っていた間呂后と子供達に忠実に付き添っていたので、彼女の絶大な信頼を得ていた。
 周勃はまだ平地に留まっているらしいが、皇帝が山へ上ったというのは十中八九正しいそうだ。お前がついていながら何故止めない、と私は護軍中尉を蹴り飛ばしたい衝動にかられた。
「糧道を絶たれるはずです。冒頓単于はかの地で勢力を伸ばしているまだ若い単于と聞きました。彼は漢地の兵法も少し知っているそうですから、陛下共々山上の軍が全滅する恐れがあります。援軍を派兵する必要があると、私は存じます。」
 審食箕の持ってきた図面を差しながら、聞いたことと照らし合わせて断言した。
 何故あんな僻地に半年以上留まるのだ。韓王信が、今更漢に逆らって何が出来るのだ。放っておけば、匈奴などというどうでもいい連中と関わらずに済んだものを。愚かな土民上がりが、増長の当然の結果だ。
 こんなことなら私も行くのだった、とふと呟いた。皇后が、それでしたら安心できましたものを、と言った。
 私が来たということで呼び出された丞相の蕭何殿までが青くなった。
「兵の二割が指を落としたと…存じませんでした。」
「二割と報告されているのなら、実質は三割、指が落ちずとも腐っている者を含めれば四割に達しているでしょう。糧食どころではない、急行軍で援軍を派兵しなければ、陛下の脱出の糸口が掴めなくなるやもしれません。冒頓が素早く動くだけの隙を見せてはならない。」
「よろしいでしょうか。」
 蕭何殿が皇后に伺い、皇后が許諾を与え、その夜半の内に援軍が長安を出た。家に帰ろうとしたのだが、引き止められた。蕭何殿だった。
「何年か振りにお会いできたのです、酒でも飲みながら、話でも致しませんか。」
「皆様はお元気でいらっしゃいますか。」
「おおよそはご存知でしょう。曹参は趙へ行ったきり、私信は一つも寄越しません。韓信殿は…お聞きでしょう。今日もいらしているのかどうか。皇帝陛下の猜疑はひどくなるばかりです。元気なのは儒者ばかりですよ。」
「虚飾にも、それなりの効果はありますからね。」
「ええ、陸賈殿にも、叔孫通殿にも、何もありません。立派な人達なのでしょうが、私の心には、何も響かない。私は元々県の書記に過ぎないのですからね。難しいことを言われましても、とても。」
 背を丸めたこの人も、確かに老いたのだ。私は、常識のある年上の友人の背を、そっと叩いた。ありがとう、と蕭何殿が呟いた。
 すみません、蕭何殿。私は貴方を生贄にした。貴方を、一介の県の書記として奔走するのが好きだったおとなしい貴方を丞相にせよと進言したのは、この私だったのです。そして、貴方はその高位に付随する全ての災難に今直面している。それでも。
 すみません。私にも、守りたい者がいるのです。
 蕭何殿も誰かに愚痴をこぼしたかっただけなのだろう。私は長安を住みよくしたいだけですのに、陛下はその全てがお気に召さないそうです、と背を丸めた。当然だ。蕭何殿は長安市民に慕われすぎている。誰が自分達の福祉を気に掛けているのか、子供でも知っている。土民に押されて立った劉邦は、彼等の寄せる声望の危険を身をもって知っていた。私は蕭何殿が気の毒だったが、何も教えては差し上げなかった。
 この宮廷はきな臭すぎる。数年ぶりに足を踏み入れた宮廷の雰囲気に、しばらく覚えなかった目眩と吐気を感じた。胡乱でしかない皇后の外戚が大きな顔をして歩き回り、能もない将軍たちが列侯の猿真似をしてうろつき回り、誰もが誰もを疑いの眼で眺め、排撃の隙を狙っている。
 子房、それでも私は間違っていると言いますか。
 亡き韓非子は、この状態を予見していらしたのだろうか。
「貴方がここにいらっしゃれば、少しは昔のような陛下に戻られましょうに。」
 私は黙って首を振る。外交用の笑顔を浮べて首を振る。
 もう、使われる義理など何処にも存在しない。私が援軍を望んだのは、ただ。
−嫌ってもいいから、側にいさせて!−
 負けた、と私に思わせた男を殺したくなかったからだ。まだ、私はあの男を嫌い続けていたかった。頼りない眼差しで私を追うあの男を突き放し、罵り、いつぞやの返礼も兼ねて横面を張り飛ばしてもやりたかった。
「私には丞相のような才覚も、淮陰侯の将才もありませんから。」
「何をおっしゃいます、不世出の軍師であられる貴方が。陛下は、子房殿と話をする時には心底から楽しく愉快な気分になるのに、お前たちは屑ばかりだといつもおっしゃいますよ。」
 相変わらず口の利きようを知らない男だ。
「陛下の言葉をお直しするのは叔孫太傅の仕事では?煩瑣な儀礼を制定するより先でしょう。」
「しかし、彼のお陰で、宴席の酔漢が柱にいきなり切りつけたりする事件は減りましたからね。」
「根絶は出来なかったのですか。」
 私は苦笑するほかない。蕭何殿も、
「まだ、おみえにならない方がよろしいと存じますよ。危ないですからね。」
と苦笑した。
「宴席は危険ですが、朝廷にはいらしてくださると皆喜びますよ。」
「体がいうことをききませんもので。お恥ずかしいものです。」
 病弱とは、便利なものだ。あの男なら、じゃあ養生させて上げますから、とか何とか言いながら担ぎ出すのだろうが、常識人の丞相は温和な物腰で同情してくださるだけだった。
 帰ると言ったのだが、戦況の帰趨がわかるまでいた方が良いと留められ、長安宮に泊ることになった。初めてだったかもしれない。
 落ちつかないまま、寒い部屋で浅い眠りに落ちた。

 寒い。雪と氷が一面を埋め尽くしている。吐く息も白い。その中を、正装で歩いているという矛盾に気付かず、私は山上に翻る漢の旗を目指して歩き続けた。ふと中腹から見下ろせば、眼下をぎっしりと取り巻く胡兵の群れがある。裾をからげてひた走った。息が切れないのは、子供の相手をして少し体力がついたせいだろうか。
 旗の下には、護軍中尉しかいなかった。
 何をしている、早く逃げろ!皇帝は何処だ、樊噲は何処に行った、もうそこまで冒頓単于が来ているのに、何をしている!
 あの男は、笑って振り向いた。
 貴方が望んだのでしょう?と。
 俺など、いなくなってしまえと、貴方が望んだのでしょう。会いたくないのでしょう。わかりました、二度と会いに来ません。永遠に貴方の前から消えて差し上げますから、それでご満足でしょう。
 護軍中尉……!
 違う、と言いたかったのに、あの男は二度と私を振り向かなかった。
 死んでやるから、それで文句ないんだろう、子房。
 そして、牙を剥き出しにした化け物のような顔の冒頓があの男を一刀に切り下げた。剣を抜こうとしたのに、ない。正装だから、帯剣している筈なのに。私の目の前に、首のないあの男が立っている。
 これが、お前のお望みだろう。
 私は声を出すことが出来ずに、必死で首を振る。吹き上げられた雪がみるみる内にあの男を包み隠した。走っても、走っても、追いつけない。吹き溜まりに座り込んで雪を掻き除けても、あるはずの遺体も血痕も見つからなかった。
 お前には、渡せない。お前が拒んだのだ。
 何故だか、氷漬けにされたあの男の遺体が、目の前にある。その傍らに立つ雪の女王は、あの童顔の男を我が物顔で氷漬けにし、雪を振りかける。
 護軍中尉!
 俺は護軍中尉って名前じゃありません!
 陳平、死ぬな!来るなと言ったのは、お前を生かすためだ!死ぬな、命令だ!

 最悪の夢見に、自分の叫び声で飛び起きた。室内には雪も氷もない。誰かに聞かれなかっただろうかと扉を開けるが、寝静まった宮殿にうろつくものはなかった。もう一度部屋に戻ったが、眠れなかった。
「陳平…寒いのに…お前なんて…大嫌い…帰ってこないお前なんか…大嫌いだ……。」
 私のことなどとうに忘れて楽しく日々を送っているだろう無礼者を、それでも愚かな私は呼んでいた。

 すぐに帰るつもりだったが、帰れなかった。使者がなかなか戻ってこなかったし、護軍中尉が不在とあって留守居の将軍達があれこれと決断を委ねてきたからだ。蕭何殿は連日茶飲み話に愚痴をこぼして行ったし、どこから聞きつけたのか韓信殿も現れては話をして行った。
 これほどの激務をこなしていたのか、と今更に思う。これでは、子供の顔を見る時間も、相手をする体力も残りはしない。そんなことをすれば、本当に死んでしまう。
 私に生きる時間を与えてくれ。あの男は、それをくれた。最後くらい好きにさせろ、と逆上したあの男は、それきり二度と邪魔をしに現れたりはしなかった。私は静かに子供と過ごし、死のうという気を捨てていた。
 これが、あの男の答えだったのだ。
 それでも、俺は貴方に生きていて欲しい。どんなにここが凄惨でも、貴方だけが、ただ一つの私の憧れなのだから。
 生きろ、というのが、あの男の一貫した答えだったのだ。だから私も同じ答えを返そう。
 護軍中尉、生きて長安に帰って来い。お前には、会わねばならない人間もいるのだから。
 その子に、仕事が長くなったから帰れないと破約を詫びる使者を出し、皇后に貰った菓子包みを送った。少し大人になっては来たが、これだけ長い間不在にしたのは初めてなので、泣き喚いていないとよいのだが。
 援軍到着を知らせる周勃の使者は、漢軍の本隊が山上で孤立していると知らせてきた。やはり、囲まれたか。補給路を徹底的に断たれて、三日になると告げて寄越した。胡兵の包囲網が厚く、破れそうにないので静観すると書いて寄越した。
 どいつもこいつも役にも立たぬ!蕭何殿の前で木簡を叩きつけるわけにも行かず、困りましたね、と温和な笑顔に全てを隠した。
 何をしていたのだ、護軍中尉。私にわかることがお前にわからないはずがなかろうが!あんな能無しのなまず髭の土民と心中するつもりか!お前の詭計をどこにやった、お前はあの栄陽の包囲でさえ手品を使って破った人間だろうに!
 貴方が、望んだのでしょう?俺など見たくないと。
 悪夢の名残が、私を問い詰めた。癪に障って、私は激務に逃避した。皇后の相談役も、蕭何殿の愚痴も、韓信殿の身の上相談も、諸将の決済事務も引き受けた。子供には毎日書信を書き送り、ここ数年の漢軍の戦い方に目を通し、匈奴の地形と冒頓単于の情報を仕入れた。
 頭が冴えてくる。元来没義道の私は、こういうことは好きだった。
「やはり家に閉じこもる子羽は、子羽ではないな。」
 私の出仕を聞きつけてやってきた項伯−今は劉姓に変えていたのだが−は、戦況の話をした後にそう呟いた。
「子羽、養子を取ったのか?それとも……。」
「私の子だ。それが何か?」
 張家にも正嫡は必要だ、と、一言で黙らせる。古い馴染みになった項伯は、まあそうだが、とか何とか、納得したようなしないような物言いをした。
「何だか、恨めしいな。」
「何が?」
「子羽、お前、韓相の令嬢に戻って、どこかに嫁ごうとは考えなかったのか?」
「私は兵を動かすのが好きだ。軍略を立て、誰かを走らせる方が性に合っている。」
「お前は天才だもんな。」
 かなわないよな、と項伯は歎ずる。私は天才などではない。非才に絶望して死にかけた人間だ。
 それでも、ここにいて、と泣いてくれる人間がいたから、私はこうして『帷幄の軍師』を続けていた。
 韓非子は帷幄に籌策を巡らして、この目茶目茶な軍を勝利に導いたりはしなかった。韓すら救ったことがなかったはずだ。貴方なら、漢を救える。
 そう言って自分のために泣いてくれる人間がいたということに、あの時の私は動揺した。私がいなくなれば一番利益を得るはずの男が、なりふり構わず必死になって私を引き止めた。
 だから、あの男は温かかったのだ、と気が付いた。
 寒い匈奴で凍えているべき人間ではないのだ。
 そんな囲み、さっさと破れ!韓王信なんかにかかずり合っている暇はないだろう、さっさと長安に戻れ、命令だ!

 穏やかさを装って一週間以上も家に帰れなかった私の元に、ようやく使者が到着した。からりと開いたその文面に、目を疑った。
 癖のある悪筆の書簡。もう、何年ぶりに見ただろう。誰かが、奴に字を習わせろと悪態を付いたほど汚い走り書きが、何故か霞んで見えた。
 匈奴の閼氏に賄賂を送り、敵対の無意味を単于に説かせ、その一方で濃霧に紛れて山を降りて来たのだと。損害は、なかったという。相変わらず奇術のようなことばかりする男だ。大損害が出てもおかしくない局面なのに。
「さすがは護軍中尉ですね。」
 私はそう言って、書簡を蕭何殿に返した。
「七日間絶食させられていたそうですよ。」
と皇后が笑った。
「七日ですんだのが奇跡です。これだけ不利な陣立てをどうしてしたのか、私には今も解せません。」
 皇后は蕭何殿を下がらせた。
「私にはわかるような気もしますけどね。何しろ、貴方がこうして出ていらしたのですから。」
 どういう意味だ?
「閉じこもっていた貴方を引きずり出したかったのでしょうね。護軍中尉は始終、留侯が来ない、出て来ない、家にいたって暇だろうに、とあちこちでこぼしていますから。」
 嘘だろう?
 他の誰かを追って、私のことなど忘れてしまっているのだろう?いや、そうでなければ嘘だ。間違っている。護軍中尉、お前のやり方は根底から間違っている。
「彼に、私は必要ありません。」
 それが事実だ。
「物にこだわらないような顔をしているくせに、相当に気を使う男ですよ、彼は。それほど気兼ねする必要もないでしょうに。あの男には人の思惑が見え過ぎるのでしょうね。当然当り障りのないように身を処してしまうし、だから知が立つと言われてもしまう。そのせいなのかどうか、あの男が心底から笑ったときは子供のような可愛い顔をしますよ。その内ご覧になればよろしいでしょう。彼がいれば、漢は安泰です。浅学非才の私が出てくる必要もない。」
「会いたがって、おりますよ。」
「会うつもりはありません。会いたく、ないのです。」
 これも、事実だ。
 護軍中尉、今だからお前は警戒されずに、皇后の同情を得ていられる。だから、私の判断は間違っていなかった。一番危険な人物がお前を庇護しているのなら、私はお前に会う必要はない。無用に警戒されるような危険を犯したりするものか。
 お前と、私の子供のためにも。
 呂后は何やら色々と言っていたが、私はただ繰り返した。
「会いたく、ないのです。」
 お前が無事なことがわかったから、会わなくても、いい。
「彼に、私は必要ありません。」

 軍と皇帝の帰還の報せを、私は自邸で受け取った。半月近くも留守番をさせられた不疑は、どこにいくにも雛鳥のように私の後ろを付いてきて、帰ってからニ三日は一人で寝ようともしなかった。参内した時に顔を見せに来たりもしていたのだが、やはり朝廷で会う親には気後れを感じたものらしい。
 あちこちと引き回されて、撃剣だ碁だかけっこだ、と相手をするのも楽ではない。その上、朝廷からは折りに触れて使者が来るようになり、こればかりは迷惑だった。ついには劉邦自身から勅使がやってきた。
 勅使を蹴り出すわけにも行かず、私は溜息を付きながら参内の支度を整えた。
「父上、また長い間お留守をなさるの?」
 不安そうな不疑の頭を撫でてやる。
「今度は長くはならない。この間は私の畏友が危なくなっていたから助けてやらねばならなかったのだが、今度は何もないからな。」
「早く帰ってきてね!」
 ほら、お前の笑顔はやはり子供に似ているだろうが、護軍中尉。不疑は笑うとお前にそっくりだ。この子がもう少し大きくなったら、どっちが大人かわからなくなるぞ。
 そうだ、せっかくあんなところに行くのだ、あの男の自堕落極まりない近況でも仕入れてやるとするか。
 お前は、ただ一人、私が守ってやろうと思った、漢の宝なのだから。





×××××××××××

お題シリーズ『かの人を待つ』。実は違うお題を念頭に置いて書き始めたのだが、全く関係ない物になってしまった。(笑)「苛立つ」とか「じれる」とかなら書きやすいんですけどね。これが『Ella giammai m'amo』のB面です。まあまあ、何て噛み合ってない組み合わせなんでしょう。(笑)双方全然違うことを考えております。見る夢までが正反対という、作者ならずとも苦笑する人達です。シングルマザーしぼちゃんは一度書いてみたかった。いや、やっぱり母は強しですねえ、しぼちゃん。それにしても、「何やってるんだ、護軍中尉!」とぎりぎりしているしぼちゃんったら、全く素直じゃありません。

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