| わたくしは誰からも見放されたのだ。 この攻囲の下で、わたくしは死ぬしかないのだ。 「ははうえ、ぼく、こわい。」 着物の裾を引かれてようやく、わたくしは自分を取り戻した。 男など、誰も当てにしてはならないと一番良く知っているのは、わたくしではないか。 この子はわたくしの子。 わたくし一人の子。 「安心なさい、ははさまがいます。」 篭絡など簡単なこと。 わたくし、邯鄲の趙妃の誇りにかけて。
母太后、危篤。 秦王政は読みかけの竹簡から目を上げた。お具合が優れぬのは知っていた、と呟いた。 長い間、どちらも顔を合わせていなかった。かの乱が終わって雍の離宮に幽閉し、許されて咸陽宮に戻ってからは儀礼の時にしか顔を合わせなかった。母太后が病床についてからは、稀な機会が更に稀になった。 会わなければならぬ。 秦王政はすぐさま席を立った。近侍の者達が驚くほど早く、その姿は回廊の向こうへ消えていた。 突然の王の見舞に、母太后の侍女達まで狼狽した。それまでうっすらと眠っていた病人が目を覚ました。目を閉じたままでしばらく騒ぎを聞いていた。 「やはり来たのね。」 「太后様?」 「お通しして。そして、誰も近付けないで。」 意外な要請に首を傾げつつ、侍女達が引き下がる。 母太后はゆっくりと鏡の前に座った。本来なら白いものを混ぜている髪は、抜かりのないよう黒く染めている。肌は張りを失ったが、まだ白く、滑らかだ。爪も良く磨いてある。三人の子を生んだとも思えぬほど腰も細い。睫の長い切れ長の瞳は、昔よく妖艶と讃えられたものだった。顔に生気がない。この青ざめた唇のせいだ。唇に朱をさして微笑むと、往年の華やぎが戻ってきた。 わたくしは邯鄲の名妓。わたくしこそが邯鄲の華。 手早く髪でも結おうとしたところに、彼女の息子が入ってきた。 背が高くなった。すらりとした青年の頃よりも肉付きが良くなった。彼女に良く似た切れ長の瞳はじっと、しどけない姿の母太后を見つめていた。 「やはり来たのね。」 「危篤と伺いましたから。」 約二十年振りに差し向かい、親子は言葉をなくした。咸陽へ移されてから居住の場を別にし、敵対したこともあった母子である。公式の場では席を同じくせよと臣下に建言される、不仲の親子に共通の話題は殆どなかった。 貴方、お体はいかがなの。 このところは健やかに過ごしております。 またお子が生まれたそうね。 そうですか。多忙にて存じませんでした。王翦の趙攻めの件がございまして。 相変わらずお忙しいこと。ゆとりのない男は見苦しいものよ。 ころころと笑う母太后は、やはり王室の一員には見えなかった。しらけかかった座を取り持つ、名妓の面影が色濃く残った母后に、政が焦れた。 「無用の時間を費やす気はありません。私が参った理由を御存知なのでしょう…母上。」 「荘襄王子楚の話なら、わたくしに語るようなことはないけれど。」 「では、文信侯呂不韋にならあるとおっしゃるのですね。」 「貴方、どう思うの。」 華やかに微笑む母太后は、息子の秦王を見据えた。まだ三十を一つ二つ越したに過ぎない彼女の息子を、探るように見据えた。 「それを伺いたくて、参ったのですが。」 「貴方、どちらがいいの。」 「は?」 秦王政が不意を突かれた。母太后は婉然と微笑み続ける。 「貴方の望む答えを、してあげるわ。わたくし、貴方には何もしてやらなかったから、最後くらい御希望に沿ってよ。」 「では、ただ真実をお話し下さい。私は本当の父が誰だったのか知りたい。」 知ったからとて、私の王座は最早揺るぎはしない、と秦王の顔が語っていた。少年の日から、二十年近く座ってきた秦の王座は、私以外に座れはしない、と。 たくましくなったこと。 母太后が目を細めた。 命をかけて救った、わたくしの子。 かつて、邯鄲を秦兵が囲んだ。趙は報復に人質を殺そうとし、秦の公子子楚を探した。子楚は後見の豪商呂不韋の勢力を借り、自国の陣へ駆け込んで保護された。 娶って日も浅い妻と幼い子供を攻囲下の都市に置き去りにして、逃げた。 人質の家族を趙は探した。殺して見せしめにせねばならなかった。 怯える息子を母親は宥めた。一度宥めて、息子を一室に閉じ込め、立ち上がった。 わたくしは邯鄲に名を知られた名妓。子楚風情の夫人にあらず。 邯鄲の趙妃の意地と誇りをかけて、彼女は身を装った。古巣の妓楼から朋輩を呼んだ。捕縛するべく踏み込んだ兵士達は、歌舞音曲のもてなしを受けた。しどけない姿で酒を呷りながら、男に捨てられた嘆き節を聞かせる遊女は同情を誘い、彼女の誘いに彼らは応じた。夜を継いで、客が訪れた。 趙妃は実家に使いを出した。彼女が妓楼で稼いだ金、身請けた旦那から支払われた金、公子から貢がれた金を吐き出させた。彼女は全ての費用を賄い、新たな客を取り、浮き名を流した。もはや男に捨てられた一介の遊女に過ぎない女を、趙は猶予した。蔑むような笑いを残して、放免した。 華やかな恋の陰に、息子のことは忘れられた。 趙妃にはどんな感慨もなかった。商売は嫌いでなかった。客を取るのは苦ではなかったし、客に入れ上げるへまをした事もなかった。呂不韋が身請けの話を持ってきて、妾に直してくれたのはありがたかった。しかし、子楚に譲られた時、やはり自分は一生客を取る運命なのだと醒めた頭で考えた。 子が出来ないように客を取っていた。呂不韋の妾になって、配慮を忘れた。今までへまをした場合のように、すぐ流そうとした。止めたのは呂不韋だった。 お前の子が見たい。 だから流さなかった。孕んだままの趙妃を子楚が所望し、子楚に勝負を賭けた呂不韋は趙妃を譲り、趙妃は政を生んだ。それだけが事実として残り、子楚はすぐに生まれた長子を喜んだ。『愛する』趙妃の面差しを受け継いだ我が子を、趙にいる間慈しんだ。 違う。政はわたくしの子。貴方がた、どちらのものでもない、わたくしの子。政を生んだのはわたくし。殺さずに生んだのは、このわたくし。 趙妃は赤ん坊の扱い方も、幼児の扱い方も知らなかった。顔を見、時折あやすのは嫌いではなかったが、どう接してよいのか知らなかった。子楚はただ可愛がったが、彼女は納得しなかった。子供に慣れた呂不韋が来たときだけ、安心して政を渡した。呂大人なら、良い大人になるよう教えて下さる、と趙妃は信頼していた。彼女の見立ては間違わなかった。 それでも、包囲下の邯鄲で、呂不韋が優先したのは子楚だった。 好きになさい。わたくしは貴方がたが二人ともいなくたって、不自由などしないのよ。 母上、と頼る幼い子供の為に、彼女は再び客を取った。邯鄲の趙妃は客を選べる。兵士達を手の内にし、再び以前の妓楼へ顔を出し、昔の馴染みとよりを戻す。金持ちや役人と繋がれば、二人とも安泰だ。才芸の全てを尽くして、名妓の名を欲しいままにした。 登楼した呂不韋が、自分を見て絶句したのを覚えている。慌てて籍を抜かせ、邸宅をあてがって政と住ませ、それからはしげしげと様子を見に来るようになった。自分の妾としてではなく、今や王太子となった子楚の正室として遇する呂不韋に、憐れみすら覚えた。 政も無事ですよ、と告げた時に、呂不韋の顔が明るくなったのは嬉しかった。そうだ、あの頃は呂不韋と政は仲が良かった。趙妃はそれが嬉しかった。 でも、政はわたくしの子なのですよ。 わたくしがこの身を賭けて助けた、わたくしだけの子なのですよ。 母太后はしげしげと、久しく見ることのなかった息子の顔を眺めた。むやみに背ばかり高かったのが、相応の貫禄と体格を身につけていた。記憶の中よりも低く響く声には、秦王として侵しがたい威厳が潜むようになった。 良く似ている。昔、わたくしを呼んだあの人の声に。鼻の辺りも、良く似ている。目許や口元がわたくしに似たせいで、あまり人は気付かなかったけれども。 「子楚に似なくて、良かったわね。」 母太后はどちらとも取れる答えをした。 「それでは答えになっておりません。」 「わたくしも知らないの。何しろ時期が時期ですもの。」 「嘘をついておられる。」 「真実を、とお言いだったわね。」 切れ長の目を据えて頷く息子に、彼女は在りし日の自分を見た。邯鄲で妓楼に売り飛ばされ、一人で好きでもない家族の為に年季を勤めなければならなかった自分も、挑戦的な目で客達を見据えたものだった。蠱惑的だと褒め上げられて、いつしか看板の歌妓になっていた。 「貴方はね、わたくしに一番良く似ていたのよ。」 秦王が眉を顰めた。 「貴方に父親はいないの。いたら邯鄲でわたくし達を救いに来るわ。貴方はね、わたくしが邯鄲で星を呑んで生まれてきた子なのよ。」 「…嘘だ。」 「信じたくないなら、信じないで結構。貴方の好きに信じればよいわ。」 子楚でも呂不韋でも星でも、自由に信じればよい。 でも、貴方はわたくしの子だった。わたくしだけの子だった。良くも悪くもわたくしに良く似た、わたくしのただ一人の血族だった。人生の終焉になって、わたくしにはようやくわかった。 秦王は疲れたように物に寄りかかる太后を見ていた。まだ若く、美しくはあったが、危篤の知らせは事実なのだと知らされた。お疲れでしょう、と助け起こして、床に就かせた。貴方に助けてもらうのは初めてだったわね、と太后が微笑み、秦王政は苦笑で応えた。 やはり、あの人に良く似ている。わたくしにつかの間の安息を与えて下さった方に。 政は、もしかして知っているのかもしれない、と母太后は考えた。やや荒っぽく母親に上掛けをかけ、傍らにじっと付き添って離れない、このところ父親に雰囲気の似てきた息子は、だから性急な追求をしないのではないか、と。 ただ、追認を求めているのかもしれない、と。 「忘れないで、貴方は、わたくしの、邯鄲の趙妃が全てをかけて生んだ子なのよ。」 白い手を伸べる。往年の張りはなかったが、まだ十分に滑らかな手を肉厚の大きな暖かい手が包んだ。 存じております、母上。 息子が細めた潤んだ瞳に、母太后は自分に対する赦しを見た。長年敵対し、一度は刃を交えた息子の和解の徴を見た。 「貴方は、私を守ってくださった。」 知っているのでしょう、と政は唇だけを動かし、母太后は男をはぐらかす業務用の微笑みを浮べた。 「私の親は、私を守って沈黙するのですね。」 知っているのだ。 「そのとおり、私は天の子です。」 「……。」 「貴方と、天の子です!」 「貴方は、本当にわたくしに似ているのね。」 「ええ、貴方に。」 幼い頃は滅多に触れることのなかった手を握りしめて、政は呟きを続けた。 「…そして、貴方の口に出さなかった人に。」 秦王政の十九年、母太后趙妃は秦都咸陽で崩御した。同じ年、秦将王翦は趙を攻略して王を降し、邯鄲を秦領に組み入れた。 趙妃の実家は残っていた。 趙を攻略した政は、母親に仇を為した者に対して相応の復讐を遂げた、と『史記』に残っている。
お題シリーズより『真実』でした。高松版では、政君の父上は呂不韋ですが、まあ確実に親だというのは母太后だということで。改訂の母太后はクールです。本当に政君と似た者親子。両方のバランスを取っていたのが呂不韋という設定。ちなみに、この前の年には華陽おばあさまが亡くなっております。荊軻の暗殺騒ぎはまだ起こっていません。秦帝国ですが、李斯や韓非の陰が差していないので、ちょっと変わった雰囲気になりました。 |