「では、私の立場はどうなるのですか!」
「立場?」
「私は貴方の妻なのですよ!」
「妻?ほう、あんたが俺の妻。飯も作らず挨拶もせず、黙々機織にいそしんでたあんたが妻とね。あんたがしたのは、出て行かなかったことだけだ。お互い様だってことさ。」
「ひどいではありませんか!」
「ひどいのは俺じゃないね。」
そうして、扉が閉じた。


La mia Vendetta
−私の復讐−


 もういい加減にうんざりだ。どいつもこいつも、誰の顔も見たくない。
 勢いのままに歩いていたら、家人がぎょっとした顔で避けていく。ひょいと池の中を覗いて見ると、我ながら剣呑な顔が映っていた。
 いけない、いけない。
 にっこりと笑って見せる。温厚篤実、安心と信頼の蘇秦宰相は消えてはいけない。ああ、危なかった。
 それにしても商売やはり年季だな、うん。このやばい商売、長らく続けると、機嫌の如何によらず、顔の筋肉が自動的に笑顔を作ってくれるんで、重宝するぜ。大体、剣呑な顔の詐欺師が成功するなんてためしがあってたまるかい。上手くいくのは、あの物騒な張儀くらいなものさ。あいつ、舌さえあれば半死半生になっても大丈夫だ、なんて無駄口叩く、まともな神経をどっか彼方に振り捨ててきたとしか思えない奴だからなあ。さすがに会いたくはないけどさ。あの古馴染み。どうせ秦で顕官に上ってぬくぬくと、またぞろ悪事の一つや二つ練ってるんだろうよ。
 俺も人の事言えた義理じゃあないけどさ。
 相印の収拾がご趣味なのですか、なんて嫌味を言われたりもする。そんなときは、にっこり笑って、きっぱり、趣味ですって言ってやるんだ。何しろ、この印が天下の和平の象徴ですからね。暴秦に対抗する六国の結束の美しい証、それこそがまさに珠玉のこの印璽なのですよ。
 ぷぷ。自分で言ってて、何度吹き出しかかったことか。なーにが珠玉の和平だってなあ。んなことされちゃあ、失業してしまいますよ、俺様が。誰が失業なんかするかい。もう一度、あのどん底に戻るのは絶対に嫌だね。
 別段、今が快適なわけでもないけどさ。まあ、一族郎党を見返してやって、ささやかに意趣返しをし、金と暮らしには困っていないし、顔は悪いが一応の恋人もよそにいるなら、そこそこ上等さ。そ、人間満足ってものを知らなきゃならないのさ。そこが俺とあのごうつくばりの張儀との違いだね。俺ってお人好し。
 それって致命的。張儀の奴、昔呆れていたっけな。お前みたいに根性曲がってないからね、って言ったら、程度問題じゃないのか、じゃなきゃこんな職業誰が選ぶかって反撃された。一理はあったな。悔しいけど、俺はあいつに口で勝てたことはなかったしな。
 あいつのこと、秦に送りこんでやったのは、致命的だったけどさ。ま、起こってしまったことは仕方がないことだ。
 張儀の奴の、いわば剥き出しの悪党さ加減は、別に気にならない。古い馴染みだ、そのくらい承知の上って奴だし。あいつを秦で暴走させたのは、俺の読みが甘かっただけでもあるし、お人好しにも程があったせいでもあるから、諦めはつくんだ。自分と奴に腹は立つけどさ。それだけ。
 腹に据えかねているのは−。
 おっと、高貴な恋人にお目にかかるのに、剣呑な顔は御法度なんでした。笑顔笑顔。いつも笑顔を忘れずに。なんたって、それが説客の基本ってもんでしょう。

 どうもまた太ったらしい高貴な恋人は、簾の中に俺を招き入れた。また高そうな着物を拵えて。ははん、さては今までのが入らなくなったとか。ついつい意地悪に観察してしまう。今更着飾ったところで、老醜無惨って言葉をご存知ない?なさそうだなあ、この様子じゃ。だから、若い時と同じ化粧をしたって不気味なだけなんだってばさ。お肌の張りも体型も、全然違うんだ…とは臣下の身分じゃ口が裂けても言えません。
 何せ、俺のお相手は太后陛下。燕王の母后殿下。そりゃあ、首が飛ばないためにも必死になって、得意の弁才を御披露しますさ。恋に詐術は必需品です。
「いけない人。」
 太ったおばさんが、若いつもりでよく言うよ。俺はにっこり笑って舌を出す。
「そりゃあ、貴方のせいですね。」
「幾つになっても悪童なんだから。」
 それはどうもありがとう。俺だって、もういい加減いい年になった中年のおじさんだぞ。ああ、なんて冗談にしか笑えない図柄なんだろう。こういう年のおじさんとおばさんは、一家を構えて、子供に囲まれて、平和に団欒してるもんだよな、絶対。で、毎日しょうもないことを話し合って、だらだらと時間を過ごすもんだぜ。俺の生活って何?めげてきそう。うえ、やっぱり太ってら。二段腹が気がつくと三段腹になっている…食い過ぎだあ、いい加減にしろ…とは口が裂けても言えません。
 これが高貴な恋ですか、宮廷風恋愛ですか、もういい加減にしてください。俺もう嫌だ。
「相変わらず豊満な。」
 にっこり笑えば賛辞だけどさ、俺の頭では、村祭りに丸焼にするあの丸々した豚に絵柄がだぶるんだよ、どうしても。彼女の方でも、俺のことをどう考えてるのか、知れたものじゃないよな。案外、息子の牽制に利用してるだけかも。他人事ながら、こんな女が母親になってしまった燕王殿下に同情するよ、全く。
 早いとこ終わらせて、とっとと用件片付けなきゃならないや。でなきゃ、誰がこんな…脂肪の固まりとも言えないしなあ。
−では、私の立場はどうなるのですか!−
 家で泣いた『奥さん』の声が頭に響いたもので、怒りと共に、闘志が復活した。そうだ、あの女に目に物見せてやらなきゃならないのもあったんだっけ。
「秦、どうしたの。今日はまた、情熱的だこと。」
 にやっと笑ってやるだけで、太后陛下には十分だ。彼女が欲しいのは、自分はまだ人を魅了出来るのだという確認なんだし、俺に必要なのは高貴な恋人という抽象なのだから、これにてお互い様だもの。
 お前の立場なんかあるはずないじゃないか、太后陛下と農婦の成り上がりじゃ、知れてるだろうが。無言でうちの『奥さん』に思い知らせるには、太后が必要だった。
 今の俺には、抽象だけが必要なのかもしれない。だから、ある意味で、具象を追いかけていられる張儀の方がおめでたい、という説も成り立つよな。いや、絶対成り立つさ。
 奴には案じてくれる身内がいるんだからな。

 にったり笑って近付いてくるのは、俺の弟だ。可愛くもないくそ生意気な鼻たれちびだったくせに、数年前からいっぱし、鐘愛の弟でございという面をぶら下げて、ほいほいと近辺に出没する。
「金ならやったろうが。」
「ご挨拶ですねえ。偉大な兄上を我が師と仰いで、お傍で色々と学びたいんですよ。」
「努力せずに出世する方法?」
「ま、そんなとこでしょうか。」
 この間まで、洛陽のくそばばあと一緒になって、人のことを穀潰し扱いしてやがった餓鬼が、今じゃこれだ。俺が相印の収拾に熱心になったの、わかるだろ?
 気がつけば、弟以外にぞろぞろ群れてきた。官職の斡旋を頼みたい奴、自領を増やしてみたい奴、何となく宰相の近くにいると落ち着く奴、色々いるが、自分の事しか考えてないところじゃ、弟といい勝負だ。一々取り合うのも面倒だ。どうせ俺にくっついて得られる利権にしか関心がないところでは、俺の『家族』なるものと共通している。
 俺には、家族なるものはあって、親身になってくれた身内は一人としていなかった。だから、誰のことも関係ないし、集団に対する帰属意識も希薄になっちまったのかもしれない。
 いつか斉で、楚の貴族と合従の相談をしていた時に質問されたっけ。
−貴方は、一体どこの国益を一番にしておられるのだ?−
 どこも平等だよ、と笑った俺に、不可解なものを見る顔を向けた。だろうな、彼は家恋し病にかかっていたくらいだから。楚のことになら、目の色を変えていられた男だから、わからなかったろうな。あんな頭の悪い王様を頂いて、ついでに頭の悪い近臣を抱えた楚の朝廷で、どれだけ自分の立場がきわどくなっているのか、知ろうともしなかった。俺の方が気になって、柄にもなく親切気を出して匂わせてやったのだけれども、あいつ、人が離間策でも仕掛けたような顔をしたんだよな。そういうのは仕方ないんだ。警告したって信じないんだから。
 でも、ちょっとだけ、羨ましかったな。
 それは、君に帰る所があるからだ。俺にはないよ。嫌そうな顔をしたね。うん、君にはわからないだろうから、それでいいのさ。わからないほうが、いいかもしれないね。
 俺は、彼にそう言って別れた。
 帰る所、迎えてくれる人、そんなものには大昔から、とんと縁がなかったものな。

 それは、俺にだって野心はあったさ。立派な男になりたかったし、家族だって、そこそこ好きだったんじゃないかな。でもさ。上の兄貴達が畑をいいようにして、その嫁達が家を切り回して、したのちび達が腹を空かせてわんわん泣いている、そんな家に居場所ってあるかい?俺に分けて貰えそうな痩せ地も、なかったんだよな。だから、仕官の手蔓を探しに行ったのさ。俺もよくよく頓馬だったよな、家柄で持っているような周室に、生粋の土百姓が小役人の伝でも探しに行ったんだから。無論、採ってくれるわけがないじゃないか。落ち込んだね、俺は。
 落ち込んだら、家に帰るだろ?しばらく留守にして帰ってきたらばさ。
 誰も出てきてくれなかった。食事も出してもらえなかった。どの面下げて帰ってきやがったと兄貴達はぶつぶつ呟き、ちび共は食い物が減ると泣き喚き、嫂さん達は完全無視さ。それだけならまだしもだ、俺の嫁まで、素知らぬ振りで機織しやがる。
 ぱたとんぱたとん。
「ただいま。」
 ぱたとんぱたとん。
「腹…減ってるんだけど。」
 ぱたとんぱたとん。
 お帰り、の言葉一つなかった。ぱたとんぱたとん、だけがひたすら続いて、俺は黙って家を出た。いてやるか、こんな家、と思った。結局俺には、帰る場所なんかどこにもなかったのさ。
 だからその足で鬼谷先生のところに行った。そこで必死になって弁舌を学んださ。あの張儀の奴とね。二人して、貧乏暮らしを脱出しようって、誓いあったものだぜ。奴の奥さんにも会ったっけ。弁舌なんか学んだばっかりに、半死半生の目に遭ったこともあるんですよ、この人。なのに、性懲りもない人でねえ、なんて困ってたっけ。
 張儀には、帰る所があったのさ。それだけの違いで、それが大きな違いだったのかもしれないな。
 ぱたとんぱたとん。拒絶するだけの機織の音が嫌いになって、もう随分になる。俺は結局燕の宰相になり、そこを足掛かりに六国を同盟させた殊勲者として洛陽に凱旋して、家族を引き取りに行ってやったからな。
 嫂さん達はひざまずかんばかりにして、貧乏臭い『御馳走』を並べたさ。やつれた顔に追従笑いを浮べて、秦さん秦さん、と奉ったさ。うちの奥さんも、無論涙を浮かべて駆け寄って、まあ貴方お待ちしていたわ、と飛びついてきたもんだ。全くもって感動の茶番劇だったね。
 今更。今更!
「前は邪険だったのに、まあまあ御大層なもんですねえ、嫂さん。」
「そりゃあ、今のあんた様はお金持ちですからねえ、秦さん。」
 無邪気なこった。
 歓迎したのは要するに金の面かよ、という言葉を酒と一緒に飲み込んだ。
 そーかいそーかい、じゃあ好きなだけお待ちかねの金の面でも眺めてな!
 俺は金を散々ばらまき、その代わり、一族には対等な口を利かせなかった。そして、連れの中でも飛びきりの美人を連れて、奥さんの目の前で寝室の扉を音を立てて閉じた。
 ばたん。
 ひどいのは、俺じゃない。

 もしも洛陽にニ径ばかりの土地があったなら。
 別段宰相にならなくても良かったのさ。田んぼと家と嫁さんと餓鬼で、のんびり暮らしたさ、きっと、ね。
 ニ径だけで、良かったんだけどな。
 嫁さんだけで、良かったんだけど、な。

 ぱたとんぱたとん。ぱたとんぱたとん。
 私が欲しいのはお金だけ。私が欲しいのは列侯夫人の地位だけ。
 ぱたとんぱたとん。
 みんな上げるよ。で?俺は、要らないんだよな。
 今更、俺を愛してるなんて、言い出すなよ。詭弁の大家に向かって、そいつは冗談きつすぎるぜ?あんたは名誉に包まれている。金も十分ある。満足なんだろう。ひどいのは、俺じゃない。
 俺だってね、復讐したいと思うことはあるんだよ。奥さん。あんたが、ぱたとんと機を織ったように。そうだな、ばたん、と扉を閉じて。

 弟の代に荷造りをさせる。斉へ行って、合従のねじを締めなきゃならないし、燕王の機嫌も悪いから距離を置いてやらなきゃならない。高貴な恋人、太り過ぎの太后陛下は空涙を浮かべてくれたが、今から若い廷臣を物色しているのが見え見えだ。蘇秦様の目を侮るもんじゃありません。
 みんな、勝手にするがいいさ。俺も勝手にするから。俺は、もう引き返せないような道を進んでしまったから。
 張儀も、あの楚の貴族にも、帰る所があって、でも俺にはなかった、それだけの話。

 本当は、ニ径の田んぼだけでよかったんだけどな。

 さあ、やめたやめた。仕事仕事。明朗闊達、有能抜群の宰相閣下に不景気な顔はご法度です。笑顔笑顔、いつも笑顔を忘れずに。
 それこそが俺の、復讐の武器なんですから。




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お題シリーズ『味気なく』。いやあ、『もし』洛陽ふかくの田ニ径…で書いていたはずが、蘇秦がちっとも「もし」を仮定してくれなかったので、テーマがずるずると変っていってしまいました。ドライに投げやりな蘇秦。陳平とも共通してるのかもしれないが、蘇秦の方が物事の割り切りは早いです。蘇秦の話は『幻想旅行』シリーズでは一番書きやすいですね。今や屈原が滅茶苦茶書きづらくなったのと反対に。張儀の話もプロットはあるのだが、奴は語り口が固い上に根性が悪い上に絡んだのが屈原なので、数ヶ月放置されているという。(笑)それにしても、蘇秦は案外シリアスキャラクターなのかもしれません。


いんでっくすへ