石鹸が切れた。

Lemon verbena
-あるいは忍耐の勝利−


こう言ってはなんなのだが、私はよく物を貰う。くれと言ったわけでもないのにくれるのだ。よっていささか鬱陶しい。それに、そういう場合は大抵がこちらは要らない物を嬉々としてくれたりする。役に立たないことおびただしい。
 というわけで、私のところには無駄に玉だの香木だの宝剣だのがやってくる。大体陣中で佩玉に凝っても仕方ないし(そもそも佩玉をして正装するのは私くらいしかいない場所だ)、香を下手に焚いたらそれこそ頭痛がして起きられなくなるし、一度に振れる剣は一本だけである。まあ、剣は諸将に押し付ければ感謝されるからまだしもだが。
 私の欲しい物は兵書だの兵糧だの兵士の補充だのだから、どうしようもないものかもしれないけれど。まして石鹸なんか、誰もくれないな……。
 小さくなってしまった石鹸をためつすがめつしていると、鬱陶しいのが入ってきた。
「何見てるの?」
「石鹸が切れた。」
 ふっと言ってしまってから。
 この男なら、もしかして気が付くか?
「石鹸?」
 きょとんとして手を出してくるので、ほとんど欠片になっている石鹸を渡す。しばらく目をぱちぱちさせながら見ていたが、やおら香りを嗅ぐと、にへら、と笑った。
「しぼちゃんの匂いがする♪」
「それを使っているのだから当然だろうが。」
 何を当たり前のことで相好を崩しているのだ?いい匂い♪と笑み崩れているので、放って置いて間者の報告を取り上げた。読みながらなんとなく愚痴る。
「それが最後の一つだったのだが、なくなってしまってな。長安は遠いから、まだ当分補充もできないし、残念だ。」
 洛陽にも行けないしな。間者に石鹸など買わせては能率が悪いしな。
 諦めるしかないか。
 誰か、石鹸くれないかな。無理か。
「沢山使いすぎるんじゃないの?子房、よく沐浴してるだろ。そういえば、冬場に行水使うのやめろよな。大抵次の日風邪拾って、熱を出すか鼻水出すかどっちかになってるんだから。」
 …余計なことを!
「不衛生なのは嫌いだ!」
「…俺って不衛生?」
「衛生的なのか?」
 覿面にめげたらしいが、言わせて貰おう。漢軍で清潔にしている人間が何人いる!ああ、関中の蕭何殿が懐かしい…あの方は例外だ。その他大勢の汗臭いの垢染みているの汚いのといったら!
 ぺしゃん、とめげているのが目の前にも一名いるが、この男もあまり綺麗好きなほうではない。諸将のように、刀槍担いで戦場を走り回るのではないだけ、ここに入るなり鼻がひん曲がりそうな臭気がするという事態だけは避けられているが。(樊噲だの周勃だのはひどいのだ。特に戦直後など、仕方はないのだが時々卒倒したくなる)体臭というのか、汗臭い上に時折妓楼で安香料の残り香まで拾ってくるものだから迷惑だ。ここに居座るのなら行水くらい使えと河に蹴落としてやりたい。(ちなみに私と一緒に使おうと何度か企んだので、厳冬の川に突き落としてやったことが二三度ある)だから陣中に病気も流行るのだぞ。
「丁度いいから、それ貸してやる。今日ここに居座るつもりなら、即刻川に行って洗って来い!」
「ふえっ、こ、この寒い日に水浴びして来いって?!」
「嫌なら出て行くことだ。火は焚いておいてやる。」
 どちらに転んでも、私に損はない。出て行ってくれると仕事がはかどるのだが。
 うー、と唸りながら石鹸をぽんぽん放り投げていたあの男だが、何度目かにぽすんと石鹸を手の内に納めて、
「火、おこして置いてくださいね。」
と出て行った。
 ちょっと可哀想だったか。いや、あんな奴に情けは無用だ!川に叩き込んで丁度だ!

 髪の毛を濡らして、それでも着物はちゃんと着替えて戻ってきた。すさまじい早さだったので川に飛び込んですぐ出てきたのではないかと疑ったのだが、震える手で差し出した石鹸が原形を留めないほど小さくなっていたので安心した。
 火は焚いてあるし、湯も沸かしてある。白湯でも飲んで温まれというと、酒がいいと切り返してきた。
「酒臭くなるから嫌だ。」
「…この寒い最中に水使わせて、酒も飲んじゃ駄目なの?凍っちゃうじゃん!」
「…それだと石鹸貸した意味がなくなるからな。」
 童顔の悪党が目を見張った。
 我ながら、ろくでもない好奇心を持ったものだ。この鬱陶しいのをお気に入りの石鹸で洗ったら、少しは我慢できるだろうかと思いついたのが根底から間違っている。火の側でも震えているので、上掛けをかけてやって、頭を拭く布を渡した。余程に寒いのだろう、石鹸の効果はまだ出ない。
「じゃ、我慢するけどさ…何企んでるの?」
 ごしごしと頭を拭きながら聞かれるが、無視する。
「せめて、暖めて欲しいんだけどなあ…俺、ちゃんと言うこと聞いたんだけどなあ。」
 聞こえよがしに言うのも無視だ。
「頭を早く乾かしたがいい。」
「…ねえ、せめて隣でそれ読みません?軍師殿。」
「嫌だ。」
 誰がその手口に乗るか。くしゅん、とくしゃみをした。あの男にしては可愛いことだ。
「風邪薬の材料は例の薬箱に入っているからな。」
「その在り処は貴方より詳しいつもりですけ…っくし。なんでこの寒い中、俺って水使わされてるの?」
「自分の衛生環境は守らねばなるまい?」
 それに相手はこの男だしな。
 別に出て行っても良かったのだぞ。私の気まぐれに付き合わずとも。火の側で丸くなって、立て続けにくしゃみをしている童顔の悪党を眺めながら何となく笑ってしまった。
「それに、俺使ったら石鹸なくなっちゃったじゃん。貴方の匂いがしたのは嬉しかったけどさ。」
「どうせもうないようなものだったからな。」
「ねえ、それ、どこの?」
 おや?
 もしかして魚が釣り針に引っかかったかもしれない。

 石鹸の話をしていると漢王に呼ばれた。夕食を一緒にして戻ってくると、あの男は人の寝台で勝手に丸くなっていた。相も変わらず能天気に寝ている。大体いい大人のくせに、寝ているときは少年みたいな顔になるのだ。童顔が得か損かは意見の分かれるところだな。
 そうっと顔を近づけてみる。どれ、石鹸の効果は……。
 しまった!
「なーにしてるのかなあ?」
「放せっ、放せっ、その手をどけろーっ!」
 油断大敵。さっと出てきた腕に掴まって、布団の中に引きずり込まれた。本当に無駄な馬鹿力だ。うわ、冷たい、とあの男が言う。それはそうだ、さっきまで外にいたのだからな。悔しいが、暖かいので暴れるのはやめにした。それをいいことに、胸元に引き寄せられる。
「ねえ…何覗き込んでたの?」
 私は返事をしないで、実験結果を追求する。
 くん。…どうやら成功だ。これなら今日行火にしても気分良く寝られる。合格。
「ね、何してるの?」
「石鹸の香りがするから、気持ちいい。」
「あー、さっき借りた……!」
 どうしたのだ?
「ね、もしかしてそういうこと?」
「何?」
「しぼちゃんと一緒の香りにしてくれたってこと?」
「まさか。」
「だって使った石鹸一緒だし……。」
「ちゃんと消化されてる。お前が使うと、もっとあっさりした香りになるのだな。悪くない。」
 同じ石鹸の香りでも、もっと男性的な(男が使っているのだから当たり前ではあるが)香りに変わっている。悪くはない。むしろ、下手な香りをちゃらちゃらさせている阿呆丸出しの貴族どもより、好きかもしれない。
 背中に回った腕に力が入る。
「悪くない?本当?」
「まあな。」
「香水木っていうの?この香り。しぼちゃんの香り、まさか石鹸だとは思わなかった……。」
「ん。」
「すごく、いい香り……。」
「ん。」
 うん、確かに。
 丁度あったまって、あっさりしていながら爽やかな香りがふわんと私を取り巻いている。あの石鹸、うまく使ったものだ。我ながら、これはいい夢を見られそうな気がする。
 髪の毛も撫でてもらっているしな。
 石鹸なくなったけど、まあ、いいか……。

 一週間後。従者がやたらに呼んでいるので何事かと思えば、それなりに大きな包みが長安から届いたのだという。送り主は不明。危険物だと危ない、と構える従者を下がらせて、梱包の綱を叩き切った。抜刀しているのだし、不気味なものが出てきたら叩き切ればすむこと……。
 ふわん、と香水木の香りがした。布をどけると、ぎっしり詰まった大量の石鹸。
 ただ、嬉しかった。そして、すぐ贈り主に思い当たった。どうやら、本当に魚が釣り針に引っかかったようだ。もしかしたら、とは思ったけれど。
 ふふ、と顔が笑ってしまう。
「なーに笑ってるのかなあ?」
「何かいいことありました、軍師殿?」
 あの男と周勃だ。
「長安からいいものが届いてな。」
 ぽん、と一つ石鹸を片手でもてあそぶ。ちらりとあの男を見ると、ぱあっと顔を明るくした。全く、普段手の内を見せない男が、どうしてこれほど素直に白状したものやら。
 へー、とわかっていないような声で感心している周勃を尻目に、
「子房殿のいい香りがしますね。」
とあの男がしゃあしゃあとのたまった。
「一つやろうか?」
「やめときます。…でも、良かったら時々貸してもらえませんか?」
「ああ。」
 そうしたら少し漢軍も衛生的になる…少なくとも私は、自分の幕舎は清潔にしたいぞ!それに。
 悔しいが、この男、香水木の香りが似合ったのだ。あの香りに包まれていると、自分が気持ちいい。暖かいし。安心するし。どうせ居座るのだ、せめて私にも何か得がなければ!
 ありがとう、と満面の笑みをたたえた童顔に、ついこんなことを言ってやりたくなった。
「お前、香水木の花言葉って知ってるか?」
「いや、知りません。」
「忍耐というんだ。」
 お、引きつった。私は会心の微笑を向けてやる。
「そ、それには何か意味があるんでしょーか……?」
「さあな?まあ、漢軍にいる限り、先生の忍耐も期待しているが?」
「それって…何か含みがありますね?絶対!」
「さあ?」
 くん、と石鹸をかいでみる。

 鬱陶しい策士殿の我慢強さに敬意を表して。
「誰か石鹸くれないかなと期待したんだ。」
と言ってやったら、あの童顔が、にへら、と会心の笑みに変わった。




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しぼの石鹸に対する執着が描きたくてたまらなくなり、ついでにこの頃いい加減なものを書いていないというストレスがたまって発作的に。お題の『期待』(笑)。石鹸くれないかなー、と黒い瞳で陳平見上げて期待しているしぼ。相変わらずのしぼで、陳平を冬の川に蹴落としたりもしてますが、まずはほのぼのにまとまって高松はそこそこ満足。なんたって二時間で書いてるし!(笑)石鹸のバーベナが美女桜なのか香水木なのかを調べるのに時間がかかったという代物。美女桜が良かったんだが、香水木でした。香水に使う方をレモンバーベナというのは初めて知ったわ。



いんでっくすへ