| 私は、貴方に何を見てしまったのか。 貴方は、私に何を見てしまったのか。 私達は互いに、『あり得た自分』を相手に見て、その姿が恐ろしかった。 私達は出会うべくして出会い、出会うべきではなかったのに出会ってしまった。 取り返しなど、つかないのだけれども。
秦へ、行ってもらいたい。あたかも重大事であるかのように王が告げた。承諾する以外の選択肢はなかった。 事ここに至る前に、打つ手もあっただろうと内心で冷笑した。所詮、災厄を未全に防ぐ知恵を持たなかった者に無理な注文だと知ってはいた。上書を揉み潰し、奢侈と懶惰に無位無策の日々を送っていた当然のつけが回ってきたまでだ。 秦王の膝下に慈悲を乞い、国土の保全を頼み込む、哀れ極まる『和議』の使者。そうでなければ保てない朝廷ならば、いっそ覆すが良いという言説は無視される。 救ってやろうと思ったのだ。望まなかったのは韓自身だった。結末がこれだ。とうに予測はついていた。 今更使者が赴いてどうなると。全ては茶番でしかない。王と廷臣が功用を信じていたとしても、無駄な信頼だ。根拠のない軽信に与する必要は認めない。 それでも肯なったのは、秦王が名指しで私の来訪を要求したからだった。 来いと言うなら行ってやろう。私を呼びつける、その不遜な顔を観察しに、咸陽までも足を運ぼう。 どうせ、韓は私など欲しはしない。 李斯は、嫌がるだろうと微かに思った。私の剣呑さを承知しているなら、大抵は人に会わせたがるまい。賢明な判断だ。私は距離を取る術を知らぬ相手を呑み尽くす。圧倒して、ひどい場合は一刀両断に切り捨てる。冷酷無比の法典の権化、と廷臣は私を呼んだ。一面の事実は突いている。 冷酷無比、と。他人にとっては恐らく罵言となりうる言葉が、私には賛辞に聞こえる。私は誰にも動かされない。私を操るのは、ただこの私だ。そして書かれた法典だ。主体性を放棄することが情に繋がるのなら、無情であって結構だ。 「是非とも秦王によしなに。韓安が伏して温情を乞う、とお伝えしてくれ。」 この男が伏した程度で定見を変えるのならば、秦王は大した器ではなかろう。韓王の言葉に承諾を与える私は、しかし、その文言を覚える気すらなくしていた。韓王の期待が当るか、もしくは私の推測が的中するか。秦王は韓を滅ぼすだろう、それが私の結論だった。何故と?私の著作に我が意を得たりと膝を叩く人間が、この亡弊だらけの韓を猶予する筈がない。 だから私は秦王の顔を見に行ってやろうと思った。和議の使者として、この私を名指しで呼びつけた男に会ってやる。来いと言うのならば、行って差し上げよう。貴方の器量を見定めて差し上げよう。 私はそれを望む。 馬車が函谷関の扉をくぐった。延々と続く退屈な旅程に、無聊を慰める術もなく、車の傍らを走る韓盧にただ眼を投げる。馬と比すれば随分に小さな体躯の生き物が、その足と互角の速さでついて行くのを見て素晴らしいと思う。実際、私の犬は良く走る。王宮の猟犬よりも良く走り、無駄な動きをせずに成果を上げる。或いは猟犬として、或いは私の護衛として仕込んだ、この犬の母親を拾ってきたのは子供の頃だった。 純血の韓盧など貧しい公子の手に入るはずがない。母犬は片足が弱く、捨てられて肉屋に下げ渡されるところだった。私は両手程の大きさしかなかったその犬が欲しくて、回らない舌で必死に肉屋にねだった。肉屋は気のいい男だった。 『こんなちびじゃあ、潰したって串焼きにも出来ねえよ。欲しいんなら持ってきな。』 ぽい、と私に投げて寄越した。 私は黒用、と名付けた韓盧を仕込んだ。方々に尋ね回ってどうにか足を治してやり、訓練に訓練を重ねて一流の猟犬にした。或いは、私のただ一つの護衛と。黒用は次第に好事家の間で知られるようになり、私は時々犬の教練について尋ねられるようになった。陽翟で、蘭陵で。 『お前、犬論なんか書いてたっけ?』 蘭陵で同窓だった李斯など、目を丸くして飛びこんできたときもあった。 『私がそんな暇潰しをすると?貴方は私の書いた物を読んでいるはずですが。』 『やっぱり勘違いか。韓非という人は韓盧を手なずける名人です、なんて新入りの楚の公子が言っててさ。お前の所の公子と付き合いがあるそうだ。そうしたら、皆が、じゃあ韓非が時々書いているのは犬の調教指南書だ、とこうなったのさ。』 『調教されるべきは犬ではない、人間でしょう。』 『黒用は型に過ぎないと?』 『黒用は…人間ではありませんよ。』 私は、人間に対するように黒用を仕込んでいたのだろうか。李斯の無意識の問い掛けが、頭から離れなかった。黒用に行ったことを、私は他者に対して行おうとしているのか。賞と罰、命令と服従によって規定される関係の構築を、判例として韓盧の上に実施したのだろうか。 そのつもりはなかったのだ。 『黒用を型にしているように、見えますか。』 『見える。お前、君主になったらいい君主になりそうだな。怖いから迂闊に使ってくれとは言わないけどな。』 私が君主になったら……? ありえない。傍系の公子である私にはほぼ間違いなく王座など回ってこない。しかし、公子である以上、可能性が皆無であるとも断言できない。 私は、王でもありうるのだ。 蘭陵を去り、李斯が私の屋敷に立ち寄ってから秦に去った後、黒用は死んだ。 交配の誘いだけは断り続けた私だが、異母兄でもある韓王の要求だけは拒絶できなかった。私は黒用に子を産ませ、子犬の一匹だけを隠して韓王に返上した。母犬が死んだ後、私はこの犬を黒用と呼び続けて飼っていた。以前と同じように調教し、同じように連れ歩いた。 黒用は今、車の傍らを走って、私と共に咸陽へ行く。李斯のいる咸陽へ。 李斯が仕えた秦王という者を、私は一度見てみたかった。私が蘭陵で持論を叩きこんでやった彼が、その下に留まると決めた男は、私を望んだ。 韓など、もはやどうでもよかった。和議など、踏みつけにして捨ててやる。所詮韓が重宝したのは韓盧の識者としての私だ。亡徴を打ち砕く役割など私に課しはしなかった韓に、余計な手出しをしてやる親切心は、とうに私の内にない。 我々は血族なのだから、な。 韓王は私の手を取って、御大層に語っていた。何が血族だ、と唾を吐き掛けたいのを辛うじて堪えた。吃りの片輪と私を偏斥し続け、人間の内にも数えたりしなかった者が、何を今更誼を強調する。私と韓との紐帯など、とうになくなっている。 それでなければ、私は秦になど来たりはしなかった。どれだけ望まれようと、秦王の懇請に応えたりはしなかった。もしも韓が私を容れたのならば。 韓を救ってやろうと思ったのだ。受け入れられはしなかったが。 誰も認めずとも、私は事実として韓の公子だったのだ。 馬車が止まった。咸陽城に入るのか、との予測は外れた。御者が駆け寄り、震える声で報告した。 「王が、王がお迎えにいらしておられます。」 窓の外に、整然と並んだ堂々たる一行がいた。その一番手前、中央に立つ若い男の頭上に、王冠が乗っていた。 秦王政。李斯の選んだ主。 「開け…開け…開けて、下さい。」 狼狽ではなく、興奮がいつも以上に舌をもつれさせ、哀れみの篭った顔の御者が私のために扉を開けた。私は地面に降りた。黒用を呼んだ。供揃えなど待つつもりはなく、黒用だけを引き連れて私は秦の国君に近付いた。秦の国君もまた、背後に従う人々を制して、ただ一人歩み寄ってきた。 貴方は、誰。 秦の国君、政。そんなことは知っている。 韓の公子、非。そんなことは知っている。 それでも、私達は近付き過ぎない距離を保って立ち止まった。立ち止まり、私はもう一度無言の内に問い掛ける。 貴方は、誰。 貴方は私だ。私は貴方の中にかつての私を見た。知識を欲して書物を貪った私を見た。啓発を求めて師を欲した私を見た。対話を望んで古人にしかそれを見出せなかった私を見た。 「貴方と語り合うことが出来れば、死んでも良いと思った。」 私は何と返答すればよい? 貴方の静かな眼差しは、かつて私が望んだものに良く似ている。 私は公子。貴方は王。私達は互いの姿に、ありえなかった『可能性』を見る。 或いは王となったかもしれない『公子』。或いは公子のまま生涯を終えたかもしれない『王』。 貴方は私の中に何を見た? 貴方は秦であって秦でない者。私は韓であって、韓でない者。 私は確信する。貴方こそ、私の知己だ。 不意に一陣の黒い風が私の背後をすり抜けた。 敵と見たのか、秦王に飛びかかろうとした黒用だった。突嗟に手を広げて止めた。 「黒用、止まりなさい!」 制止されて中途半端な体勢で着地した黒用は、私の着物に足をもつれさせ、弾みで帯びていた佩玉を叩き落とした。乳白色の円環が路傍の石に当って砕ける音を聞いた。屈んで拾おうとした私の耳に、若い秦王の声が再び届いた。 「先生、砕けてしまった玉に未練がおありか。」 私は玉のかけらを拾おうと伸ばした指先を、進めることも引き戻すことも出来なかった。 砕けてしまった忠誠に未練がおありか、と聞こえた。 振り返ると、近付いてきた秦王が自分の佩玉を解いて両手で差し出していた。底知れない水の深みに似た、完璧な黒玉が陽光にきらめいた。 「是非、受け取って頂きたい。」 私は、韓を救ってやろうと思っていた……。 彼は韓を捨てよと私に迫る。韓を取るな、秦を取れと私に迫る。 望んだのは秦だ。韓は貴方を望まなかったではないか、と私に迫る。 私を望め、と貴方は迫る。両手に秦一国を誘惑として捧げ、私に迫る。 先生、私の許へ。 私は、韓を救ってやろうと思っていたのに。 何故、私を望んでくれなかったのですか。 私は堅く目を瞑り、砕けた玉のかけらを消し去った。再び目を開いた先に、鏡の陰でもあるような顔の秦王がいた。 何故、私を望んでくださらぬ。私は、これほど貴方を望んでいるのに。 突き付けられた選択を、私は受けて立った。 望んだのは、貴方、そして私だ。 立ち上がった私は、一礼して微笑と共に献納された佩玉を受けた。両手で捧げられた供物を受けた。 貴方は王、西の雄、秦の王者であるのだろう。ならば私もまた法術の王なのだ。だから私は貴方に膝は折らない。貴方は臣下を求めたのではなく、知己を求めた。よろしい、私は貴方の師として、絶対の優位を要求する。 韓は救出を望まなかった。ならば、私は引き倒す。内部の腐れた巨木、王や権臣という名の寄生虫に蝕まれ、朽ちた残骸など、自然の摂理に従って倒壊するが良い。私には力がある。韓に非ざる者の言葉が、秦に非ざる秦王の力が。 亡徴の君を片端からなぎ倒すが良いのだ。 「韓を、何故取りませんか。」 秦の玉を帯びた和議の使者の第一声に、秦王政は満面の笑みをたたえた。そう、貴方は私の鏡だ。彼は私の腕を取り、自分の馬車へと誘った。 「まず、貴方が先だった。韓子…いや韓非子、是非この私を御教導頂きたい。全てはこれから始まるのだ。」 不注意を詫びようと身構える犬番などに目もくれず、秦王と私は会話を始めた。黒用は何も言わずとも、私に従ってついてくる。 砕けてしまった玉に未練を遺すのは、そもそも玉など持たなかった者ばかり。うち捨てられた玉のかけらが、空しく晴天にきらめいていた。 翼を望んだのは秦だ。韓ではない。韓に背き去った翼は、秦王を覆う羽翼として、秦を天の高みに駆けさせる。韓王が悔いても、後戻りなど出来よう筈がない。手放したのは韓王なのだ。背き去った翼は、二度と韓には戻らない。 韓に背き去る翼、それこそが私、韓に非ざる公子、韓非子の名。
お題シリーズ『裏切り』。実は『めぐりあい』で書いていたのが、韓非にやられて(笑)。『非』という字の由来は諸橋廣漢和で引いてまで調べたのです。(笑)ずっと前に。あの字、翼がお互い背け合う位置についていることから成立した文字なのですね。かっこいいので絡めてみようというプロットは昔からあったのだが、ようやく使いました。それにしても『霞か雲か』の、登場時のぴこちゃんはどこに行ったのでしょう。あのノート2冊目で狂ってからというものの、高松キャラ一のキ印街道を驀進し、相当ダーティになってます。しぼちゃん書いてから多少シリアスに戻りましたが。(笑) |