

賢所は連日徹夜で明かりが点いていた。点けているのは尚侍である。ああでもないこうでもないとひっくり返しているのは楽譜ではなく、『史記』だの『貞観政要』だの『帝王亀鑑』である。せめて『白氏文集』あたりで踏み止まって欲しかったと願う女房達のことなど、規格外を自任している尚侍には無縁である。
畳中に取り散らし広げ散らした膨大な書籍を前に、尚侍は途方に暮れた。本朝は唐のように人命を粗末にしてぼこぼこと処刑はしないはずだが、このところ公は厳罰を下す傾向があるのである。油断できたものではない。寛仁大度の君子がいるならともかく、左右の大臣に内大臣、どれも揃って食わせ者ということを身近に接して骨身に染みて知っている尚侍が安心できる材料にはならなかった。
関白殿のミスは間違いなく東宮に波及する。それでなくとも、お子のない帝に、東宮の廃位をほのめかしている右大臣殿だ。帝がころりと従兄弟殿の言葉に乗る可能性は極めて高い。何しろ『歩く有職故実データベース』と自他共に認める無駄な知識の宝庫である。理詰めの説得となると、関白殿と一歩も譲らずに論戦を繰り広げ、清涼殿の温度を二三度下げるなど朝飯前のお方なのである。その右大臣殿に対抗できる内大臣殿が時期東宮に堀川の宮をお勧めしているのは周知の事実である。それに、と頭を抱えた尚侍は、このところしげしげと文を寄越してくる不気味な笑顔の大納言殿を思い出してしまった。内大臣殿の御一族である大納言殿は、何かと尚侍にちょっかいをかけているのである。思い切り迷惑である。
音痴のくせに!
…いや、その理由はいただけないだろう、と突っ込める面子はこの場にいなかった。
嵐山山荘の集いが発覚してからというもの、左の近衛府は壊滅状態に陥っていた。というのは、少将と侍従殿が行方不明、頭中将は睡眠障害を理由に病気休暇を申請してあっさり参内停止、関白殿は逮捕されて取調べ中という有様である。弾正宮は必死で左近の少将を捜索しておられるし、兵部卿の宮は何か思惑があるらしく、表立っては動かれなかった。必然的に世は右大臣殿の天下となったわけである。
梨壷にも主がいない。よって桐壷の方はヒステリーを起こし、宣耀殿の方は世をはかなんで宿下がりしてしまった。当然宮と親しくなさっていた院にも嫌疑がかかり、右大臣殿は院の御所を監視下に置いたのである。帝が連日ご機嫌伺いに現れておられるようだが、腹が立つに止まらない尚侍は一度も帝と顔を合わせる時間帯には院の御前へ上がらなかった。
私に義理立てしなくてよいのだよ、真葛。幸せに、おなり。
お窶れになった院に、逆切れした尚侍であった。
冗談顔だけにしてください!あんな人非人共、一度天誅でも食らわせてやります!
ほんとーに食らわせてやりたい、と最終兵器を納めた唐櫃をちらちらと見やる尚侍であった。中に鎮座しているのは御存知波斯風である。過去に天変地異を呼んで話題をかもしたこの楽器、尚侍は宮中で一度も発動させたことはない。当然である。物騒すぎる。
ちなみに梨壷に残されたままの南風は放置するのがあまりに危険なので、尚侍本人が乗り込んで直々に回収してきた。楽部寮などに没収させてやる親切心はないのである。大体楽部寮の役人風情に南風が弾けてたまるかという尚侍は相当失礼である。
南風は現在内裏にはない。尚侍が俊蔭卿の後裔たる責任を持って、堂々と隠匿してきたのである。
台風がまた来たのであろうか。かたかたと蔀戸が揺れていた。院の御所にいたときと同様、人を召し使うのが嫌いな尚侍は周りに女房を置いていないので、手ずから格子を下げに行った。
暴風が吹き荒れて前栽が身を屈めて耐えている。雨は降り出していないが、星が見えないということは厚い雲が空を覆っているのだろう。琴には望ましくない湿度である。ここのところのストレスも相俟って、ち、と舌打ちした尚侍だった。
ばたばたと格子を下ろす。速いところ作業を終了しないと、大納言殿あたりが沸いて出てまた迷惑なことにならないとも限らない。関白殿のときのように院に泣きついたり、東宮がたまたま助けてくれたりということはもうないのである。
ばた、と隣の格子が自動で下がった。不吉な予感を覚えてそちらを見やった尚侍の前には背の高い人影がある。
「真葛。」
頭からすっぽりとかつぎを被っていても、その声は聞き違えようがなかった。
尚侍は人影を室内に突き飛ばし、思い切りよく最後の格子を下ろして室内に転げ込む。戸締りが普段の二割増厳重だったのは言うまでもない。
「宮!どこにいたのさ!」
に、と口の端を引き上げながら、濡れた髪の毛をごしごしと拭いているのは東宮その人である。
「兵部卿んち。」
「兵部卿宮んちにも検非違使は行ったはずだよ。よくぞ無事だったね。何はともあれ、温かいものでも飲む?」
「貰う。」
火桶の上で湯沸しをしていた尚侍は、手早く茶を入れた。酒くらい置けよとお思いになる東宮は相変らず態度が大きいようである。
「それにしても無事で良かったよ。あ、南風は放置しておくと没収されそうだったから、私が隠しに行ったからね。場所は……。」
ぴと。と東宮の手が口を塞いだ。
「言わなくていい。俺は帰って来たわけじゃねーからな。」
「うん…そだね。」
物々しく見張られている梨壷を思い出した尚侍が深く溜息をついた。東宮の楽譜コレクションと研究成果は文物保護特命全権大使尚侍が預かると断言し、楽器関係の資料を根こそぎ持ち出したため、あの辺りの御様子には通じてしまったのだ。初めは運び出す資料を一々検査しようとした武士どもだったのであるが、尚侍の一喝が功を奏したのか、はたまた主上のご威光におののいたのか、結局ノーチェックで全ての作業は完遂したのである。その隙を突いて南風まで運び出したのだ。
「少将と侍従殿はまだ、行方不明だよ。」
「その方がいい。あいつらはその内恩赦してもらえる確率の方が高いからな。右大臣の狙いは、俺と関白だ。」
雨が降り出したのか、ばしばしと格子に当たって荒い物音を立てた。
「院のとこ、行く?」
「…無理だろ。俺が現れるとしたらあそこだと警戒張ってるみたいだしな。」
「…だね。」
ぺしゃん、と小さくなった尚侍だった。ふわりと東宮の大きな手が頭を撫ぜた。
「真葛、唐に行かねーか。」
持ち出されたその言葉に、尚侍の顔が上がる。
唐に行く船に乗せてやるから、俊蔭の秘曲を教えろ。
元々、そういう約束だったのだ。
「まだ全部教えてないよ?」
「向こうに着いてから、教えろよ。」
「え?だって、宮?」
「どーせ東宮は廃されるしよ。関白がああなっちゃ動きようがねーだろ。なら、唐で琴を極めてやるのも面白れーじゃねーか。俺様は唐語が話せるっつったよな?連れてきやがれ。」
にこりと笑いかけた。尚侍の目が潤む。
「それじゃ、宮に悪いよ。」
「俺はどーせ内裏にいられねーからいーんだよ。問題はてめーだろ。尚侍までなったんだ、行きたくなきゃ、やめてもいいんだぜ?」
その、答えは。
東宮の腕の中に飛び込んだ尚侍。
「言ったよね、おじさまといられないなら、唐に行くって。」
「院にはまた別の思惑がおありかも知れねーけどよ。」
「院の御所にいられないなら、唐に行くほうが断然いい。仲良しの宮と一緒に、唐で琴の勉強するほうが断然いいに決まってる!」
答えは、尚侍を抱き締めた二本の腕。
「宮は天才だから、きっと唐に行っても上手くいくよ。苦労するかもしんないけど、私は、琴と、宮がいれば、きっと幸せになれると思う。」
雨漏りにも慣れてるし、壊れた家にも、粗末な衣食にも慣れてるよ?
極上の笑顔で見上げた尚侍に、東宮は唇を重ねた。
「…俺は慣れてねーけど…お前が逃げないんなら、条件は飲む。」
「逃げ出すのは宮だよ、間違いなく。」
「てめえっ、人の根性なめてんのかよ!」
くはははっ、と笑った尚侍は、するりと東宮の腕から抜け出し、唐櫃を開けた。取り出すのは例の波斯風である。地券と僅かな路銀を持って、宮に被衣をかぶせた。
「南風は取りに行く時間ないから、我々の帰りを待っててもらおう。でも宮、後悔しないね?」
「するとしたらお前だろ。」
「私は元々宮仕えに興味ないんだよ。願ったりです。」
尚侍が格子を上げる。被衣をかぶって女房に扮した宮を従え車宿に歩いていく尚侍は、当然何人かに目撃され、あまつさえ声も掛けられたりしたのだが、東宮が呆れるくらい落ち着き払って堂々としたものだった。
「ひどい嵐だねー、あ、宇治にゆかりの方が具合悪くしたって急使が来たんで、行ってくるから。誰か御用だったらそやってお伝えしてね。」
ひらひらと、手まで振って退場するのである。そして勝手知ったる院の牛車に東宮を押し込んだ。馴染みの牛飼い童に、
「とりあえず都を出て。」
と言いつけ、身軽に自分も乗り込んだ。
「こ…この天気にですか!」
「死活問題なんだ、きっと院からボーナス出るから、急いでっ!」
尚侍の御一族の危急、に、内裏の門の扉が開く。