弦楽小夜曲

秋楓之段


 勅令というものは強力であった。
 文字通り帝の御宸筆をふりかざし、あまつさえ勅命を言い立てて馬場の馬一頭まで巻き上げた尚侍である。どちらまで伝令を致せば、などと悠長な質問をしかけた右馬頭は、その言葉も終わらない内に小舎人童の手から手綱をひったくって飛び乗るなり馬腹を蹴るという、ありうべからざる盛装の尚侍というものを目撃してしまったのであった。あまりのショックにしばらく口が利けなかった右馬頭は、続いて飛び出していらした滝口殿に尚侍の行方を文字通り詰問され、こちらの必死の形相におののいて、呆然と承明門を指差したのである。その時には既に令を振りかざした尚侍が減速もせずに開門を叫んで突進していたので、承明門を守ってた武士たちは慌てて扉を開き、暴走馬を都内に放ったのであった。交通事故に巻き込まれて馬にはねられてはたまったものではないのである。
 内侍時代にお使いをかってあちこちに出ていた土地勘を満遍なく生かし、ほとんど迷わずに四条河原へ突撃する尚侍は、一般庶民にとっても格好の見物である。何といっても、普段車の出衣でしかお目にかからない裳唐衣を身に着けた、明らかに自分たちより高貴な姫が、顔も露わに馬で疾駆してくるのである。蹴られないように道こそ開けるが、(そして尚侍にも減速する気が全くない)あれは仙女かかぐやの姫かと声高に噂し合う。もっとも、どけどけ勅使だと連呼している尚侍には全く聞こえていない。
「どいてー!」
と叫びながら河原に設けられた柵を一気に飛び越し、死にたくないので慌てて道を開けた野次馬たちの間を駆け抜け、視界前方に役人の姿を認めるや尚侍は思いきり声を張り上げた。
「勅使である!刑を中止せよとの勅命が下った!」
 恐ろしいことに手綱を引くタイミングを間違ったため馬が目一杯竿立ちである。振り落とされないようにへばりついて何とか堪えた尚侍はいいのだが、危うく刑吏を踏みつぶしそうになり、勅命よりは尚侍が恐ろしかった刑吏は『罪人』である関白殿を危険地帯に放置したまま逃げ出したのであった。それをいいことに、馬を飛び降りた(そして放置したので刑吏の助手が回収に向かう騒ぎとなった)尚侍は関白殿に駆け寄った。
 打ち身切り傷の数で拷問の程度を察した尚侍は、乱れた髪の間から信じられない、と目を見張っている関白殿の両肩を支えた。
「関白殿、宮は、無事だから。みんな無事だよ。」
「…あんたが助けてくれたんか。」
 今にも秋霧のように消えておしまいになりそうな声に、尚侍の瞳が潤んだ。
「関白殿、絶対生きて、逆襲して。嵯峨にある宮の縁のお寺に行けば、宮の消息はわかるから。宮を、助けてあげてね。」
「坊は、無事なんか……。」
 うん、と頷く。無粋にもつかつかと近寄ってきた刑吏が、勅を要求したので、尚侍は後ろ手に突き出した。
「宸筆だから、粗末に扱ったらそっちが串刺しになるくらい覚悟しなよ!」
 なるというよりは、刀をひったくって手ずから刺しかねない尚侍の剣幕に、刑吏は震え上がった。
「最後にあんたに会えてよかったわ、尚侍ちゃん。」
 にこりとお笑いになろうとする関白殿に、尚侍は訴えかける。
「絶対、宮の力になってあげて。私はもう、二度と宮には会えないから。宮はきっと、私を恨むから。関白殿が、宮の力になってあげてね。」
「どういうことや……。」
 ぼんやりとした頭で、やっぱりあの男、人の女に手を出しやがった、と考えた関白殿は、再びの刑場のどよめきに大儀そうに首を上げた。上げて、呆れた。
 死ぬ前でも人間呆れられるもんなんやな…というのはまことに悠長な感想であられるようである。
「ちゅーより、何であいつが血相変えて馬で乗りこんでくんのや……。」
 やはり関白殿は帝のお姿をご存知であった。尚侍が最後とばかりに関白殿のお体に綻りついた。
「尚侍!入内を控えた身でなんということをなさるのだ!」
 飛び降り様に大声をお出しになる。野次馬たちの視線は一斉に関白殿と尚侍に集中した。他人の痴情のもつれほど面白い見世物はないのである。関白殿はぎょっとして尚侍を見直した。
「尚侍ちゃん、あんた、何をしたんや!」
 絶え絶えのお声である。帝のお手が乱暴に尚侍を引き離した。尚侍は必死に叫ぶ。
「関白殿の命は私が買ったから、絶対に生きて!唐も琴も諦める。だから、関白殿、頼んだ!」
「あんた、この子に何をしたんや!」
 どうせ死ぬんだこのやろー、とばかりな形相で帝を睨みつける関白殿の凛々しさに、野次馬は哀れをそそられた。明らかに想い合う公達と姫の間を裂こうとする悪い奴が、身分を笠に着て狼藉を働いているのである。帝とも知らず、罵声だの石だのを投げつけ始め、検非違使に棒で打たれる者が続出した。
「尚侍ちゃん、あんた、何を仕出かしたんや!」
 引き立てられながら、ぽろぽろと涙を流す尚侍を振り向き続けた関白殿は、思うに任せない足取りを容赦なく急き立てられる。
「関白殿、関白殿を待っている人のために生きて!」
 お姿が砂埃の向こうに消えたとき、尚侍はがっくりと刑場に膝をついた。お気遣いになる帝のお顔を振り返ることもなく。
「…私の人生、おしまいだ……。」
 これから入内というのに物騒極まりないことをぼやいたものである。何か言ったか?と変なお気遣いをなさる帝のお耳に入らなかったのは幸か不幸か。
 抱えられるようにしてずるずると鞍の前輪に乗せられて、帝に抱きかかえられるように御所へと送り返された尚侍を羨もうというものは誰もいなかった。


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