

内裏はかくのごとくに平和な日常(と公式発表されているので踏襲する)を送っているのだが、生活の舞台は内裏だけではないのである。強制的に引越しさせられ、ごみ袋のごとく隠岐の海岸へ放り出された関白殿にとって、この第二ステージは気力体力共に過酷極まりないものであった。
そもそも四条河原でばっさりすっぱり片をつける予定だった公卿の皆様である。連日の尋問というより拷問で半死半生の人間を手当てするなどという無駄なことをする人はいない。世は合理志向なのである。加えて、目下朝廷で孤立無縁の関白殿に下手な情けをかけても出世が見こめないどころか、右大臣殿のご一族から睨まれて出世コースをドロップアウトするのがおちなので、護送してきた人々は関白殿を海岸に捨てるなり、さっさと船を返してしまったのであった。文字通り砂浜に投げ出された関白殿は起き上がる体力が尽ききっている。
ごめんな、尚侍ちゃん。
節節痛くなるし、気は遠くなるし、というときに女の絶叫が耳をつんざいたからたまらない。今関白殿が欲しいのは安息と平和である。とはいえ、叫び声の方角に顔を向ける体力はない。
実際は至近距離で魚取り女が死体を発見したかと勘違いして絶叫し、そのまま気絶したのである。魚取り女仲間が水をぶっかけたリびしゃびしゃと頬を引っぱたいたりしたのだが、白目を剥いて泡を吹いている。
「あ、あたし、薬師の君にお願いしてみる!」
と一人の女が村落らしき方角へと裸足で駆けて行った。
村落といっても小屋が数件並んでいるだけである。その中央が広場のようになっていて、ござに寝かされた老婆が目を閉じたところであった。ふう、と腕で額の汗を拭った人が、
「これでしばらく寝られるはずよ。婆さんももう年なんだから、岩場に行かせるのはよしなさい。老人って骨折るとなかなかつかないんだから。」
とてきぱき言った。ござを取り囲んでいた息子夫婦らしき中年の男女と、連れ合いらしき老人がおいおいと泣いている。単に袴という格好の女性は、立ち上がると老人の肩を軽く叩いた。
「大丈夫、今痛み止めを飲ませたから。足を折っただけよ。命に別状はないわ。養生させてやることね。そうそう、絶対に動かさないで。本人が動きたがっても駄目。今度来た時に動いた形跡があったら次は来ないから。わかった?」
袿を羽織ってから、拝まんばかりに涙を流して喜ぶ人々を落ち着かせていると、先程の魚取り女が息を切らせて駆けてきた。
「姫様っ、さざえが泡を吹いて倒れたまま息を吹き返しません!」
「溺れたの?」
素早く身を返し、袴の裾をつまんでこちらも駆けだした。
「いえ、陸に上がるまでは何ともなかったのです!」
「海の中で頭打ってなきゃいいんだけど。」
前述の海岸に着いて魚取り女のところへ手を引かれた薬師の君は、急性ヒステリー症なので放っておけば問題ない、と断言し、友人たちを大いに安心させたのであった。ついでに、あまり揺さぶっては逆効果であると釘も刺した。
それから薬師の君は打ち上げられた漂流者という状態で転がっている我等が関白殿のところへ近付き、うつ伏せに倒れているのを静かに横向きにして脈を取った。
指に触れる動きがある。そもそもまだ暖かい。
ちっ、と舌打ちしたのは、こちらの方が明らかに重症なのに放置した魚取り女に対してである。
「しじみ!うつぼ!急患よ、納屋に運んでちょうだい!」
担架になりそうなものがないので、惜し気もなく袿を一枚脱ぎ捨てた。魚取り女たちは、それは死体ですとかきっと罪人ですよ気味が悪い、と散々渋ったのであるが、睨まれると渋々やってきた。その間に、顔面内出血に打撲症、骨折の有無を手早く調べている薬師の君に、関白殿の手放しかけていた意識が少し戻った。誰かが自分に触れているという程度の感覚は残っている。
「…坊?」
逆光に、色の淡い髪の毛が見える。笑っているらしい。
「もう心配ない。」
そーか、坊は無事やったんやな。
静かに手を握られて、関白殿はそのまま意識を手放した。
手放すのは勝手であるが、残った面子には後始末という問題が発生する。ぎゃあ死んだ!と色気も何も忘れ果てた叫び声を上げる魚取り女を黙らせ、即席担架に乗せ、及び腰の人々に担がせ土蔵へと運びこんだ。運んだ時点で逃走するかのように早く帰ろうと繰り返す魚取り女に、村落に置いてきた薬箱を取りに行かせ、薬師の君は勝手知ったる様子で蔵の奥から使い古した綿入れを運んできた。塗りの剥げた角盥、同じく古びた燭台をてきぱきと据え付け、古い屏風を立て、目つきの悪い唐獅子の陶枕まで持ってきた。粗末とはいえ、一応の病室が完成である。袿の上に横たわったままの関白殿に綿入れをかけると、角盥を入口に置いた。
「肋骨か…臓腑に刺さってなきゃ何とかなるってとこだな……。」
胡座をかいて関白殿の枕元に座り、脈の異常を確かめる。脈自体は普通だったので、薬師の君はやや表情を緩めた。早く帰りましょうと恐れおののきつつ薬箱を持ってきた魚取り女は、角盥に水を汲んで来るように言われて再びあたふたと出て行った。
河に流れる紅葉をあしらった見事な蒔絵の薬箱には、秋の月を思わせる銀の組紐がかかっている。紐を解くなり、蓋を外して慣れた手付きで薬を計った。乳鉢で更に細かくすり砕き、さらさらの粉末になったところで脂と混ぜる。混ぜ終わったところで再び奥に向かい、古い反物を引っ張り出してきたかと思うと、細く帯状に裂いた。裂傷のあるところを拭き清めてから、膏薬を塗り、上から布で巻いてゆく。あちこち裂けている衣類は、治療の邪魔になると容赦なく脱がせた。怪我人慣れしているのか顔色一つ変えない。
角盥が戻ってきた。
「そろそろ潮目が変わります。もうお帰りくださいな。」
「病人放っても行けないでしょ。私残るから、また明日か明後日にきて。屋形に戻ったら近江に代役よろしくって伝えて。」
「それ、絶対死にますよ、今夜中にでも!」
「天のみぞ知る。さ、しじみを運んで行ってあげなさい。父上にはいつものように誤魔化すことね。」
なおもぶつぶつ抗議していた魚取り女であったが、潮が変わっては自分たちも帰れなくなるので、では、と姫様を放り出したまま舟を出した。誰も不思議に思わないのは慣れているせいなのであろう。
関白殿の顔を冷やしたり、薬を取り替えたりしながら蔵で一晩明かした薬師の君は、翌朝ふらりといなくなった。というわけで、関白殿があちこち痛いので目を覚ました時には誰もいなかったのである。
暗いのと土蔵特有の湿った冷たさが獄内を思い出させて、ぞっとなさった関白殿であられたが、すぐに調度があるとお気づきになった。しかし尚侍と別れさせられてから、半死半生、引きずられるようにして舟に積みこまれ、護送というより運搬されて放り出された関白殿には、道中の意識がほとんどおありにならないのである。動かそうとすれば節々が痛いが、包帯でぐるぐる巻きにされているところを見ると相当に腕の立つ医者が手当てをしてくれたものらしい。尚侍ちゃんの計らいか、とぼんやりお思いになった。
そんな甘い夢想は吹き飛ばされるだけのために存在する。
「だから、きっと絶対死んでますよ、そのお人は!昨日うつぼが死にかけの化け物を運ばされたって涙目で叫んでましたからね!」
…死にかけの化けもん?…俺のこと?
と連想が働いたのは、そのがさつなおばちゃんの声がどんどん近付いてくるからであった。
「あれは死なない。まあ私の手並を見てなさいってことよ。」
という声が扉を開き、上体を起こしかけていた関白殿はいきなりの外界の眩しさに目を瞑られた。
「ほーら見なさい、起きてるじゃないの。」
「ひ、ひ、ひめさまー!!いけません食われますあれは絶対赤鬼です!」
角でも生えたんか?と内心で突っ込んでしまった関白殿、かなりに余裕をお持ちのようである。元々洒脱な方だけはある。『ひめさま』は、おばちゃんを無視して関白殿の傍らにしゃがんだ。
「気が付いたのね。話はできそう?」
「あんたが恩人か、お姫さん。」
お、と目を丸くした薬師の君であった。
「体力が落ちてるから、まだ無理はしないでよ。肋骨が折れてるから添え木がしてあるわ。無理にひねって起きたりするとずれるから気を付けて。たけ、粥を。」
つらつらと諸注意を与える薬師の君に、今度、お、と目を見張ったのは関白殿である。
「あんた薬師か?」
「これでも本職の弟子よ。診立てに間違いはないから安心なさい。師匠に見せてあげたいのは山々だけど、死んじゃったのよ。この辺り一帯、ほかに薬師はいないから諦めてちょうだい。」
「流罪人や、選り好みはせんよ。」
またもやえげつない叫び声を上げようとするおばちゃんを、病室!の一言で黙らせた薬師の君は、それでも粥を受け取ると解放してやった。脱兎の如くに蔵から出て行く薄汚いおばちゃんを、関白殿が苦笑しながら見送る。
「なあ、俺って今どんなご面相になっとるん?」
「見ない方がいいわね。」
きっぱりと宣告されてしまった。
「相当殴られたみたいね。皮の下がほとんど出血してて赤青まだらなのよ。目の下は縁取りつき。腫れが治まったら少しずつ元に戻るでしょうから、気長に待ちなさい。というわけで、鏡箱は出さないから、そこのところよろしく。」
「別に自分の顔見て気絶したりはせんよ。あんたも平気な顔しとるしな。」
「勘違いしないで。私は怪我人と病人と死体に慣れてるの。膨らんだ水死体だの潰瘍だらけの病人だの、見たところ縁がなさそうだけれど、その辺りを見慣れている私が見ただけで危ないと思った程度にすさまじいわよ。お見受けしたところ相当お育ちが良さそうね。シロートの心の臓には間違いなく悪影響と断言させて頂くわ。」
プロの所見には逆らえず、関白殿は更に好奇心だけを刺激されたまま、鏡を見るのは諦めた。萩をあしらった塗りの椀に、湯気を立てている粥が入っているせいもある。食べられそうかと尋ねられて、素直に食べたいと答えた。
「しばらくろくなものを食べていないみたいだから、今はこれだけ。胃の腑が元に戻るまで、少しずつ馴らすのよ。」
あっさりさっぱり塩味の粥である。貝が入っていておいしいのだが、貝合の貝が何かすらもご存知ない関白殿に名前がわかろう筈もないのだった。もう少し欲しかったのであるが、今までのやり取りで薬師の君がきっぱりはっきりの人であろうことと、現在色仕掛けで落とすという手段が全く通じないことが判明したので、おとなしく指示に従うことにした。
再び怪我人を寝かすのに手を貸しながら、肋を折っているから体を捻るなという注意を与えた薬師の君である。寝起きと空腹でぼうっとしていた関白殿は、ようやく板に挟まれた我が身であることを実感したのだった。ついでに自分の着ていたものが一式着せ替えられていることにも気付いたのだった。それでも、久し振りぶりの安息に、関白殿は安心して再び目を閉じられたのであった。
七日ほど薬師の君は患者に付ききりで処置を続けていた。雑用を言いつける島女や海女が一々関白殿のご面相を見て叫ぶので、ついに膏薬の上から包帯をぐるぐる巻きにした結果、関白殿は目下ミイラ状態なのであった。まだ体力が回復なさっていないので、起きておられる時間も短いのであるが、ご自分を鏡でご覧になった関白殿は吹き出した。
「これじゃあ包帯の化けもんやなあー。仮装でもしとるみたいやわ。」
「暑くても取らないでよ。周りに一々叫ばれるの面倒でしょ。」
背中の方で包帯を変えている薬師の君の姿は見えない。気が付けば怪我人の上体を見事に剥いて平然と手当てをしているのだが、ここで色めいたことを言いかけてもはかばかしい返事がなさそうなので関白殿も無駄弾は撃たないことにした。
「打撲と裂傷は相当改善したわね。骨は二月はかかるから覚悟してちょうだい。元々の体力があったのか治りが早いわよ。」
宮中の薬師よりも診断が解り易いというのはどうなのだろう、とお思いになるのももっともであった。
「あんたも育ちが良さそうなわりに、妙なことをよく知っとるな。」
「師匠がよかったのよ。本場の宋人。御所の典薬寮にもきっとこれほどの処方はないわね。」
ほらできた、と包帯をし終わる。
「あんた、唐人に付き合いがあるんか?」
「ここをどこだと思ってるのよ、隠岐の国よ、隠岐の国。世間知らずのお育ちみたいだけど、この辺りは唐船が結構来るのよ。」
「あー…国司のやりたいほーだいか……。」
「それもあるけど、海賊は出る難破船は来るで、薬師も色々忙しいの。」
私貿易しか思いつかなかった関白殿の発想を根底からひっくり返してくれる発言ではあった。
「か、海賊ゆーたか?」
「そ。海賊。こんなところまで来るのは大抵本拠で抗争に負けて、船をやられたか頭領をやられたかで制御不能になって流されて来た連中だけどね。だから怪我人だらけよ。」
「あんた、海賊も診るんか?!」
「私は薬師。それだけよ。」
道理で腹も据わっているわけである。刃傷沙汰の手当てをしているのなら、関白殿程度のご面相には慣れていて不思議はない。
「そうしたら……。」
「色々不思議はあるんでしょうけど、まだ病み上がりよ。今日はこれまで。疲れるわ。」
関白殿に着物を着せかけ、薬箱を片付けにかかる。衣紋を慣れない手つきで整えた関白殿は、
「あんた、都のニュース知らんか?」
と最後に聞いてみた。
「今度来る時に仕入れてくるわ。それまでしじみが後の世話をするから、養生するのよ。」
七日ぶりに島を出ることにした薬師の君は、後生大事に薬箱を抱えると蔵の扉を開けた。日の光に、薬師の君の淡い色の髪の毛がきらめいた。
坊みたいやな。
包帯男関白殿は、一向にご消息の知れない親友を思われたのだった。