

蔵の中にいる包帯男関白殿の世話を託された海女しじみは難色どころか拒否を示した。示した程度ですんだのは、無論薬師の君の方が身分と理において強かったからに他ならない。
「丹後が、もう限界なので姫様に一度お戻りをと申しておりました。」
舟に同乗している壷装束の若い女に言われて、薬師の君は一度自分の住処に戻ることにしたらしい。
「蔵に患者がいるのよ。包帯巻きの木乃伊だから、しじみに雑用をさせながら診てあげて。包帯と膏薬は一日二回は取り替えてちょうだい。あとあばらを折っているから今のところは安静にね。…そうね、動けたらあの辺りを少し歩かせ始めてもいいわ。本人が動けるようならだから、私が戻るまで動かさなくてもいいけれど。」
「かしこまりました。」
かくしてしじみは雑用係決定である。
蔵の中に入った壷装束の女は、礼儀正しく、淡路です、と一礼をしてから、看護人というよりは見張り番を始めたのであった。恐々と水や食事を運んでくるのはしじみだが、これは住処がこの島だったという不運に起因するものである。
一方、薬師の君は小舟で隠岐に戻ると、ひときわ目立つようにできている御殿とでもいうべき建物に入って行った。供も付けずにというのが危険極まりないのであるが、薬箱を下げているのが安全保証である。近隣一帯で薬師の君の世話にならなかった者はほとんどおらず、彼らが相互牽制して独占を阻止しているのであった。というわけで、目下誘拐も略奪もされずに薬師の君は往診に駆け回っているのである。
御殿の中でも海の近くにある別邸に入った薬師の君は、高麗の壷、唐の錦で華やかに飾り立てた室内に腰を下ろして扇を鳴らした。さわさわと女房たちが出てきて、着続け潮まみれという装束を改めた。本来なら湯殿へ直行なのであるが、幸か不幸か、帰ってきた丁度のタイミングで来客があったのである。
来客は簀子に通されて待っていた。つまり簀子に通さなければならない程度に身分が重いわけである。迷惑な客極まりない。
「あんたも往生際が悪いなあ。ええ加減に俺のこと婿に取ったらどーや。あんたのお父上はそろそろ諦めモードやで?」
几帳の奥の気配に、簀子に上がった男が呼びかける。年頃は関白殿と同じくらいである。けっ!と薬師の君は几帳の奥で吐き捨てた。代返役の丹後が、
「今はそのようなことをお考えにはなれないようでございます。」
と礼儀正しく返答をする。どこぞの内裏で行われている物騒なやり取りに聞かせてやりたいほどである。
簀子に上がった男は、二の腕まで露わにしながらぼりぼりと耳の裏をかいた。
「現実に目を向けたら?オールドミスになるでー。」
と地雷を踏んでいる。薬師の君は、あいついつか絶対附子でも盛ってやる、という決意を固めている。危険である。附子とはトリカブト系列の劇薬である。飲んだら大抵は死ぬのである。…死ななかった人もいないとは言わないが。
「そないにだんまり戦術に出ても仕方ないやろ、隠岐守のお姫さん。あんたはこの辺の有名人やからな。お父上くらいやないの、薬師の君ちゅーのがあんたのことと一致せんのは。まあ、ええけど。これでも俺かてこの辺には相当顔がきくんやで。国司としちゃあ、手え組みたい思っても間違いやないで。船が欲しいやろからなあ。」
賊崩れめ、と薬師の君が舌打ちするのには訳がある。近辺の海を私的に仕切って、誰あろう隠岐守と同盟し、黙認と引き換えに年貢取り立てなどなどを請け負っているのが目の前の若い男であった。おまけにこの男、厄介なことに都の官位を持っていたりもするのである。つまり、隠岐守が隠岐国のトップであるが、事務次官はこの男というわけであった。
「勝手に手でも足でも組んで頂戴と言ってるわよね。私は揉め事に関わるつもりはないの。所詮任期が切れるまでの縁よ。」
几帳から聞こえる声がこれでは何とも味気ないにも程がある。のであるが、ここでも慣れとはやはり恐ろしいもので、隠岐介氏はくつくつと楽しそうに笑い声を上げたのであった。
「相変わらずきっついなあ、姫さんは。ま、そのきつさに惚れた連中が仰山おるのも事実なんで、諦めてくれや。」
「諦めるのはそっち。オールドミス上等よ。世の中に病人と怪我人のいる限り、私は薬師人生を貫くわ。」
ここにも偏執狂がいた模様である。しかし人の役には立ちそうなのでいいことにしておく。
「そんなことゆーとるから唐の海賊にまで求婚されるんやろ、姫さんは。」
それもまた怒涛の人生である。
「後腐れなく断ったわよ。無事に唐に戻ったじゃないの。」
「あれが後腐れなくかねえ……。」
異議は黙殺された模様である。
「とにかく、徴税報告ダシにしてここまで押し掛けるのやめてちょうだい。具合が悪くなったら診てやるわよ。」
「恋の病……。」
「滝にでも打たれるか海水に浸かるかすることね。これから父上の屋形にも行かなきゃならないってのに、あんたのヒマな繰言聞いてるヒマはないの。」
きっぱりばっさりと断られつつも、のんびりと帰って行った隠岐介氏であった。
かくして薬師の君は隠岐守の姫という仕事も果たすべく、父上のご機嫌伺いを受け、たまっていた文の返信を一気に処理し、五日ばかりを至極まともに過ごしたのであった。そして三日ほど父上の物詣に付き合い、地方社交界の富の象徴というお仕事も果たしたのであった。派手な供揃え、贅美を尽くした車の列、そして女性の華やかな衣装はいつの時代も財力のデモンストレーションと決まっている。
気分転換も果たした薬師の君はついでにご近所の健康相談や病人の世話もしていたので、島に戻ったのは半月ほど経ってからだった。緊急事態発生の際は伝令になるはずのしじみが戻ってこないということは、安定している証拠というわけである。
海女の小舟に便乗して離島の患者を診に出向くと、海女たちがやたらに盛り上がっている。どうも若い男の話で盛り上がっているらしいので、薬師の君は興味もなく、薬箱の中身を確かめる作業にかかりきりになった。薬は使えばなくなるのである。基本的に自給自足がモットーの薬師の君は、今日は島の奥まで入って薬草の採集をしようと決め、ターゲットとなるべき植物を脳内リストアップするのに忙しいのだった。
島に着いて海女たちが本業を始めると、薬師の君は一人原生林の方へと薬箱片手に歩いて行った。勝手知ったる辺りなので群生地のほとんどは知っているのだが、たまに拾い物が生えていたりもするので道端のチェックも怠らないのである。
「薬師さんやあらへんの。」
声を掛けられて、顔を上げた。知らない顔である。にこにこ笑って自分を見ている袿姿の男に見覚えはない。大体袿姿というのは部屋着であって、着たまま外に出る代物ではない。
「あ…まだ出歩いたらあかんかったか?淡路さんは大丈夫ゆーてくれたもんで、ほいほい歩いとったんやけど……。」
「まさか、あなた、浜に埋まってた流罪人のミイラ?!」
腰を抜かしてへたり込んだ薬師の君である。
「ひどい言草やなー…傷つくでー。」
関白殿、復活。
病後の経過は素晴らしかった。きちんと姫君の言い付けを果たした淡路の君のお陰で、関白殿はめきめきと回復なさったのである。元々の体力もあったらしいので、左近蹴鞠友の会もこの回復には一役かっているらしい。何でもしておくものである。栄養をとってゆっくり寝ていれば回復は早いのだということを医師患者共に納得した瞬間であった。
薬師の君が帰ってから五日後に顔の包帯は取れ、関白殿はミイラから人間へとお戻りになったのであるが、そもそも造作の整ったお方である。あら、と驚いた淡路の君が『実は美形だった患者さん』の話をすると、現金なしじみが早速見物にやってきて、一目で恋の虜になったというおちがついた。
人の知らないことを知っているのは気分がいいものである。しかし、知っているということをアピールしないと他人からの賛嘆は得られないので、当然しじみも『包帯を取ったら都の貴公子が現れた』ということを大々的に吹聴したのであった。元々娯楽に乏しい島である。関白殿は格好の見世物を提供したわけである。育ちというものは覆うべくもなく、身のこなしは洗練されているわ、話題は豊富だわ、お姿は素晴らしいわというわけで、関白殿は見事島のアイドルの座を射止めたのであった。最早島の人にとって、関白殿が元々流罪人であったということはどうでもいいのである。政治犯というものはまず生活に害を及ぼさないのである。加えて、拾ったのが薬師の君、つまり隠岐守の姫だったので、身に着けさせているものも島の人よりは格段に上等であった。つまり、見るからに上品だったのである。
かくして『京の君』と呼ばれてこの界隈の人々から下にも置かない扱いを受けている関白殿は、この展開を面白がっていた。
「…半月いない間にどえらいことになっているとはね……。」
そもそもの発端、薬師の君は両手で頭を抱えた。そういえば小舟の中は京の君の話題で持ちきりだったのである。かの光源氏の君もこれほどではあるまいときゃーきゃー騒がれていたのであるが、光源氏は二枚目であって三枚目ではないと固く思った薬師の君だった。
ちなみに労働力を無駄にすることはないので、薬師の君はかつて関白左大臣であった人を従え、薬草採集に精を出しながら会話している。関白殿もぶらつくよりは目的があった方が面白いので、言われるままに薬草を探している次第である。物覚えが早いので、ヒマなら弟子入りするかと持ちかけた薬師の君の申し出にも面白そうだの一念で承知したのである。
「京に戻るにせよここにおるにせよ、医術の心得はないよりあった方が良さそうやしなー。」
と関白殿はのんびりのたまった。
京のニュースの約束を薬師の君は忘れていなかった。重大トピックはやはり関白左大臣殿失脚で、左大臣家にせっせと貢ぎ物を納めていた隠岐守は目下真っ青になって右大臣家に鞍替えを狙っているとのことである。東宮は失踪中で、後継の宮を物色中である。そして、時の尚侍に今上が御執心で連日文が届けられているというどうでもいい芸能ネタも流れていた。関白殿がしみじみと溜息をおつきになっても不思議ではない。
「どうせ貴方も左大臣家のとばっちりを食らった口でしょ。一人くらいならうちでも面倒見られるわよ。隠岐は貧しい島だけど、悪いところじゃないわ。縁あってきた以上適応するのが目下は賢明だと言わせてもらうわね。」
さばさばとやっつけた薬師の君である。
「まあ…適応してからでないと何もできんらしいな。」
「そういうこと。見たところ、殺人強盗放火の類に縁がありそうな感じじゃないし、荒事をしていたような手じゃないわよ。余程育ちがよかったみたいだけど、案外サバイバルも面白いわよ。」
それで拾ってくれたのか、と関白殿は合点した。何しろ海賊を治療している君である。悪党面を見分けるのもそれなり堂に入っているらしい。 をひっこ抜いている薬師の君は一心不乱の様子であった。
「そーいやあんた、前に海賊診とったゆーてたよな。どないな連中なん?淡路さんに聞いても要領を得んのや。」
「淡路は海賊と付き合ったことないもの。言っておくけど、こんな僻地に流れてくる連中ってのは、唐で本拠地抗争に負けてぼろぼろのやつらよ。」
「まあまあ、それでも。強訴の連中とか僧兵とはどう違う?」
比較対象が何かおかしい。そこで真面目に考える薬師の君もずれている。
「強訴や僧兵よりは上下関係が厳しいかもね。頭と平和条約結んだら、割と話が通じるわよ。別に目的意識がある連中じゃないし。儲かればいいらしいから。治してやった患者が舞い戻ってくることもあるのよ。物見遊山にね。来たら会わせてあげるわ。」
「そりゃーどーも。あんたの弟子ちゅーことになっとったら、俺は安全なんやろ?また骨折するのは勘弁やで。」
ほんとよね、とからから笑う薬師の君は自分の患者が、この際だから唐でも何でも使えそうなものは偵察して徹底的に逆襲の材料にしてやろう、と物騒極まりない考えをしていることは知らないのである。関白殿の腹では、どうせ流罪人であれば身分剥奪官位剥奪というわけで、つまり朝廷では人間扱いしてもらえないのだから、海賊の軍師にでもなってしまって都に逆襲掛けてもいいかもしれないという大胆不敵にも程がある計画がむくむくとわいていたのであった。自分に向いていなさそうであっても、返り咲いた時のために何事も観察しておくに越したことはないのである。加入するかしないかは別としてである。
こうして期間無期限・関白殿の隠岐ライフが始まったのであるが、こちらは至極和やかなものであった。地元の人気を一人占めにし、物知りなので人々の尊敬を浴び、生活には不自由がないという棚ぼた式流刑生活で救われたのは、関白殿のお命だけではなさそうである。
「あだだ…ひねってもーた……。」
「無茶すんなって言ったでしょ、この病人が!!あんたは地面の葛でも摘んでなさい!」
「やっぱ、あんた坊並にきっついわ、薬師さん……。」