

田舎というものののどかさに比べて、都の平和などというのは画に描いた餅である。そもそも表面張力だけで保持しているとおぼしい朝廷に至っては、一皮剥かなくともどろどろの緊張状態が透けて見える。
院の御所はめっきり静かになっていた。蹴鞠の会は休止状態だし、養女の君は内裏に取られたまま戻ってこない。
葉もめっきり少なくなった楓の木を見上げる院は、深く嘆息をなさった。これまでもお一人暮らしは長かったのであられるが、風流な院のお弟子たちや内侍の君が走り回っていない日は一日もなく、寂しさというものをお感じになることは少なかったのである。恐れ多くももったいなくも主上が毎日いらしてくださるのであるが、今までほとんど話をなさったこともない同士が長時間時をお過ごしになるはずもないのである。加えて主上の持ってきてくださる尚侍情報は院の元にもたらされる本人の文よりもいい加減なものであった。尚侍の作る体裁を素直に信じておられる主上をご覧になりつつも、今更ながら梨壷東宮のことを懐かしく思い出される院であられた。
「では、入内の支度は……。」
「はい。内大臣家が引き受けるとのこと。入内の前に一度院の御所に戻っていただくつもりでおります。」
「…真葛はここを里だと思ってくれたのだね。」
宇治の廃屋から入内してやる、という程度の抗議を予期していた院は、主上のご報告に溜息をまたつかれたのであった。
というわけで、恋の虜となられた主上のお声がかりとあって万難を廃し、尚侍入内計画は進められていたのだった。今まで入内競争に絡んでおられなかった内大臣殿を主上が取り込んだ、というよりは、内大臣殿に体よく利用された、という按配である。右大臣殿も帝のご意志という強力なわがままの前には沈黙せざるを得なかった。式部卿の君はそれでも諦めずに、最後のどんでん返しを目論んでいた。
「温明殿のバリケードは絶対解除しませんからね!来るなら来てみろです。それでも駄目ならぷーちゃんが責任持って御帳台の梁の上にスタンバイして上から石でも落とします!」
当然女房たちも負けてはいず、むしろやる気まんまんであった。廊に毛虫を仕込んでやるだの、唐渡りの火薬というものを仕掛けてみようだの、物陰から棒で叩こうだの、不穏な意見が続出する。
「…みんな、ありがとね。」
「尚侍のためなら粉骨砕身です!」
「ぷーちゃんっ!」
ひし!と抱き合う漢文馬鹿二名であった。そして、当然温明殿の元締めが黙って入内するはずがないのである。
「みんなの気持ちはよくわかったよ。私も最終兵器出すよ。ついては、ぷーちゃん……。」
式部卿の君に何やら耳打ちしたのである。
「了解です!」
翌日院の御所へ参上した兵部卿宮と左近少将は、待ち構えていた旅行スタイルの式部卿の君に絶句した。さらに尚侍本人も一緒にいたのである。
「宇治に行くって、ほんとかお前!!あの噂にしおう化け物邸だろ!!」
尚侍を見た途端開口一番叫んだのは、やはり気安い仲の左近少将だった。
「しっけーな。廃屋と言いたまえ。」
「実態は同じだろ!何のフォローになってるんだ!」
天井を仰いで叫ぶ常識人左近少将である。もう一人の常識人、兵部卿宮は、
「その宇治のお屋敷に今更何故?」
とこちらは冷静に話をお進めになった。
「秘密兵器を取りに行くんです。」
きっぱりはっきりの式部卿の君である。うんうん、と頷く尚侍である。
「明日の御前会議で入内延期できないか、賭けをしようと思うんだよ。私も一応俊蔭の末裔、先祖伝来の秘密兵器出してもいいはずだよ。…あまりに物騒だったから、できるなら出したくなかったけど。」
「尚侍お一人で御所から出るのは危ないので、お二人に付き合ってもらったわけです。」
それで集合場所が院の御所なのかと納得したお二人である。尚侍が一人で御所を出たとなったら、都を揺るがす騒動を引き起こしてばかりなのだ。一度は人事不省で行方不明になりかけ、一度は暴走馬で洛中を突っ切り帝を引き出したという前科の持主である。正規ルートで外出許可を申請して下りるはずがない。最悪、心配なさった主上が監視役というパターンすらありうる。
「それで院の御所に出入りするのは当然のお二人に便乗という形を取ろうと思いついたわけなのです。」
式部卿の君の論理は明快であった。
「つまり俺らを目晦ましに使おうってのかよ……。」
「さすがは少将、分かりが早い。」
「嬉しくねえ……。」
こんな筒井筒を持ってしまったが運の尽きと思いつつも、行方知れずの筒井筒のために協力してやりたいとも思うので、少将はこの話を受けたのである。ちなみに弾正宮には秘密にしてきたらしい。
善かどうかは知らないがとにかく急げというわけで、兵部卿宮の牛車に乗り込んだ一行は牛を暴走させたのであった。牛飼童が迷惑である。式部卿の君の出衣を見た通行人がぎょっとして、あれは本当に女車かとのけぞったのも当然である。誰かに誘拐されたのではないかととんでもない憶測まで呼びながら、牛車は都大路を暴走した。ちなみに尚侍は無駄な追求を避けるため最初から出衣などしていない。
日暮れの頃に宇治へ到着した一行は、廃屋というより廃墟といったほうがいい故帥宮邸に到着したのであった。牛飼童君が震えても仕方ないのである。何不自由なくお育ちの兵部卿宮もこのすさまじさにはいささか腰が引けた。屋根が崩落して屋形の骨組み剥き出しの所が何箇所もあるし、床板が残っているとこもまばらである。破れた御簾がぶら下がっているだけの殺伐とした局もある。かつてはそれなりに整ったお屋敷だったのであろうが、もはや解体するしかない状態である。
これが尚侍の実家であった。温明殿に住めるはずだよ、と、聞きしに勝るすさまじさに左近少将は顳を押さえたのだった。しかしこの状態を知っていたというか覚悟していた尚侍は、すたすたと奥へ侵入するので、慌てて三人は後を追った。
庭園部分は前栽なども面白く植えられていたはずなのであるが、野性植物の一大群生地と成り果てている。遣水があったのだろうというのは、足を取られた左近少将の裾が濡れていたからである。
「これは秘境探検隊ですねー。」
と好奇心旺盛な式部卿の君はとにかく、公達二人は呆然自失、絶句の連続である。不思議な蔓植物や胸の辺りまで成長した野草の中に道があるとはとても思えないのであるが、がさがさと先頭を切る尚侍は目的があるらしかった。
目的地というのは山の端にある巨木である。かなり盛大に洞が開いている。そのうろに簾状の苔が生えているのがまた、密林度を上げている。尚侍はその中に突進して行った。そして戻って来たときには唐錦の袋を抱えていたのである。
「お前の家はどこを蔵にしてるんだ、どこを!」
かなりまともな左近少将の抗議であった。木の中というのは保存上よろしいとはとても思えない。カビも生えるし虫害も多いのである。温度管理や湿度管理などもってのほかである。
「だいじょーぶだよ。かの仲忠卿が母君と住んでたうつほだもん。」
という子孫の証言に固まった一同である。お話で読めば美談であるが、この密林で生活する美女というのも一種恐怖である。
「元々ここに保存されてた琴だからね。ここまで没収しに来るほどの物好きはいないよ。」
尚侍は手の中の琴袋をじっと見つめた。
「…最終兵器取りに来るんじゃなかったのかよ……。」
マニアにはついて行けないと顎を出した左近少将である。しかし尚侍は不敵というよりは、見てしまった左近少将が震え上がるような笑顔で宣告したのである。
「楽器弾きに名器は最高の武器だよ、少将。」
左近少将は、詳しいことは分からないながら自分の筒井筒が間違いなく入内話をぶち壊すことを確信したのである。ついでながら今は消息不明の筒井筒を内心で罵った。
お前、ほんっとーに趣味悪い!!
確かに迷惑な趣味ではあられるようである。
清涼殿は緊張していた。緊張を煽っているのは岩の如き沈黙を守っている尚侍である。後ろに従えているのは式部卿の君である。
殿上の間を下りたところで右大臣殿と内大臣殿の駆け引きが種々行われ、弁殿は東奔西走する羽目になられたのであるが、結局右大臣殿が折れる形で決まった尚侍の入内である。吉日を選んで日取り決定という、ある意味死刑判決のような日であるにもかかわらず、尚侍は憤然とこの場に乗り込んだ。あまりにも不機嫌剥き出しなので、滝口殿が心配なさり、温明殿で休んでいてはどうかと勧めてくださったほどである。そんなことをされてはつぶせる話も通すことになるので、尚侍は氷点下の声で一発却下したのであった。お従兄弟でもあられる主上のお気持ちを考えると問題ではあるし、かといってこのままでは梅壷女御のおためにはならず、加えて尚侍本人も悪く思ってはおられない右大臣殿は頭痛が三倍である。
一番近い吉日を、との勅命に、長月の霜降と奏上があったが、そこでストップがかかった。
「失礼ながら、尚侍が本当にそれでよいのか天意をお問いになりたいとのことです。」
「天意がそうと出たのではないか。」
式部卿の君の不可解な中断に眉を寄せながら内大臣殿がおっしゃった。
「恐れながら、」
と恐縮のかけらもない尚侍本人の声が御簾内から聞こえて、一同は静まった。
「身の一大事を決するに当たり、曾祖俊蔭は南風・波斯風の二つの琴を鳴らすよう命じました。波斯風は今行方も知れませんが、南風は賢所にございます。」
宇治の木の中に放りこんでたじゃねーかと人知れずぼやく左近少将である。侍従殿は笑いを堪えるのに必死である。不謹慎である。
にっこりと笑いながら琴を手に出てきた尚侍の目は完全に据わっていた。蹴鞠友の会の仲間や弁殿という親しい身内にはあらかじめ物騒な警告を出してある。女房たちには実は避難勧告まで出しているのだが、温明殿メンバーは踏みとどまって現在に至っている。
「もしもこの入内が御代にとって望ましいことであるのなら天も吉兆を下し、そうでないのなら天変地異を呼ぶでしょう。主上におかれましては、天下万民の利をお考えになりますよう。」
相変わらず直諫の士大夫発言を繰り出す尚侍である。が、尚侍の手が極めつけに素晴らしいと知っている上達部は、弾いてくれるならそれもいいやと納得した。ファン一号主上に至っては大歓迎である。青くなったのは、筒井筒が無謀な発言をした時はどんな手段に訴えてでも必ず目的を達成することをよく知っている左近少将だけである。友の会の友人たちに散々笑われたにもかかわらず、尚侍の警告通り防災頭巾持参でやってきたのはこの人だけであった。
所詮琴の音など。
伝説に綻るのかと寂しげなお顔をなさってこの場にお越しだった院が袖で目を拭われた。が、尚侍はリアリズムばんざいロマン主義くそくらえの唐シンパである。そして唐の兵法は勝算のない戦いはしないのである。
勅許が出ればこっちのものだ、ざまあみろ、とやさぐれきった感想を抱きつつ、尚侍は南風に向かった。
「では…俊蔭が伝えた唐の大曲を……。」
大嘘である。怒り心頭怒髪天の尚侍に、秘曲だろうと何だろうと既成の曲を弾く気などはなからない。
重々しく低音の弦が響いた途端、ふっと清涼殿の灯りが消えた。
思い知れっ!
尚侍の怒り、爆発。