弦楽小夜曲

秋楓之段


 波斯風を両手で抱えてじっと前を見据えている尚侍を、東宮はこの上ないものよと後ろから抱き締めておられた。雨風はますますひどくなり、牛車の進む速度も遅れるはずではあるが、道がほとんど無人なのでかえって普通よりも移動速度は早い。
「…真葛、俺の北の方になれ。」
「…唐に着いたらね。今それどころじゃない。」
「唐に着いたら、いいんだな?」
「はい?宮?あ、何か言ってた?あ、君君ちょっとそこの角曲がって!脇門から脱出しないと、正門はすごくガードが厳しいから時間ロスする!で、宮、何?」
 時折窓の外をチェックして牛飼い童君にルート指示を飛ばしている尚侍は、半分肝心なことを聞いていなかったらしい。らしい、とおかしさを感じるのは、張り詰めていた東宮のお心にゆとりができたせいでもあろうか。
「唐に着いたら、お前、俺の北の方だからな。二言はねーぞ。」
「は…いつそんな話になったんだっ!」
「さっき唐に着いたらいいっつったのはお前だろ。撤回は認めねえ。」
 うう…とへこんだ尚侍は。
「宮、桐壷さんとか宣耀殿さんとかどーすんの……。」
「あいつらが可愛いのは自分だろ。唐まで着いてくっかよ、あの連中が。俺は、最初から、真葛だけでよかった。梨壷に連れてきて、俺だけのにしておきたかった。…遊んでねーぞ、お前と知り合ってからは。」
 レッスンがすさまじくて時間もねーしな、とまた笑う。
「私を北の方にしても、父宮に認知してもらえなかった劣り腹の宮の娘なんだから、メリットないよ?」
「東宮廃されて流罪寸前の男には上等じゃねーのか?」
「…論破されたほうがいいのかなあ……。」
「されろ。」
「じゃあ、しょーがないから、唐に渡ったら流しの琴弾き夫婦でもやりますか?」
「お前が言うと悲壮感がねーんだよ……。」
「悲惨だと思ってないもん。司馬相如の琴に惹かれて駆け落ちしちゃった卓文君だって酒屋のねーさんやってたことあんだし。何とかなるさ、何とか。宮の学識なら進士の試験を受けて唐の皇帝に仕えてみるのもいいかもね。俊蔭卿がパスしたんなら、宮もいい線行くと思うんだけどな。ということは、そのための路銀とかを貯めるために私はバイトに精を出せばいいというわけだ。」
 未練がないとは怖いことである。都はおろか、本朝にいささかの心残りも見せていない尚侍だった。
「お前…強いよな……。」
「ん?」
「俺にはまだ、都に対する未練がある。」
「宮は、優しいんだよ。」
「?」
「私はさ、おじさまや宮や少将や関白殿みたいな、私の友達を徹底的にいたぶってくれたこんな都にいてやる義理はない、と思ってる。」
 女房仲間が困ったとき、誰も助けてなんかくれなかった内裏。失脚した友達を完膚なきまでに追い詰めた内裏。
 元から宮仕えなどしたくなかった。琴だけ友に、宇治の山荘で両親を弔いながら静かに過ごしていたかった。院のおじさまが私を可愛がってくれたから、おじさまのお世話になっただけ。
 そのおじさまをあんなにした帝に仕える義理はない。おじさまのお傍にいるのが孝行だとは思うけれど、流罪寸前で姿を隠さないとならない宮を助けなきゃならないのは、きっとわかってくれる。
「真葛さんは、おじさまと、友達を追い詰めた内裏を許してないからね。」
「お前は…その気になれば、きっと入内だって望めるはず……。」
「冗談顔だけっ!あんな音痴の帝に入内してみろっ、私の将来真っ暗だ!」
「そこかよ!」
「そーだよ。だってさー、宮。私の音楽をわかってくれない人は、きっと私のこともわからないよ。あんな手抜きを看破できないボケ帝なんかと結婚させられてたまるか!」
 余程根に持っているようである。というより、上達部に対する認識が根底から間違っている。尚侍のような音楽馬鹿ばかり朝廷に転がっていてはそれこそ危急存亡の秋である。
 牛飼い童君の悲鳴が聞こえた。窓から顔を突き出した尚侍は、横殴りの雨に顔を顰めながら、様子を尋ねた。
「羅生門が…しまっています!」
 やっぱり駄目か、と薄笑いを浮かべた東宮は、尚侍の言葉に目を見張った。
「西ノ京に回して!」
「こっ、こんな天気に、あのスラムに行く気ですかっ……。」
 完全に腰を抜かしたらしい。まだ十二三歳のお子様なのである。無理もないのである。
 尚侍は袿と裳をかなぐり捨てて、髢を外した。きりきりと襷がけに単の袖を縛る。唖然としている宮に向かって。
「じゃ、ちょっと行ってくるね。」
 ぽん、と牛車から飛び出した。あまりの風に、牛車に掴まりながら歩いている尚侍は、牛飼い童君に何か伝言すると、いきなり牛の背に飛び乗った。牛飼い童君は窓から覗いていた宮に一礼すると、ふらふらと風除けを求めて歩き出す。直後、乱暴な方向転換をした牛車に、宮はひっくり返って壁に頭をぶつけた。
「お、おい、何して……!」
 窓から頭を出した宮は、牛の背にへばりつくようにして鞭を振るっている尚侍に唖然とした。
「…松明は最終手段だな……。」
 何だか物騒なことを口走っているが、本職の牛飼い童よりも牛を走らせるのが早いというのはどうなのだろう。口は悪くてすれからしではあるが、所詮坊ちゃま育ちの宮が尚侍の本領発揮に度肝を抜かれるのは当然である。おまけに、人口密度が低い上、低所得者層、いや所得があるのかどうかもあやしい浮浪者層、犯罪多発地帯である西の京に突っ込んでいくのである。大胆不敵にも程がある。
「真葛、無理はすんな!」
「ここで無理しなきゃどこで無理すんだ!西の方の適当な破れ門から嵯峨野の方に抜けて、ひとまず後のことを考えよう!宇治に行ければうちがあるけど、あそこじゃ遠すぎる!濡れるから中に入ってて!」
 さすがの嵐に、掘っ立て小屋が何軒も吹っ飛ばされている。見苦しいというよりは生きているのか?と宮が目を疑う下民が、虚ろに華々しい牛車を見上げるが、水飛沫を跳ね散らして暴走するので、慌てて道を空けている。頭の天辺から爪先までずぶぬれの尚侍は、宮廷女官というより禿の少年そのもので、どいたどいたと威勢よく叫びながら針小路を突っ切った。
 都を出たところで、一度牛を止めた尚侍は、水も滴るすさまじい格好でほとほとと窓を叩く。慌てて窓を開けた東宮に口を挟ませず、
「このまま西に行けば、嵯峨、南に行けば宇治。宮に親切にしてくれそうな縁は、どっちにあるの?」
とぱきぱきと問い質した。
「…嵯峨野には一の院に縁の寺がある。」
「わかった。とりあえず、そこまで行く。」
「待て、真葛。あそこは確か、女人禁制だ!」
「私ならうつほだろーが、木の下だろーが、どこでもいいんだよ!」
 そして再び牛の背に飛び乗った尚侍は、強風の中を北へ走らせ始めた。
 屋形に打ち付ける雨音はすさまじく、びょうびょうと鳴る風音は気丈な東宮のお心にも寂しく聞こえる。
 膝を抱えて頭を埋めた東宮の目から、涙が一滴こぼれて落ちた。

「いない?」
 尚侍がさぞ心細いと予測して、期待たっぷりにらんらんとやって来た大納言殿は、周防の君に睨まれて往生した。あわよくば、心細い女君を励ますついでに口説き落として、出来れば一気に契りを結ぶところまで持って行こうという魂胆が見え透いている。
「ううっ、宇治の縁の方が御危篤と知らせがありまして、退出なさいました。」
「この天気の中をか!」
 唖然として真っ暗な空を見上げる大納言殿の前を、ばきっ、と物音を立てて壊れた格子窓が、からからと吹き飛ばされていく。もともと温明殿は建物が老朽化していて、『お化け屋敷』と異名を取っていた場所である。むしろそんなところに殿舎を賜るとは嫌がらせ以外の何物でもなく、安住していた尚侍がおかしいだけなのだ。
「宇治は、どこの辺りに行かれたのだ!お供は何人連れて行かれた!」
「存じません!あの方は行くとなったら供なしでどこへでも行かれますから!」
「誰か知っている者は……。」
「尚侍と院の御所の連絡を断たれたのは貴方様たちでしょう!」
 ぎ、と周防の君が大納言殿を睨んだ。
「あの方は…院の御所の…かけがえのない姫君だったのに……。」
「私が探しに行く。」
 大納言殿は厩へと駆け出した。周防の君は波にでも洗われたかのような回廊に座り込んで、しくしくと泣き始めた。
 真葛様、真葛様、真葛様。
−しょーがないなあ、命婦さんたちは年だから、真葛さんがやったげるよ?−
 位が上なのに、飄々と動き回って、院の御所を明るくしていた尚侍がいなくなったのは。
 帝に対する天罰なのではありませんか?
 泣きながら天に訴えた周防の君の声を聞いた者は、いなかった。
 一方、血相を変えて走っておられる大納言殿を呼び止めたのは、お従兄弟の内大臣殿であった。
「何をしている。公卿とあろうものが見苦しいぞ。」
「ほっといてくれる?尚侍がこの嵐の中を一人で宇治にいるんだ。僕が行こうと、大臣には関係ないよね。」
「つまらないことを言うな。鴨川の治水の件で奏議がある。ついでだから、お前も御前に伺候するがいい。」
「僕は、尚侍を……!」
「私事を公と混同するな!」
「だったら僕を除籍しろよ!」
「つまらんことを言うな。左中弁!衛門督!」
 呼ばれた二人が馳せ参じて、大納言殿の腕を両脇から取る。
「…何の真似だい、大臣……。」
「今、恋に狂われては私が迷惑なのでな。」
 引き立てられるようにして回廊に引き上げられる大納言殿を省みず、内大臣殿は紫宸殿へと歩を進めた。

「…風邪を引くよ。」
「…うむ。」
「気になるんなら女房でも遣わしてみればいいじゃない。主上らしくもないね。」
 端近に立って唸り声を上げているらしい帝の御様子を面白そうに拝見なさっているのは中務卿宮である。左右の大臣も時折一杯食わされる食わせ者の宮は、一度流行病で死線を彷徨った折に起死回生の措置として出家なさった御関係で帝位には就かれなかったのだが、還俗後、未だに影響力を及ぼしておられるのだった。
「そんなに気になるの?あの小さい女の子が。昔は好み、違ったよね。」
「なっ、な、何を言うかっ!」
「ふーん、本気。」
 面白そう。である。
「右大臣が嫌がるだろうね。」
「……。」
「知ってるの、君が帝だって。」
「いや…ばれでもしたら、逃げられそうで……。」
「詰めが甘いんだよ、君は。」
 ぱしん、と笏が脇息を打つ。
 落雷が、清涼殿の柱に寄りかかる帝を照らした。
「尚侍、どうしているものか……。」


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