

こうしています。というのを帝が知れば、仰天ではすまない。ずぶ濡れというより、どこぞで一泳ぎしてきましたという格好の尚侍は、どんどんと寺の山門を叩いていた。
「頼もー!お客人が到着です!」
「うるせー!」
さすがは宮の縁だ…僧までも口が悪いのか、と変な納得をした尚侍である。不承不承門を開けたのは強面の僧兵二人であった。
「小僧、何の用だ!」
「この方に、一夜の宿をお貸しください!宮、下りて!」
被衣を被って車から降りた宮は、少しだけ顔を見せる。に、と口の端を引き上げた顔に僧兵二人は仰天した。
「と、東宮殿下―っ!!さ、さあ、今すぐ!」
誰か笠持ってこーい!と怒鳴り出す。俄然人の出入りが慌しくなった。
「真葛、お前も……。」
「女人禁制なんでしょ?」
踵を返して牛車に戻る尚侍は、琴を抱えて東宮に押し付けた。
「唐に、行って。」
「真葛……。」
「私も行くから。南風を持っていくから。私にはこれ以上して上げられることがないから、宮、絶対に、逃げて!」
「一緒に行くっつったろ……!」
宮、こちらです!と腕を引かれる。
「待て、俺は……!」
「連れてって!宮の望むところに逃がしてあげて!」
山門の石段を一段二段と連れて行かれる宮の姿が霞んだ。尚侍の目の前で山門の扉が閉じる。
「真葛!」
悲鳴のような東宮の声が聞こえた。
ごめんね。私は、もう、何もして上げられないのです。
よろよろと体を引きずるようにして牛車の中に入り込んだ尚侍は、荒い息を整えた。寒気はするし喉は痛いし頭はぼうっとしている。方向感覚も相当あやしい。
私は、どこででも大丈夫だから。お願い、波斯風の音が貴方を守ってくれますように。
がくん、と頭を落とした尚侍は、そのまま意識を手放した。
牛が勝手に避難所を求めて出歩くのにも気付かずに。
すさまじい様子の牛車がのろのろと都の門で発見されたのは三日後の朝だった。この時には尚侍蒸発は既に内裏中を駆け巡るニュースになっていたのである。
雨がやむと同時に院の元へと参上した大納言殿も帝も、尚侍出奔すら御存知ない院に呆然となさった。ましてや、何故そんな日に真葛を外に出したのだ!と説教されては項垂れるほかない。心を込めてお世話しますからご安心をと言って、尚侍を院の御所から遠ざけた人々なのだ。
しかし起きたことは仕方がないと、宇治の山荘を教えてくださった院のお言葉に従って急使を出した。のだが、その急使が、尚侍は来ていないという地元民の証言を持ち帰ったために、院はお倒れになってしまった。帝は京の都中をお探しになられ、大納言殿は荘園や縁のある国司にも尚侍捜索命令をお出しになったのである。
その尚侍は、鴟尾が折れ、簾が破れている上に外れかかり、格子は破れ、轅も片方折れているという牛車の中に意識不明で乗っている所を発見された。門番の誰何にも返答しない不審全開の牛車を検非違使が改めたところ、生乾き状態の単に袴姿で壁に背中を預けたまま微動だにしない尚侍が発見されたという次第である。尚侍だと判明したのは、たまたま宇治山荘の地券を持って乗っていたためである。
院が迎えに出されたのは、元々尚侍とは親しかった楽部別当をしておられる頭弁殿だった。大納言殿なんかに教えたら、即座に自邸に連れ帰られかねないという院の読みは正しい。実際大納言殿はそこを見越してちゃっかりと御自宅にお部屋まで用意させていたのである。別に院が頭弁殿を信用しているわけではなく、頭弁殿の性格からしてあのすさまじい尚侍の抵抗を排してまで乱暴な挙には出ないだろうと読んでおられるだけである。
読みは見事に当たった。というより、心優しい頭弁殿が迎えに行かなかったら、半死半生意識不明という状態の尚侍がどうなっていたか考えたくないものがある。検非違使ではどうしようもないので半壊の牛車に寝たままにされていた尚侍の様子を見るなり頭弁殿は血相を変え、何はともあれと御自分の牛車に手ずからお移しになり、そのまま院の御所へと、この方にはあるまじきスピードで爆走させたのであった。意識不明だけあって高熱を出してうなされているというよりは声も出ない尚侍を膝の上に寝かせて、心配そうに見守っておられる。
院の御所に着くと、頭弁殿に抱かれて現れた尚侍に、普段ものぐさな命婦達が悲鳴を上げた。景気よく走って冗談を飛ばしていた面影もないほど、やつれきっていたのである。院までも端近に飛び出していらしたのだが、養女の君の姿に声も出ない御有様であった。
「まずは帳台とお褥を!誰か薬師を呼びなさい!」
さすがは頭弁殿、右往左往する院の御所に見事に目鼻をつけてくださったのだった。起きた時しか仕事をしない頭中将殿に比べて人々のご信頼が厚い理由がわかるというものである。
病床の用意ができて病人を安置すると、頭弁殿は追い払われてしまった。生乾きの衣装を着替えさせた命婦達は、次は加持だ祈祷だと大騒ぎである。院が、やかましい、と一喝なさったのも無理はないのである。
大体、そんなもの院がなさらなくとも、帝だの大納言殿だのが早手回しにあちこちに依頼していたのである。という事実を仲良しの右中将から知らされた頭弁殿は絶句した。
「何故に…そんなに情報が早いのです?」
「んー、右の大臣から漏れたらしいなーっ。大納言は左中弁辺りから聞き出したみたいじゃね。」
頭弁殿が呻き声を上げたのは、自分の部下でもある左中弁殿が、実は右大臣殿の腐れ縁の古馴染みで、情報センターぶりを張り合っておられる博覧強記というよりはどうでもいいことまで何故にそんなに知っているのだ君達は的な情報通であるからなのだった。頭弁殿が聞かされた『くだらない情報』の中には、
・東宮の先週一週間のワードローブ
・帝の明日のプライベートタイムスケジュール
・右大臣殿の嫌いな食べ物一覧
というものが含まれている。ちなみに他にも種々雑多な情報を握っている左中弁殿は、時折女房達にも情報を切り売りして臨時収入を得ているらしい。
右大臣殿も似たようなことをしているのは友人として身に染みて知っている頭弁殿の脳裏を、類は友を呼ぶ朱に交われば赤くなる、というフレーズが駆け抜けていった。
「…それでこのくだらない加持祈祷合戦がヒートアップしているのですか……。」
「そ。ほんと、うるさいからやめて欲しいんじゃけどなー。」
おまけにもくもくと焚いている護摩の煙が煙いのなんの。まるで御所中燻蒸するのか、それともここは燻製一大工場になったのかという勢いである。中将殿が涙眼になったのは当然ながら燻されたからで、別段泣くほど尚侍の容態を心配しているわけではない。
泣いてはいないが、うろうろと落ち着かないのは帝である。にょーんと豆餅を伸ばしながら食べている中務の宮の落ち着き振りと好対照である。
「御所を噴火させる気?」
とうとう頭が煮えたんじゃない?と毒舌を振るう中務の宮であるが、まだ足りん!と意気込む帝に思わず餅を取り落とす程度のショックをお受けになったらしい。
「やめろよっ!これ以上御所を燻すつもりなら、僕は左大臣と手を組むよ?」
そんなくだらない理由で派閥を変えないで欲しいものである。せめてもう少し『大義のため』とか『社稷のため』と粉飾してくれたっていいではないか。
「そもそも一介の尚侍に宮廷上げて振り回されてどうするのさ。女院が亡くなった時でもこんな騒ぎはなかったし、歴代調べたってどこの中宮や女院にここまでした?亡国暗君まっしぐらって言われても僕は否定してやらないよ。」
薄情な兄宮もいたものである。が、慣れは何より強いのだった。
「俺の前に道はない。俺の後に道は出来る。」
「君は詩人に向かないね。」
一刀両断。
「それに変な前例なら、ないほうがマシだよ。」
「尚侍について宮にコメントされる筋合いはない。」
「弘徽殿に梅壷はどうするのさ。どなたかの桐壷ほどじゃないけど、フラストレーションは溜まっているみたいだね。もっとも、右大臣の話では、桐壷の方は五の宮に見切りをつけたそうだけど。」
「…どういうことだ?」
「桐壷の方に通う男がいるそうだよ。」
唖然としている帝を前に、中務の宮はまた柔らかい豆大福をおつまみになった。にょーんとよく伸びる餅がうまそうである。
そもそも餅なんぞ食うなといいたげな帝の視線はあっさり黙殺なさる中務の宮だった。