

中秋の月見の宴はどことなく盛り上がりを欠いていた。帝も凛々しいお方ではあるのだが、何しろあの背中に花でも背負って歩いているのではないかと思われる東宮が御不在の上、お気楽な御気性の関白殿が下獄なさっているとあっては、宴に花を欠くというものである。気まずい場を取り持つことなら任せてくれという尚侍まで生死の境をうろついているとあっては、盛り下がる方に傾いても致し方ない。そもそも帝も不用意な威圧感をお持ちなのがいけないのである。右大臣殿も『混ぜるな危険』程度の剣呑さをじわじわと放出しておられるので、下手な刺激物を場に放り込まないで置こうと考えた公卿の皆さんの判断は正しい。
というわけで、作る歌は凡歌だし音楽は冴えないしというまことに酒の進まない宴がずるずると続いたわけである。当たり前だが誰も月など見ちゃいない。唯一この場の花形になれそうな大納言殿は心ここにあらずだし、右中将殿がいなかったら女房方の救いはなかったに違いない。鑑賞に堪えたのは頭弁殿が吹きさした笛の音だけである。
院の御所にまで聞こえた、澄んだ笛の音に尚侍は薄目を開けた。
「…宮?」
んなわけないか、と気付いた時点で、口元に自嘲が浮かんだ。しばらく聞いていると、聞き慣れた頭弁殿の清らかな笛の音だとすぐにわかる。
床に差し込んだ月の光が一条。それをたどって、尚侍は裸足のまま板敷の廂にのろのろと歩き始めた。廂から簀子へ出る。
−真葛!−
最後に聞いた悲鳴のような声。高欄に手を掛けて、尚侍はその場にしゃがみ込んだ。
「…ごめんね…これじゃ船に乗れないんだよ……。」
しょーがないなあ。
「尚侍!お気がつかれたのですか!」
「いけません、そんな端近に!まだお体も本当ではありませんのよ!」
「誰か、院様にお知らせして!」
昔からよく知っている命婦達に連行されるようにして床に連れ戻された尚侍である。
尚侍が回復したという知らせは部外秘にしておけという院のお心にもかかわらず命婦達の『ここだけの話でね』ネットワークで、次の日には内裏中に広まった。大納言殿は早速両手に馬鹿でかい花束を抱えて見舞いにと押しかけてこられたし、帝は、健康でもそんなに食えるかと言う程のフルコースを運ばせ、大臣達も回復祝いを何かと贈りつけてきたのである。
「まだ話の出来る状態ではないから、そっとしてやってください。」
と院直々に睨みを利かせて追い払ったのであった。しかし、何か不穏な決意を固めているらしい大納言殿や右大臣殿や帝に、院も腹をお決めになったらしい。毎日養女の君のお部屋に泊まりこみでお手ずから介抱なさったのである。
「おじさま…ごめんなさい……。」
「いいから早く元気におなり。余計な者は気にしなくてよいからね。」
その背後で閉じている扉から大納言殿と命婦の押し問答が聞こえてくるという、病室には芳しくない御環境であった。どうして自分の『心のこもった』歌を届けてくれないんだと食って掛かられても、届けたところで火鉢に放りこまれるか袖の中に入れて作曲のネタにされるかということを先刻承知の命婦にとっては、届けないのが最善策なのである。院はがっくりと溜息をおつきになり、尚侍は弱々しく苦笑した。
取りあえずお顔を拝見したい、いや拝見できなくてもお声を聞きたいという公達はわらわらと現れたのだが、全てシャットアウトである。恐れ多くも帝までお渡りになったのであられるが、頭が割れそうな上に吐気のする上に腹も痛いと秒殺なのである。
そもそも尚侍は、重態になるほどこじらせたとはいえ、突き詰めると風邪である。風邪など誰でも引くのである。別に宮中をいぶすほどの大惨事ではない。尚侍は本気で世も末だと痛む頭を抱えたのだった。
懸案は宮がどこかで発見されたとか捕まったかしていないかということなのだが、院に尋ねても消息不明だと言われたので安心した尚侍である。
一人で唐に行くかもな。
まあ、あの宮のバイタリティーならどこの世界でもいけ図々しく通用するだろうと納得した尚侍である。後は少将たちが無事であるかどうかがわかって、関白殿が釈放されれば取りあえず安心できるのである。
寝こんでいる間枕頭に通してもらえたのは、品行方性で御実直という折り紙つきの頭弁殿と、くっついてやってきた中将殿だけであった。お陰でこの二人は方々で尚侍の回復状況を根掘り葉掘り微に入り細に入り聞き質されたのであるが、二人とも見た以上のことは答えられないので大いに周囲を失望させたのであった。風邪で高熱を出していた尚侍は熱も下がってそこそこ食事も摂られるようになり、時々は座っていることもできる、という按配である。無論大納言殿を筆頭とするお歴歴はそんな答えで納得せず、お心細くはないのか、お望みはないのか、私を呼んではいなかったのか、お留守の間何をなさっていたのか、と矢継ぎ早に問いただしたのであるが、あっさり全てを白状する義理はないので、さすがの頭弁殿も敵に塩を送るような情報は伏せておかれたのだった。その上お留守の間のことは本人が黙秘している状態なのである。
尚侍にしても、いくら義理堅く口堅い頭弁殿がお相手とはいえ、
『東宮を縁の寺に匿ってきました、あはははは』
などと白状できるはずがないのである。頭弁殿が詮索好きではないので、お話になりたくないことは聞きませんよ、とおっしゃったのが尚侍には非常にありがたかったのだった。友情はこうして育ってゆくのである。
起き上がってうろうろできる状態になると、帝から参上せよとの御命令が何故だか来るのだが、迷惑極まりない尚侍は不例を盾に断固拒否を貫いた。院が御所にお帰りになってしまったので、自己防衛責任は本人の双肩にかかってしまったのだ。
ものすごく久し振りに滝口の陣へ行ってみると、滝口殿が思いっきり明後日の方向に矢を飛ばしていた。
「はずれー。」
「尚侍?!」
やほー、と手を振るとすっ飛んで来た。ここにも重態情報は飛んでいたものとみえる。
「死線を彷徨っていたのではないのか!!」
どこからそんなに話が大きくなったのだ。
「んなわけないじゃんか…風邪引いてこじらせただけなんだよ、オーバーにも程があるよ。滝口殿のとこにまで広まってたんだねえ…びっくりしたよ。」
心底感心しているので、しばし無言になった滝口殿である。狩衣の上半身脱いでいる相変わらずのスポーツスタイルで、弓を片手に突っ立っているお姿はとても貴族に見えなかったりする。
「姿も見ないのでその…案じていたぞ。」
「いやあ御心配を掛けました。」
「何故あんな日に御所を抜け出したのだ。無謀にも程があるぞ!」
一喝を食らい、ひー、と縮む尚侍である。目が据わっていたりもするのでなかなかに迫力なのである。
「仕方ないじゃないか、縁者の死目なんだからさー…復活したんだから大目に見てよ。」
「見られるか!」
ひー、と再び縮んだ尚侍だった。
「お前が死ぬのではないかと気が気で……。」
はい?と笑って誤魔化す気満々の尚侍だが、実際あちらの世界に片足突っ込みかけたことは本人もよく承知している。
「命は粗末にするものではない。周りの者の心も推し量ることだ。」
いつになく能弁な滝口殿である。余程心配を掛けたようである。普段厳めしい滝口殿が赤くなってしどろもどろに御忠告なさるのは、さすがに無謀な尚侍にもこたえるものがあった。一方の滝口殿は、普段から気を配られていないとはいえ明らかに陰気な尚侍の衣装に珍しく苦言を呈した。
「その格好、何とかならんのか?」
「げっ、どっか破れてるとか明らかにおかしいとか?」
女にうるさい宮ならばともかく、ファッションチェック、なぞという概念から最も遠いところにいそうな滝口殿に指摘されたのが少なからずショックだったようである。目に見えて怯んだ尚侍に、滝口殿は意図せず追い討ちを掛けた。
「いや、病み上がりなのだから、もっと娘らしく華やかに色を召した方が気も引き立つのではないか。」
「そういうもんかなあ……。」
「そのようなものだと大臣が言っていたぞ。」
「内大臣殿?」
「いや、右の大臣だ。」
無骨極まりない滝口殿に意外な知り合いがいたものだと尚侍は目を丸くして、ほー、と唸った。その上思いきり身分差を越えた友情である。身分差を越えるのは音楽だけだと思っていたのだが、案外武術もそうなのかもしれないなあなどと突拍子もない結論に飛んでしまった。乳母子であるとか身内であるとか知り合いの知り合いがコネと賄賂を総動員したという現実には頭が働かなかったようである。
それにしてもあの関白殿の向こうを張る『歩く変な情報データベース』の腹黒大臣が、竹をすぱーんと真っ二つというタイプの滝口殿とよくぞ仲良くしているものである。
「いいんだよ、病み上がりなのに衣装のことなんか考えたくないよ。」
その辺にあるものを引っ掛けて歩いているのではなかろうな、と滝口殿が危惧したのは、左近少将達と話している尚侍が何度もそんな話を連呼したからに他ならない。貰った襲をそのまんま、という着方をしている尚侍である。今までに多少の改善が見られていたのは、東宮の『マイ・フェア・レディ』計画が進行していたからに他ならない。女君の服装にうるさい宮がいなくなると、途端にこの始末である。
何か贈りつけた方がいいのだろうかと、これまたとんでもないことを滝口殿が考えているとは露知らず、尚侍は、
「滝口殿、都の外にどっかさー…温泉でも湧いてて一人暮らしに向いてそうな地帯を知らなーい?」
などと、常識人の度肝を抜く相談を持ち掛けたのだった。
「み、都の外だと?!」
「この際だからおじさまに辞職願いを出そうかと……。塵労に疲れたよ。」
はは、と軽く笑った尚侍だが、実は相当に本気である。その上に本人は気付いていないのだが、すさまじく投げやりな口調だったため、話している滝口殿の方が慄然とした。目が据わっているのである。
「な、何を言うか!職責とは軽々しく放り出してよいものではない!」
「私、好きで尚侍なんかになったわけじゃないよ。」
開き直った尚侍が暴言を口走る。滝口殿は呆然である。
「院のおじさまが引き取ってくださったからいただけで、別に出世したいとか殿上人とお近づきになりたいなんて考えたことないからね。私は院の内侍で十分だったんだよ。出世なんかさせられて、迷惑なだけだよ。御所なんて、もーいやだ。」
珍しく愚痴る尚侍は、疲れてきたのか簀子に座り込んだ。
「そのようなことを言うものではない。朝廷を上げてお前のことを心配しているではないか。」
「私の心配なんてしなくていいから、私の友達を返して欲しいよ!」
剣幕のすさまじさに、滝口殿が固まったほどである。尚侍は、すぐにやりすぎたと気付いて、はは、と力なく笑った。
「ごめんね。滝口殿は関係ないのにね。私の友達、根こそぎいなくなっちゃったから途方に暮れてるんだよ。当たってごめんね。」
「…俺はお前の友人ではないのか?」
「ありがとね。滝口殿。」
どこか放心した眼差し。
−まだ貴方は本朝にいますか?もう唐へ行ってしまいましたか?−
まだ、全部教えていないのに。俊蔭の残した秘曲はまだまだあるのに。
「…弓、打たないの?」
にこっと笑った尚侍に無理があるのは、親しい滝口殿にはすぐにわかった。
為す術のない滝口殿は雑念を振り払うように弓を構える。的を見据えて放たれる矢は、今度は過たず真っ芯を貫いた。お見事、と尚侍が手を叩く。
枯れた老婆の着るような紫色の袿が渡殿に広がっていた。