

帝王の人徳、王者の寛容などという資質を本朝に求めても無駄だと結論付けた尚侍が再び出仕してきたのはいいが、当人は完全に不貞腐れていた。滝口殿や院であれば不機嫌の原因も御存知であるが、他の人々は人が変わったようにお仕事一筋になった尚侍に戦々恐々の日々である。典侍や内侍や命婦という人々には親切なのだが、殿上人とは一切無駄話をしなくなったのだ。数少ない例外は頭弁殿と、そのお友達という理由の中将殿である。というより、温明殿に立て篭もってばりばり仕事をしているという有様なのである。
以前であれば気晴らしに外へお使いに出向いたり、御前への奏上を持ってきたりしていたのだが、今度はぱたりと出なくなった。行き来するのは命婦ばかりという状態に、尚侍ファンが我慢できなくなったのは当然である。もっとも当人は垂髪を耳に引っ掛け、膨大な公文書を斜め読みしてばしばし決済するという、下手な公卿が真っ青の荒業に励んでいたのであった。何しろ文章博士も脱冠の語学力なのだ。唐に渡ってやるという日頃の宣言は伊達や酔狂ではなかったらしい。何しろあのけた違いの読書量である。更に面白がった東宮が会話まで仕込んだために、読み書きなんでもござれになってしまったらしい。公文書なんて役所用語さえ制覇すればお茶のこさいさいである。
かくして、『御様子を伺いに』などという生温い目的でやってくる公達は、片端から『公務執行中』の名の下に面会謝絶を食らったのだった。
高官も退出する深更になると、折に触れて頭弁殿が笛を片手にやってくる。或いは誰かにもらったお菓子のお裾分けにやってくる。弁殿の笛は秋の空に高く切なく響き、もののあわれを感じさせる。
何かといえば胡琴だ琴だと目の色を変えていた尚侍の変化を一番身近に感じていたのは頭弁殿だった。笛の音をいとおしむように聞き入る尚侍は、もう合奏しようと楽器を取り上げることがなくなったのである。愛用の胡琴が壁に立てかけられたままになって久しい。
御所の人々も、院すらも気付かない、変化だった。
「たまにはまた御一緒したいものです。」
そのお誘いにも、ごめんね、と尚侍は力なく微笑むだけだった。
仕事仕事仕事と賢所に籠もり続ける尚侍はどんどん痩せていったのだが、命婦達には止める術もない。唯一忠告できる頭弁殿だが、あくまで話ができるというだけである。当人に改善の意志がまったく見られない以上、狂気の仕事中毒に水をさせる人間はいなかった。
そんな折に、ふらりと現れたのは兵部卿宮である。
「お加減が良くなられたと伺いました。」
と礼儀正しくお土産持参で登場した兵部卿殿は尚侍の出で立ちを見て苦笑した。
「…貴方がそこまであの人を想っておられるとは知りませんでした。」
「え?」
と尚侍は目を見張る。兵部卿宮は、着続けの地味な色目の襲をじっと見ていた。ああ、と軽く袖を持ち上げる。
「…そうだったのかも、しれないね。」
枯れた色の紫。華やかな至尊の紫でなく、過去に生きているような褪色した紫の袿の袖。
「しのぶもぢずりと洒落込んだつもりはなかったんだけどなあ……。」
そんなつもりはなかったのに。なかったはずなのに。琴の仲間というだけだと、思っていたのに。
お願い、唐に行って。
お願い、どこかで生きていて。
私は、一人でも、大丈夫だよ。
「今更、だよね。」
ぽたりと涙が落ちた忍の襲。
「だいじょーぶだよ、宮は。きっと元気してるよ。ま、あの派手派手しい宮がいなくなったから、ちょっと寂しくはなったよね。関白殿もいないしさ。兵部卿宮が来てくれて、すごく嬉しかったよ。はは……。」
「…無理してお笑いにならなくともよいのですよ。」
「だいじょーぶ、だーいじょーぶだって……。」
「私は貴方の弟宮も同然でしょう。」
「…ありがとね……。」
「嫌疑をかけられないように、こちらへ伺うのは稀にしておりますが、御懸念の方々は私からも手を回しておりますので御安心をなさってください。関白殿以外は何とか…ですから、御心を少しでも楽になさっていただけませんか。あの人の代わりにはなれませんが、あの人のお話を伺うことはできます。」
−一緒に行くって言ったろ!−
あの時、もう少しだけ意識がはっきりしていれば。もう少しだけ熱が低かったら。
尚侍は耐え切れなくなったように床にうち伏して泣き出した。
滝口で姿を見かけなくなったので心配した滝口殿が賢所に出没したのはそれからしばらくしてのことである。しかし、よそと違って愛想などという余計なものの一つもない女房達に声を掛けるという単純なことが障害となり、タイミングをつかめずに突っ立っていらしたのだった。そもそも実家たるものが無きに等しい尚侍である。召し使う女房だの乳母子というものも父宮の死と共に離散してしまって、院の御所で育てられていたのを右大臣側の策謀で表舞台に引っ張り出されたのだから、全ての女房は官から支給されたものであり、赤の他人なのである。かくして温明殿賢所は第三者が見ても納得できるテクノクラートのシンクタンクへと変貌を遂げていたのだった。
というのは尚侍が院の御所でしなくてもいい雑用に追われ、さらには実家で文字通り家政を切り盛りしていた上に漢文漬けだったため、そこらの公卿そこのけで実務を処理するからなのである。官から下される女房達は歌だのスタイルだの家柄だのに自信が大ありで、隙あらば尚侍をコケにしようと狙っていたのだが、文字通り仕事と心中しキャリア街道をひた走る尚侍の手腕に恐れをなし、ついでに日常的にしごかれる上、役に立たないと容赦なく首にされる−この場合、首=失業ではなく、宮内省に返却して別の人員を補充してもらうだけなので尚侍も容赦ない−という恐怖も相俟ってこれまた素晴らしいキャリアウーマンに成長してしまったのである。今では後宮の妃の女房になって殿上人を引っ掛け玉の輿を狙うというのが嫌いな姫達が、賢所へ出仕したいと明らかな意思表示をする場合もあるので、有利な縁談を押し付けたい世の親たちにとって尚侍は恨みの的でもあるのだった。当然本人は馬耳東風である。
好きで宮仕えなんかしてるわけじゃない!
腹を立ててもきっちり仕事を上げてしまうところが、ますます重宝がられる一因になっているのには気づいていないようである。
それはともあれ、四半時も突っ立っていたせいで不審に思われた滝口殿にようやくキャリアが出てゆけよがしの声を掛けてくれて、そのお陰で尚侍に訪問を伝えてもらえたのは幸運だった。
明らかに地下人という格好の滝口殿を女房達がもてはやさないのは当然なのだが、何となく漂わせた不満気な雰囲気が相変わらず無駄な威圧感になっている滝口殿もお気の毒である。これが例えば関白殿だと、あの人懐こい微笑みと柔らかい口調のせいでどれだけ物騒なことを口走っていても穏やかな長者に見られるのであるから、はったりというものは必要なのであろう。
さぞかし滝口殿が肩身の狭い思いをしているだろうと、尚侍は走って出てきた。女房達が止めるのも無視して、端近どころか簀子に出現である。相変わらず暗い色調の襲に、人知れず滝口殿は溜息をついた。
「珍しいね、滝口殿が遊びに来るなんて。何かあった?」
「…まだ知らないのだな。」
滝口殿が念を押す。不吉な予感を感じながら、尚侍が頷いた。
「関白が下獄した。」
「上達部に何てことしてるんだ!」
お貴族というのは悪いことをしても、普通自宅で追訴されるものである。そしてのらりくらりと追求をかわし、相手を煙に巻く戦術を練るのである。が。
逮捕して下獄とは、下人、それも凶悪犯並の処置ではないか。我初めて獄吏の尊きを知る、という史記の言葉を思いだした尚侍は真っ青になった。滝口殿は何か勘違いしたらしい。
「いや…女性にこんな話をして悪……。」
「滝口殿!獄はどこだ!」
詰め寄るばかりか襟首掴んだ尚侍の近さに、滝口殿は相当狼狽した。ぱくぱくと酸欠金魚状態になっている。無骨な方が赤くなっているのも面白いのだが、尚侍に面白さを観賞している余裕はない。
−俺は坊を位につけるためやったら何でもする。−
その関白殿だけ捕まって、あとの面子が行方不明であるのなら、絶対に何か仕掛けられているに決まっているのだ。口を割らせるために朝廷が唐流儀を持ちこんだところで不思議ではない。そして尚侍は唐の拷問オンパレードの深刻なる被害の状況は良く知っていた。
「そんなところは知るべきものではない!」
一発却下である。
「知るべきものだ!友達へ援助の手を差し伸べてどこが悪い!」
教えてくれないなら人に聞くよ、と身を翻して駆け出そうとするので、慌てた滝口殿が腕を掴んだ。
「尚侍の行くべき場所ではないし、行けば危険だ。貴方は周りの方々や院のお嘆きをお考えになったのか。この事件に巻きこまれてはならんと願っておられる院のお心をお考えになったか?!」
真葛、幸せにおなり。私のことは心配しなくともよいからね。
「関白殿が散々な目に遭ってるのに、友達だった私だけ幸せを満喫する心境になると思えますか、滝口殿。」
今度口を閉ざすのは滝口殿だった。
「大罪人には会えないのだ、尚侍。」
しばらく沈黙した後に、滝口殿が呟いた。
「東宮母女御の法要と称して大掛かりな巫蠱を行ったと……。」
「そのネタは古今東西でっち上げの誣告と相場が決まっている!」
「証拠が出ているのだぞ!」
「捏造投げこみ品だろ、十中八九!君たちは史書のどの辺を読んでいるんだ、学んだことが役に立たないとはまさにこのこと、もういい。滝口殿、貴重な情報をありがとう。自分で調べる。」
「ちょっと、待て!」
待てと言って待つ尚侍なら院もこれほどまでにご苦労なされるはずがないのである。簀子から飛び降り、裳を引きずりながら全力疾走開始の尚侍を慌てて滝口殿が追いかけた。血相変えて暴走の尚侍に方々は慌てて道を空け、そのお開きになった口が塞がらない間に待て待てと追いかける滝口殿のお姿に棒立ちになる始末である。しかし火事場の何とやらで、倍以上重い衣装を着込んでいる一応かよわいはずの尚侍に滝口殿は追いつけなかったのであった。
これを目撃してしまった弁殿が尚侍に声をおかけにならなかったら、そのまま御前へ乗りこんで諌言という事態が発生したことは火を見るよりも明らかである。
「関白殿が下獄したって本当?!」
急激な方向転換に後ろでつんのめっておられる滝口殿に、弁殿は顳を押さえられる。が、気を取り直して一番手強い人に向かい合った。
「ええ、本当です。けれども貴方はお行きになられない方が良い。尚侍、それが関白殿のためですよ。」
「私は、役に立たないの?」
「許嫁の君を案じられるお気持ちはわかりますが、罪を得た人の周りに姫君がおられるのは、公の心証を更に悪くすることになりますよ。」
六条院と紫の上のお話を引くまでもないでしょう、と。
「…私は関白殿とのそういうお話はお断りしてたんですけどね。」
「それなのに何故?」
「ふつーに仲良しだったんですよ!弁殿みたいに!見捨てられるわけないでしょう!」
弁殿は簀子からお下りになった。
「尚侍、私にできることならばお助けして差し上げたいのですが、私にはその力がないのですよ。ですから、せめて貴方だけは安全だとあのお方に思わせて差し上げてください。関白殿のお心を少しでも楽にして差し上げましょう。」
正論だ!と後ろで意気込む滝口殿である。しょぼん、と小さくなった尚侍だが、一応頷いたので、弁殿もやや息をついた。
やや、というのは、直後に物騒な台詞が小声で続いていたからである。
「…いつか黒幕洗って脳天に雷直撃させてやる……。」
とぼとぼと温明殿に引き返す尚侍を見送りながら、弁殿と滝口殿は顔を見合わせて深く溜息をおつきになった。