

頭弁殿は文官である。蔵人頭というお役目上、官位の高い方々とのご交際も多く、仕事に至っては更に多い。加えて勤勉実直というお人柄がどなたにも信頼されているのでお忙しいのである。
このところでは尚侍に接触したければ頭弁殿が唯一の窓口という状態であり、余計なところで足止めを食らっていることもある。
「じゃからって、何もお前があちこちから元関白さんの情報を拾って尚侍ちゃんに流してやることはないんじゃないの?」
というのがはなはだ常識的な御友人、右中将殿のご意見であった。
「私は関白殿がどうなろうと構いませんが、尚侍にはお元気になって頂きたいだけですよ。」
御前に取り次ぐ書類を達筆で書き下ろしている弁殿である。ふーん、と右中将殿は蔵人所に座りこんだ。秋の装いに変わり、紅葉の几帳が立てかけられている部屋の片隅にはいつも転がっていたものがない。そちらへと右中将殿は暇にあかせて丸めていた反故紙を放り投げた。高麗縁の畳に、かさりと音を立てて分厚い料紙の玉が転がる。
「ナマケモノがおらんと、ちょっかいかけられんで寂しくなったな。」
「…君は頭中将殿が寝ていると、すぐに反故紙をぶつけて喜んでいましたからね。」
そんな低レベルな趣味を持たないでほしいものである。
「あいつなかなか起きんのじゃもん。」
つまり起きるまでぽこぽこと反故紙をぶつけていたというわけである。更に起こして何かがしたいのではなく、何となく起こしてみたいだけという動機があまりにも薄弱である。その上執務中の頭弁殿を間に挟んで、起きた頭中将殿と反故紙合戦を始めて喜ぶのだから、蔵人所の皆さんには迷惑はなはだしい話である。
ちなみにこの左右の中将二人は、大抵蹴鞠のときは敵味方なのであるが、ここでも試合と無関係に盛り上がって双方の仲間たちからお小言を食らう(頭中将殿は東宮に怒鳴られ関白殿に嫌味を突き刺され侍従殿の飛び蹴りを食らうし、右中将殿は右大臣殿にねちねちと説教を食らい帝に喝を入れられ弁殿にしばらく口をきいてもらえない)仲である。ぼーっとしている頭中将殿の背後からわざと脳天直撃シュートを叩きこもうとする右中将殿は珍しくもなく、野性の勘と反射神経でそれを蹴り返す頭中将殿に、素早くよけた右中将殿のとばっちりを受けたことのない右方の面子はいないといってよい。恐れ多くももったいなくも帝まで巻き添えをおくらいになったことがおありである。ちなみに頭弁殿が一度巻きこまれた翌日は、中将二人が蔵人所で一日容赦なく扱き使われた(そして二人ともあまりの厳しさに涙目になった)ので、二人とも、
『帝の脳天直撃しても頭弁殿にはぶつけるな』
を鉄則にしている。恐れ多いことである。
「ナマケモノは自宅謹慎ですんどるんじゃろ?どーせ関白の一門だってだけで巻き添え食ったんじゃろし。大臣せっついて出してやったら良いんじゃなか?」
ぽこ、ぽこ、と反故紙を放りながら右中将殿が呟いた。頭弁殿が筆を止めた。
「大臣は関白殿と梨壷様を決定的に排除するまでは、左の方々へのご追求をお止めにならないと存じますよ。」
「じゃから、さっさと内大臣の堀川宮を東宮で妥協すればええきに。どうせ梨壷さんは行方不明じゃろーが。」
「内大臣殿が出世なさるのは当然として、後任の内大臣は大納言殿でよろしいと?」
うぐ!と右中将殿がお手を止めた。
「そんなとこまで話を進めてもめちょるんか?!」
「関白殿の処遇もありますよ。何しろ事件が事件ですからね。」
右中将殿は天井を仰いで呻き声を上げた。
「弁、あれ、事実か?」
「…私は真偽を究明する立場にはいないのですよ。」
頭弁殿は再び筆を取り上げた。右中将殿は、固い表情で能吏に戻られた御友人をしばらく見物しておられたのだが、やがて飽きたのかいなくなっていた。
蔵人所の偉くない人々が大層喜んだのはいうまでもない。
「やーっほー。」
と右中将殿が再びわいて出られたのは弾正台であった。ここは普段のニ割増忙しい筈なのである。筈であるが、総括責任者ともいうべき弾正宮は鞠を枕に転がっておられる始末で、そのお隣にいる兵部卿宮がニ三書類を取り上げて意見をおっしゃっている状態である。ちなみにご身分がご身分であり、加えて一の院ご鐘愛の兵部卿宮までおいでとあって、強いことが申し上げられない弾正弼は歯ぎしりしながら引きつった笑いを浮べていた。その上に適当さでは折紙つきの右中将殿出現である。仕事の邪魔になることは明明白白で、顳に青筋が追加されたのだった。
ここはまったりと時候の挨拶など風流に取り交わし、歌なども詠み掛けるべき場面なのであるが、慇懃無礼と名高い兵部卿宮は虚礼を全てすっとばされ、
「外しましょうか。」
といきなり本題に入ったものである。それも右中将殿の顔を見据えてこれであるから、血は争えないのであろう。
御友人の慇懃無礼モード出動に、弾正宮ははね起きた。そして右中将殿を見つけるや、
「御用は何です!」
とかみついたものである。類は友を呼んでいるのであるが、何も知らない来客にあまりにも失敬極まりない。右中将殿が引いたのは正しいのである。
「いや、ちーと相談があったんじゃけど……。」
不穏極まりない戦闘モードのお二人にいささか及び腰になりつつも、中将殿はどかりと座りこんだ。
「なー、蔵人頭のナマケモノ、自宅謹慎解けないの?」
「お気になられるのでしたら、訪問なされば良いでしょう。他に何か?」
ばっさり一打ちの兵部卿宮であった。愛想のなさは聞き知っていらしたのであるが、現物を体験するのはまた別の話である。よって中将殿はしばし二の句が継げなくなられたのであった。
しかし、なのである。
「つれないのう。事と次第によっては手え貸してやってもいいっちゅーに。」
にたり。と白い歯を見せてお笑いになる。白い歯は健康の証拠でまことに望ましいのであるが、お貴族は鉄漿をしなくて良いのかという追求はなしにして頂きたい。一方の兵部卿宮は相変わらずの仏頂面であられた。
「手をお貸しいただけるというのでしたら、こちらの宮をどうにかして頂きたいものですね。日夜少将殿を慕って泣くわ喚くわ転がるわ愚痴るわで、大層困っております。」
うんざり、が体現したように弾正宮を扇でお指しになるのである。すげないなさりかたである。
「少将殿を糾問してやると息巻いてるのは右大臣だろう!その一派に何を期待できるというんだっ、兵部卿!」
当の本人を目の前にしてこれである。いーかげんにしろ、と扇で叩かれても文句は言えないのである。しかし弾正宮の勢いはとどまるところを知らない。嗚呼少将殿君を泣く君死にたまふことなかれの勢いでお嘆きになるのである。大体左近少将が死んだなどとは誰も言っていない。
「気にするな兵部卿!僕は絶対弾正台の律令を改竄してでも少将殿をお救いしてみせる!!」
不穏極まりないご友人の説得を諦めきって放棄しておられるご様子の兵部卿宮の方が、まだ話が通じそうである。実際、仏頂面であろうと慇懃無礼であろうと、一応弟宮なので、少しは梨壷東宮のことも気にかけろこのやろー程度のご感想はお持ちなのである。
「さすがに律令改竄しちゃいけんじゃろ……。」
「それを弾正に呑み込ませて頂ければ感謝いたしますよ、中将。では。」
す、と常識人が席を立ちそうな気配に、右中将殿は切り札を切った。
「俺が大臣に口添えしてやらんでもよかと?」
ぴたり。と兵部卿宮の足が止まる。まあまあお座り、と促して、不承不承兵部卿宮が円座に戻った。弾正宮は左近少将のために口添えしてくれるのかなどと、相当間違った方向の期待をしている。
「俺も結局ナマケモノがおらんとヒマじゃからねー。ちゅーより、弁に手助け、ちゅーたらあんたらも信用するか?」
「頭弁殿?」
「そ。あのちっちゃい尚侍ちゃんにいい格好したい、お年頃の頭弁殿。」
お気楽極楽で宮中の女房たちに人気のある中将殿に言われても説得力のないことはなはだしく、兵部卿宮はしっかりと眉根を寄せた。
「頭中将殿がいなくなれば蔵人頭の地位を得られるのは、失礼ながら貴方では?」
「参議か大将になるならとにかく、弁に一日見張られて容赦なく扱き使われるのは勘弁よ、俺。」
ふざけた理屈であるが、これは日頃の中将殿の行動と一致する発言である。
「なあ、兵部卿さんよ。俺は大臣のすることに口出しするほどの興味関心はないけど、ちーと友達は気になっての。どうせ関白さんと、こう言っちゃなんだが梨壷さんは助けるのが無理なら、いっそあの二人に全部かぶってもらって残りの面子を拾った方が功徳になるっちゅーもんじゃろ。」
「…貴方は誰に話をなさっているのかご存知なのですか。」
口だけでにやにや笑っていらっしゃる中将殿に、兵部卿宮の表情は固くなった。一方、それもありですね、などと薄情に頷いていらっしゃるのは弾正宮である。こちらの方は睨みつけてしまわれた兵部卿宮であった。
ぱん、と中将殿が脇息を一打ちする。
「兵部卿さん、あんたがどれだけお友達を隠してやったところで、公に復帰できんのなら意味ないじゃろ。昇進できんくなるにしても、官人としての位は保った方がええんじゃなか?」
「貴方は兄宮を生贄にせよとおっしゃるのですか。」
いやいやここは東宮様に尊い儀性となってもらって少将殿を、と納得している弾正宮は無視である。
「私ですら東宮の行方は存じ上げないのですよ。それに左大臣殿にも筒井筒の恩義があります。中将殿のようなお考えを呑めと申されても無理なことはおわかりでしょう。」
「弾正さんはえらく乗り気みたいじゃけどな。」
最早身を乗り出しておられる御友人に拳固を食らわせておやりになりたい兵部卿宮は、今度こそ席をお立ちになった。
「あんたが話に乗ってくれると嬉しいんじゃけどね、兵部卿さん。」
「…尚侍を想う頭弁殿のためとおっしゃいましたが、貴方は尚侍のお心をご存知なのですか。」
捨て台詞にきょとんとするお二人を残して退出をなさる。元々派手派手しい御所は苦手な方なのである。檳榔毛車の中で何やら思案をなさっていた兵部卿宮は、お帰りになるとすぐに文机の前へお座りになった。
陸奥紙の中でも薄めのものに、達筆というより堅実な手蹟をお書きになってから、ほのかに色の変わり始めた葛の花房へ結ばれた。文の運ばれて行くその先は。
「故式部卿宮邸へこれを。」